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円融天皇の生涯:藤原氏と闘い、芸術へ情熱をかけた第64代天皇

こんにちは!今回は、平安時代中期の第64代天皇、円融天皇(えんゆうてんのう)についてです。

11歳という若さで即位し、藤原氏の権力闘争に翻弄されながらも独自の政治判断を下しました。譲位後は出家し、文化を愛した「円融院」として余生を送りました。そんな円融天皇の生涯を詳しく見ていきましょう。

目次

円融天皇の誕生と名門の血筋

出生の背景と母・藤原安子の影響

円融天皇は、天徳3年(959年)4月12日、平安京の内裏にて守平親王として誕生しました。父は第62代・村上天皇、母は藤原安子。安子は藤原北家の名門に生まれた藤原師輔の娘であり、その家格と才色から村上天皇の寵愛を一身に受け、天徳2年(958年)には中宮に冊立されました。守平親王はその翌年に生まれ、すでに生誕の時点で「皇統と藤原家の接点」として注目される存在でした。

しかし、安子は応和4年(964年)に没し、守平親王がわずか5歳のときに母を失います。そのため直接的な影響は幼少期に限られましたが、藤原師輔の直系としての血統は、王権と貴族勢力を結ぶ象徴として揺るぎないものでした。親王の存在は、藤原北家の外戚戦略の要となり、やがて政治構造の中で次代の王権を担う候補として位置づけられていくことになります。

同母兄・冷泉天皇との関係性と皇位への視線

守平親王の同母兄にあたる冷泉天皇(憲平親王)は、村上天皇の第二皇子として生まれました。第一皇子・広平親王は立太子されなかったため、冷泉天皇が早くから皇太子に指名され、即位に至ります。この立太子の背景には、藤原実頼や師輔兄弟による政治的働きかけがありました。母・安子を通じて藤原北家の外戚を持つ冷泉天皇は、当時の貴族社会において極めて望ましい後継者と見なされていたのです。

即位後、冷泉天皇には精神的不安定さが次第に表面化し、宮廷内では政務の持続可能性に対する不安が広がっていきます。このような環境下で、守平親王の存在は静かに浮上します。彼もまた安子の子であり、血筋と年齢の両面から「次の天皇候補」としての条件を備えていました。兄弟間に確執の記録はありませんが、政変や事件ではなく、体制維持の論理の中で、後継を見据える静かな選択が貴族層のあいだで進められていたと見られます。

平安京における王権と貴族社会の構図

10世紀中葉の平安京では、天皇と貴族の権力構造が大きく変容しつつありました。天皇は依然として王統の象徴ではあったものの、政務の実質的な運営は藤原氏を中心とする摂関家が担い始めており、王権は形式性を強めていきます。これは摂政・関白が政治の中心となる「摂関政治」の始動期とも重なり、王権の表層化と貴族主導の実務運営が同時進行していました。

守平親王の若さは、まさにこの構造において理想的な条件となります。政務を直接執ることが困難である年齢ゆえ、貴族による後見が自然な形で成立し、しかも彼の血統は貴族社会における信頼を保証するものでした。天皇としての彼の即位は、単なる家系の継承ではなく、時代が必要とした「調和の象徴」として求められた結果でもあったのです。政治と儀礼が交錯する時代のただ中に、守平親王の存在は、王権の変容そのものを象徴していました。

幼少期の円融天皇と皇位継承争い

11歳即位への道、母方・父方の力学

守平親王が8歳の時、康保4年(967年)に父・村上天皇が崩御しました。村上天皇は王統の正統を体現する天皇として治世の安定を築いていましたが、その後継に即位した冷泉天皇には、早くから精神的な不安定さが見られ、朝廷内では次代を見据える動きが芽生えていきます。この局面で主導権を握ったのが、摂政・藤原実頼を中心とする藤原北家でした。冷泉の体調に不安があるなか、次なる天皇として守平親王を擁立する機運が高まっていきます。

この即位への流れには、母方の藤原北家が担った外戚戦略が大きく作用していました。父系の皇統がもたらす形式的な正統性と、母系藤原家の実質的な政治力――この両輪がうまく噛み合うことで、守平親王は理想的な後継者と位置づけられていきます。若年であることも、政務の主導を藤原氏に委ねられるという意味で望ましく、彼の即位は政治構造を維持するための最適解として、慎重に選ばれたものでした。

村上天皇崩御と皇位継承の実態

村上天皇崩御(967年)後、直ちに冷泉天皇が即位したものの、その政務は不安定さを露呈し、朝廷内に動揺が広がっていきます。こうした中、安和2年(969年)には「安和の変」が発生。藤原氏にとって脅威となりうる源高明が右大臣の座を追われ、これにより皇位継承の障壁が取り除かれました。これを機に、守平親王の即位は急速に具体化し、同年、彼は11歳で第64代天皇・円融天皇として即位します。

この即位は、天皇個人の意思によるものではなく、藤原氏を中心とした摂関家の緻密な政治設計の成果でした。王権の正統性を維持しつつ、実権を藤原氏が掌握し続けるには、「象徴としての天皇」が最も有効だったのです。円融天皇は、まさにその構造の中で「用意された天皇」として選ばれたといえるでしょう。政治の実行力よりも、体制の調和を優先したこの即位劇は、摂関政治の完成に向けた一つの帰結でもありました。

摂関藤原実頼らによる政治的舵取り

円融天皇の即位時、わずか11歳という若さであったことから、政務は当然、周囲の摂関家に委ねられました。摂政・藤原実頼は、外戚としての立場だけでなく、藤原北家の長老としての政治的威信を背景に、宮廷内での調整役を担いました。そして実頼は、甥にあたる藤原伊尹と密接に連携し、円融朝の政治基盤を築いていきます。

安和の変後、伊尹は右大臣に任じられ、事実上の政務責任者として実権を握りました。藤原兼通も師輔の子ではありましたが、この時点ではまだ中納言の地位にあり、政局への影響は限定的でした。政権の中枢においては、伊尹の実務能力と実頼の調整力が均衡を保つことで、摂関家内の安定が図られていました。

このようにして、円融天皇の政治は藤原北家の協調体制によって運営されていきます。天皇は自らの意思で政務を導くことはなく、儀礼・祭祀の執行を中心とする象徴的存在として位置づけられていきました。この構造の確立こそが、摂関政治における「君主の役割の最適化」であり、円融天皇の治世を理解する上で欠かせない要素といえるでしょう。

即位した円融天皇と藤原氏の支配構造

即位式の舞台裏と儀礼の重要性

安和2年(969年)、守平親王は11歳で第64代天皇・円融天皇として即位しました。場所は内裏紫宸殿。即位式は、神祇官による奉告から始まり、群臣の拝礼、大嘗祭の準備を含む国家的儀礼として一糸乱れずに執り行われました。唐風の古式に則った儀礼は、天皇の実権ではなくその象徴性を可視化するための演出であり、まさに「政治と儀式が融合する空間」がそこにありました。

この即位式の背後で、全体を設計・統括していたのが摂政・藤原実頼です。実頼は、儀礼の一挙手一投足に政治的意味を与え、11歳の天皇を通じて王統の正統性を演出しました。儀礼とは、ただの通過儀式ではなく、天皇という存在が国家機構の「形式の核」であることを再認識させるものであり、それが摂関政治の安定を保証する機能でもあったのです。

実頼・伊尹・兼通・頼忠ら摂関家の支持構造

円融天皇の即位後、政務は藤原氏の合議体制で進められていきます。中核にあったのは、摂政・藤原実頼と、右大臣・藤原伊尹です。実頼は翌年970年に没しますが、それまでに摂関家の後継体制を整え、政務の秩序を固めました。伊尹は師輔の長男として、安和の変後に右大臣として実権を握り、実務を牽引する存在になります。

藤原兼通はこの段階ではまだ中納言であり、直接的な政権運営には深く関与していませんでしたが、天禄3年(972年)に関白に就任し、円融天皇からの信任を受けて台頭していきます。また、のちに左大臣となる藤原頼忠も、法制整備や朝儀運営に実務官僚として寄与し、政治的な安定を支えました。

このように摂関家は、単なる血統支配ではなく、機能分化による協働体制を構築していました。それは円融天皇を取り囲むと同時に、支える体制でもあり、皇権を形式として守るための「矛盾を含んだ均衡構造」がそこに存在していたのです。

11歳天皇の実質的な統治力とは?

即位時の円融天皇は、まだ学問や礼法の修練の最中にあり、政治実務に関与する年齢ではありませんでした。しかし、まさにその若さが、王権を象徴化するには最も適した条件だったのです。朝儀への登壇や祭祀の執行、礼装を着た儀礼的所作が、天皇の存在に権威を与える視覚的な演出として機能していました。

特に即位式後の儀礼や新年朝賀などでは、円融天皇の「行動」よりも「存在そのもの」が重要視され、彼は政務を担うよりも、国家体制の中心を象徴する場としての役割を果たしていきます。和歌の制作はむしろ出家後に集中しており、この時期は文化的表現というよりは儀礼執行者としての色が濃いものでした。

政治の実権は摂政・関白を通じて行使されましたが、すべては「天皇の名のもとに」実行され、形式的な「同意」の下で正統性が構築されていました。円融天皇の統治は、彼自身の意志によってではなく、その存在が「政治を可能にする装置」として機能することによって、摂関体制の要となっていったのです。

権力の狭間で揺れる円融天皇──抗争と譲位の決断

藤原氏内部の抗争と兼家の台頭

摂関家内部の権力構図は、円融天皇即位後も絶えず揺れ動いていました。実頼の死(970年)を経て、師輔の長男・伊尹が摂政となり、続いて三男・兼通が関白に就任。しかしその裏で、五男・兼家がじわじわと勢力を伸ばしていました。大納言であった兼家は、政界での実績を積みながら、兄弟の動静を注視していたのです。

貞元元年(976年)、兼通は兼家を大宰権帥に左遷し、政権中枢から排除します。しかし兼通が死去すると、兼家はすぐさま中央政界に返り咲き、復権への道を一気に駆け上がっていきます。一方、兼通の娘・媓子は中宮に立てられ、その甥にあたる師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子に指名されていました。

兼家は、自らの娘・詮子を女御として円融天皇に入内させ、やがて懐仁親王を出産します。懐仁親王は当初、正式な皇太子ではありませんでしたが、兼家にとってはまさに「自らの手で育てる次代の天皇候補」でした。こうして、政権を二分する媓子系(兼通派)と詮子系(兼家派)の対立が、徐々に水面上に現れていきます。

円融天皇にかかる圧力とその対応

兼通の死を機に、藤原氏内の権力均衡が崩れ始めました。政治の実権をめぐって、媓子を支える勢力と、懐仁親王を推す兼家派が表立って対立するようになります。円融天皇は、皇統の安定を願い、当初から皇太子に据えていた師貞親王の擁護を崩しませんでしたが、兼家の復権と懐仁親王の存在が、政治構造に大きな影響を及ぼします。

兼家は、「天皇唯一の皇子・懐仁親王」の存在を強調し、円融天皇に対して新たな皇位継承の選択を迫るようになりました。円融天皇は、懐仁親王の立太子と引き換えに譲位を決断したともいわれています。この譲位の背景には、単なる政治的敗北ではなく、王権を次代に正しく継承するための苦渋の選択という側面もあったのでしょう。

この頃の円融天皇は、もはや「自ら動ける天皇」ではありませんでした。天皇の意志が政に反映される余地は小さく、藤原氏の合議と対立のなかで、象徴としての地位にとどまらざるを得なかったのです。

兼家との対立と譲位に至る政治的選択

永観2年(984年)、円融天皇は師貞親王に譲位し、花山天皇として即位させました。しかし、兼家にとって花山天皇は外祖父としての関係を持たず、政治的に思うように動かせる存在ではありませんでした。そこで彼は、自身の孫である懐仁親王を即位させるため、次なる策を講じます。

寛和2年(986年)、兼家は花山天皇を巧妙に誘導し、出家へと導きます。これが、いわゆる「寛和の変」です。この政変によって花山天皇は事実上の強制退位を余儀なくされ、懐仁親王が第66代・一条天皇として即位しました。これは合法的な皇位継承というより、摂関家が王権そのものを支配するために仕掛けた非合法なクーデターといえるものでした。

円融天皇は譲位の翌年である寛和元年(985年)に出家し、以後は「朱雀院上皇」として仏事と和歌の世界に身を投じていきます。その姿は、政治の舞台から身を引いた者というより、次代へと王統を橋渡しするために、自らを削った天皇像そのものでした。崩御後の991年、追号として「円融院」の名が贈られ、その静かな生涯に敬意が示されました。

元服を迎えた円融天皇と后妃選び

元服の儀式と政治的意味

天禄2年(971年)、円融天皇は13歳で元服の儀を執り行いました。元服とは、公的に「一人前の男性」として認められる成人儀礼であり、天皇にとっては象徴的な意味以上に、政治的なメッセージを伴う通過儀礼でもありました。幼くして即位した天皇が「政治の主体」として成長したことを示すこの儀式には、宮中内外からの視線が集まりました。

当時の政治を実質的に動かしていたのは藤原実頼と、その甥である伊尹でした。彼らはこの元服の機会を利用して、天皇の周囲を固めるべく后妃の選定を加速させていきます。つまり元服とは、単なる成人の証というよりも、「天皇を摂関家の支配下にしっかりと置くための節目」として強く意識されていたのです。

さらに、元服を契機として、天皇の精神的・身体的成熟が注目されるようになると、王統の継続というテーマも現実味を帯びてきます。皇子の誕生が求められ、后妃の選び方がより一層政治的意味を帯びていくのは、まさにこの時期からでした。

妃・藤原詮子・媓子・遵子との関係

円融天皇の后妃には、藤原北家の女性たちが名を連ねました。その筆頭が、藤原兼通の娘・媓子、次いで兼家の娘・詮子、そして藤原済時の娘・遵子です。いずれも摂関家の血を引く女性であり、彼女たちの入内は藤原氏の政治戦略の一環と見るべきものでした。

媓子は藤原兼通の娘として早くから入内し、中宮の位に就きました。天皇との間に皇子・師貞親王(のちの花山天皇)をもうけ、その後の皇統継承に大きな影響を与えます。一方、詮子は兼通の弟・兼家の娘として、媓子と並ぶ存在となり、天皇との間に懐仁親王(後の一条天皇)を産みました。ただし、彼女はあくまで女御にとどまり、中宮の地位は得られませんでした。

遵子もまた藤原北家の一門であり、政治的な配慮から迎え入れられたと見られますが、特に子をもうけることはありませんでした。それでも、后妃としての在位は、摂関家の多角的な政治的布陣を象徴しています。このように、円融天皇の周囲には、明確に系統の異なる藤原氏の娘たちが配置されていたのです。

妃選びに見える藤原家の策略

円融天皇の妃選びをめぐる背景には、藤原北家の内部における複雑な権力争いが色濃く反映されています。とくに、長兄・伊尹亡き後に関白となった兼通と、その弟で後に関白に就任する兼家との間には、天皇の后妃を誰にするかをめぐって熾烈な駆け引きが行われました。

藤原兼通は自らの娘・媓子を中宮に立て、師貞親王を皇太子とすることで自派の政治的優位を築こうとします。これに対し、兼家は詮子を女御として入内させ、その子・懐仁親王を将来の皇位継承者として位置づけようとします。このような妃選びは単なる家の名誉や美的好みとは無関係で、むしろ「どの藤原家の血を引く皇子が即位するか」という一点に集約されていたのです。

円融天皇自身は、后妃選定において主体的な意思を示す余地は限られていたと考えられます。つまり彼の元服と妃選びは、自らの成人や愛情の成熟ではなく、藤原氏の政略の延長線上に位置づけられるものでした。この構図はやがて、皇位継承問題と摂関政治の均衡を揺るがす火種となっていくのです。

出家後の円融天皇と文化への傾倒

出家後の法名と院号を持っての生活

永観二年(984年)に花山天皇へ譲位した円融天皇は、その翌年の寛和元年(985年)に出家し、「朱雀院上皇」として静かな晩年を迎えます。政治の最前線を離れたこの決断は、幼少から摂関家の権力構造に巻き込まれてきた自身の歩みを省みる機会ともなりました。追号「円融院」は、彼の崩御後である正暦二年(991年)に贈られたもので、生前の呼称は「朱雀院」でした。

朱雀院としての生活では、儀礼的役割を保持しながらも、仏教的な実践や文学的活動に心を寄せるようになります。そうした在り方は、権力を手放したことで得られた精神的自由を象徴しているといえるでしょう。静けさに包まれたその生活は、政治的圧力から解放された円融天皇の新たな生のかたちを示しています。

和歌集『円融院御集』と『拾遺和歌集』掲載24首

円融天皇は出家後、和歌の制作に深く傾倒していきました。彼の作品は、その真率な情感と簡潔な技巧によって注目され、『拾遺和歌集』には24首が収められています。また、個人の歌を集めた『円融院御集』も現存しており、そこには政治を離れた後の円融天皇の率直な感懐が刻まれています。

たとえば、「いにしへの名残を人にとどめおきて 我身は雪にまかせてぞ行く」という一首は、退位・出家の後に詠まれたとされる歌の一つで、俗世への未練と清浄な境地への移行が静かに綴られています。歌の内容には、人生の儚さや無常観が一貫して表現され、そこには在位中には見られなかった円融天皇自身の心の内がうかがえます。

これらの和歌は、貴族的な技巧よりも、むしろ感情の純度や人生の諦観が色濃く反映されており、文学史においても静かな評価を受けています。

仏事や遊楽、詩歌・和歌への傾倒

出家後の円融院は、仏事への関与や文人との交流を重ねながら、文化活動に没頭する生活を送りました。宮中で行われる法会や供養の場ではしばしば姿を見せ、仏教の教義や儀式に深く親しむようになります。これは、政治とは異なる次元で社会とのつながりを保とうとする試みでもありました。

また、和歌の会や詩会にも積極的に参加し、そこでは官職に縛られない自由な表現が許されていました。円融院の歌は、その清澄な感性と簡素な表現で人々の共感を呼び、彼が「言葉」を通じて再び社会との関係を築こうとした姿勢が垣間見えます。

さらに、雅楽や遊楽の場面にも関与した記録があり、形式にとらわれない生き方を模索していたことがわかります。仏教・文学・芸能という多彩な文化活動を通じて、円融院は「王」である以前に「一人の人間」として、心の安寧を追い求めていたのです。

円融天皇の晩年とその遺産

晩年の生活と京都・後村上陵への葬儀

円融天皇は、譲位から一年後の寛和元年(985年)に出家し、「朱雀院上皇」としての静謐な生活に入りました。彼の晩年は京都に設けられた円融寺で送られ、政治から距離を取りつつも、文化的営為に深く関わっていきました。一条天皇の即位後も、院として独自の存在感を保ちながら、摂関家の専横を遠巻きに見つめていた様子が史料からも読み取れます。

崩御は正暦二年(991年)二月十二日、満三十一歳でした。その葬儀は、京都市右京区宇多野福王子町に位置する後村上陵で営まれました。追号「円融院」は崩御後に贈られ、院政期に先立つ時代において、文化型天皇の典型としてその名を後世に残すことになります。形式や儀礼の中に王統の尊厳が宿ることを、円融天皇の最期は静かに語っていたといえるでしょう。

文化的遺産と後世への影響

円融天皇の名を後世に伝える要素のひとつは、その和歌活動にあります。『円融院御集』として私的な和歌集が伝わり、また『拾遺和歌集』には二十四首が入集しています。これらの作品には、四季や人生の儚さを見つめる感性が滲み、当代随一の歌人たちと交流を重ねた痕跡が窺えます。特に正暦二年(985年)二月十三日に開催された「子の日の御遊」では、平兼盛・清原元輔・源重之といった著名な歌人が召され、円融天皇が文化の中心的存在であったことがうかがえます。

また、仏教への傾倒も著しく、法会や供養を欠かさず行ったことが記録されています。こうした営みは、信仰と表現が密接に結びついた王権像を提示し、文化型君主としての立場を築く一助となりました。

円融天皇のこれらの行動は、政治的影響力を持たない時代の天皇が、いかにして精神的な権威と文化的主導権を確保していくかという問いに対するひとつの応答でもあります。

歴史評価:中継ぎ政権か文化王か

円融天皇に対する歴史的評価は、長く「中継ぎの天皇」として位置づけられてきました。若くして即位し、在位中の政務は摂関家によって動かされ、決定的な政策を残すことなく譲位したという点で、その政治的影響は限定的とされてきたからです。

しかし近年では、その評価に見直しが加えられつつあります。出家後の和歌や仏教への深い関与、文化的な催事の主催などを通じて、円融天皇は単なる傍観者ではなく、「文化王」としての側面を強く打ち出した天皇として注目されるようになりました。さらに、譲位後も一条天皇の治世において藤原兼家と微妙な距離を保ちながら、一定の牽制を試みていた点からは、政治的空白ではなく「意識的な距離の取り方」がうかがえます。

また、冷泉系と円融系の皇統が交互に皇位を継いだ「両統迭立」の端緒となった時期に即位・譲位を経験した天皇としても、王朝史における重要な転換点のひとつを象徴しています。円融天皇は、直接的な統治ではなく、文化・象徴の場において王権の可能性を模索した存在として、より豊かな評価を受けるべき天皇のひとりなのかもしれません。

文芸と現代表象に見る円融天皇像

『拾遺和歌集』『今昔物語集』『栄花物語』に見る人物像

円融天皇は、その和歌作品24首が勅撰集『拾遺和歌集』に採されたことで、和歌文学の世界にしっかりと足跡を残しています。彼の和歌には四季の移ろいと人生の儚さが織り込まれ、その感受性は当代の歌壇にも評価されたことがうかがえます。

また『栄花物語』では、摂関家や皇統との力学に悩みながらも、譲位・出家・后妃問題などを通じて王権を調停しようとする「知恵ある天皇」として描かれています。こうした表現は、単なる象徴天皇とは一線を画し、静かに均衡を図る指導者としての姿を浮かび上がらせます。

『今昔物語集』については、円融天皇を直接扱った具体的なエピソードは確認できませんが、彼の時代背景を象徴する物語群が収められている点から、当時の文化の息吹を間接的に反映していると考えられます。

NHK大河ドラマ『光る君へ』での描かれ方と評価

NHK大河ドラマ『光る君へ』(2024年放送)は、紫式部を主人公に据え、平安中期の王朝文化と人間模様を描く意欲的な作品です。摂関政治の陰影、宮廷内の愛憎、そして和歌や物語に込められた人々の心が、丁寧な脚本と美術によって描写されました。とりわけ、王たちの内面や、歴史に埋もれがちな天皇たちの実像にもスポットが当たっており、従来の「貴族社会の背景」以上の位置づけがなされています。

円融天皇はこの作品において、若き日に即位し、摂関家の勢力争いに翻弄されながらも、静かに自身の在り方を模索する人物として描かれました。演じた坂東巳之助さんにとっては初の大河出演であり、落ち着いた語り口と細やかな感情表現で、円融天皇の穏やかさと内面の葛藤を丁寧に表現しています。視聴者からは「誠実さと揺らぎが伝わってきた」との反響もあり、文化を尊びながら苦渋の選択を重ねた天皇としての円融像が、新たな光を帯びて描き出されました。

『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』による歴史的位置づけ

歴史家・繁田信一氏の著作『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』では、円融天皇が摂関家の圧力と個人的な志向との間で孤独を抱えていた点に焦点が当てられています。研究では、彼の譲位や出家が単なる旁証的なものではなく、王統の継続性と文化を重視する意識が背景にあると分析されています。そうした観点から、円融天皇は従来の「中継ぎ天皇」という枠にとどまらず、自ら文化と儀礼を通じて王権の重心を模索した意味深い存在として再評価されています。

このように本章では、和歌・物語・ドラマ・学術研究といった多様な表現を通じて、円融天皇が後世にどのように受け継がれ、どう再解釈されてきたかを見てきました。王という形式ではなく、文化と主体性を通して「静かに花開いた天皇」として、その存在は今も語り続けられています。

円融天皇の静かな足跡とその光

円融天皇の在位は、華やかな事績や軍事的偉業に彩られるものではありませんでした。摂関政治の確立期に即位した天皇として、権力の主導権をめぐる争いのなか、表に立つことよりも、あえて静かに均衡を保つ姿勢を選びました。その「動かぬ選択」は、王権の脆弱さではなく、むしろ時代の圧力を受け止める強靱な受容のかたちだったとも言えるでしょう。出家後に没頭した和歌や仏事は、権力から離れた後も国の精神に参与しようとする姿勢の表れです。

近年の研究や映像作品では、こうした文化的関与に光が当てられ、円融天皇の「静かなる存在感」が再評価されつつあります。確かに、彼の足跡は時代を激しく揺るがすものではありませんでしたが、静けさのなかにこそ時代を映す深い鏡がある──そう語るかのように、円融天皇の生涯は今も読む者の想像を促し続けています。

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