MENU

赤松克麿とは何者を?左翼から右翼へ思想転向した社会主義運動家の生涯

こんにちは!今回は、大正・昭和期の激動の時代を体現した社会運動家・政治家、赤松克麿(あかまつ かつまろ)についてです。

社会主義から国家社会主義、そして日本主義へとめまぐるしい思想転向を遂げながら、日本の労働運動と政治運動の歴史に深い足跡を残した赤松克麿の波乱に満ちた生涯についてまとめます。

目次

波乱の生涯の幕開け──赤松克麿の誕生と家族の宿命

山口県徳山町・徳応寺に生まれて

赤松克麿(あかまつ かつまろ)は、1894年(明治27年)12月4日、山口県徳山町(現在の山口県周南市)に生まれました。家は浄土真宗本願寺派・徳応寺という寺院を代々継ぐ家系で、祖父・赤松連城、父・赤松照幢(しょうどう)ともに住職を務めていました。仏教界だけでなく、地域社会においても赤松家は大きな影響力を持っていました。時代は、明治維新による急激な近代化と国家神道政策により、仏教勢力が衰退を余儀なくされる中、伝統的な寺院も変革を迫られていました。克麿自身が幼少期から「家名を守るべきだ」と強く意識していたという記録はないものの、宗教と地域に対する責任感を自然に身につける環境にありました。この土壌が、後の社会運動家としての意識形成に少なからぬ影響を与えたのです。

父・照幢の社会事業と知識人が集う家

赤松克麿の父、赤松照幢は、単なる宗教者にとどまらず、社会事業家としても積極的に活動しました。彼は被差別部落への支援活動を行い、また地域の女子教育振興にも尽力しました。こうした取り組みの中で、赤松家には多くの知識人や文化人が集うようになります。例えば、詩人の与謝野鉄幹が一時期、徳応寺の女学校で教鞭をとったこともありました。幼い克麿は、家に出入りするこうした文化人や思想家たちの影響を受け、宗教の枠を超えて社会全体に関心を向けるようになります。しかし、吉野作造との関係はこの時点では生まれておらず、克麿が東京帝国大学に進学した後に出会うことになります。このような開かれた家庭環境が、後の克麿の社会運動への志向を育む土壌となりました。

宗教・学問・社会運動へ──兄弟姉妹の多彩な影響

赤松克麿は、多才な兄弟姉妹に囲まれて育ちました。長兄の赤松智城は、宗教学者として活躍し、浄土真宗の教義研究に加え、比較宗教学にも精通しました。妹の赤松常子は、労働運動家・婦人運動家として知られ、日本社会党婦人部長を務めたこともあります。弟の赤松五百麿は政治活動家として活動し、和歌山高等商業学校(現在の和歌山大学経済学部)で教鞭をとりました。その他にも、医学者の信麿、美学者の義麿といった兄弟たちが、それぞれ専門分野で業績を残しました。こうした多様な進路を歩んだ兄弟たちの存在は、克麿に「宗教だけでなく、社会を変革するために行動する」という発想を促しました。家族の背中を見ながら育った克麿は、単なる寺院の跡取り以上の志を抱くようになっていったのです。

「日本を変える」志──赤松克麿、学生時代と新人会の挑戦

東京帝国大学で吉野作造と出会う

赤松克麿は1914年(大正3年)、東京帝国大学法科大学政治学科に進学しました。東京での生活は、彼の思想形成に決定的な転機をもたらします。当時、東京帝大では自由民権運動の流れを汲み、大正デモクラシーの気運が高まっていました。その中心的人物が、政治学者・吉野作造でした。吉野は「民本主義」を提唱し、国民の意志を尊重する政治を主張していました。克麿は大学内の弁論部に所属し、吉野の講義を聴講するうちに深く感化されます。特に、第一次世界大戦後のパリ講和会議における「民族自決主義」の議論に触れ、「国家と民衆のあり方を根本から変えなければならない」と考えるようになりました。克麿にとって吉野作造は単なる恩師ではなく、政治理念の原点となる存在でした。この出会いは、彼が社会運動家への道を歩み出す最初の一歩となったのです。

宮崎龍介・石渡春雄と結成、新人会の革命

東京帝国大学在学中、赤松克麿は同じ志を持つ仲間たちと出会います。その中核が宮崎龍介、石渡春雄でした。宮崎は民権運動家・宮崎滔天の息子であり、石渡もまた急進的な社会改革を志す若者でした。1918年(大正7年)、第一次世界大戦の終結とともに日本国内では社会的不安が高まり、労働争議や米騒動が頻発していました。こうした時代背景のもと、克麿たちは1918年に「新人会」を結成します。新人会は、階級対立を乗り越え、民衆自身の力で社会を改革しようとする運動体でした。既存の政党政治に失望し、「新しい人間による新しい政治」を目指すべきだという理念を掲げました。結成時には、討論会や講演会を頻繁に開催し、一般学生や労働者に向けて直接訴えかける運動を展開しました。克麿はその理論的リーダーとして、新人会の中心に立つ存在となっていきます。

学生運動リーダー赤松克麿、初めての闘い

新人会を通じて赤松克麿は、初めて本格的な社会運動に足を踏み入れました。1919年(大正8年)、全国で起きた労働争議を支持するため、学生たちによる支援運動を組織します。当時、労働者の待遇改善を求める運動は警察による弾圧の対象となっており、学生が労働者側に立つことは極めて異例でした。赤松は、大学の弁論部や新人会の仲間たちとともに、労働争議支援集会を開催し、ストライキ支援のための募金活動を行いました。彼自身も警察から度々取り調べを受け、大学当局から警告を受ける事態となりましたが、信念を曲げることはありませんでした。この経験は、克麿に「言論だけでは社会は動かない。直接行動こそ必要だ」という確信を植え付けました。以後、赤松克麿は「理論と行動」を兼ね備えた学生運動家として名を知られるようになっていきます。

社会運動の最前線へ──赤松克麿、労働者と共に戦う

東洋経済新報社から社会運動へ転身

赤松克麿は、1920年(大正9年)に東洋経済新報社へ記者として入社しました。当時の『東洋経済新報』は、急成長する日本経済と労働問題を深く掘り下げる進歩的な経済誌でした。克麿は現場取材を重ね、特に労働者たちの過酷な労働環境や貧困の実態に直面します。なぜ労働者が搾取され、社会の仕組みがそれを許しているのかという疑問は、彼の中で次第に大きな怒りとなっていきました。記者という立場に留まっていては真に労働者を救えないと考えた克麿は、1921年(大正10年)、わずか1年余りで退社を決意します。この選択は、収入や安定を捨て、社会運動という不安定な道へ進む覚悟を意味していました。彼は、行動こそが社会を変える鍵だと信じ、労働者とともに闘う道を選んだのです。

日本労働総同盟で実践した労働者支援

退社後、赤松克麿は日本労働総同盟(総同盟)に参加しました。総同盟は1919年(大正8年)に結成された、日本で初めての全国組織の労働組合連合体です。克麿はここで調査部長や出版部長を務め、労働者の組織化、争議支援、労働条件改善運動に携わりました。特に1922年から1923年にかけて全国的に活発化した鉄道労働者の争議支援にも関与し、情報収集や宣伝活動を通じて運動を支援しました。直接「指導的立場」にあったとまでは言えないものの、幹部として重要な役割を担っていたことは確かです。克麿はなぜここまで労働現場にこだわったのか。それは、労働者を上から「救う」のではなく、彼らと同じ目線に立ち、共に社会変革を実現するためでした。理論と実践の両輪を重視する彼の姿勢は、この時期に確立されたのです。

第一次日本共産党で夢見た社会革命

労働運動に没頭する中で、赤松克麿はさらに急進的な思想に傾いていきます。1922年(大正11年)、彼は密かに結成された第一次日本共産党に入党しました。党は非合法の組織であり、政府から厳しい弾圧を受けることを覚悟しなければなりませんでした。克麿は共産主義がもたらす社会革命に希望を見いだし、「資本主義体制を打倒し、労働者の国家を築く」という理想に心から共鳴します。しかし、現実は厳しく、1923年6月の第一次共産党事件による一斉検挙、さらに関東大震災後の大規模な赤狩りによって、共産党組織は壊滅的な打撃を受けます。克麿も危険を逃れるため身を潜めざるを得ず、党活動から距離を置くようになりました。理想と現実の間で深く苦悩した彼は、やがて共産主義そのものへの疑問を抱き始め、思想的な転換を模索することになります。

転向の決断──赤松克麿、共産主義を超えて右派へ

検挙、挫折、そして「転向」への決意

1923年(大正12年)、関東大震災の混乱の中で起きた共産党員への大弾圧は、赤松克麿にも深い影を落としました。第一次共産党事件により、克麿も検挙・取り調べを受け、その後は当局の監視下に置かれることとなりました。共産党は壊滅状態に陥り、革命への希望は遠のきます。克麿は「なぜ理想だけでは社会を動かせないのか」と自問し続けました。弾圧の厳しさを目の当たりにした彼は、地下運動に絶望し、次第に合法的な手段による社会改革を志向するようになります。1920年代半ば、彼は共産主義を離れ、正式に「転向」を果たしました。この転向は、単なる生存戦略ではありません。克麿にとって、それは「理想を現実にするために、現実を受け入れねばならない」という苦渋の決断だったのです。

国家社会主義思想への目覚め

転向した赤松克麿は、単なる保守主義に回帰したわけではありませんでした。彼が次に志向したのは、「国家社会主義」という新たな理念でした。国家社会主義とは、資本主義の弊害を批判しながらも、共産主義のような階級闘争を否定し、国家の統制によって社会的平等を目指す思想です。克麿は、ドイツの社会主義理論やイタリアのファシズム運動に関心を寄せ、資本主義と共産主義の双方の欠点を克服する「第三の道」を模索しました。なぜ克麿は国家社会主義に惹かれたのか。それは、急速な近代化の中で分断されつつあった日本社会を再統合し、民衆の生活を底上げするには、国家の強力な指導が不可欠だと考えたからです。彼は「国家と民衆が一体となる社会」を理想に掲げ、再び新たな政治運動への道を歩み始めます。

赤松克麿が歩んだ「理想と現実」の変遷

赤松克麿の思想の変遷は、一見すると「左翼から右翼への裏切り」と映るかもしれません。しかし、彼の内面では一貫して「社会をより良くしたい」という志がありました。若き日は労働者とともに革命を目指し、挫折を経て国家を単位とした社会改革を志向するようになった――そこには、理想に固執するだけではなく、現実に即した手段を模索し続けた苦闘の軌跡が刻まれています。克麿にとって重要だったのは「誰のために社会を変えるのか」という問いでした。共産主義者だったときも、国家社会主義者になったときも、その答えは変わらず「民衆のため」であり続けました。彼の歩みは、理想と現実の間で揺れ動きながらも、より実践的な社会改造を目指し続けた稀有な知識人の姿を映し出しています。

国家改造を目指して──赤松克麿、国家社会主義運動を牽引

社会民衆党を創設、合法路線への挑戦

1926年(大正15年)、労働農民党が即日禁止処分を受けた後、その右派グループが新たに社会民衆党を結成しました。赤松克麿もその中心メンバーとして参加し、書記長に就任します。社会民衆党は、マルクス主義的な階級闘争理論を否定し、議会制度を通じた合法的な社会改革を目指すことを掲げました。主な政策には労働立法の推進や地方自治体の権限強化があり、民衆の生活向上を現実的に図ろうとするものでした。なぜ赤松がこの道を選んだのか。それは、過激な革命ではなく、制度内改革こそが日本社会に適した民衆救済の手段だと確信したからです。しかし、党内には依然として左派勢力も存在し、赤松が模索する国家社会主義的方向性に対する反発が次第に強まっていきました。

日本国家社会党へ──国家統制と民衆救済の旗印

党内対立が激化する中、赤松克麿は1932年(昭和7年)4月、社会民衆党を離党し、自らの理想を掲げた日本国家社会党を設立しました。離党の直接の背景には、国家統制経済や国体尊重を重視する赤松と、民主主義的社会主義を志向する鈴木文治、西尾末広らとの激しい路線衝突がありました。日本国家社会党は、国家による産業統制、農村救済、労働者保護などを綱領に掲げ、国家が主導して民衆を救済する体制づくりを目指しました。ドイツの国家社会主義やイタリア・ファシズムの思想を参考にしながらも、赤松は日本の「国体」を重視し、独自の日本型国家社会主義を構想しました。しかし、党活動は次第に軍部や右翼活動家、特に平野力三らとの連携を深め、「ファシズム的傾向」と外部から批判を受けるようになります。理想と現実の狭間で、克麿の新たな挑戦は波乱含みのものとなりました。

左翼から日本主義へ──赤松克麿の思想変遷

赤松克麿の思想は、単なる左翼から右翼への移行ではありませんでした。彼は共産主義運動を離脱後、国家社会主義を経て、さらに日本の伝統的価値と国体を尊重する日本主義へと思想を深化させていきました。日本主義とは、単なる排外的ナショナリズムではなく、国体を基盤とした社会改革を目指すものであり、民衆の福祉向上という目標は一貫して変わりませんでした。赤松は1930年代、日本国家社会主義学盟を設立し、日本独自の国家社会主義理論を体系化しようと努めます。ドイツやイタリアの影響を受けつつも、日本の歴史的・文化的背景を踏まえた理論構築を目指したのです。克麿にとっては、思想や立場の変遷は裏切りではなく、常に「民衆を救うために最も適切な方法」を求め続けた結果だったと言えるでしょう。

国政への挑戦──赤松克麿、政治家として国家改革を目指す

衆議院議員初当選、赤松克麿が目指した「新しい国」

赤松克麿は、1937年(昭和12年)4月30日に行われた第20回衆議院議員総選挙で、北海道4区から初当選を果たしました。当時の所属は、日本国家社会党を母体に結成された日本革新党であり、彼自身も党の結成メンバーの一人でした。赤松は、議会の場において国家統制経済の導入、農村復興、労働者保護といった政策を主張し、国家と民衆を一体化させる新しい社会構想を訴えました。なぜ赤松は国政進出を目指したのか。それは、既存の政党政治に対する深い失望と、民衆救済を実現するには制度の中から変革を行うしかないという強い信念からでした。しかし、議会内では日本革新党は少数派にとどまり、克麿の政策が主流になることはありませんでした。それでも彼は、「理念を現実政治に落とし込む」という挑戦を、粘り強く続けました。

日本革新党設立、理想国家への挑戦

赤松克麿は、1937年(昭和12年)7月に日本革新党を正式に結成しました。結党には、江藤源九郎、菅舜英、津久井竜雄、小池四郎、下中弥三郎らも参加し、赤松は党務長として運営に深く関わりました。日本革新党は、既成政党による腐敗と無力を批判し、「国家主義と社会改革の両立」を掲げた独自の路線を打ち出しました。赤松が新党結成に踏み切った理由は、軍部主導に傾きつつあった国家社会主義運動への反発と、自主的・民衆主体の改革を実現したいという思いからでした。しかし、日中戦争の勃発と戦時体制の強化により、政党活動自体が厳しく制約され、革新党の理想は現実政治の中で十分に実現されることはありませんでした。それでも赤松は、国家と民衆の新たな関係を構築しようと、政策提言を続けました。

政界での赤松克麿のポジションと影響力

赤松克麿は政界において、常に主流派から距離を置く存在でした。彼の掲げた国家社会主義路線は、既存の保守・自由主義勢力からも、左派勢力からも異端とみなされました。結果として政界の中で大きな主導権を握ることはできませんでしたが、その思想と政策提言は、若手政治家や一部の知識人層に確かな影響を与えました。特に、国家による経済統制や農村復興の重要性を早期に訴えた彼の主張は、後の総力戦体制や新体制運動にもつながる発想の先駆けとなりました。赤松が一貫して主張した「国家と民衆の一体化」という理念は、戦時下の国家統制政策にも影響を及ぼしたと言われています。彼は、時代に翻弄されながらも、「思想を現実に変える」という信念を最後まで手放すことはありませんでした。

国家の中枢へ──赤松克麿、大政翼賛会と戦時体制の最前線

大政翼賛会企画部長として国家改造を模索

1940年(昭和15年)、赤松克麿は新たに設立された大政翼賛会に参加し、企画部長に任命されました。大政翼賛会は、政党政治を解体して国民を一元的に組織し、国家総動員体制を推進する目的で作られた組織です。赤松はここで、国家社会主義の理念に基づき、経済統制、労働動員、農村振興といった国家改革を志向しました。ただし、彼が具体的な政策を主導した記録は乏しく、実際には軍部・官僚主導の体制の中で、彼の影響力は限定的なものでした。なぜ赤松はこの体制に加わったのか。それは、たとえ軍主導であっても、国家と民衆を結びつける改革の可能性を信じ、体制内から理想を実現しようとしたからです。しかし現実には、戦時体制の中で赤松の改革構想は周縁化されることになりました。

新体制運動で推進した国家統制政策

赤松克麿は、大政翼賛会と並行して設置された新体制準備委員会にも委員として参加し、国家の新たな組織編成を構想する役割を担いました。新体制運動は、産業別・職能別に国民を組織化し、国家がこれを統率するという大規模な統制構想でした。赤松は、単なる軍事優先ではなく、労働者や農民層の生活を基盤に据えた社会統制を主張しました。なぜ赤松はこの点にこだわったのか。それは、国家のために民衆が犠牲になるのではなく、国家が民衆を支えるべきだという一貫した理念を持っていたからです。しかし、日中戦争の泥沼化とともに、軍部主導による軍需優先政策が全面化し、赤松の理想は次第に後景に追いやられていきました。国家改造を夢見た彼の構想は、戦局悪化とともに現実から遠ざかっていったのです。

戦時下に苦悩する赤松克麿の真実

1942年(昭和17年)、赤松克麿は大政翼賛会の推薦を受けずに衆議院選挙(翼賛選挙)に立候補しましたが、落選を喫しました。この落選により、彼は国政における影響力をほぼ完全に失います。翼賛会内部では、軍部迎合を求められる中で、赤松も斎藤隆夫議員除名に賛成するなど、理想と現実の矛盾に直面していました。なぜ赤松はその矛盾に耐え続けたのか。それは、たとえ妥協を重ねても、国家改革の道筋を途絶えさせたくなかったからです。しかし、軍部の支配が進む中で、彼の提言は次第に無視され、孤立を深めていきました。理想を信じ続けた赤松克麿は、現実政治に押しつぶされながらも、最後まで国家と民衆を結びつける夢を捨てることはなかったのです。

静かなる終焉──戦後赤松克麿が見た理想と現実

公職追放、そして社会からの退場

第二次世界大戦の敗戦を迎えた1945年(昭和20年)、日本は占領軍(GHQ)による政治改革のもと、戦時体制を支えた指導者層に対して厳しい処分を行いました。赤松克麿もその一人であり、1946年(昭和21年)に公職追放処分を受け、政治活動の道を閉ざされることになります。彼がなぜ追放されたのか。それは、大政翼賛会の企画部長を務め、戦時体制を支えた政治家の一人と見なされたためでした。赤松はこの処分に抗うことなく受け入れ、以後、公的な場からは静かに姿を消していきます。社会運動から出発し、国家改革を志した彼にとって、この追放は「理想の実現を目指す旅路」の終わりを意味していました。しかし、彼はあくまで政治家としての野心を再燃させることなく、社会の一隅に身を置き続けることを選びました。

思想の再整理と、著作による自己表現

公職追放後、赤松克麿は表舞台から退きつつも、自らの思想を整理し、著作活動を通じて自己表現を続けました。彼は過去の社会運動、国家改造運動、そして戦時体制への関与について深く省察し、それらを体系的にまとめようと努めました。なぜ赤松は執筆を続けたのか。それは、たとえ政治の世界から退場させられたとしても、自らの経験と信念を後世に伝えたいという強い思いがあったからです。彼の晩年の著作には、「民衆を救済するために国家を動かそうとした」という一貫した志が見て取れます。一方で、戦時中の行動については、無批判に肯定するのではなく、時に自己批判的な態度も見せています。赤松にとって、思想とは一度きりの運動ではなく、生涯をかけて鍛え続けるべきものだったのです。

1955年、波乱と理想に満ちた生涯の終わり

1955年(昭和30年)12月13日、赤松克麿はこの世を去りました。享年61歳でした。戦後日本の高度成長が始まる直前、戦前・戦中の価値観が急速に過去のものとなりつつある時代でした。赤松が目指した「国家と民衆の一体化」という理念は、戦後民主主義体制の中ではもはや異質なものと見なされ、彼自身も歴史の表舞台から忘れられつつありました。しかし、彼の生涯は、理想に殉じ、現実と格闘し続けた知識人・政治家としての矜持に満ちていました。どれだけ時代が変わっても、赤松克麿が生涯追い求めた「民衆のための国家」というビジョンは、今なお多くの示唆を私たちに与えてくれます。静かなる終焉を迎えた彼の歩みは、波乱と理想に彩られた、まさに激動の時代を生きた一人の知識人の証だったのです。

後世が語る赤松克麿──思想と生涯への評価

『日本社会運動史』に刻まれた社会運動家の足跡

赤松克麿の名は、戦後の社会運動史研究においても一定の位置を占めています。特に、戦後にまとめられた『日本社会運動史』では、大正期から昭和初期にかけての労働運動と社会運動の一翼を担った人物として記録されています。赤松はなぜ社会運動史において重要視されるのか。それは、単なる理論家ではなく、行動家として実際に労働運動の現場に身を投じ、労働者と共に闘った経験を持つからです。彼は新人会の活動を通じて、また日本労働総同盟での実務活動を通じて、草の根レベルから社会変革を志向しました。社会運動史における赤松の評価は、時にその後の「国家主義への転向」によって複雑なものになりますが、彼の初期活動が日本の社会運動の多様性を象徴する存在だったことは疑いありません。彼の軌跡は、社会運動と政治の接点を考える上でも貴重なケーススタディとなっています。

『共同研究 転向』にみる転向者赤松克麿の実像

戦後日本の思想史において、「転向」は重要なテーマとなりました。赤松克麿もその一人として、1979年に刊行された『共同研究 転向』などで取り上げられています。この書では、赤松の共産主義から国家社会主義への転向が、単なる自己保身ではなく、理想を現実化しようとする苦闘の結果だったと分析されています。なぜ赤松の転向は注目されるのか。それは、彼が単に思想を捨てたのではなく、新たな現実に向き合いながら自らの理念を再構築しようとしたからです。『共同研究 転向』は、赤松を「変節者」と一刀両断するのではなく、その内面の葛藤に丁寧に光を当てました。この視点は、思想の硬直化を防ぎ、時代に応じた柔軟な理念追求のあり方を示唆するものです。赤松克麿の生涯は、転向をめぐる議論においても極めて示唆的な素材となっています。

吉野作造との交流と、後世への精神的遺産

赤松克麿の思想形成に大きな影響を与えた人物に、恩師・義父である吉野作造がいます。吉野は大正デモクラシーを提唱し、「民本主義」を広めた日本近代政治思想の先駆者です。赤松は東京帝国大学在学中に吉野の薫陶を受け、その後、吉野の次女・明子と結婚して家族となりました。吉野との交流は、赤松の人生にどのような影響を与えたのでしょうか。それは、どのような過酷な状況下にあっても「民衆を中心に据える」という視点を失わなかったという点に現れています。赤松が国家社会主義へと思想を転じた後も、その根底には吉野から受け継いだ「民衆への信頼」という精神が生き続けていました。後世から見れば、吉野と赤松の間には理念の違いも生まれましたが、赤松にとって吉野作造の教えは、生涯を通じた精神的な支柱であり続けたのです。

赤松克麿の生涯から見える、理想と現実の間を生きた知識人の姿

赤松克麿は、明治から昭和にかけて激動の時代を生き抜いた知識人・政治家でした。労働運動家として出発し、共産主義から国家社会主義、そして日本独自の社会改革思想へと変遷を遂げながらも、一貫して「民衆救済」という志を貫き続けたその姿は、単なる転向者とは異なる重みを持っています。戦時体制の中枢に身を置きながらも、民衆を守ろうとする理想と現実の狭間で苦闘し、戦後は静かに思想整理に努めた彼の歩みには、時代に翻弄されながらも信念を失わなかった知識人の矜持が刻まれています。赤松克麿の生涯は、現代に生きる私たちに、理想と現実をどう折り合わせながら信念を持って生きるべきかを静かに問いかけているのです。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次