こんにちは!今回は、幕末から明治期にかけて活躍した武士・政治家・外交官、榎本武揚(えのもと たけあき)についてです。
幕府海軍のエリートとして活躍しながらも、戊辰戦争で敗れ、蝦夷共和国を築くという壮大な夢を抱いた男。その後、明治政府に登用され、外務大臣や文部大臣として日本の未来を築くことに尽力しました。
彼の波乱に満ちた生涯を詳しく見ていきましょう!
幕臣としての学びと海軍への道
昌平坂学問所での修学とエリート意識
榎本武揚は、天保7年(1836年)に江戸の下級旗本の家に生まれました。幼少期から聡明で、学問への興味が強かった彼は、幕府の官僚養成機関である昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に入学しました。昌平坂学問所は、江戸幕府が儒学を中心とした教育を施す最高学府であり、優秀な幕臣を育成する場として知られていました。
この学問所では、朱子学を中心に漢詩や歴史、礼法が重視されていましたが、榎本はそれにとどまらず、蘭学や西洋兵学、数学や測量学などの実学にも強い関心を示していました。特に、地理や航海に関する学問に興味を持ち、測量技術の習得にも熱心に取り組んでいました。当時の幕府は欧米列強の圧力にさらされており、西洋の進んだ学問や技術を学ぶことが急務となっていました。そのため、榎本のように蘭学や海軍技術に関心を示す若者たちは、幕府内でも将来を嘱望される存在となっていきました。
昌平坂学問所での学びは、榎本にエリート意識を植え付けました。彼は「学問を修めた者こそが国家の中枢を担うべきだ」という信念を持つようになり、幕府の将来に貢献することを強く意識するようになりました。しかし、同時に学問所の伝統的な儒学教育に物足りなさを感じるようになり、「実学を学ばなければ、日本は西洋列強に対抗できない」と考えるようになります。こうした考えが、後の彼の留学や海軍技術習得への強い意志につながっていきました。
勝海舟との出会いと海軍への志
榎本武揚の人生に大きな影響を与えたのが、幕府の海軍発展に尽力した勝海舟との出会いでした。勝海舟は、幕府内でも数少ない西洋海軍の必要性を説いた人物であり、オランダでの最新の軍事技術や航海術に精通していました。榎本が彼と出会ったのは長崎海軍伝習所に入学した時のことでした。
長崎海軍伝習所は、幕府が西洋式の海軍教育を施すために1855年に設立した機関であり、オランダ人の指導のもとで最新の航海術や砲術を学ぶことができました。榎本はここで勝海舟から直接指導を受け、海軍の重要性を改めて認識しました。勝は「これからの日本は、西洋列強と対等に渡り合うために、強力な海軍を持たなければならない」と説き、榎本はその考えに強く共感しました。
また、ここで榎本は日本で初めて蒸気船に乗り込む経験をしました。当時の日本の船は帆船が主流でしたが、西洋ではすでに蒸気機関を備えた軍艦が主流となっていました。榎本はオランダ人教官の指導のもと、蒸気船の操縦や機関の仕組みを学び、西洋技術の圧倒的な先進性に驚嘆しました。「このままでは日本は西洋に太刀打ちできない。より多くの技術を学ばなければならない」との思いを強くし、さらに西洋の知識を深めるための留学を決意することになります。
江戸幕府海軍の創設と榎本の貢献
幕末の日本は、西洋列強の圧力にさらされ、従来の軍事体制では対抗できない状況にありました。そのため幕府は、西洋式の海軍を創設し、強力な艦隊を持つことで国防を強化しようと考えました。その中で、榎本武揚は海軍の発展に大きく貢献することになります。
幕府は1855年、長崎海軍伝習所を設立し、オランダ人の指導のもとで本格的な海軍教育を開始しました。榎本はここで航海術、砲術、造船技術を学び、頭角を現していきます。彼の優れた能力は幕府の上層部にも認められ、1862年にはオランダ留学の機会を得ることになりました。この留学では、最新鋭の海軍技術を学ぶだけでなく、日本の外交官として西洋各国との交流を深めることも目的とされていました。
また、幕府は西洋式の軍艦を導入し、海軍力を強化する方針をとりました。その一環として、オランダで最新鋭の軍艦「開陽丸」を建造し、日本に持ち帰る計画が立てられました。榎本はこの計画の中心人物として動き、オランダ留学中に造船技術を学びながら、開陽丸の建造にも関与しました。彼はオランダの技術者たちと交流し、西洋の最新鋭の技術を吸収しながら、日本の海軍力向上のために尽力しました。
1867年、開陽丸は日本に到着し、幕府海軍の主力艦として位置づけられました。この艦は蒸気機関を備えた最新鋭の軍艦であり、旧来の帆船とは比べ物にならないほどの戦闘力を持っていました。榎本はこの開陽丸を率い、後に戊辰戦争において旧幕府軍の海軍を指揮することになります。しかし、その戦いは彼にとって試練の連続となり、開陽丸の運命もまた劇的なものとなるのでした。
オランダ留学と海軍技術の習得
最新海軍技術の学びとその成果
榎本武揚は、幕府の命を受けて1862年(文久2年)にオランダ留学へと旅立ちました。当時の日本は開国から間もなく、西洋の技術を吸収することが急務とされていました。特に海軍力の向上は、列強諸国と対等に渡り合うための最優先課題とされており、その最前線に立つことになったのが榎本でした。彼は幕府から選ばれた数名の若手幕臣たちとともに、長崎からオランダへ向かい、ロッテルダムの海軍学校で学ぶことになりました。
オランダでは、西洋の最新技術を徹底的に学びました。特に榎本は、航海術、造船技術、砲術に力を入れ、オランダ海軍の指導のもとで実地訓練も受けました。当時の西洋の軍艦は、すでに蒸気機関を利用した装甲艦へと進化しており、日本の伝統的な木造船とは比べ物にならない性能を持っていました。榎本は、この圧倒的な技術の差を実感し、「日本の未来は、この技術をいかに吸収し、独自のものとして発展させるかにかかっている」と確信しました。
彼の留学中、特に大きな影響を受けたのが、オランダの造船技術でした。榎本は現地の造船所で研修を受け、西洋式の艦船設計やエンジンの構造、装甲の強化方法について学びました。この経験は、後に彼が開陽丸の建造を主導する際に大いに役立つことになります。さらに、オランダ海軍の戦術や艦隊運用の方法についても学び、日本の海軍組織に必要な改革の方向性を明確にしました。
西洋文明の衝撃と榎本の思想変化
オランダでの生活は、榎本にとって大きな衝撃の連続でした。彼が江戸で育ち、学んできた幕府の制度や考え方とは、まったく異なる価値観が西洋には存在していたのです。特に彼が驚いたのは、技術革新のスピードと、それを支える学問の体系でした。オランダでは、大学や研究機関が新しい技術の開発に積極的に関与し、軍事技術もまた科学的な裏付けのもとで発展していました。
これに比べ、日本の幕府は依然として武士階級の権威に頼る統治を続け、科学技術の発展に対する理解が乏しい状態でした。榎本は、西洋の進んだ社会を目の当たりにすることで、「日本がこのままの体制を続けていては、いずれ列強に飲み込まれてしまう」という強い危機感を抱くようになりました。このころから彼は、単に幕府の命令に従う幕臣としてではなく、日本という国の未来を考える人物へと変わり始めます。
また、オランダでは商業や産業が発展し、国全体が経済活動によって成長していることにも感銘を受けました。日本では士農工商の身分制度が厳しく、商業は武士よりも下に見られることが一般的でしたが、オランダでは商人が国家の発展を支えていました。この違いに衝撃を受けた榎本は、日本も産業を育て、経済を活性化させることが国力の向上につながると考えるようになりました。こうした思想の変化は、後に彼が明治政府で産業政策に関与する際の重要な基盤となります。
オランダ海軍との交流と国際的視野
榎本のオランダ留学のもう一つの大きな成果は、オランダ海軍との交流を通じて国際的な視野を広げたことでした。彼は単に学問や技術を学ぶだけでなく、現地の海軍将校や技術者たちと積極的に交流し、国際関係の在り方についても深く理解するようになりました。
オランダは、かつて東インド(現在のインドネシア)を植民地とし、海洋貿易を通じて繁栄してきた国でした。そのため、海軍の役割も単なる防衛だけでなく、経済活動を支えるものとしての側面が強調されていました。榎本はこの点に着目し、「日本も海軍を単なる軍事組織ではなく、国の発展を支えるための重要な機関と位置づけるべきだ」と考えるようになりました。
また、オランダ滞在中、彼は他の欧州諸国の軍事技術や外交政策についても学びました。特にイギリスやフランスの海軍力の強さには驚かされ、日本が単にオランダの技術を取り入れるだけでは不十分であることを痛感しました。こうした経験を通じて、榎本は「日本は単独で近代化を進めるのではなく、国際社会の中で生き残るための戦略を持たなければならない」との考えを強く持つようになりました。
1867年、榎本は約5年間の留学を終えて日本に帰国しました。彼は帰国後、幕府に対してオランダで学んだ技術や知識を報告し、日本の海軍改革に活かすべきだと提言しました。また、オランダで建造された最新鋭の軍艦「開陽丸」を日本に持ち帰り、幕府海軍の近代化に大きく貢献しました。しかし、その直後に明治維新の動乱が始まり、榎本は開陽丸とともに旧幕府側の軍事行動に関わっていくことになります。
開陽丸艦長として迎えた戊辰戦争
最新鋭軍艦・開陽丸の建造と戦略的役割
榎本武揚がオランダ留学中に関与した開陽丸(かいようまる)は、日本の海軍史上、特に幕末における重要な軍艦の一つです。1865年(慶応元年)、幕府は最新鋭の蒸気軍艦を導入するためにオランダへ発注しました。これは、榎本を含む幕府の海軍関係者が、西洋の軍艦技術を直接学び、日本の防衛力を強化する目的で進められた計画でした。
開陽丸は全長72メートル、排水量2,590トン、時速13ノットの速度を誇る最新鋭の装甲フリゲート艦でした。船体は鉄製で、強力なアームストロング砲を装備しており、当時の日本において最も強力な軍艦の一つでした。榎本はこの軍艦の設計段階から関与し、実際の建造過程を視察することで、日本における近代造船の基盤を築くための知見を深めました。
1867年(慶応3年)、開陽丸はついにオランダで完成し、榎本が艦長として指揮を執ることになりました。同年12月、開陽丸は日本に向けて出航し、翌1868年(慶応4年/明治元年)に長崎へ到着します。しかし、このとき日本ではすでに戊辰戦争が始まっており、榎本と開陽丸は動乱の渦中へと巻き込まれていくことになります。
鳥羽・伏見の戦い後の旧幕府海軍の再編成
開陽丸が日本に到着した1868年1月、幕府軍と新政府軍の間で鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。この戦いで旧幕府軍は大敗を喫し、徳川慶喜は江戸へ退却、江戸幕府の終焉が決定的となります。榎本は当初、開陽丸を江戸湾に停泊させ、海軍戦力として幕府の防衛にあたろうとしましたが、すでに幕府の権力は崩壊しつつあり、江戸城の無血開城が現実味を帯びていました。
この状況を見た榎本は、ただちに旧幕府海軍の再編を決意します。彼は、開陽丸を旗艦とし、富士山丸、蟠竜(ばんりゅう)、千代田形(ちよだがた)、回天(かいてん)など旧幕府艦隊をまとめ、江戸から脱出する計画を立てました。榎本の目的は、江戸城が無血開城された後も、海軍力を保持しつつ、新たな戦略拠点を築くことでした。彼は徹底抗戦を主張し、旧幕府軍の残存勢力とともに新政府軍に対抗する道を選びます。
4月、江戸城が正式に新政府に引き渡されると、榎本は開陽丸を率いて品川沖を出航し、旧幕府軍の将兵を集めながら北へと向かいました。彼の目指したのは、まだ新政府の支配が及んでいない**蝦夷地(北海道)**でした。榎本はここを新たな拠点とし、旧幕府勢力が再起できるような独立政権を樹立しようと考えたのです。
開陽丸の沈没と旧幕府軍の苦境
1868年10月、榎本率いる旧幕府艦隊は函館(箱館)へ到達しました。ここを拠点に、新政府軍への抵抗を続ける準備が進められました。函館には、旧幕府軍の生き残りが合流し、やがて五稜郭を中心とした蝦夷共和国の設立へとつながっていきます。しかし、その計画に大きな暗雲を投げかけたのが、開陽丸の沈没でした。
1868年11月15日、榎本率いる艦隊は補給物資の確保と戦略的拠点の確立のため、江差(えさし)に向けて航行しました。江差は蝦夷地の中でも重要な港であり、ここを押さえることで新政府軍の進軍を阻止しようと考えたのです。しかし、江差沖で開陽丸は突然の暴風雨に見舞われ、座礁してしまいます。開陽丸は強固な装甲を持つ最新鋭艦でしたが、荒天による激しい波に耐えきれず、沈没してしまいました。
この開陽丸の沈没は、旧幕府軍にとって致命的な打撃となりました。榎本が頼みの綱としていた最強の軍艦を失ったことで、海上戦力が大幅に低下し、新政府軍の北海道侵攻を阻止する手段が大きく制限されてしまったのです。榎本はすぐに残存艦隊を率いて五稜郭に戻り、陸上戦へと切り替える決断を下します。こうして、旧幕府軍は函館での最終決戦へと向かっていくことになります。
蝦夷共和国の夢とその終焉
五稜郭を拠点とした統治と理想の国家像
開陽丸の沈没という大きな打撃を受けながらも、榎本武揚は旧幕府軍の再編に尽力しました。1868年(明治元年)11月、彼は五稜郭を拠点として、新たな政権の樹立を宣言します。五稜郭は、フランス式の星形要塞であり、西洋の近代的な防御構造を持つ日本でも数少ない城郭の一つでした。榎本はこの地に旧幕府軍の残存勢力を集め、新政府軍に対抗しうる独立政権を築こうとしました。
ここで彼が打ち出したのが蝦夷共和国の設立でした。これは、単なる旧幕府軍の抵抗勢力としてではなく、西洋式の民主主義を取り入れた国家として構想されました。1869年1月、榎本は五稜郭で選挙を行い、自らが総裁に選出されました。政府の構造も西洋を意識したもので、副総裁に松平太郎、陸軍奉行に大鳥圭介、海軍奉行に荒井郁之助を任命し、さらにフランス軍事顧問団の協力を得ることで、本格的な国家運営を目指しました。
榎本はこの蝦夷共和国を、単なる旧幕府軍の亡命政府ではなく、新しい日本のあり方を示す実験的な国家として位置づけていました。彼は、西洋の制度を取り入れ、開かれた貿易を行うことで、北海道の発展を目指そうとしました。また、当時の新政府が薩摩・長州藩を中心とした藩閥政治に偏っていたことを考えると、蝦夷共和国は「武士の身分に関係なく、能力によって政治を行う新しい政体」として、理想の国家像を提示していたのです。
蝦夷共和国の政策と実態
蝦夷共和国は、短期間ながらも独自の政治体制を築きました。榎本の指導のもとで、五稜郭を中心に行政機関が整備され、農業や交易の振興が試みられました。特に榎本は、蝦夷地(北海道)の開発を強く意識し、農地開拓や交易ルートの確立を進めようとしました。函館を中心に、オランダやフランスとの貿易を計画し、軍需品や生活物資を確保するための交渉も行われていました。
しかし、現実は厳しいものでした。まず、蝦夷共和国には十分な財政基盤がなく、長期的な運営が困難でした。武士たちが中心となっていたため、商業活動の経験が乏しく、計画通りに物資を調達することも容易ではありませんでした。また、五稜郭の兵力は約3,000人ほどでしたが、新政府軍に比べると圧倒的に劣勢であり、兵站の確保も難しい状況でした。
また、新政府はすでに全国の支配を固めつつあり、蝦夷共和国を正式な政権として認めることはありませんでした。榎本は何度か新政府に対して和平交渉を試みましたが、交渉は決裂し、結局、蝦夷共和国は武力で制圧される運命にありました。
箱館戦争の激戦と降伏、榎本の決断
1869年4月、新政府軍は蝦夷地への本格的な攻勢を開始しました。新政府は、最新鋭の軍艦「甲鉄艦」を中心とする艦隊を編成し、函館湾へと進軍しました。これに対し、蝦夷共和国軍はわずか数隻の軍艦と、五稜郭に篭城する兵力で応戦せざるを得ませんでした。
戦闘は4月9日の宮古湾海戦から始まりました。榎本は旧幕府軍の艦隊を率い、甲鉄艦の奪取を試みるという大胆な作戦を決行しました。この作戦は、土方歳三らの決死隊を乗せた回天、蟠竜が新政府軍の甲鉄艦へ突撃し、奇襲を仕掛けるものでした。しかし、新政府軍の準備は万全で、激しい砲撃を受けた旧幕府軍は壊滅的な打撃を受け、宮古湾海戦は新政府軍の圧勝に終わりました。
その後、新政府軍は続々と函館へ上陸し、二股口の戦い、木古内の戦いなどの激戦が繰り広げられました。榎本は、土方歳三や大鳥圭介とともに最後の抵抗を試みましたが、戦況は日を追うごとに悪化していきます。5月11日、土方歳三が一本木関門の戦いで戦死し、旧幕府軍の士気は大きく低下しました。
5月15日、新政府軍は五稜郭を完全に包囲し、榎本に降伏を勧告しました。榎本は最後まで抗戦することも考えましたが、これ以上の戦闘は無意味であり、多くの仲間を無駄に死なせるだけだと判断しました。彼は「これはもはや国のための戦いではなく、ただの無謀な抵抗でしかない」と悟り、5月18日、正式に降伏を決意します。榎本は五稜郭の門を開き、新政府軍に投降しました。
こうして、蝦夷共和国はわずか半年で消滅し、日本全国は明治政府のもとで統一されることになりました。榎本は捕らえられ、戦争の責任を問われることになります。しかし、彼の知識と能力を高く評価していた新政府の有力者たちは、彼を処刑するのではなく、活用する道を模索していくことになります。
明治政府での再起と新たな挑戦
黒田清隆の尽力による赦免と復帰
五稜郭が陥落し、榎本武揚が降伏した1869年(明治2年)、彼は東京へ送られ、新政府による裁きを受けることになりました。旧幕府軍の最高指導者の一人として、彼は国家反逆罪に問われ、死刑もしくは流罪が確実視されていました。しかし、彼の命運を大きく変えたのが、新政府内の要人たちの働きかけでした。
特に榎本の才能を高く評価していたのが、薩摩藩出身の黒田清隆でした。黒田は、旧幕府側であっても優秀な人材を活用すべきだと考えており、「榎本ほどの知識と能力を持つ人物を処刑するのは国家の損失である」と主張しました。また、黒田だけでなく、同じく薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の木戸孝允なども、榎本の処遇について慎重な姿勢を取っていました。
加えて、榎本自身も自らの弁護に努めました。彼は「自分は幕府に忠誠を尽くしただけであり、国を思って行動した」と訴え、新政府への協力も辞さない姿勢を示しました。さらに、彼はオランダ留学で得た知識や国際的な視野をアピールし、「これからの日本には西洋の知識が必要不可欠である」と説きました。このような政治的背景と本人の弁論の巧みさが功を奏し、1872年(明治5年)、榎本は正式に赦免され、新政府の一員として迎えられることになりました。
工部省・文部省での技術革新と教育改革
赦免された榎本は、新政府の工部省(こうぶしょう)に迎えられました。工部省は、日本の近代化を進めるために設立された官庁であり、特に鉄道、電信、造船、鉱業などの分野を管轄していました。榎本は、西洋で学んだ技術を活かし、日本の工業発展に貢献することになります。
彼が最も力を入れたのが造船技術の発展でした。旧幕府時代に開陽丸の建造に携わった経験を活かし、日本国内での造船技術の確立を目指しました。工部省では、横須賀造船所を中心に、最新鋭の軍艦や商船の建造計画が進められており、榎本はその指導的立場として活躍しました。また、彼は鉄道の整備にも関与し、1872年に開通した日本初の鉄道(新橋~横浜間)の計画にも関わりました。
その後、榎本は工部省だけでなく、文部省にも関わるようになりました。明治政府は、西洋の教育制度を取り入れ、国民の学力向上を図るため、1872年に学制を発布しました。榎本は、この学制の導入に際し、自らの留学経験をもとに教育の必要性を訴え、特に理工系の教育を重視する方針を打ち出しました。彼は、日本の技術発展のためには西洋式の教育が不可欠であると考え、工部大学校(後の東京工業大学)の設立にも尽力しました。
北海道開拓使としての鉱物資源調査と開発
榎本は工部省・文部省での仕事に加え、1874年(明治7年)には北海道開拓使にも関与することになります。北海道開拓使は、新政府が北海道の開発と防衛を目的として設立した機関であり、その中心人物となったのが黒田清隆でした。榎本は黒田の招聘を受け、北海道の開発計画に参加することになります。
榎本が特に注目したのが鉱物資源の開発でした。彼はオランダ留学時代に西洋の鉱業技術を学んでおり、それを日本に導入することを目指しました。彼は北海道各地の鉱山を調査し、特に夕張炭鉱や釧路炭田の開発を推進しました。石炭は当時の産業革命を支える重要なエネルギー資源であり、日本の近代化において不可欠なものでした。榎本の指導のもと、北海道の炭鉱開発は本格的に進められ、日本の工業発展を支える基盤となっていきました。
また、榎本は北海道の港湾整備にも力を入れました。函館や小樽といった港を拡張し、北海道と本州の物流を活性化させる計画を推進しました。彼のこうした政策は、後の北海道の発展に大きな影響を与え、北海道が日本の重要な工業・貿易拠点となる礎を築きました。
榎本の活躍は新政府内でも高く評価され、彼は次第に政府内での地位を高めていきました。そして、彼の外交手腕を活かす場として、後に日本とロシアの国境交渉に関与することになっていきます。
樺太・千島交換条約と外交手腕
ロシアとの交渉における榎本の駆け引き
明治政府での活躍が認められた榎本武揚は、1874年(明治7年)、外務省に移り、本格的に外交の舞台に立つことになりました。彼が最初に直面した大きな外交課題が、日本とロシアの国境問題でした。特に樺太(サハリン)と千島列島をめぐる領有権の確定は、長年にわたり日露間の懸案事項となっていました。
江戸時代後期、日本とロシアは樺太をめぐって衝突を繰り返していました。1855年の日露和親条約では、樺太を日露混住地とすることが決められましたが、実際にはロシアが次第に樺太での影響力を強め、日本人住民との間で衝突が相次いでいました。榎本はこの問題を解決し、日本の北方の安全を確保するためにロシアとの本格的な交渉に臨みました。
1875年(明治8年)、榎本は日本全権大使としてロシアの首都サンクトペテルブルクへ赴き、ロシア政府との国境交渉にあたりました。交渉の相手は、ロシアの有力政治家であるゴルチャコフ外相でした。ロシア側は、すでに樺太に多数の入植者を送り込み、事実上の支配を進めていたため、日本の樺太領有を認める考えはありませんでした。一方で、千島列島にはそれほど関心を持っておらず、日本がこれを手にする余地がありました。
榎本は交渉の中で、「日本は千島列島全域を得る代わりに、樺太の領有権をロシアに譲る」という条件を提示しました。ロシア側は樺太の戦略的重要性を認識していたため、この提案を受け入れる方向で調整が進められました。しかし、ロシアは千島列島を手放すことで、太平洋への出口を失うリスクがあると考え、交渉は一進一退の状況が続きました。
条約締結の背景と日本への影響
交渉の結果、1875年5月7日(明治8年4月21日)、日本とロシアの間で樺太・千島交換条約が正式に締結されました。この条約により、樺太全域はロシア領とし、千島列島全域は日本領とすることが決まりました。榎本はこの条約を通じて、樺太を失う代わりに、日本が千島列島の領有権を確定させ、北方の国境問題に一定の区切りをつけることに成功しました。
この条約にはいくつかの重要な背景がありました。
- ロシアの南下政策への対応 19世紀後半、ロシアはアジアへの進出を強めており、日本にとってロシアとの国境を明確にし、紛争を避けることは急務でした。榎本は、ロシアの脅威を考慮しつつ、日本が千島列島を確実に確保することで、将来的な防衛線を築こうとしました。
- 日本の国力と交渉の限界 1875年当時の日本は、まだ明治維新からわずか数年しか経っておらず、軍事力や外交力の面でロシアに大きく劣っていました。榎本は、現実的な選択として、樺太の領有を断念する代わりに、千島列島という明確な領土を確保する道を選んだのです。
- 千島列島の戦略的価値 千島列島は、日本の漁業資源が豊富な海域に位置しており、特にカニやサケの漁業の発展に大きな貢献をしました。また、軍事的にもロシアとの防衛ラインを確保する意味合いがあり、後の日本の北方政策に影響を与えました。
この条約により、日本はロシアとの国境問題を一時的に解決し、国内の開発や近代化に集中できる環境を整えることができました。しかし、後年、日露関係は再び悪化し、最終的には日露戦争(1904-1905年)へと発展することになります。榎本のこの判断が、後に日本の外交戦略にどのような影響を与えたかは、長い目で見ると重要な問題となっていきました。
国際社会における榎本の評価
榎本武揚は、この樺太・千島交換条約の交渉を成功させたことで、日本の外交官としての名声を高めました。彼の交渉手腕は新政府内でも高く評価され、以降も外交面で重要な役割を果たすことになります。
特に、彼の国際感覚の鋭さは明治政府にとって貴重なものでした。榎本は、西洋の外交手法を熟知し、相手国との妥協点を見極める冷静な判断力を持っていたため、欧米諸国との交渉においても重宝される存在となりました。彼の交渉術は、日本が列強と対等な関係を築くための基礎を作る上で、大きな役割を果たしたといえます。
一方で、国内では「樺太を失ったのは失策だ」とする批判もありました。特に国粋主義的な勢力からは、「日本は樺太も守るべきだった」との声も上がりました。しかし、当時の日本の国力を考えれば、榎本の判断は極めて現実的であり、外交的な成功であったことは間違いありません。
この外交交渉を経て、榎本はさらに政府内での地位を固め、ついに外務大臣、海軍卿、文部大臣といった重要ポストを歴任することになります。彼は幕臣としての経歴を持ちながらも、新政府の要人として明治日本の発展に尽力し続けたのです。
内閣大臣としての多方面での活躍
外務大臣としての外交戦略と成果
榎本武揚は、樺太・千島交換条約の成功により外交官としての評価を高め、その後、明治政府の要職を歴任することになりました。彼が最初に就任した重要な役職の一つが外務大臣(外務卿)でした。1879年(明治12年)、榎本は外務卿に任命され、日本の外交政策を指揮する立場となります。
当時の日本外交の最大の課題は、不平等条約の改正でした。幕末に欧米列強と結ばれた条約は、日本にとって不利な内容が多く、特に関税自主権の欠如や領事裁判権の問題が深刻でした。榎本は、この不平等条約を改正するため、欧米各国との交渉に取り組みました。
1880年(明治13年)、榎本は清国(中国)との外交交渉にも関与し、日清修好条規(1871年)の発展を目指しました。当時、日本は朝鮮半島をめぐる外交戦略を模索しており、榎本は清国の外交官李鴻章と会談し、日本の影響力を確保しつつ、清国との関係を安定させる道を探りました。榎本は欧米だけでなくアジアの情勢にも目を向け、国際バランスの中で日本の立ち位置を考える柔軟な外交を展開しました。
また、榎本はロシアとの関係改善にも尽力しました。1875年の樺太・千島交換条約締結後も、日本とロシアの関係は微妙な状態が続いていました。榎本はロシア側との対話を重ね、軍事的な対立を避けるための調整を行いました。こうした外交努力により、彼は日本の国際的地位を向上させることに貢献しました。
しかし、彼の外交政策は時に政府内で対立を招くこともありました。特に、外務卿在任中の条約改正交渉は、国内の強硬派から批判を受けることが多く、彼の柔軟な外交姿勢は一部の保守派には受け入れられませんでした。そのため、榎本は1881年(明治14年)に外務卿を辞任し、次の役職へと移ることになります。
海軍卿としての近代海軍の整備
榎本は幕臣時代から海軍に関与しており、明治政府でも引き続き海軍の発展に尽力しました。外務卿を辞任した後、彼は海軍卿(現在の海軍大臣に相当)に就任し、日本海軍の近代化を推進しました。
当時の日本海軍は、まだ欧米列強と比較すると発展途上でした。榎本は、オランダ留学時代に学んだ西洋の海軍技術を活かし、日本独自の海軍戦略を確立しようとしました。彼は特に以下の点に力を入れました。
- 軍艦の国産化 明治初期、日本は軍艦をイギリスやフランスから購入していましたが、榎本は国内での造船能力を高めるべきだと主張しました。彼は横須賀造船所の拡充を進め、日本で軍艦を建造できる技術基盤を整えました。これにより、後の「扶桑型戦艦」などの国産軍艦の建造につながっていきます。
- 海軍教育の充実 榎本は、近代海軍を支える人材育成のため、海軍兵学校の教育カリキュラムを見直しました。彼は数学、物理学、航海術などの西洋式教育を導入し、実戦的な訓練を重視しました。これにより、日本の海軍士官のレベルが向上し、後の日清戦争・日露戦争で活躍する人材が育成されました。
- イギリス式海軍の導入 榎本はイギリスの海軍戦略に注目し、日本海軍をイギリス型の艦隊運用方式に近づける方針を取りました。イギリスは当時、世界最強の海軍を持つ国であり、榎本はその戦術や艦隊編成を研究し、日本の海軍戦力の強化を図りました。
榎本のこうした努力により、日本海軍は徐々に近代化を遂げ、後に日清戦争(1894年)や日露戦争(1904年)で大きな役割を果たすことになります。
文部大臣としての教育改革と未来への投資
榎本はその後、文部大臣にも就任し、日本の教育制度の発展に寄与しました。彼は文部大臣として特に理工系教育の強化に力を入れ、近代産業の発展に必要な技術者や科学者の育成を推進しました。
- 高等教育機関の設立 榎本は、技術者養成のために工部大学校(現在の東京工業大学)の拡充を進め、理系教育の重要性を強調しました。また、東京帝国大学(現在の東京大学)の発展にも関与し、理学・工学の専門分野の強化に尽力しました。
- 地方教育の振興 明治政府は、全国的に教育制度を整えるため、学制を導入しましたが、地方では十分に教育が行き届いていない地域も多くありました。榎本は、地方の教育環境を改善するため、小学校や中学校の設立を支援し、教育の普及を進めました。
- 海外留学制度の拡充 榎本は自らがオランダ留学を経験したことから、海外留学の重要性を認識していました。彼は、優秀な若者を海外に派遣し、西洋の最先端の知識を学ばせる政策を推進しました。これは後の日本の技術革新に大きな影響を与え、明治以降の産業発展に寄与しました。
このように、榎本は外交・海軍・教育と幅広い分野で活躍し、明治日本の発展に大きく貢献しました。彼は旧幕臣でありながら、新政府の中枢で重要な役割を果たし、日本の近代化に尽力した稀有な存在だったのです。
殖民協会設立と晩年の活動
日本の海外進出構想とメキシコ移民計画
榎本武揚は、明治政府で外交・軍事・教育など多方面で活躍しましたが、晩年には日本の海外進出と移民政策にも深く関与することになります。彼は外務大臣や文部大臣としての経験を生かし、経済発展と国民生活の安定を図るための新たな政策として、海外植民に着目しました。
明治時代の日本は、急速な近代化を遂げる一方で、人口増加と農地不足という問題を抱えていました。特に農村部では、生活の苦しい農民が増え、社会不安の要因ともなっていました。このような背景のもと、政府内では「日本人を海外に移住させ、新たな生活基盤を築かせるべきだ」という意見が出始めていました。榎本はこの考えに強く賛同し、積極的に海外移民計画を推進しました。
その中で、榎本が特に注目したのがメキシコへの移民でした。彼は、メキシコが広大な土地と豊富な資源を持ちながら、労働力が不足していることに着目し、日本人移民を送り込むことで双方に利益があると考えたのです。1897年(明治30年)、榎本は「殖民協会」を設立し、日本政府とメキシコ政府の間で移民交渉を進めました。
榎本の構想では、日本人移民をメキシコに送り、農業や商業の発展を支援しながら、日墨(日本とメキシコ)の友好関係を強化することが目標とされていました。しかし、この計画は必ずしも順調には進みませんでした。メキシコ側の政策変更や、現地での環境の厳しさなどが影響し、日本人移民の定着は思ったほど進まず、計画は縮小されることになります。それでも、この移民計画は日本の海外進出政策の先駆けとなり、後の南米移民(ブラジルやペルーへの移住)につながる重要な一歩となりました。
晩年における政治的活動と信念
殖民協会の活動と並行して、榎本は引退することなく、晩年まで政治活動を続けました。彼は貴族院議員として明治政府の外交・産業政策に関与し続け、日本の発展に貢献しようとしました。
晩年の榎本は、かつての幕臣という立場を超え、「国家のために尽くす」という信念を持ち続けました。彼は新政府の主要ポストを歴任しながらも、元幕臣や旧幕府軍の仲間たちを見捨てることはなく、彼らの再就職や生活支援にも尽力しました。例えば、五稜郭でともに戦った大鳥圭介や荒井郁之助といった旧幕臣たちを政府の技術開発部門に推薦し、明治政府の中で活躍できる道を開きました。
また、彼は教育や科学技術の発展にも引き続き関心を持ち続けました。晩年には、工学や造船技術の向上を目的とした学術団体の支援を行い、近代日本の技術者育成にも貢献しました。これは、彼がオランダ留学で得た経験を最後まで活かそうとした証でもあります。
明治の激動を生き抜いた榎本の最期
榎本武揚は、政治家としての活動を続けながら、晩年は東京で静かに過ごしました。1908年(明治41年)10月26日、彼は72歳でその生涯を閉じました。
彼の死は、多くの人々に惜しまれました。かつての旧幕府軍の仲間はもちろん、明治政府の高官や財界人、軍人たちも榎本の功績を称えました。彼の葬儀には、勝海舟や西郷隆盛と並ぶ、日本の近代化に貢献した一人として、多くの人々が参列しました。
榎本武揚の人生は、幕末の動乱から明治政府の発展まで、日本の近代化の歴史とともにありました。彼は、幕臣から明治政府の中枢へと転身し、外交・軍事・教育・殖民政策と多岐にわたる分野で活躍した希有な存在でした。その柔軟な適応力と学識、そして信念は、現代においても評価され続けています。
榎本武揚を描いた作品とその魅力
池波正太郎『幕末遊撃隊』における榎本の描写
榎本武揚は、幕末から明治にかけて活躍した人物として、多くの歴史小説や漫画に登場しています。その中でも、池波正太郎の小説『幕末遊撃隊』は、榎本の生き様を魅力的に描いた作品の一つです。
『幕末遊撃隊』は、幕末の動乱期における旧幕臣たちの奮闘を描いた作品であり、その中で榎本は、単なる軍人ではなく、知略と国際感覚を持った指導者として登場します。特に、榎本が戊辰戦争で見せた冷静な判断力や、五稜郭における統治の様子が詳細に描かれており、彼のリーダーシップが強調されています。
池波正太郎の描く榎本は、合理的で冷静な人物でありながら、どこか人間味のあるキャラクターとしても描かれています。彼は理知的な軍人として部下を率いる一方で、仲間たちの死や敗戦の現実に苦悩しながらも、最後まで未来を見据えて行動する姿が印象的です。特に、「勝てない戦いを続けることに意味はあるのか?」という葛藤を抱えながら、それでも仲間を守るために五稜郭での戦いを指揮する姿は、多くの読者の心を打ちます。
また、この作品では、榎本の学識と外交能力にも焦点が当てられており、単なる軍人ではなく、日本の未来を考える政治家としての一面も強調されています。池波正太郎の筆致によって、榎本武揚の知性と情熱が際立つ作品となっており、彼の魅力を知る上で非常におすすめの一冊です。
『賊軍 土方歳三』と蝦夷共和国の夢の再現
漫画『賊軍 土方歳三』は、戊辰戦争をテーマにした作品であり、旧幕府軍の視点から戦いの様子を描いています。タイトルの通り、土方歳三が主人公ですが、その中で榎本武揚も重要な役割を果たしています。
この作品における榎本は、知略に優れた軍略家として描かれるだけでなく、蝦夷共和国という新たな国家を築こうとした理想主義者としての側面が強調されています。特に、彼が五稜郭で蝦夷共和国を設立し、士族だけでなく農民や商人を巻き込みながら統治を進めていく場面は、歴史的にも重要なポイントです。
また、この作品では榎本と土方歳三の関係性にも注目が集まります。合理主義者である榎本と、最後まで武士道を貫こうとする土方の対比が描かれており、二人の信念の違いが鮮明になります。榎本は現実的な判断を下しながらも、土方の「戦い続けることに意味がある」という考えを否定しません。そして、土方が函館戦争で戦死した後、榎本は最終的に降伏を決断しますが、その決断に至るまでの葛藤が丁寧に描かれています。
この作品では、「負けると分かっていても戦う意味とは何か」というテーマが貫かれており、榎本と土方、それぞれの信念の違いが物語の深みを増しています。歴史的な事実に基づきながらも、キャラクターの心理描写が非常にリアルであり、榎本武揚の人間的な魅力を知る上で欠かせない作品です。
『ゴールデンカムイ』での榎本の存在感
榎本武揚は、人気漫画『ゴールデンカムイ』にも登場します。この作品は、明治末期の北海道を舞台に、アイヌ文化や戦争帰還兵の物語を絡めた壮大な歴史漫画ですが、その中で榎本は「過去の偉人」として言及されることが多いです。
『ゴールデンカムイ』では、戊辰戦争の名残や旧幕府軍の生き残りたちが重要な役割を果たしており、榎本は彼らの「象徴」として語られる場面があります。特に、「蝦夷共和国を築こうとした男」としての存在感が強調されており、北海道の開拓史と結びつけられています。
この作品では、榎本が直接登場するわけではないものの、彼の遺志を継ぐ者たちがどのように北海道で生きているのかが重要なテーマの一つとなっています。明治政府の中枢に入りながらも北海道の開発に尽力した榎本の功績は、この作品の背景にも深く影響を与えており、彼の存在が作品のリアリティを支えています。
また、榎本のかつての盟友である土方歳三が作中に登場し、彼の生存説をもとに物語が展開されるため、旧幕府軍と北海道のつながりが強く意識されます。このように、『ゴールデンカムイ』は、幕末から明治にかけての歴史を知る上で非常に興味深い作品であり、榎本武揚の影響力を現代のエンターテインメントにまで広げています。
まとめ
榎本武揚は、幕末から明治にかけて、日本の近代化に大きく貢献した人物でした。幕臣として海軍の発展に尽力し、戊辰戦争では開陽丸を率いて戦いましたが、五稜郭の戦いで降伏。しかし、その後明治政府に登用され、外交・軍事・教育・殖民政策と幅広い分野で活躍しました。
彼の最大の特徴は、時代の変化に柔軟に適応し、常に未来を見据えた行動を取ったことです。樺太・千島交換条約の締結や北海道開拓、海軍整備など、日本の発展を支える多くの事業に関与しました。
榎本の生涯は、日本が封建制度から近代国家へと移行する過程そのものでもあります。敗北を経験しながらも国家のために尽力した姿は、現代に生きる私たちにも多くの示唆を与えてくれます。彼の歩んだ道を知ることで、日本の近代化の歴史をより深く理解できるでしょう。
コメント