こんにちは!今回は、江戸時代後期の幕臣であり伊豆韮山代官、江川太郎左衛門英龍(えがわたろうざえもんひでたつ)についてです。
日本初のパンを焼き、西洋の大砲を学び、反射炉を築き、台場を設計し、ワクチン(種痘)を広め、農兵制度で軍制改革まで――この人物、まるで「幕末の万能プロデューサー」。
開国前夜の日本で「未来を見据えて動ける男」として、誰よりも早く近代化を実行に移した江川英龍。その破格の行動力と知性、そして多くの志士たちに与えた影響を紹介します。
江川太郎左衛門英龍の原点をたどる
武士の系譜に宿る江川家の矜持
江川太郎左衛門英龍は、享和元年5月13日(1801年6月23日)、伊豆国田方郡韮山村(現在の静岡県伊豆の国市)に生まれました。彼の家系である江川家は、平安末期から伊豆に土着し、地頭職を担った清和源氏の流れを汲む武家でした。その歴史は、源頼朝の挙兵以前にまで遡るとされ、鎌倉時代以降は地域の統治に関わる役割を継続的に果たしてきました。江戸幕府の成立後、江川家は幕府直轄地を治める代官職を任され、伊豆・相模・駿河・武蔵・甲斐にまで及ぶ広範な支配地を預かるようになります。
代々の当主は「太郎左衛門」を名乗り、英龍は36代当主としてその名を継ぎました。これは単なる形式ではなく、「土地と人々を支える重み」として受け継がれるものでした。江川家の統治姿勢は、上からの押し付けではなく、現場に即した合議と調整を重視するものであり、その実践は代々の家風として息づいていました。英龍は、この土台の上に立ちながらも、旧来の慣習に安住することなく、「いかにこの名を未来に生かすか」という問いを早くから抱き続けていたのです。
韮山の風土と育まれた地域観
英龍の幼少期を彩った韮山の風景は、狩野川が流れる田方平野の穏やかな地形の中に広がっていました。肥沃な土地では稲作が盛んに行われ、農民たちの営みが四季折々の自然とともに息づいていました。代官所はこの地域社会の中心として、農政・司法・治安維持・災害対応など多様な役割を担っており、人々の暮らしと密接に関わる存在でした。英龍は代官所に出入りする役人や村人たちのやり取りを間近に見ながら、政治とは何か、人を動かすとはどういうことか、日々の中で学んでいきました。
父・英毅に連れられ、実際に田畑を歩いた記録も残っています。耕す農民たちの姿、天候に一喜一憂する声、収穫を祈る祭りの風──それらすべてが、英龍の内に「土地と共に生きる」という価値観を深く刻みました。幕末には、韮山は西洋船の出没に備える海防拠点としての重要性も帯び始めますが、英龍にとってこの土地は、単なる防衛戦略の拠点ではなく、「生きるための土壌」として常に根本にあったのです。
家庭に息づく教えと志の萌芽
英龍の父・英毅(35代当主)は、「慎みと誠実」を信条とする名代官でした。地域の祭りにはあえて質素な装いで姿を現し、民と同じ目線で語り合う姿勢を貫きました。英龍はこの父から、支配者としての振る舞いではなく、「共に在る者としての心構え」を学びました。「上に立つ者は、最も小さな声にこそ耳を澄ませよ」といった教えは、英龍の生涯を通じた統治哲学の出発点とも言えるでしょう。
母・久子についての詳細な記録は限られていますが、教育熱心な人物として伝えられており、幼少期の英龍に「忍」の文字を繰り返し説いた逸話も残ります。四書五経や歴史書が並ぶ書棚とともにあった生活は、やがて英龍の好学心を育み、のちの蘭学や西洋兵学、さらには化学・天文学への関心へとつながっていきます。武士の家に生まれ、代官の家を継ぐ宿命を背負いながらも、彼は一つの型に収まらぬ感性と知的探究を、すでに家庭の中で芽生えさせていたのです。
少年期の江川太郎左衛門英龍が学び鍛えたもの
書物との出会いと、蘭学という新世界
韮山の地で育まれた教養の芽は、やがて知識への尽きぬ欲求へと育っていきます。英龍は幼少期から四書五経や『十八史略』などの漢籍に親しみ、文筆や書道にも励みました。彼の記録には、自ら好んで読書の時間を確保し、意味を理解するまで繰り返し書き写した姿が残されています。その学びの姿勢は、知識を“蓄える”ためのものではなく、“問いを立てる”ためのものでもありました。なぜこの制度があるのか、どうして人は争うのか、彼の関心は早くから抽象的な次元に達していたと考えられます。
転機は、蘭学との出会いでした。江戸時代後期、蘭学は医術・化学・物理といった分野で急速に広まりを見せており、英龍は若干十代にしてその翻訳書に触れます。父の所蔵する『解体新書』や『ハルマ和解』などを通じて、未知の論理体系や合理的思考のあり方を知るようになりました。彼はそこに、儒学では説明しきれない世界の仕組みを見出し、政治や国防に応用可能な“実学”の可能性を直感していたのでしょう。やがてそれは、幕末という時代を先取りする視野へと結びついていきます。
斎藤弥九郎との出会いと剣に学ぶ精神
英龍にとっての「もう一つの学び」は、身体を通じて得られるものでした。十代後半、彼は江戸へ出て、剣豪・斎藤弥九郎の門に入り、練兵館で剣術を学びます。斎藤はのちに幕末の英才たちを育てた名師であり、ただ剣を教えるだけでなく、「心を鍛える」ことを重んじた人物です。英龍はそこで、礼節・集中・判断といった武士にとって不可欠な要素を、体得的に吸収していきました。
なぜ英龍は剣を学んだのか──それは単なる武芸の修得ではなく、「己を律する術」としての選択でした。代官の家に生まれた者として、どれだけ知識を持とうとも、人の上に立つには強さと冷静さが問われる。斎藤との出会いは、英龍にとって知識とは異なる次元での「精神の器」を鍛える時間だったといえるでしょう。ここで培われた精神性は、後年の英龍が、内外からの非難に晒されながらも揺るがなかった理由の一つに数えられます。
江戸遊学で広げた視野と出会いの財産
青年期の英龍は、江戸での学問修行を通じて視野を一気に広げていきます。文政期、彼は江戸に滞在し、蘭学塾や漢学塾、さらに砲術家の門にも出入りして知識を深めました。その過程で出会ったのが、佐久間象山や高野長英といった、のちの幕末日本を牽引する俊才たちです。彼らとの交流は、単なる友誼にとどまらず、国防・技術・統治をめぐる討議の中で、互いの思想を磨き合う貴重な場となっていきました。
とりわけ象山とは、学問と武術の両立という点で深く共鳴していたとされます。江川家の身分と責任を背負う英龍にとって、江戸の学問界で得られたのは「新たな世界への入り口」だけではなく、時代と向き合う仲間の存在でした。ここで得た知的ネットワークは、後年、江川塾の設立や反射炉建設といった事業において、理論と人材を支える土台となります。英龍の学びは、けっして個人の好奇心にとどまらず、社会実装へと結びつく性質を早くから帯びていたのです。
若き江川太郎左衛門英龍、家督相続と代官見習い
重責を担った若き日の苦悩と決意
江川太郎左衛門英龍が江川家の家督を継いだのは1835年(天保6年)、35歳の時でした。父・英毅が病没し、36代目当主として伊豆・相模・駿河・武蔵・甲斐といった広範囲にわたる幕府直轄地の代官職を正式に引き継ぐことになります。時代はまさに天保の飢饉(1833〜1839年)の最中。農村は荒廃し、餓死者や流民が増加する中での就任でした。
すでに文政7年(1824年)から代官見習いとして実務経験を積んでいた英龍は、書類の上では見えない現実に目を向けていました。帳簿で収まらない困窮や、制度の隙間に落ちる声なき声──彼が真に統治者として歩み出すのは、この苦難の中での現場からでした。家督相続は「名を継ぐ」ことではなく、「時代と対話する」ことの始まり。理想と現実の齟齬に戸惑いながらも、彼の眼差しは常に未来を見据えていました。
現場から学ぶ統治のリアルと使命感
代官見習いとしての11年間、英龍は父・英毅の指導のもとで農村巡視、水利管理、検地、災害対応といった実務を地道に学びました。就任後もその姿勢は変わらず、翌年の1836年(天保7年)には「甲州微行」と呼ばれる視察を自らの意思で実施。匿名で甲斐国の農村を歩き、百姓一揆や村人たちの困窮を実地に調査しました。
その中で彼が実感したのは、制度や政策が「机の上で作られるもの」であってはならないということでした。名主の声、農民の沈黙、疲弊した土壌と痩せた稲穂。英龍はそれらを一つ一つ心に刻みながら、「民のために制度がある」という統治理念を明確にしていきます。後年、「江川は神様のような代官であった」と称されるのは、こうした地道な実践の積み重ねが、言葉以上に信頼を築いたからに他なりません。
渡辺崋山・高島秋帆ら知識人との啓発的交流
現場の経験と並行して、英龍は知識人との交流によって理論的視野も深めていきました。とりわけ重要なのが、蘭学者・渡辺崋山との接触です。1838年(天保9年)、英龍が江戸湾を巡視した際、崋山の紹介で西洋式の測量士を雇用したことが記録されています。これがのちの「蛮社の獄」で問題視されることとなりますが、それだけに英龍と崋山の思想交流は、時代の限界を突き破ろうとする強い意志に支えられていたといえます。
さらに1841年(天保12年)には、砲術家・高島秋帆から西洋砲術を学び始めます。江川家に伝わる統制と地理的知識に、秋帆の実戦的理論が加わることで、後の「江川流砲術」や品川台場の設計思想が形成されていきます。これらの交流は、彼が単に優れた統治者に留まらず、「理論構築者」としても傑出していたことを物語っています。
こうして、英龍の代官としての出発点は、「実地と知識」「制度と人間」の狭間に立ち、葛藤と模索を抱えながらも、少しずつ一つの理想を形にしようとする姿でした。次章では、その理想が実際にどう制度改革として結実していくのかを描いていきます。
代官としての江川太郎左衛門英龍の統治改革
“治める”から“支える”へ──統治理念の転換
代官職を継承した江川太郎左衛門英龍がまず行ったのは、統治の“意味”そのものを問い直すことでした。それまでの代官職は、幕府の意を受け、年貢を滞りなく徴収し、治安を維持する「管理者」的性格が強いものでした。しかし英龍は、その役割を「民とともにある支え手」として再定義します。この思想の転換は、彼が見習い時代から抱いていた「制度は民のためにあるべき」という理念に基づくものでした。
1836年の甲州微行以降、彼は各地の実情を綿密に把握した上で、改革の優先順位を見極めていきます。災害時の救済体制では、米蔵からの放出に加え、民間からの備蓄協力を促す仕組みを導入。また村役人への教育を強化し、役務の透明化を進めました。「支える政治」とは、物を与えるのではなく、制度の土台そのものを信頼に足る形に変えること。英龍はこれを静かに、しかし確実に実行していったのです。
年貢・検地から見る持続可能な農政改革
英龍の農政改革の柱は、「一時の救済ではなく、構造からの改善」にありました。年貢に関しては、旧来の定額徴収方式から、実収に即した柔軟な課税方式への転換を推進。天保の飢饉で収穫量が著しく落ち込んだ地域では、納税の猶予や減免を行い、農民の離村や荒廃を防ぐための現実的な対応を取りました。また、検地の実施に際しては、現場の名主や百姓を巻き込み、「測る側と測られる側の信頼関係」を重視しました。
とくに注目されるのは、水利・灌漑施設の整備です。英龍は農政の安定には治水こそが鍵であると考え、小規模ながら各地で水路や堤防の改修を指導。こうした地味な施策の積み重ねが、結果として農民の生活を安定させ、年貢徴収も長期的に安定するという「持続可能な農政」へと結びついていきます。代官という立場でありながら、長期的視野をもって政策を設計できたのは、まさに英龍が現場から学び続けた者であったからです。
種痘導入に挑んだ、命を守る政治のかたち
英龍が最も革新的な一歩を踏み出したのは、医療と衛生の分野でした。1830年代後半、日本では天然痘の流行が再び拡大しており、各地で死者が相次いでいました。この病に対し、英龍は蘭方医・高野長英や幡崎鼎らと協力し、種痘の導入に動き出します。西洋からもたらされたこの予防技術は当初、効果と安全性に対して疑問視され、民衆からの抵抗も少なくありませんでした。
英龍はまず自らその理論を学び、江川塾内に医学講座を設け、若い医師たちに種痘の技術を学ばせます。また村役人を通じて、村ごとの接種計画を立案。接種を強制するのではなく、「病から子どもを守る」ことの意義を根気強く説きました。1849年には自領での種痘施行にこぎつけ、全国でも先進的な予防医療体制を築くことに成功します。
統治とは、領地を維持することだけではない──英龍が示した「命を守る政治」は、近代的な公衆衛生の先駆ともいえるものでした。彼の関心は、経済や軍事だけでなく、人間の身体と生活そのものへ向けられていたのです。
以上のように、江川太郎左衛門英龍の統治は、単なる政治ではなく、「暮らしと生の支援」であり続けました。次章では、彼がいかにしてその思想を西洋技術との融合へと展開させていったのかを見ていきます。
江川太郎左衛門英龍と西洋技術への挑戦
高島秋帆の砲術に学び、体系化へ挑む
江川英龍が西洋技術との本格的な接点を持ったのは、1841年(天保12年)、高島秋帆の洋式砲術公開演習を視察したことが契機でした。長崎奉行の要請に応じて実施されたこの演習は、日本で初めての洋式訓練として幕府の注目を集め、英龍はその精密な布陣と火力運用に強い衝撃を受けます。彼はすぐに高島に弟子入りを願い出て、江戸にて直接指導を受けるようになりました。
なぜ英龍は、この時代において砲術の体系化に踏み出せたのか。それは、彼自身が農政改革を通じて「机上の理ではなく、実用に基づく制度」の重要性を熟知していたからです。西洋砲術を学ぶことで、理論だけではなくその背後にある構造・教育・組織原理を自国に翻訳しようとする試みは、単なる技術の模倣ではありませんでした。高島の理論を自らの中で噛み砕き、日本の地理と社会制度に合うよう調整しようとした英龍は、まさに“応用の天才”と呼ぶべき存在です。
この時期の英龍は、「学ぶこと」を純粋な目的としていた少年期とは異なり、「何を取り入れ、何を捨てるか」を判断する成熟した思考を持っていました。だからこそ彼の学びは、国家レベルの政策形成と結びつくのです。
江川塾で育てた“実学”重視の教育基盤
英龍は単に自ら学ぶだけで満足する人物ではありませんでした。西洋技術や実学の重要性を確信するに至った彼は、1839年頃から本格的に私塾「江川塾」を整備し、後進の育成に力を注ぎます。塾は当初、韮山代官所に隣接する形で設置され、藩士・庶民の子弟を問わず受け入れられる開かれた学びの場でした。
教育内容は驚くほど先進的で、蘭学・数学・測量・物理・化学・火薬学などを体系的に教えました。さらに語学としてオランダ語の文献講読が重視され、翻訳力と応用力の両面を鍛えるカリキュラムが組まれていました。この教育方針は、単なる知識の伝達ではなく、「どう活用するか」を軸とした“実学”そのものでした。
江川塾の門人の中には、のちに幕末の政局や技術改革を担う俊才たちが育ちます。英龍は彼らに対し、単なる砲術や工学の技術者としてではなく、「社会を支える知の実践者」となることを求めました。それは、知識を装飾として纏うのではなく、人を守り、暮らしを築く道具として使えという、時代の先を読む者だけが持ち得るメッセージでした。
西洋兵学を咀嚼し、日本流軍制へ昇華
英龍の西洋技術理解は、軍事技術だけにとどまりませんでした。彼が最終的に目指したのは、西洋兵学を単なる戦術書ではなく、「統治と社会制度」の一部として咀嚼することでした。特に彼は、地理・地形と連動した兵站構築や、農村と軍制の連携といった構造的視点を重視します。この思考は、のちの農兵制度構想へとつながっていきます。
英龍は、江戸湾防衛における地形分析を行い、どこに防衛線を置くべきかを戦略的に示しました。これには数学的・物理的な知識だけでなく、人的資源の動員法や村落社会の再編成も含まれており、まさに“日本版兵学”の構築とも言える内容でした。彼の報告書や設計案には、砲台の配置から資材の調達方法、訓練人員の割り当てに至るまで、具体性と実用性が貫かれています。
ここにあるのは、「西洋か日本か」という二項対立ではなく、「外の知をどう内に移すか」という翻訳の試みです。英龍の頭の中には、つねに“異質なものを生かす”ための構造化がありました。彼が後に建設する韮山反射炉や台場は、こうした構想の実践編とも言えるでしょう。
以上のように、英龍の西洋技術への挑戦は、ただの好奇心や憧れではなく、「構想力としての知」を実社会に繋げるための戦いでした。次章では、その構想がいかにして具体的な防衛施設建設へと展開していくのか、その実行力の面を追っていきます。
海防体制を築いた江川太郎左衛門英龍の実行力
西洋技術導入の象徴・反射炉建設の舞台裏
1840年代初頭、アヘン戦争の衝撃が日本にも伝わると、江川太郎左衛門英龍は、日本の安全保障体制の脆弱さに深い危機感を抱きました。砲術家・高島秋帆から学んだ洋式砲術の実用性と、蘭書『ライク王立鉄大砲鋳造所における鋳造法』をもとに、彼は早くもこの時期に幕府へ反射炉の建設を進言しています。当時、国内では鉄製大砲の鋳造は不可能とされ、外国製に頼らざるを得ない状態でした。
英龍はまず、構想段階で反射炉の仕組みをオランダ語文献から読み解き、下田に試作炉を築いて耐火煉瓦や火力維持の技術を実験的に検証します。その過程では伊豆天城産の土を用いた耐火煉瓦の調合や、コークス燃焼の効率試験など、失敗と試行錯誤を繰り返しながら技術基盤を整備しました。これらの知見は後に韮山へ移転した本炉建設へと繋がります。
1853年、ペリー来航という現実が幕府を動かし、英龍の構想はようやく公式に着工へと進みます。しかし翌1855年、英龍は病没。その意思を継いだ息子・英敏が工事を引き継ぎ、1857年、韮山反射炉がついに完成しました。この施設は、模倣ではなく“翻訳された技術”の成果であり、日本における近代工業の幕開けを象徴する存在となります。
韮山反射炉の完成が意味した技術革新
完成した韮山反射炉では、18ポンド砲の鋳造が可能となり、水車を用いた穴あけ加工や、砲身の検査制度などが体系的に運用されました。英龍が生前に築いた記録主義の文化が引き継がれ、製造工程・成分配合・失敗例までが詳細に記録される体制が整えられました。これは近代的な生産管理の萌芽とも言え、幕末期の技術史において特筆すべき実践でした。
反射炉の建設には、多数の地元職人や農民が関与し、作業過程で煉瓦焼成・炉壁建設・炉内温度管理といった技能が地域に根づいていきました。英龍の設計には、ただ製品を得るためだけでなく、地域の人材育成という視点も組み込まれていたのです。彼にとって技術は、単なる手段ではなく、「社会に知を浸透させる仕組み」であり、これが後年の江川塾や農兵制度構想にも繋がっていきます。
反射炉はその後も稼働を続け、近代化を進める明治政府にも注目される技術的遺産となりますが、その根には「一人の代官が世界と向き合った思索の軌跡」がしっかりと刻まれています。
台場築造に見る実戦的な国防戦略の具現化
反射炉で鋳造された砲を配備する場として、英龍が次に取り組んだのが品川台場の建設です。1853年、ペリー艦隊が来航すると、幕府は江戸湾防衛の要として品川沖に複数の台場(砲台)設置を決定。英龍は江戸湾沿岸の測量結果をもとに、台場配置を計画します。その設計において彼は、フランスのサヴァール著『築城法』に学んだ「間隔連堡」方式を採用。潮位や弾道を科学的に計算し、五角形を基本とした台場を設計しました。
工事は突貫的に進められ、わずか9カ月で第1~3台場が完成。この迅速さは、英龍が既に代官所で培っていた土木技術、労務管理、資材調達のノウハウが現場で活かされた結果でもあります。台場の内部は多重射線、弾薬庫、兵員移動路を備え、実戦使用を前提にした構造となっており、防衛施設としての完成度は非常に高いものでした。
このような実践的施設の整備により、英龍は「防備とは構想ではなく構築である」という信念を示しました。紙上の戦略だけでは日本は守れない──そう考えた彼の行動が、近代日本の防衛思想の基礎を形づくることになります。
江川太郎左衛門英龍が育てた未来の人材
佐久間象山や桂小五郎を導いた師としての顔
江川太郎左衛門英龍の生涯を語るとき、しばしばその革新的政策や技術導入に注目が集まりますが、実はもうひとつ、彼の功績を支える柱があります。それが「人を育てる者」としての姿です。江川塾には、のちに幕末日本を揺るがす多くの俊才が集まりました。その中でも特筆すべきは、佐久間象山と桂小五郎の存在です。
象山は松代藩士の家に生まれ、理学・兵学の融合を目指す思想家として知られています。若き日の彼が江川塾を訪れたとき、英龍はすでに教育者として確かな評価を受けていました。両者は単なる師弟関係を超えて、知の共同体として互いを刺激し合い、実学と思想の両立を模索しました。象山がのちに唱えた「東洋道徳・西洋芸術」の理念は、英龍との対話から芽吹いたと見る向きもあります。
一方、長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)は、江川塾に短期間ながら身を寄せたとされます。彼が後年に語った「剣と学、共に備えざる者は国を動かすこと叶わず」という信条は、まさに英龍の教育理念を体現した言葉でもあります。英龍は、彼らに対してただ知識を与えるだけでなく、「何を信じ、どう動くか」を考える思考の型を教えていたのです。
江川塾の理念と“実学”教育のインパクト
江川塾の教育は、当時としてはきわめて革新的なものでした。単に儒学や古典を教えるのではなく、数学・物理・化学・測量・砲術・蘭語など、明確に“社会で使える知”を体系化して教えていたのです。塾生は課題に応じて自ら調べ、試作し、議論しながら学びを深めていきました。英龍が掲げたのは、「知識を得るための学び」ではなく、「変えるための学び」でした。
その思想は、教育空間の構成にも表れていました。江川塾には、身分の垣根を越えて藩士も庶民の子も出入りしており、それぞれの能力に応じて学問の深度が調整されていました。教室での一方通行の講義ではなく、対話と実験が日常的に行われたこの空間は、当時の「塾」の概念を大きく更新するものでした。
また、江川塾では「問題を見つける力」を重視していたとされます。現象に対して「なぜか」と問う力こそが、時代を動かす礎である──英龍の教育は、そうした“思考の習慣”を未来の日本に託す試みでもあったのです。
若き志士たちに託した変革の思想
英龍の教育が与えた影響は、直接の弟子だけにとどまりません。江川塾で学んだ者たちは、幕府の要職に就く者、地方の改革者として名を馳せる者、あるいは明治維新の原動力となる志士へとそれぞれの道を歩みました。その中で共通して語られるのが、「現実を動かすために、まず学び、そして構想せよ」という、英龍の根底にある思想です。
彼が弟子たちに語ったとされる「鉄を知ることは国を知ることなり」という言葉は、反射炉や砲術だけでなく、社会構造そのものを見抜く力の比喩でした。現象を支える構造を理解し、そのうえで未来を描く──それこそが、英龍の教育がもたらした最大の成果だったのです。
また、彼が晩年に模索した農兵制度構想も、人材育成という文脈でとらえれば、「知を持ち、技を持ち、志を持つ人間を国の防衛に組み込む」という大胆な発想でした。これは軍政であると同時に、教育の延長線上でもあり、近代国家の成立を先取りした制度設計の萌芽とも言えるでしょう。
晩年の江川太郎左衛門英龍と残されたもの
ペリー来航に際し、幕政の中枢で奮闘す
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、日本の対外政策と海防体制は根本から問われることになりました。このとき幕府内で即座に動いた一人が、江川太郎左衛門英龍でした。すでに反射炉建設や品川台場築造で実績を重ねていた彼は、その現場主義と理論の整合性を評価され、幕政中枢においても意見を求められる存在となっていました。
英龍は、来航直後の8月には江戸湾の地形と潮流をふまえた防衛配置案を提出し、江戸防衛の第一線に立ちました。幕府首脳に対しては、安易な通商受容や軍事拡張ではなく、「防御に徹しつつ交渉に備える」という柔軟な方針を提言。彼の海防思想は、単なる軍備増強ではなく、「地政と外交、技術と信頼」を結びつけた実戦的な戦略構想に貫かれていました。
英龍の対応は、現場からの情報収集、技術の活用、そして幕府内での説得という複合的な働きかけに特徴がありました。彼は単なる武装論者ではなく、構想に基づいて制度を動かす“幕末のマネージャー”として、短いながらも決定的な役割を果たしたのです。
農兵制度という先駆的軍政ビジョン
晩年の英龍が掲げた最大の構想の一つが「農兵制度」でした。これは、農民を兵として訓練・組織化し、国土防衛に参加させるという構想で、当時としては極めて革新的な発想でした。武士階級に限定されていた軍務を、知識と技術を持つ庶民層へと開放するこの制度は、社会の構造変革すら含意しており、封建的身分制度を揺るがしかねない大胆さを孕んでいました。
英龍は、農兵を単なる臨時兵力ではなく、「生活の中に軍事がある」存在として位置づけました。訓練においては、耕作と並行して兵学・砲術を学ばせるとともに、自治的な集団統制を導入し、農村の中に「知と秩序」が生まれることを目指していました。この構想は、戊辰戦争や明治初期の国民軍構想に影響を与え、新選組や各藩の志願兵制度の源流ともなったとされています。
江川塾で培われた“実学”の思想と、民を守る政治への信念が結びついたこの制度構想は、英龍の統治哲学の結晶であり、彼が未来に託した最大の遺産でもありました。
パン祖伝説と文化史に刻まれた英龍像
英龍の多面的な活動の中でも、意外性と親しみをもって語られるのが、「パン祖」としての一面です。彼は軍用食糧としての保存性・携帯性に注目し、江戸で初めてパンの試作を行った人物とされています。これは、オランダ製の兵站記録や西洋兵糧論から得た知見を、日本の実情に応用したものに他なりません。
パンの導入は、単なる異文化の物珍しさではなく、「飢えない軍隊」を築くための現実的選択でした。当時、日本の兵糧といえば主に干飯や餅が主流でしたが、腐敗や重量、調理の手間などの問題を抱えており、英龍はそれらを解決する手段としてパンに注目しました。後年、「日本で初めてパンを焼いた人物」として顕彰されるのは、こうした先見の明と行動力の表れでもあります。
その姿は、知の人でありながら土に立ち、構想家でありながら火を起こし、制度を語りつつ一片のパンを焼く人物──すなわち、“知と実践の融合者”としての江川太郎左衛門英龍の象徴的なイメージともなっています。
書物に描かれた江川太郎左衛門英龍
仲田正之『江川坦庵』『近世後期代官江川氏の研究』が示す統治構造
江川太郎左衛門英龍を語るうえで、まず触れたいのが仲田正之による2冊の書です。ひとつは1985年に刊行された人物叢書『江川坦庵』。もうひとつは、学術的視点から代官制度の構造を解き明かす『近世後期代官江川氏の研究』です。両書は、同一の筆者によって書かれながらも、視点とアプローチが大きく異なります。
『江川坦庵』は、一般読者にも親しみやすい筆致で構成され、江川英龍の生涯を一貫したドラマとして描いています。特に印象的なのは、英龍が若き日に感じた葛藤や、民を見つめる視線の描写に細かな心理描写を交えている点で、それは史実というよりも“人物の肌感”を伝える作品です。読みながら、彼の歩みに心を重ねるような没入感があり、英龍に初めて触れる読者にとっては格好の入門書といえるでしょう。
一方、『近世後期代官江川氏の研究』は、代官制度そのものの機構と、その中で江川家が果たした役割を解明する構造的アプローチの書です。ここでは英龍個人の英雄的描写よりも、「なぜ江川家は幕末にあってあれほどまでに自立的だったのか」「幕府との関係性はどのように変化していたのか」といった、制度的視点が中心になります。英龍を“制度の使い手”として再評価するためには不可欠な文献であり、統治論や近世政治史に関心を持つ読者にはぜひ参照していただきたい一冊です。
橋本敬之『幕末の知られざる巨人』が描く知られざる功績
次に取り上げるのは、一般向けノンフィクションの筆頭格として知られる橋本敬之の『幕末の知られざる巨人 江川英龍』です。本書の特徴は、江川英龍という人物を「社会の裏方」ではなく、「時代を根底から支えた主役」として描き直そうとする意志にあります。
著者は、反射炉や台場の建設だけでなく、農兵制度や教育理念といった“構想”に光を当て、それがいかに時代の先を見通したビジョンであったかを強調します。また、パンの試作や公衆衛生施策など、他書では小エピソードとされがちな事象にも焦点を当て、「江川英龍とは何者か」という問いを、幅広い角度から読者に投げかけてきます。
本書の筆致は平易ながら緻密であり、文献考証に裏打ちされた記述が続きます。幕末史の中で、英龍のような「制度に生きる思想家」がいかに少数であったかを際立たせる構成は、読む者に静かな衝撃を与えるものです。読み物としての面白さと、考察の深さを兼ね備えた一冊であり、「知の力が歴史を動かす」ことを実感させてくれる一冊といえるでしょう。
佐々木譲『英龍伝』と松本清張『天保図録』にみる文学的再構成
江川英龍の人物像は、小説の世界でも独自の進化を遂げてきました。なかでも佐々木譲の『英龍伝』は、史実に忠実な構成を保ちつつ、人物の内面に踏み込んだ文学的描写が高く評価されています。物語は、幕政の一隅で孤独に抗い続ける英龍の姿を軸に展開され、彼の理想主義と現実主義の間で揺れる葛藤が生き生きと描かれます。
特に秀逸なのは、江川塾での弟子たちとの対話や、ペリー来航後の政策判断に至る内面描写であり、「判断する者の孤独」という普遍的テーマを、幕末の文脈に重ねた筆致が読者の胸に迫ります。読み終えた後に残るのは、英龍の偉大さよりも、「よくこんな時代に、こんな人物がいた」という驚きと余韻です。
一方、松本清張の『天保図録』では、江川英龍がモデルとされる人物が登場し、改革と保守、知と無知のせめぎ合いの中で翻弄される知識人として描かれます。清張らしい社会派的視点のもと、英龍のような“持ちすぎた者”の宿命が描かれ、制度と思想の対立が浮き彫りになります。ここに描かれるのは、決して理想通りには進まぬ政治の現実と、それに向き合う人間の強さと脆さです。
これら文学作品を通じて立ち上がる江川英龍像は、時代の中で孤立しながらも確かな光を放った一人の人物として、読者の想像力を刺激し続けます。史実とは異なる角度から、「彼がいたことの意味」を感じ取る手がかりとして、読み継がれていく価値があります。
江川太郎左衛門英龍の生涯に宿る問いかけ
江川太郎左衛門英龍は、ただの名代官にとどまらず、教育者であり技術者であり、構想家としても卓越した人物でした。農政改革に始まり、西洋兵学の導入、江川塾での人材育成、さらには反射炉や台場といった国家事業の実行まで、彼の行動はすべて「民を支える」ことに貫かれていました。激動の幕末にあっても、その目は未来を見据え、理想と現実の狭間で一歩を踏み出す勇気を失いませんでした。彼の思索と実践は、制度や技術を超えて、人がいかにして国を支え得るのかを静かに示しています。江川英龍の足跡に触れるとき、私たちは「何のために学び、何のために働くのか」という根源的な問いを、今もなお投げかけられているのです。
コメント