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榎本武揚の生涯:幕府の忠臣から明治の外交官へ

こんにちは!今回は、幕末・明治期に活躍した武士であり外交官、榎本武揚(えのもとたけあき)についてです。

幕臣として出発しながら、オランダ留学で最先端の国際法や海軍技術を学び、戊辰戦争では蝦夷共和国の総裁として最後まで戦い抜きました。敗者から一転、明治政府で外務大臣や文部大臣を歴任し、日本の近代化と国際化を推し進めた“万能人”榎本。

その波乱万丈で多彩な生涯をひも解いていきましょう。

目次

少年・榎本武揚の原点を形づくった家族と教育

武士の家に生まれた榎本の幼年期

榎本武揚は1836年、江戸・下谷御徒町に生まれました。榎本家は徳川幕府に仕える御家人であり、家格としては中堅ながらも、知的関心に満ちた家風がありました。彼の生まれた町は、町人と武士が混在する活気ある地域で、刺激に満ちた環境が幼い武揚の感性を育てました。

生来おとなしく、観察力に優れた子どもだった武揚は、書物に親しみながら日々を過ごします。彼が最初に興味を示したのは、地図や星の動きといった、日常を超えた世界を描く知識でした。それは当時の武士階級にとってはやや異質ともいえる知的関心でしたが、家族はその好奇心を否定せず、静かに見守ったとされます。

時代は幕末に差しかかりつつあり、閉ざされた江戸の空気にも徐々に外の世界の風が入りはじめていました。榎本の目には、その新しい風景がどう映っていたのでしょうか。決して語りすぎない沈黙のなかに、彼は確かに世界への扉を見出しつつあったのです。

父・榎本釜次郎が授けた学問の精神

榎本武揚の人格と学問への姿勢を語るうえで欠かせないのが、父・釜次郎の存在です。釜次郎は儒学や和算にも通じた教養人であり、幼い息子に「型にはまることなく、道理を知れ」と教えました。その教えは、ただの知識偏重ではなく、物事の本質を見極める力を養うものでした。

武揚が学び始めたのは、論語や四書五経といった儒学の基本書ですが、釜次郎はそれをただ暗記することは良しとせず、「なぜこのように考えるのか」と息子に問いかけ続けたと伝えられます。その姿勢は、のちの武揚の「言葉より行動、理屈より実証」を重んじる思考に通じています。

また、父は自身が江戸で学問に励みながらも地方出身であったことを自覚しており、息子に対しても出自にとらわれず、見識を広げよと促しました。それは、江戸という知の中心地にあっても視野を狭めぬよう諭す、実に先進的な教育観でした。父の静かな導きが、武揚に「思考の自由」と「探究の自立」を植え付けていたのです。

昌平坂学問所で培った教養と人脈

榎本武揚が通った昌平坂学問所は、幕府直轄の最高学府として多くの秀才を集める場でした。ここで彼は、朱子学を中心とした儒学を学びつつも、その枠を超えた関心を示していたといわれます。特に、歴史と地理への造詣を深めていったことは、後年の外交官としての視野にも大きく影響を与えました。

昌平坂での学びの本質は、知識の集積だけでなく、対話と論争のなかで思考を磨くことにありました。榎本はここで同世代の俊才たちと切磋琢磨し、自らの考えを言葉にし、他者の意見を聞くことの重要性を体得していきます。そのような訓練の場であったからこそ、彼はのちに理詰めの交渉にも強く、他国の要人にも信頼される外交的資質を育てることができたのです。

また、この学問所で出会った仲間や師たちは、彼の後の人生でも重要な存在となります。中には、後年の政府で同じ方向を目指す同志となる者もおり、榎本の生涯にわたるネットワークの基盤がここで築かれました。知の集積と人の縁、その両輪が彼の若き日を豊かにしたのです。

榎本武揚、近代海軍への道を歩み始める

長崎海軍伝習所で出会った西洋技術

昌平坂学問所で培った論理性と広い視野をもとに、榎本武揚は幕府が設立した長崎海軍伝習所へと進みます。これは、オランダ人教官を招聘し、西洋式の軍事技術や航海術を本格的に学ばせるための教育機関でした。当時の日本では異例の取り組みであり、幕府が本気で「海」の力を国家戦略に取り込もうとしていたことを示しています。

武揚はここで、初めて蒸気船の構造や羅針盤による航路設定など、書物でしか知らなかった技術と直接向き合うことになります。西洋の技術体系は、それまでの日本の兵法や水軍とはまったく異なるものでしたが、彼は驚くほど自然にそれを受け入れていきました。その背景には、父から学んだ「本質を見抜く思考力」と「枠にとらわれぬ姿勢」が生きていたのかもしれません。

技術は単なる「道具」ではなく、思想や制度の表れであるという洞察が、彼の中にはすでに芽生えていたように思われます。この地で彼は、技術と政治、思想と実務が密接に結びついている世界のありようを、体で理解し始めていたのです。

洋式軍艦の構造と航海術への傾倒

長崎での訓練を経た榎本武揚は、次第に洋式軍艦の構造と航海術そのものへの深い興味を抱くようになります。彼にとって軍艦は、単なる兵器ではなく、国家を運ぶ「知の結晶」であり、その船をいかに操り、どう用いるかが、まさに国家の命運を左右すると直感していました。

特に、蒸気機関による動力航行や、天文観測による航路計算など、当時の日本には存在しなかった科学的航海術に心を奪われていきます。榎本は、単に教科書通りに学ぶのではなく、自ら実地に機関部を観察し、設計図と照らし合わせながら機構の原理を理解しようと努めました。その姿勢は教官のオランダ人たちにも一目置かれ、「技術者としても将来有望」と評されるほどでした。

軍艦という複合的なシステムに、人と思想と未来が宿ることを見抜いていたからこそ、彼はその本質に肉薄しようとしたのでしょう。のちに彼が率いる艦隊が、日本の近代海軍の基礎となっていくのは、決して偶然ではありませんでした。

江川英龍や勝海舟との師弟関係

榎本武揚の若き日の成長には、偉大な師との出会いが欠かせません。まず注目すべきは、軍事と科学を融合させた先駆者・江川英龍です。江川は台場の設計者として知られる一方、西洋砲術や科学教育にも精通しており、榎本にとって「理論を現実に活かす力」を教えてくれた人物でした。江川からは、道具としての軍事ではなく、社会構造と結びついた総合的な安全保障という発想を学びます。

さらに、もう一人の重要な人物が勝海舟です。勝は海軍伝習所の後進育成にも深く関わり、実学と国際視野を説いた存在として、榎本に絶大な影響を与えました。特に勝の持つ柔軟な外交感覚や、時代の変化を読み取る鋭さは、若き榎本にとって知識以上に「どう生きるか」の手本となったのです。

この二人に共通するのは、知識を持つだけでなく、それを使って「時代と渡り合う術」を教えた点にあります。彼らの薫陶を受けた榎本は、単なる兵学者でも、忠義の武士でも終わらない「新しい型」の人物へと進化しようとしていたのです。

榎本武揚、オランダで学んだ世界と知の広がり

ライデン大学を拠点に広がった学びの世界

1862年、榎本武揚は幕府の命によってオランダへと留学し、ライデン大学を拠点に学問探求の日々を送りました。正式な学籍を得ていたわけではありませんが、同大学をはじめ複数の教育・研究機関で講義を聴講し、研究生として実習に参加する機会を得ました。航海術と海軍工学を主軸としながらも、その学習分野は自然科学や法学、語学など広範囲に及びます。

当初、講義は主にオランダ語で行われており、榎本は現地で語学習得に多大な努力を重ねました。数か月という短期間での習得というより、日々の鍛錬の積み重ねによって、専門的な内容を理解できる水準にまで到達したと見られています。彼はまた、図書館での文献調査や科学実験への参加にも熱心で、机上の学問を現実にどう活かすかという姿勢を終始崩しませんでした。

こうした知的取り組みは、単なる学習を超えて、榎本自身の世界認識を大きく広げる契機となりました。異国での生活、異文化との出会い、それらすべてが彼の視野を形づくっていったのです。

国際法と自然科学に見出した国家の未来

榎本がオランダ滞在中に深く傾倒した学問の一つが国際法でした。彼は欧州諸国の条約や判例を丹念に読み解き、国家間の関係がいかに法的枠組みで規定されているかを理解していきます。これらの知識は、後年の外交官としての活動の土台となり、国際交渉の場でも冷静かつ論理的に立ち回る力となって表れていきます。

同時に、自然科学への関心も強く、特に気象学や海流の研究には熱意をもって取り組みました。海を制するためには、単なる航海術だけでは足りず、自然現象そのものを把握しなければならない——この実践的な感覚は、科学と軍事を結びつける思考として彼の中に根付いていきます。

注目すべきは、榎本がこれらの知識を単なる輸入品としてではなく、「日本の現実にどう応用するか」という視点で常に考えていた点です。西洋の学問を日本に適用可能なかたちに咀嚼しようとする姿勢こそが、彼の学びを他と一線を画すものにしていたのです。

欧州で養われた多国間的視野と外交感覚

オランダ滞在中、榎本は学問だけでなく、多様な国籍・立場の人々と積極的に交流を図りました。現地の学者だけでなく、イギリスやプロイセンの海軍関係者、オランダ官僚、各国の商人や外交官との会話を通じて、彼は国際社会の現実を肌で感じ取っていきます。

これらの交流では、軍事思想、貿易制度、植民地行政といった幅広いテーマが議論され、榎本はそれらを傍観するのではなく、時に自らの意見を述べながら知見を深めていきました。単に日本の立場から世界を見るのではなく、「相手の論理や状況に立って考える」視点が、この時期に大きく養われたのです。

このような経験の積み重ねが、帰国後の榎本をして、国際舞台で物怖じせず交渉をリードできる存在へと変えていきました。彼が築いた外交感覚は、まさにこの異国の土壌に根ざしていたといえるでしょう。

動乱の幕末を駆け抜けた榎本武揚の戦い

幕府海軍での台頭と戦略的役割

帰国後の榎本武揚は、その卓越した知識と語学力、そして西洋技術への深い理解から、幕府海軍の中で急速に頭角を現します。彼は開成所教授、軍艦奉行並を経て軍艦頭に就任し、実質的に幕府海軍の中核的存在として重責を担うようになりました。

特に注目すべきは、軍艦運用において技術者と戦略家の両面を併せ持っていた点です。海軍の近代化はまだ途上であり、蒸気船の運用、兵器の整備、艦隊運用にいたるまで、すべてが試行錯誤の連続でした。榎本はそれらを単なる輸入品ではなく、日本の地理・気候・戦略的条件に合わせて調整し、実践に移していくという冷静な視点を持っていました。

また、幕府の艦隊を率いて諸藩への示威航行や外交的な任務をこなす中で、彼の判断力と指揮能力は高く評価されるようになります。その背景には、オランダで学んだ「海軍とは単なる武力ではなく、国家の意志を体現する装置である」という哲学があったといえるでしょう。

鳥羽・伏見の戦いでの決断と撤退

1868年、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、幕府海軍は新政府軍に対する支援を求められます。榎本は開陽丸を含む艦隊を率いて出動しますが、実際には海戦らしい交戦には至らず、軍艦の運用も制限されたまま時間が過ぎていきました。

この戦いは陸戦で幕府軍が敗北し、将軍徳川慶喜が大阪城を離れて江戸へ退却するという混乱のなかで終結します。榎本にとって、この局面での決断は極めて困難なものでした。すでに幕府の命令系統は瓦解しつつあり、誰の指示を仰ぐべきかも曖昧な状況だったからです。

それでも彼は開陽丸をはじめとする艦隊の管理を厳格に行い、混乱に乗じた脱走や略奪を一切許しませんでした。これは、軍人としての責任感というだけでなく、「秩序ある撤退こそが、未来につながる」という信念があったためと推察されます。

この冷静な対応こそが、のちに彼が旧幕臣のリーダーとして信頼される下地となっていきます。

崩壊する幕府と旧幕臣の運命

鳥羽・伏見の敗戦により、江戸幕府は急速に解体の道を歩み始めます。しかし、その終わりは一様ではなく、多くの旧幕臣たちは、進むべき道をそれぞれの信条と環境のなかで模索していました。榎本もその一人でしたが、彼は「武力による巻き返し」ではなく、「理想を伴う新秩序の構築」に希望を託した数少ない人物のひとりでした。

彼は徳川慶喜の謹慎が決定した後も、なお幕府海軍の艦隊を保持しており、これを拠点に旧幕臣らの合流を促します。大鳥圭介、土方歳三らと連携し、北海道(蝦夷地)への移動を決意するに至ったのは、単なる逃避ではなく、ある種の「再起の構想」が背景にあったと見るべきでしょう。

榎本のこの行動は、終焉のなかにある始まりを模索するものであり、「旧体制の延命」ではなく、「新たな秩序の原型」を求める旅路だったとも言えます。崩壊する幕府のなかで、彼が見据えていたのは、すでに未来の地平だったのかもしれません。

榎本武揚、蝦夷地に夢見た新しい国家

開陽丸での航海と北への進軍

1868年秋、榎本武揚は開陽丸を旗艦とする艦隊を率いて、江戸を出港し蝦夷地を目指します。このとき艦隊には、旧幕臣のほか、大鳥圭介、土方歳三ら志を同じくする将兵が集い、一種の共同体が形成されていました。その構成は単なる敗残兵の集合ではなく、「自分たちの手で秩序をつくる」という明確な意志をもった者たちの群れでした。

この航海は軍事的撤退であると同時に、構想された新国家への「建設的な移動」でもありました。榎本は軍艦の航路を自ら設計・調整し、補給や寄港地の選定にも細心の注意を払いました。航海中に遭遇した嵐やトラブルにも冷静に対応し、艦隊の統率を失わなかったその手腕は、まさに「知と行動の融合」といえるものです。

開陽丸は函館に到着した後、座礁してしまいますが、榎本はその損失を冷静に受け入れ、速やかに新たな体制の構築に移行します。軍事的損耗を糧とし、なお前を向く姿勢は、彼の指導者としての資質を象徴する一幕でした。

函館に築いた蝦夷共和国の政治構想

蝦夷地に到着した榎本は、旧幕臣たちの力を結集し、日本で初めて「共和国」と呼ばれる政治体制を打ち出します。これは欧米の政治制度に学んだ経験を背景にしたもので、彼のなかでは単なる防衛拠点の建設ではなく、新たな統治モデルの実験という側面を持っていました。

この政体では、榎本自身が「総裁」に選出され、選挙による役職任命や行政機構の整備が進められました。また、外国人との関係構築も意識され、在函館のフランス人技師ブリュネらとの連携も模索されます。こうした政治構想には、武力に依存しない統治を目指す意思と、国際社会との接点を持ち続けるという戦略的視点が内在していました。

彼が設計した「共和国」は、必ずしも現代的な民主制と一致するわけではありませんが、当時の日本において「選ばれた指導者が、法と制度のもとに統治を行う」という思想そのものが、すでに画期的だったのです。

五稜郭の戦いと潔い降伏

しかし、理想を掲げたこの共和国も、新政府軍の圧倒的な軍事力の前に長くは持ちこたえられませんでした。1869年5月、五稜郭を中心とした激戦が展開されるなか、榎本は最後まで冷静な指揮を続け、無用な流血を避けるために降伏を決断します。

この決断に至る過程では、土方歳三らが前線で命を賭して抗戦を続けており、武力による反抗の限界が明白になるなかで、榎本は「人命を重んじ、未来につながる道を選ぶ」判断を下しました。この行動は、単なる敗北の受容ではなく、次の時代への意志ある幕引きだったともいえます。

榎本は降伏後、軍艦と兵を整然と引き渡し、混乱や略奪を一切許さない態度を貫きました。その姿は新政府側の将官にも敬意をもって受け止められ、彼の名は「敗者でありながら尊敬される存在」として記憶されていくことになります。

この戦いの終結は、ひとつの理想の崩壊を意味しましたが、同時に、その理想を追い求めた記憶が、のちの時代への貴重な問いかけとなっていくのです。

獄中から国家建設へ、榎本武揚の転機

敗者の道を歩んだ収監と内省の日々

1869年5月、五稜郭での降伏後、榎本武揚は新政府により東京へ護送され、同年6月から1872年3月まで、約2年半にわたって収監されました。これは軍事的敗者に対する当然の処遇であると同時に、「理想を掲げた指導者が現実の壁に直面する」という象徴的な時期でもありました。

獄中の榎本は、静かな日々のなかで思索を深め、学問や社会制度に関する意見書をまとめるなど、知的活動を続けていました。五稜郭で試みた政治実験がなぜ実現困難だったのか、その背景と構造を掘り下げ、自責の念とともに、新たな社会への応用可能性を探っていたとされます。

また、面会に訪れた旧知の人々との交流のなかで、「自らの経験が国家にとって有益であれば、進んでそれを提供したい」との意志を表明していたと伝えられています。榎本にとってこの期間は、過去を清算する場であると同時に、自身の思想と立場を再構築する「静かな転換点」となったのです。

明治政府への抜擢と赦免の背景

1872年、榎本武揚は明治政府より赦免され、その直後に文部省へ出仕します。この赦免には、単なる寛容政策以上の、実務的かつ政治的な意味合いが込められていました。近代国家建設を急ぐ新政府にとって、西洋の制度や言語に通じ、国際交渉に耐えうる知見をもつ人物は貴重な存在であり、榎本のような旧幕臣の再登用は、必要に迫られた選択でもありました。

この人事の背後には、福沢諭吉や大隈重信らが榎本の知性と見識を評価していたという説も存在します。彼らの思想的立場からすれば、能力を持つ者を過去の立場だけで排除することは、合理的ではなかったと考えられます。支援と期待が重なったことで、榎本は文部省という国家中枢に再び立つことになります。

これは「敗者の再登場」であると同時に、「過去の敵が未来の建設者として迎えられる」という、極めて特異な歴史的局面でした。その裏には、榎本自身の努力と信念に加え、「必要とされる力」としての不可避性があったのです。

政界入り後の初期の苦労と信念

赦免後の榎本武揚が明治政府の一員として歩み始めた際、その道は決して平坦ではありませんでした。旧幕臣という出自はなお政府内での警戒の対象となっており、とくに薩長藩閥を中心とした政治構造のなかでは、発言や行動が注意深く見張られていました。

それでも榎本は、語学力と理系的素養を武器に、科学技術や教育制度、翻訳事業などの整備に着実に貢献していきます。彼の意見は論理的かつ実務的であり、次第にその存在は「旧幕臣」という枠を超えて評価されるようになります。

榎本は自らの行動を通して、「敗者もまた未来をつくり得る」という立場を実証しようとしました。それは過去の肯定ではなく、過去に学び、それを未来の制度や政策に結びつけるという意志でした。彼の姿勢には、「未来を構築することでこそ、過去に意味を与えることができる」という一貫した信念が感じられます。

榎本武揚が築いた近代外交と北海道の未来

樺太・千島交換条約における交渉の舞台裏

1875年、榎本武揚は特命全権公使としてロシアとの国境交渉に臨み、「樺太・千島交換条約」の締結を導きました。これは、日本が樺太(サハリン)に対するすべての権利を放棄し、その代償として千島列島のうち得撫島以北18島を日本領とすることを定めた条約でした。地理的な利害と国際的なバランスが複雑に絡み合うこの交渉で、榎本は明治政府を代表し、外交的成果を引き出す重責を担います。

榎本はロシア語と国際法に通じ、条文解釈や地政的な分析を含めて交渉に深く関与しました。彼は単なる通訳的役割ではなく、戦略的判断に基づき、将来の経済的利点や安全保障上の利得を政府に提示したとされています。その姿勢は「戦わずして成果を得る外交」として、当時も一定の評価を受けました。

一方で、この条約には日本語訳とフランス語正文の間に齟齬が存在し、のちの北方領土問題に影響を与える原因の一つともなりました。また、この領土交換に際して、現地アイヌ民族の意向が反映されることはなく、移住や国籍選択を強いられる結果となった点も、現代の視点からは重要な論点とされています。

黒田清隆とともに推進した北海道開拓

榎本は外交分野だけでなく、北海道開拓にも深く関わりました。開拓使の行政において、黒田清隆と協力しながら制度設計や技術導入、人的配置に取り組み、近代的な地域開発の基盤形成に尽力しました。とくに欧米の農業・測量技術の導入、研修制度の整備は、長期的な視野に立った政策として位置づけられます。

この過程で、屯田兵制度の運用支援や、計画的な移住政策の調整、さらには外国人技師の招聘といった施策にも関与しました。榎本は単にインフラを整備するだけでなく、「人の意識を変えること」を重視し、それを国家の基盤強化と見なしていた節があります。

また、黒田清隆とは旧幕臣・維新政府双方の垣根を越えた建設的な関係を築き、理念と実務の両面で協調しながら北海道の近代化を推進しました。この協力体制は、時代の要請に応じた「制度による開発」の象徴とも言えるでしょう。

教育・インフラ事業を通じた近代化への貢献

榎本の行政手腕は、インフラ整備と教育改革という両輪によって支えられていました。北海道では鉄道建設、小樽港や函館港の改修、石炭輸送ルートの確立、さらには幌内炭鉱の開発など、地域の物流と産業基盤の整備に積極的に関与しました。こうした取り組みは、北海道の経済的自立と国防上の要衝化を視野に入れたものだったと考えられます。

教育面では、語学教育や技術教育の導入を推進し、教師の育成や教材の翻訳にも関わりました。これは欧州留学時代の経験を踏まえ、「制度の模倣ではなく、国情に即した応用」を目指す姿勢に裏打ちされたものでした。

また、アイヌ民族への関心についても、文化保存や現地慣習への配慮を試みた形跡があります。ただし、同時期の明治政府は同化政策を推進しており、榎本の施策も全体としては開発優先の枠組みの中にあったと評価されています。彼の行動が当時としては相対的に配慮的であった可能性はありますが、結果として多くのアイヌが領土政策の変化に翻弄されたことは否定できません。

晩年の榎本武揚、その静かな情熱と遺産

華族としての生活と趣味の広がり

明治政府の中枢で要職を歴任した榎本武揚は、晩年には子爵に列せられ、華族としての地位を得ました。これはかつての「賊軍」の中心人物であった彼が、いかにして「新たな国家の構成員」として受け入れられたかを象徴する出来事でもあります。

その一方で、彼の私生活は決して派手ではなく、静かな時間のなかに趣味と知的関心を宿したものでした。特に書画や蘭学書の蒐集、さらには西洋の植物や天文に関する研究などに没頭していたとされます。晩年には自らの書を友人たちに贈ることも多く、その筆跡には簡素ながら芯の通った風格がありました。

また、旧知の同志やかつての部下たちと交流を続け、時には若手の官吏や学者に知見を伝えるなど、自身の経験を他者へ分け与える姿勢を崩しませんでした。地位や名誉に安住せず、知と対話のなかに自身を置き続けたその姿には、かつて蝦夷地で理想を追い求めた青年の面影が微かに残っていたのかもしれません。

後世に残した団体設立と教育機関の功績

榎本が晩年に注力した活動の一つに、さまざまな団体・機関の設立支援があります。なかでも代表的なのが、農商務省や帝国水産会、東京農林学校(現・東京農業大学)など、産業と教育の融合を目指した機関への関与です。彼はこれらを「知と実践の接点」と捉え、日本の近代的自立に必要な基盤づくりを支援しました。

特に水産業の振興には強い関心を持ち、海洋国家としての日本にとって、資源と技術の融合が重要であると主張しました。そのための調査船派遣や漁業教育の普及に関与し、科学と生活を結びつける構想を推進していきます。

また、教育機関の整備にも力を注ぎ、師範学校や専門学校の設立に際しては、カリキュラムの編成や教材の選定にも意見を述べたとされています。これは単なる名義的関与ではなく、現場の育成にまで目を配る姿勢の現れでした。晩年の榎本は、自らが歩んだ知と実務の道を、次世代に「場」として残そうとしていたのです。

多面的な評価と今に生きる影響

榎本武揚の人生は、今なお一様に語られることのない、多面的な評価を伴っています。彼の行動は時に賛否を生み、とくに蝦夷共和国の指導者としての役割や、樺太・千島交換条約での判断については、時代を超えて議論の対象となり続けています。

それでも、彼が一貫して「未来に役立つ知識と行動」を指針としたことには、大きな揺らぎがありませんでした。外交、教育、科学、地方行政――それぞれの分野において、彼は制度の整備者であると同時に、「動かす人材」の必要性を見抜き、それを支える形で尽力したのです。

今日の日本においても、彼の名を冠した学校や団体、顕彰碑が各地に存在し、その業績と精神が静かに語り継がれています。華々しさとは対極にある、沈着で構造的な貢献。その姿勢こそが、榎本武揚という人物の「遺産」として、今も生き続けているのです。

文学と研究に映し出される榎本武揚の真の姿

『武揚伝』に描かれる榎本の信念と葛藤

佐々木譲による歴史小説『武揚伝』は、榎本武揚の生涯を題材としながら、彼の内面に宿る葛藤と信念に鋭く迫った作品です。本作では、榎本の合理主義と情熱のせめぎ合い、そして武士としての忠誠心と現実政治との間で揺れる姿が克明に描かれています。

特に印象的なのは、蝦夷共和国をめぐる記述です。小説ではこの構想を「逃避ではなく、希望の建設」として描き、理想を追いながらも現実とぶつかる苦悩を軸に据えています。佐々木譲は、榎本を「日本の近代に抗いながらも加担した男」として位置づけ、彼の選択に込められた複雑な感情の機微を丁寧に織り込みます。

この作品を通じて浮かび上がるのは、英雄ではなく「迷いながらも選び続けた個人」としての榎本の姿です。史実をなぞるだけでは見えてこない、その「人間の体温」こそが、この作品の核心となっています。

『駐露全権公使 榎本武揚』が照らす外交官としての顔

ヴャチェスラフ・カリキンスキイによる『駐露全権公使 榎本武揚』は、榎本のロシアとの関係性に焦点を当てた研究的著作です。日本人ではなくロシア人の視点から描かれるこの書は、榎本の外交官としての資質を客観的に検証し、特に樺太・千島交換条約における役割を冷静に評価しています。

本書の特徴は、榎本を「文化的媒介者」として位置づけている点にあります。単なる交渉の技術者ではなく、日露間の文化・制度のギャップを埋める存在として、彼の語学力、論理的思考、柔軟な感性が強調されています。

また、交渉の裏にある信頼関係の構築や、欧州的外交マナーの吸収と応用にまで言及されており、榎本の「見えにくい努力」が浮き彫りになります。このように、彼の仕事を国際社会の構造の中で再定位しようとする視点は、内向きな英雄像とは異なる広がりを持っています。

『近代日本の万能人・榎本武揚』で探る多才な人物像

榎本隆充と高成田亨による編著『近代日本の万能人・榎本武揚 1836-1908』は、複数の専門家による寄稿で構成された評伝的研究書であり、政治、外交、科学、教育など多分野にわたる榎本の活動を網羅的に取り上げています。

本書の中心的な視点は、榎本を「万能人」として位置づける点にあります。単に多才であったというだけでなく、それぞれの領域において成果を挙げ、制度として結実させた「構想力と持続力」が評価されています。特に、水産・農政・教育の分野では、理念と実務の融合を体現した存在としての榎本が浮かび上がります。

興味深いのは、同書が「過渡期の日本における選択と断念の記録」として彼の人生を読もうとしている点です。すなわち、常に時代の境界で問い続けられた人物としての榎本の姿が、鮮やかに描き出されています。

『榎本武揚から世界史が見える』で読み解く世界との接点

臼井隆一郎の『榎本武揚から世界史が見える』は、従来の伝記的アプローチとは異なり、榎本を媒介として世界史のダイナミズムを読み解こうとする意欲的な試みです。榎本が関わった出来事を「世界の動きと日本の交点」として扱い、彼の活動を通じて近代日本がいかにしてグローバルな座標に組み込まれていったかを論じています。

この書では、オランダ留学、ロシア交渉、教育制度設計など、榎本の行動が常に「他者との接触点」として描かれます。とりわけ、アイヌ政策や北方外交を扱う章では、「日本の近代化とは何を切り捨て、何を守ろうとしたか」という問いを榎本の選択を通して提示しており、鋭い問題提起となっています。

この視点は、彼を「国内の改革者」だけでなく、「近代というグローバル構造のなかで揺れる存在」として描くものであり、読者に新しい視野を開かせます。伝統と未来、西洋と日本、個人と国家――その交点に立ち続けた榎本の姿が、ここでは世界史の文脈の中で再定義されているのです。

交差点に立ち続けた知の旅人・榎本武揚

榎本武揚は、幕末の動乱から明治国家の建設期に至るまで、一貫して「知」と「行動」の接点に立ち続けた人物でした。武士の子として論理と実践を学び、オランダで世界と接し、蝦夷共和国では理想を掲げ、敗北からの再起を遂げて国家の制度を築く――その道のりは、常に変化を内在しながらも、未来を見据えた意志に貫かれていました。外交、教育、科学、地方開発と多岐にわたる貢献の裏には、「必要とされること」に応じて自らを変化させる柔軟性と、「人が動いてこそ国家は成る」という信念がありました。彼の姿は、英雄でも敗者でもなく、時代と向き合い続けた知的実務者の体現そのものです。今日、再び変化の時代にある私たちにとって、榎本武揚の生き方は、過去にとどまらぬ問いを投げかけています。

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