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上原專祿とは何者か?「世界史の起点」を提唱した歴史学者の生涯

こんにちは!今回は、日本の歴史学に革新をもたらし、戦後の教育改革にも大きな影響を与えた歴史学者、上原專祿(うえはら せんろく)についてです。

中世ヨーロッパ史を専門とし、「13世紀を世界史の起点」とする独自の歴史観を提唱した上原は、一橋大学改革の中心人物としても知られています。安保闘争では知識人として積極的に発言し、晩年は日蓮研究に没頭するなど、その生涯は驚くべき多様性に満ちていました。

彼の激動の生涯と、日本の学問・社会に残した影響について詳しく見ていきましょう!

目次

京都の商家に生まれて

上原專祿の家族と幼少期——伝統と学問のはざまで

上原專祿(うえはら せんろく)は、1913年(大正2年)に京都の商家に生まれました。京都は日本の歴史と文化が色濃く残る街であり、上原家もまた、古くからの伝統を重んじる家庭でした。家業は商いでしたが、単なる経済活動にとどまらず、京都の町衆文化の中で育まれた教養や学問に対する意識も高かったといいます。

幼い頃から、專祿は本を読むことが好きでした。家には日本の古典や漢籍が多くあり、それらに囲まれて育ちました。特に父親は学問に理解があり、歴史や文学についての話をよくしてくれたそうです。このような環境が、専祿の知的好奇心を育てる土壌となりました。

また、京都の街そのものが彼にとって学びの場でした。例えば、家の近くにあった寺社仏閣や歴史的な建造物を訪れるたびに、「なぜこの場所が作られたのか」「どのような歴史的背景があるのか」といった疑問が次々と湧き上がりました。こうした日常の体験が、彼の歴史への関心を深める大きな要因となったのです。

しかし、一方で商家の長男としての役割も期待されていました。伝統を受け継ぐことの大切さを教えられ、家業に従事する道も示されていました。そのため、學問に没頭したいという自分の気持ちと、家族の期待の間で葛藤することもあったといいます。そんな彼の背中を押したのは、母の存在でした。母は、彼が本を読みふける姿を見て、「あなたのやりたいことを大切にしなさい」と励ましてくれたそうです。この母の支えが、彼が学問の道へ進む決意を固める大きな要因となりました。

旧制高校時代に芽生えた歴史への情熱

旧制中学を経て、上原專祿は第三高等学校(旧制、現在の京都大学の前身)に進学しました。当時の旧制高校は、単なる受験勉強の場ではなく、学生が自由に思想や学問を深める場でもありました。專祿はここで多くの友人と出会い、歴史について議論を重ねることで、さらにその関心を高めていきました。

特に彼が惹かれたのは、従来の歴史教育とは異なる「歴史を考える」という視点でした。それまでは歴史を単なる出来事の羅列として学んでいましたが、旧制高校の授業では「なぜそのような出来事が起こったのか」「その背景にはどのような社会的要因があったのか」といった思考が求められました。このアプローチに触れることで、專祿は「歴史学とは過去を記述するだけでなく、そこから人間社会の動きを読み解く学問である」と強く意識するようになりました。

また、この時期から西洋史に興味を持つようになりました。当時、日本では西洋史よりも日本史の研究が中心であり、特に中世ヨーロッパ史に関する研究は未発達でした。しかし、專祿は「日本とヨーロッパの歴史はどのように異なるのか」「ヨーロッパの封建制度はどのように形成されたのか」といった疑問を抱き、独学で西洋史の書籍を読み漁るようになりました。

そんな彼の学問への姿勢を決定づけたのが、ある恩師の言葉でした。授業での討論の際、彼の発言に感銘を受けた教師が「君は歴史学の道を歩むべきだ」と助言したのです。この言葉は專祿にとって大きな励みとなり、歴史研究を一生の仕事にする決意を固めるきっかけとなりました。

歴史学者を志す転機とその背景

第三高等学校卒業後、上原專祿は東京帝国大学(現在の東京大学)文学部に進学し、西洋史を専攻しました。1930年代の日本では、近代ヨーロッパ史の研究は進んでいたものの、中世ヨーロッパ史の研究はまだ黎明期にありました。上原は、「近代のヨーロッパを理解するには、その土台となった中世を深く知る必要がある」と考え、あえて未開拓の分野に挑むことを決意しました。

この時期、彼に大きな影響を与えたのがドイツの歴史学でした。特に、19世紀の歴史学者カール・ランケや、オーストリアのアドルフ・ドプシュの研究に触れたことが、彼の学問的方向性を決定づけました。ドプシュは、封建制の発展を経済的な観点から分析し、従来の政治史中心の歴史学とは異なる視点を提供していました。上原はこの理論に共感し、「歴史を社会経済の動きと関連づけて考えることが重要だ」と確信するようになりました。

また、彼は当時の日本の歴史研究の状況にも疑問を抱いていました。当時の日本では、西洋史の研究は主にヨーロッパの政治史や外交史に重点が置かれ、社会史や経済史の視点は十分に発展していませんでした。上原は、「日本の歴史学界に新しい視点をもたらすためには、本場のヨーロッパで学ぶ必要がある」と考え、海外留学を強く意識するようになりました。

そんな折、指導教授から「本格的に中世ヨーロッパ史を学ぶなら、ウィーン大学へ行くべきだ」と助言を受けました。当時、ウィーン大学はヨーロッパ史研究の中心地の一つであり、特にドプシュ教授のもとで学ぶことは、專祿にとって大きな魅力でした。この助言を受け、彼はウィーン大学への留学を決意します。

こうして、京都の商家に生まれた一人の少年は、日本では未開拓だった中世ヨーロッパ史の研究に挑むことを決意し、海外へと旅立つことになりました。この決断が、後の彼の学問的業績へとつながっていくのです。

ウィーン大学での学び

ウィーン大学留学を決意した理由とは

東京帝国大学での学びを深める中で、上原專祿は次第に日本の歴史学界に対して強い問題意識を持つようになりました。当時の日本の西洋史研究は、主に近代ヨーロッパを対象としており、中世ヨーロッパ史についての研究は未発達でした。特に、社会史や経済史の視点が乏しく、政治史や外交史に偏っていたことに疑問を抱いていました。

「なぜヨーロッパでは封建制度が発展し、それがやがて市民社会へと移行したのか?」この問いに対する答えを求めるためには、日本国内の研究だけでは限界があると考えました。そんな折、恩師から「本格的に中世ヨーロッパ史を学ぶなら、ウィーン大学が最適だ」という助言を受けます。ウィーン大学は、オーストリア=ハンガリー帝国時代から続く歴史学の名門であり、特に中世ヨーロッパ史の研究が盛んでした。

ウィーン大学には、當時の世界的な歴史学者であるアドルフ・ドプシュ(Adolf Dopsch)が教鞭をとっていました。ドプシュは、従来の政治史中心の歴史研究ではなく、経済史や社会史の視点から封建制を分析する独自の理論を展開しており、上原はその学問に強い関心を持ちました。「封建制は単なる身分制度ではなく、経済の発展と密接に関わる」という彼の視点は、日本の歴史学界にはまだ十分に浸透していないものでした。

1938年(昭和13年)、上原はついにウィーン大学への留学を決意します。しかし、この時代の日本は、すでに日中戦争(1937年開戦)の渦中にあり、軍国主義が強まりつつある状況でした。海外留学には多くの困難が伴いましたが、彼は学問への情熱を優先し、単身ヨーロッパへと旅立ちました。

A.ドプシュ教授との出会いと学問的影響

ウィーンに到着した上原專祿は、すぐにウィーン大学での研究を開始しました。特に、ドプシュ教授の講義や研究会に積極的に参加し、その学問的手法を徹底的に吸収していきました。

ドプシュは、「封建制は単なる貴族支配のシステムではなく、経済活動の発展に伴う社会構造の変化によって生まれたものである」と主張していました。従来の歴史学では、封建制度を「王権の衰退による貴族の権力増大」として説明することが一般的でしたが、ドプシュはそれとは異なる視点を提示しました。彼は、農村経済や都市の発展が封建制度の形成に与えた影響を詳細に分析し、その枠組みの中で社会の変化を読み解いていました。

上原は、このアプローチに大きな衝撃を受けます。「歴史は単なる出来事の連続ではなく、経済や社会の構造と密接に結びついている」。この考え方は、彼の歴史観を根本から変えるものでした。特に、13世紀のヨーロッパにおける経済の発展と社会の変化に着目し、「13世紀=世界史の起点」という後の彼の理論の萌芽が、この時期に生まれたといわれています。

また、ウィーン大学での生活は、彼にとって貴重な国際的経験でもありました。当時のヨーロッパの学者たちと交流し、多様な視点から歴史を考察する機会を得ました。彼は、ドイツ語を駆使しながら、原典資料を精読し、研究を進めていきました。その努力が認められ、ウィーン大学の学者たちからも高く評価されるようになりました。

しかし、ウィーン留学の終盤には、ヨーロッパ情勢が急激に悪化します。1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発しました。戦火が拡大する中で、日本政府からの帰国命令が出され、彼はやむなく帰国を決意します。わずか数年間の滞在ではありましたが、このウィーンでの経験は、彼の学問的人生に決定的な影響を与えました。

中世ヨーロッパ史研究の深化とその成果

帰国後、上原專祿は東京帝国大学で研究を続けるとともに、中世ヨーロッパ史の研究を日本に根付かせるために尽力しました。ウィーンで学んだ経済史・社会史の視点を日本の歴史学界に持ち込み、それまでの政治史中心の歴史観に新たな視点を加える試みを行いました。

彼の研究の中で特に注目されたのが、「13世紀=世界史の起点」論です。これは、13世紀こそが、世界の歴史が本格的にグローバル化し始めた時代であるという視点に基づいた理論でした。モンゴル帝国の拡大により、東西の交流が活発化し、商業圏が広がったことが、後のヨーロッパの発展につながったという仮説を提唱しました。この理論は、従来の「ヨーロッパ中心史観」とは異なり、世界史の中での相互作用を重視する新しい視点を提供するものでした。

また、彼の研究は、戦後の歴史学にも大きな影響を与えました。彼は「歴史は単なる過去の記録ではなく、現在を理解し、未来を考えるための学問である」とし、実証的な研究を重視しました。この姿勢は、後に彼が関わる大学改革や教育政策にも色濃く反映されることになります。

このように、ウィーン大学での学びは、上原專祿の歴史学者としての基盤を築く重要な時期となりました。ドプシュ教授から受けた学問的影響、現地での研究経験、そして13世紀世界史の視点は、彼の後の研究や教育活動に大きく活かされていくことになります。

一橋大学改革と「上原構想」

高岡高等商業学校時代の研究と教育方針

ウィーン大学から帰国した上原專祿は、1940年(昭和15年)に高岡高等商業学校(現在の富山大学経済学部)に赴任し、講師として研究と教育を開始しました。まだ若手研究者だった彼にとって、これは学問の場だけでなく、教育者としての姿勢を確立する重要な時期となりました。

当時の高岡高等商業学校は、日本の商業教育の一環として設立されており、経済学や商業実務に重点を置いた教育が行われていました。しかし、上原は「経済を学ぶ者こそ、歴史の本質を理解する必要がある」と考え、歴史学の授業に力を注ぎました。特に、彼がウィーン大学で学んだ社会経済史の視点を取り入れ、「商業活動が歴史の中でどのように発展し、社会を変えてきたのか」というテーマを学生に問いかけました。

また、授業のスタイルも特徴的でした。当時の日本の大学教育では、一方的な講義が主流でしたが、上原は討論形式の授業を取り入れ、学生たちに積極的に発言させる場を作りました。「なぜこのような経済発展が起こったのか?」「封建制度と商業の関係は?」といった問いを投げかけ、学生が自ら考えることを促したのです。この教育方針は、後に彼が一橋大学で進める大学改革の布石となりました。

しかし、この時期の日本は戦争のただ中にあり、自由な学問の追求は次第に困難になっていきました。戦局の悪化とともに、大学教育も軍国主義の影響を強く受けるようになり、自由な研究や討論の場は徐々に制約されていきます。その中でも、上原は可能な限り学問の自由を守り続けました。彼の授業は、学生たちにとって「歴史を通じて物事を深く考える貴重な時間」だったと言われています。

戦後日本における大学改革と一橋大学の新制化

終戦後の1949年(昭和24年)、上原專祿は新制一橋大学の発足に伴い、同大学の教授として招かれました。一橋大学は、日本の社会科学系大学として、商業・経済・法律・社会学といった分野の専門教育を担う重要な機関でした。しかし、戦前の教育体制の影響が残っており、教育カリキュラムの見直しが急務とされていました。

上原は、戦前の高等商業学校時代の経験を生かし、「商業・経済を学ぶ者こそ、広い視野を持ち、歴史・社会・哲学を理解する必要がある」と主張しました。彼は、一橋大学のカリキュラムに歴史学や社会科学を積極的に組み込むことを提案し、「実学だけでなく、理論と批判的思考を養うことが重要である」と説いたのです。

また、彼は戦後の教育改革においても積極的に発言しました。戦前の日本の大学教育は、専門性の高い学問を追求する一方で、学問間の交流が少なく、総合的な知識を得る機会が限られていました。上原はこれを批判し、「社会の変化に対応できる知識人を育成するためには、学問の枠を超えた教育が必要だ」と考えました。この考えは、後の「上原構想」に結実していきます。

「上原構想」の理念と高等教育への影響

上原專祿の大学改革における最大の提案が、いわゆる「上原構想」と呼ばれる教育理念でした。「上原構想」は、一橋大学を単なる経済学・商学の専門大学ではなく、「社会科学総合大学」として発展させるという壮大な構想でした。

上原は、「現代社会は複雑化しており、経済・法律・社会・歴史といった多角的な視点が不可欠である」と考えました。そのため、専門分野に縛られるのではなく、異なる学問領域が相互に連携し、学生が幅広い知識を学べる教育体制を築くことを目指しました。特に、「歴史と経済」「法と社会」「哲学と経営」といった学際的なアプローチを強く推奨し、学生が単なる専門家ではなく、総合的な思考力を持つ人材へと成長することを期待していました。

この「上原構想」は、一橋大学に限らず、日本の高等教育全体にも大きな影響を与えました。彼の提案により、社会科学の学際的な研究が推奨され、戦後の大学改革の中で「総合教育」の重要性が見直されるようになりました。また、この構想は、のちに一橋大学が日本における社会科学研究の中心的な役割を果たす礎ともなりました。

しかし、「上原構想」はすぐに実現できたわけではありません。専門分野ごとの壁を取り払うことは容易ではなく、伝統的な学問体系を重視する教授陣からの反発もありました。それでも、上原は粘り強く議論を重ね、一橋大学の学問体系を大きく変革することに成功しました。

1959年(昭和34年)、彼は一橋大学の学長に就任し、さらなる教育改革を推し進めました。学際的な研究の推進、学生の自主的な学習の奨励、新しい学問分野の導入など、彼の改革は現在の一橋大学の教育理念にも色濃く反映されています。

上原專祿の教育改革は、単にカリキュラムを変更するだけでなく、「大学とは何か」「学問の本質とは何か」という根本的な問いに向き合うものでもありました。彼の提唱した「上原構想」は、戦後日本の大学教育のあり方を大きく変え、社会科学教育の発展に寄与したのです。

戦後日本の教育改革者として

戦後日本の教育課題と上原專祿の視点

1945年8月、日本は終戦を迎えました。戦前の教育は国家主義的な色彩が強く、特に歴史教育は「国体論」に基づき、日本の皇国史観を正当化するためのものとされていました。戦後、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下に置かれ、教育制度も抜本的な改革を求められました。このような状況の中、上原專祿は日本の教育改革において重要な役割を果たすことになります。

上原は、戦前の教育の最大の問題点は「批判的思考の欠如」にあると考えていました。戦時中の教育は、国家の方針に従うことを最優先とし、個人の思考や自由な議論を抑圧するものでした。その結果、多くの知識人や学生が戦争を疑うことなく受け入れ、戦争協力に加担することになったと上原は指摘しました。彼は「歴史学の本質は、過去の出来事を通じて社会の構造を理解し、未来を考えることにある」とし、戦後の教育には「歴史を学ぶことで社会を客観的に分析する力」を育成することが不可欠だと主張しました。

また、戦後の教育改革において重要な課題の一つは、旧制教育から新制教育への移行でした。それまでの日本の教育制度は、エリート養成を目的とした旧制高校・帝国大学を中心とする仕組みでした。しかし、戦後はアメリカ型の「万人に開かれた教育」へと変革する必要がありました。上原は、この新たな教育方針を積極的に支持し、日本の大学教育がより多様で柔軟なものになるべきだと考えました。

国民教育研究所の設立と教育改革への挑戦

こうした考えを実現するために、上原專祿は1946年、同志とともに「国民教育研究所」を設立しました。この研究所は、戦後の民主主義教育を推進するための機関として設立され、教育のあり方や歴史教育の改革についての研究を行いました。

国民教育研究所が目指したのは、「教育を通じて民主主義の基盤を築くこと」でした。戦前の教育が「国家のための教育」であったのに対し、戦後の教育は「国民のための教育」でなければならないと考えたのです。具体的には、以下のような活動が行われました。

  1. 歴史教育の改革 戦前の歴史教育は、日本中心主義の視点が強く、特に近代史においては戦争を正当化する内容が含まれていました。上原は、これを改め、「世界史的視点から歴史を捉えること」の重要性を訴えました。彼は「歴史を学ぶことで、国民が社会の変化を理解し、主体的に行動できるようになるべきだ」と主張し、新しい歴史教育のカリキュラム作りに関与しました。
  2. 市民教育の推進 1947年に施行された日本国憲法は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を掲げていました。しかし、戦前の教育を受けた世代にとって、民主主義の概念は必ずしも馴染み深いものではありませんでした。そこで、国民教育研究所では、市民が自らの権利や責任を理解し、社会の一員として主体的に行動できるような教育プログラムを提案しました。
  3. 教員研修の実施 教育改革を実現するためには、新しい時代にふさわしい教員の養成が不可欠でした。国民教育研究所では、全国の教師を対象に研修を行い、戦前の教育方針から脱却し、民主主義的な教育を実践できるよう支援しました。特に、歴史教育においては、批判的思考を育むためのディスカッションやグループワークの導入が推奨されました。

こうした取り組みは、日本の教育界に大きな影響を与えました。戦後の教科書改革や教育方針の策定において、国民教育研究所の提言が反映されることも多くありました。

社会科学総合大学構想とその意義

国民教育研究所での活動と並行して、上原專祿は一橋大学においても教育改革を推進していました。彼が提唱した「社会科学総合大学」構想は、経済学・社会学・政治学・歴史学などを統合的に学ぶ大学を目指すものでした。

この構想の背景には、「社会を理解するには、単一の学問分野では不十分である」という上原の考えがありました。彼は、経済学だけでは経済の動向を正しく把握できず、社会学や歴史学の視点が不可欠であると主張しました。例えば、戦後の経済復興を理解するには、単なる経済政策の分析だけでなく、その背後にある歴史的経緯や社会構造の変化を考慮する必要があるというのが彼の持論でした。

一橋大学では、この理念に基づき、学際的な教育カリキュラムが導入されました。学生は、経済学と並行して歴史学や社会学を学び、複合的な視点から社会を分析する力を養うことが求められました。この試みは、日本の大学教育に新しい方向性を示すものであり、その後の学際的研究の発展にも寄与しました。

また、上原はこの構想を一橋大学だけでなく、日本の高等教育全体に広げることを目指しました。彼は、「社会科学は、国民一人ひとりが社会の仕組みを理解し、主体的に行動するための学問である」と考え、より多くの大学で社会科学の教育が充実することを求めました。

このように、上原專祿は戦後の教育改革の中心的な存在として、多くの重要な提言を行いました。国民教育研究所での活動、一橋大学での教育改革、そして社会科学総合大学構想は、いずれも「歴史を学ぶことで、社会を深く理解し、よりよい未来を築く」という彼の信念に基づいたものでした。彼の取り組みは、単なる教育制度の改革にとどまらず、日本の知的基盤そのものを再構築する試みだったといえるでしょう。

世界史研究の新地平を開く

「13世紀=世界史の起点」論の詳細と意義

上原專祿は、戦後の日本において独自の世界史観を構築しました。その中心となるのが、「13世紀=世界史の起点」論と呼ばれる考え方です。それまでの歴史学では、近代ヨーロッパの勃興が世界史の転換点とされることが多かったのですが、上原はこれに異を唱えました。彼は、「13世紀こそが世界の一体化が始まった時期であり、近代の起点とされる出来事の多くは、この時代の国際的な動きによって準備されたものだ」と主張したのです。

では、なぜ13世紀が世界史の転換点となるのでしょうか。上原の理論では、次のような要因が指摘されています。

  1. モンゴル帝国の拡大 13世紀は、モンゴル帝国が東アジアからヨーロッパに至るまで広大な領域を支配した時代でした。チンギス・ハン(在位:1206年~1227年)が帝国を築き、その後のオゴデイ・ハン、フビライ・ハンの時代に至るまで、ユーラシア全体にわたる征服と統治が進められました。この結果、シルクロードをはじめとする交易路が整備され、東西の文化・経済・技術の交流が飛躍的に拡大しました。
  2. 国際商業圏の成立 モンゴル帝国の支配により、東アジアとヨーロッパを結ぶ交易が活発化しました。例えば、イタリアの商人マルコ・ポーロ(1254年~1324年)は、この時代の交易の活発さを象徴する人物です。彼がヴェネツィアから東方へと旅し、中国(元朝)での出来事を『東方見聞録』に記したことは、西洋におけるアジア認識を変える大きな契機となりました。このような交易の活発化が、後の大航海時代を準備したのです。
  3. 貨幣経済の発展 モンゴル帝国は、紙幣(交鈔)を発行し、経済の一元化を進めました。これにより、貿易における決済手段が統一され、国際的な商取引がより円滑に行われるようになりました。ヨーロッパでも、十字軍遠征や都市の発展に伴い貨幣経済が広がっており、この時期から本格的な経済成長が始まります。

このように、13世紀はヨーロッパ・アジア・中東が初めて大規模に結びついた時代であり、これが後の近代世界の基盤を築いたと上原は考えました。この理論は、従来の「近代=西洋中心史観」とは異なる、グローバルな視点からの歴史解釈として高く評価されました。

モンゴル帝国の影響と世界の結びつき

上原專祿が「13世紀=世界史の起点」論を展開する上で、最も重要な要素としたのが、モンゴル帝国の歴史的役割でした。彼は、モンゴル帝国が単なる征服国家ではなく、「ユーラシアの交流を飛躍的に促進した国家」であることを強調しました。

モンゴル帝国の影響は、以下のような形で世界史に深い影響を与えました。

  1. 文化・技術の交流 モンゴル帝国の支配下では、イスラム世界の学者や技術者が東西を往来し、知識の共有が進みました。例えば、ペルシャの天文学や数学が中国に伝わり、逆に中国の羅針盤や火薬、印刷技術が西方へと伝播しました。このような技術交流が、後のルネサンスや科学革命の基盤を作ったと考えられます。
  2. 疫病の拡散 モンゴル帝国による交通網の発達は、同時にペスト(黒死病)の拡散をもたらしました。14世紀半ばにヨーロッパを襲った黒死病は、人口の約3分の1を奪う大惨事となりました。この疫病の流行は、中世ヨーロッパの封建制度の崩壊を加速させ、社会構造の変化を引き起こしました。
  3. 宗教と思想の交差 モンゴル帝国の支配下では、仏教・キリスト教・イスラム教が共存し、多様な宗教文化が交わりました。フビライ・ハンは、元朝の皇帝として仏教を保護する一方で、ネストリウス派キリスト教徒やイスラム商人も積極的に登用しました。このような宗教の多元性は、後の大航海時代における宗教の布教活動にも影響を与えました。

上原專祿は、これらの要素を踏まえ、モンゴル帝国が「世界史の転換点」として果たした役割を強調しました。彼の研究は、単なるヨーロッパ中心史観から脱却し、東西の相互作用を重視する視点を日本の歴史学界に持ち込むことになりました。

上原專祿の歴史観が現代に問いかけるもの

上原專祿の歴史研究は、単なる学問的探求にとどまらず、現代社会へのメッセージも含まれています。彼が重視したのは、「歴史は単なる過去の出来事ではなく、現在や未来を理解するための鍵である」という視点でした。

例えば、彼の「13世紀=世界史の起点」論は、現代におけるグローバル化の歴史的背景を考える上で重要な示唆を与えます。今日の世界は、経済・文化・技術が国境を越えてつながる時代ですが、その原型はすでに13世紀に見られたのです。モンゴル帝国が築いたネットワークは、現代の国際貿易や情報化社会と共通する側面を持っており、歴史から学ぶことで、未来の世界のあり方を考えることができます。

また、上原の研究は、「日本の歴史学が西洋中心の視点に偏りすぎている」という問題提起でもありました。彼は、「日本の歴史学は、もっと世界史の視点から学ぶべきだ」とし、東西の相互作用を重視することの重要性を説きました。この考え方は、現代の「グローバル・ヒストリー(世界史的視点からの歴史研究)」とも通じるものがあります。

こうした上原專祿の歴史観は、彼の後の研究や教育活動にも反映され、次の章で扱う「安保闘争と知識人の使命」へとつながっていくことになります。

安保闘争と知識人の使命

1960年安保闘争における上原專祿の立場と行動

1960年、日本の政治と社会は大きな転換点を迎えていました。この年、日米安全保障条約(安保条約)の改定をめぐり、日本全国で激しい反対運動が巻き起こりました。政府は、1951年に締結された旧安保条約を改定し、日本の防衛義務を強化するとともに、アメリカ軍の駐留を継続する方向で動いていました。しかし、多くの市民や学生、知識人たちは「日本が再びアメリカの軍事戦略に組み込まれ、戦争に巻き込まれる危険性がある」として、この改定に強く反発しました。

上原專祿も、この安保改定に対して明確に反対の立場を取りました。彼は、戦後の日本が目指すべきは「平和と民主主義を基盤とする独立国家」であるべきであり、軍事的な同盟強化はその理念に反すると考えていました。彼は「日本が歴史から学ぶべきことは、軍事的な強国を目指すのではなく、国際社会において平和的な存在としての役割を果たすことである」と述べ、知識人として積極的に発言を行いました。

特に注目されたのは、彼が行った大学での講義や、各種シンポジウムでの発言です。彼は「歴史の中で、国家が軍事同盟を強化した結果、どのような影響を受けたのか」を具体的に論じ、13世紀のモンゴル帝国の拡張政策や、近代ヨーロッパの帝国主義の失敗を例に挙げました。そして、「安保条約の改定は、日本を再び戦争の道へと導く可能性がある」と警鐘を鳴らしたのです。

このような上原の活動は、当時の学生運動にも影響を与えました。1960年の安保闘争では、多くの大学生がデモに参加し、国会議事堂を取り囲む大規模な抗議活動が行われました。彼の講義を受けた学生たちの中には、「歴史から学ぶことの重要性を痛感した」と語る者もおり、彼の発言が社会に与えた影響の大きさがうかがえます。

清水幾太郎・家永三郎らとの思想的交流

上原專祿は、この時期に多くの知識人と交流しながら、安保闘争をめぐる議論を深めていきました。特に、社会学者の清水幾太郎や歴史学者の家永三郎との対話は、彼の思想をさらに発展させる契機となりました。

清水幾太郎(1907-1988)は、日本の社会思想界において重要な役割を果たした人物であり、戦後の民主主義の発展に貢献しました。彼は当初、安保改定に反対する立場でしたが、後に転向し、国家の防衛の必要性を強調するようになります。上原と清水は、この問題をめぐって何度も議論を交わしました。特に、「日本は平和国家として存続すべきか、それとも国際的な軍事バランスの中で生き残るべきか」というテーマについて、激しく意見を戦わせたと言われています。

一方で、家永三郎(1913-2002)との交流は、歴史教育のあり方に関する議論へとつながりました。家永は戦後の歴史教育改革に尽力し、日本の戦争責任を直視することの重要性を訴え続けました。上原もまた、「歴史を学ぶことは、過去の過ちを繰り返さないための手段である」と考えており、両者の意見は多くの点で一致していました。彼らは、戦争責任や歴史認識をめぐる教科書問題についても意見を交わし、歴史学者としての社会的責任を強く自覚していたのです。

また、この時期には、一橋大学名誉教授の増淵龍夫や吉田悟郎とも議論を交わし、戦後日本の大学教育のあり方についても考察を深めました。彼らは、「大学は単なる知識の蓄積の場ではなく、社会の中で主体的に発言し、変革を促す知識人を育てる場であるべきだ」と考えていました。上原は、この理念を基に、教育現場における討論や批判的思考の重要性を改めて強調しました。

知識人としての責任と葛藤

安保闘争を通じて、上原專祿は「知識人の社会的責任」という問題に直面することになります。彼は「歴史学者は、単に過去を研究するだけでなく、現在の社会問題に対して発言し、未来を方向づける役割を担うべきだ」と考えていました。しかし、その一方で、「学問の政治的中立性」を守ることの重要性についても熟考していました。

特に、安保闘争が激化する中で、学者や知識人がどのように社会と関わるべきかについて、彼の中で葛藤が生まれました。彼は、社会的な運動に積極的に関与することで、学問的な客観性を失う危険性もあると認識していました。しかし、それでも彼は「歴史学は現実世界と無関係ではありえない」とし、自らの意見を社会に発信し続けました。

彼の姿勢は、多くの学生や若手研究者に影響を与えました。彼は、大学の講義の中で「歴史を学ぶことは、単なる知識の習得ではなく、社会をよりよくするための手段である」と強調しました。このような考え方は、後に彼の歴史学の弟子たちにも受け継がれ、日本の歴史教育や研究の在り方に大きな影響を与えることになります。

また、安保闘争が収束した後も、彼は一貫して「知識人の社会的責任」を問い続けました。彼の著作や講義は、単なる学術研究にとどまらず、読者や聴衆に対して「歴史を学ぶことの意味」を深く問いかけるものでした。彼は、「過去を振り返り、その教訓を未来に生かすことこそが、歴史学の本質である」と語り続けました。

このように、上原專祿は1960年の安保闘争を通じて、単なる歴史学者ではなく、社会と積極的に関わる知識人としての役割を果たしました。彼の姿勢は、学問のあり方そのものを問い直し、歴史学が社会に対してどのような影響を与えうるのかを考えさせるものでした。

日蓮研究と隠遁生活

日蓮思想との出会いとその影響

上原專祿が日蓮思想に関心を持つようになったのは、1960年代後半のことでした。安保闘争を通じて、日本の政治と知識人の関係に深く関与した上原でしたが、その経験は彼に「知識人の使命とは何か」「歴史学者は社会にどう貢献すべきか」という根源的な問いを抱かせました。この内面的な問いが、彼を宗教思想、とりわけ日蓮の思想へと導いたのです。

日蓮(1222年~1282年)は鎌倉時代の僧侶であり、法華経の教えを基に「南無妙法蓮華経」を唱えることで救済が得られると説きました。彼は幕府や他宗派を厳しく批判し、流罪や迫害を受けながらも、強い信念を貫いたことで知られています。上原は、日蓮の生涯と思想に触れることで、学問と社会の関わり方について新たな視点を得ました。

特に上原が注目したのは、日蓮の「立正安国論」に示された国家観でした。日蓮はこの著作の中で、「国家が正しい仏法を信じなければ、乱れや災厄が起こる」と主張しました。上原は、これを単なる宗教的な教えではなく、「社会の倫理や道徳が崩れたとき、国家や政治がどのように変質していくのか」を示した歴史的な警鐘として読み解きました。特に、戦後日本における経済至上主義や政治的混乱を見たとき、日蓮の警告が現代にも当てはまると考えたのです。

また、日蓮の「異端者」としての生き方にも強く惹かれました。日蓮は、当時の主流仏教勢力や幕府に対して真っ向から批判を展開し、幾度となく弾圧されました。それでも彼は自らの信念を貫き、最終的には多くの信者を獲得しました。この姿勢は、権威や体制に迎合せず、真理を追求する学者の生き方とも重なります。上原は、日蓮の信念と行動を通じて、「知識人としての独立性と責任」という課題を再認識したのです。

「高島宗助」として過ごした隠遁生活の意味

1970年代に入ると、上原專祿は学界の表舞台から距離を置くようになります。そして、彼は「高島宗助(たかしま そうすけ)」という別名を名乗り、鎌倉の山間に隠遁しました。この突然の隠遁は、学界に大きな衝撃を与えました。なぜ彼は「高島宗助」として静かな生活を送ることを選んだのでしょうか。

一つの理由は、政治的な疲弊でした。1960年代の安保闘争をはじめとする政治運動の中で、彼は知識人として積極的に発言し続けました。しかし、その結果、学問的な研究よりも政治的な論争に巻き込まれることが多くなりました。特に、安保闘争後の日本社会では、知識人に対する政治的圧力が高まり、学問の自由が脅かされる場面も増えました。こうした状況の中で、上原は「歴史学者としての本来の仕事に集中したい」と考え、学界を離れる決断をしたのです。

もう一つの理由は、精神的な探求でした。上原は、歴史学を「過去を研究することで現在と未来を理解する学問」と捉えていましたが、その考え方をさらに深めるためには、実際に現代社会から距離を置き、自己と向き合う時間が必要だと考えました。彼は日蓮のように、孤独の中で思索を深めることを選びました。そして「高島宗助」という名前を使うことで、これまでの社会的役割から解放され、純粋に学問と向き合うことを試みたのです。

この隠遁生活の中で、上原は仏教思想と歴史学の関係を探究し、『死者・生者―日蓮認識への発想と視点』という著作を残しました。この本の中で彼は、日蓮の思想を歴史学的に分析し、現代社会における倫理観や精神性の問題を論じました。彼は「歴史学は単に過去の出来事を研究するのではなく、人間の生き方そのものを問い直す学問である」と述べています。

歴史学者としての宗教観と哲学

上原專祿は、日蓮研究を通じて、歴史学と宗教の関係を新たに捉え直しました。それまでの歴史学では、宗教は主に「社会的・政治的な影響を分析する対象」として扱われることが一般的でした。しかし、上原は「宗教とは、人間が生きる上での根本的な価値観や思想を形成するものであり、歴史の流れの中で常に重要な役割を果たしてきた」と考えるようになりました。

彼の宗教観の特徴は、単なる信仰ではなく、宗教を「思想体系として歴史の中でどのように機能してきたか」という視点で捉える点にあります。例えば、彼は日蓮の思想を研究する中で、「鎌倉時代の社会不安の中で、人々がどのように信仰に救いを求めたのか」を分析しました。そして、それを現代に当てはめ、「現代社会においても、人々は精神的な支えを必要としているが、それをどのように提供するべきか」という問いを立てました。

また、上原は「知識人と宗教」の関係についても考察を深めました。近代以降の知識人の多くは、宗教を「非合理的なもの」として排除する傾向にありましたが、上原は「宗教を無視することは、人間の思想や行動を理解する上で大きな欠落を生む」と考えました。彼は、「知識人は宗教を盲目的に信じるのではなく、それを批判的に分析しながらも、その持つ意味や価値を正しく理解するべきだ」と主張しました。

このように、上原專祿は歴史学者としての立場から日蓮思想を探究し、それを通じて「歴史とは何か」「知識人の役割とは何か」という根本的な問題に向き合いました。彼のこの姿勢は、単なる学問研究にとどまらず、社会や人間の在り方そのものを問い直す試みでもあったのです。

死後に明かされた真実

「高島宗助」の名が公になるまでの経緯

上原專祿が「高島宗助」という名前を使って隠遁生活を送っていたことは、生前の彼を知る人々にとっても謎に包まれていました。彼が公の場から姿を消した1970年代以降、一部の学界関係者は彼の行方を気にかけていましたが、「高島宗助」としての活動はごく限られた人々の間でのみ知られていました。

しかし、彼の死後、研究者たちによる調査が進められ、彼が高島宗助として著作を発表し、思想を深めていたことが徐々に明らかになりました。特に、彼の遺品の中から発見された日記や手紙には、「なぜ学問の場を離れ、仮名を用いて研究を続けたのか」についての詳細な記録が残されていました。

そこには、彼の深い葛藤が綴られていました。戦後日本の学問のあり方に対する疑問、政治との距離感に悩んだこと、知識人として発言し続けることの難しさなど、彼の思索の過程が記されていたのです。彼は日記の中で、「学問は社会に対して何ができるのか」と自問し続け、「表に立って発言することよりも、沈黙の中で思想を研ぎ澄ませることの方が、時には重要なのではないか」と記していました。

また、彼の死後、元門下生や研究者たちの間で「高島宗助」の名が話題となり、その正体が明かされると、多くの人が驚きとともに彼の思想の深まりを再評価しました。特に、彼が晩年に取り組んでいた日蓮研究とその思想的影響については、「学問の枠を超えた、人間の根本的な問いへの探求だった」とする評価も出てきました。

未完に終わった研究と遺された資料群

上原專祿が生前に残した研究は膨大なものでしたが、その多くは未完のままでした。特に、彼が「高島宗助」として執筆していた論考の中には、公に発表されることなく、草稿のまま残されたものが多数ありました。

彼が晩年に取り組んでいたテーマの一つに、「世界史における宗教と権力の関係」があります。彼はモンゴル帝国、ヨーロッパ中世、そして日本の歴史を比較し、それぞれの時代において宗教がどのように政治と結びつき、時には対立し、時には協調したのかを分析しようとしていました。特に、日蓮の政治的発言と中世ヨーロッパにおける宗教改革の思想を比較する試みは、これまでの歴史学には見られない斬新な視点でした。

また、彼は「世界史の起点としての13世紀」についてもさらに深めようとしていました。彼は、モンゴル帝国の拡張がもたらした経済・文化の交流が、単なる交易の発展だけでなく、思想や信仰のあり方にも影響を与えたと考えていました。しかし、この研究は完成を見ず、彼の遺稿として残ることになります。

彼の没後、遺族や門下生によって遺稿の整理が行われ、多くの資料が発見されました。それらは、彼が隠遁生活の中で思索を深め続けていた証であり、彼の思想の進化を示す貴重な記録でした。特に、彼の研究ノートや日記には、既存の歴史学の枠組みを超えようとする意欲が強く感じられました。

上原專祿の思想が現代に与え続ける影響

上原專祿の研究と思想は、彼の死後も多くの研究者に影響を与え続けています。特に、彼が提唱した「13世紀=世界史の起点」論は、グローバル・ヒストリー(世界史的視点から歴史を捉える方法)の発展とともに、再評価されています。近年の歴史学では、従来の西洋中心の視点を超えて、東洋やイスラム圏、ユーラシア全体の歴史的相互作用を重視する傾向が強まっています。この点において、上原が示した視座は、今日の歴史研究の先駆けであったといえるでしょう。

また、彼の思想は、歴史学だけでなく、教育や社会思想の分野にも影響を与えています。彼が提唱した「歴史学を通じた批判的思考の育成」は、日本の歴史教育においても重要な視点とされています。彼の教えを受けた学者たちや教育者は、「歴史を学ぶことは、過去を知ることだけでなく、現在を問い、未来を考えることである」という彼の理念を継承しています。

さらに、彼の晩年の宗教思想研究は、歴史学と哲学、倫理学をつなぐ新たな領域を開拓する試みとして注目されています。彼が日蓮思想を通じて追求した「知識人の責任」や「社会における信念の持ち方」は、現代社会においても重要なテーマです。特に、情報が氾濫し、価値観が多様化する現代において、彼の「批判的思考と精神的探求の両立」という姿勢は、多くの示唆を与えてくれます。

上原專祿の生涯は、単なる学問研究にとどまらず、社会との関わり、思想の深化、そして知識人の責任についての問いを投げかけるものでした。彼が残した遺稿や研究は、今なお新たな視点を提供し続けています。

上原專祿を描いた書籍と研究

『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』に見る上原專祿の評価

上原專祿の学問的な業績は、彼の死後も多くの研究者によって評価され続けています。その中でも、土肥恒之の著作『日本の西洋史学 先駆者たちの肖像』(講談社学術文庫)において、上原は日本の西洋史学の発展に大きく貢献した学者の一人として紹介されています。

本書では、上原の研究が日本の西洋史学に与えた影響が詳しく論じられています。特に、彼が提唱した「13世紀=世界史の起点」論や、封建制の経済的側面に注目した研究は、当時の日本の歴史学界において画期的なものであったとされています。戦前・戦後の歴史学の流れの中で、上原のようにヨーロッパ史を社会経済史の視点から捉えようとした学者は少なく、彼のアプローチは従来の政治史中心の研究とは一線を画していました。

また、本書では、上原が教育者として果たした役割についても言及されています。彼の一橋大学での大学改革や「社会科学総合大学構想」は、戦後日本の高等教育において先駆的な試みでした。彼の教育方針は、単なる知識の伝達ではなく、「歴史を通じて社会を分析し、未来を考える力を養う」ことに重点を置いていました。この点は、現代の歴史教育にも大きな示唆を与えるものとされています。

さらに、上原の知識人としての姿勢にも触れられています。特に、1960年の安保闘争において彼が果たした役割や、その後の「高島宗助」としての隠遁生活についても詳細に記述されており、「政治と学問」「知識人の社会的責任」というテーマの中で、彼の生き方がどのような意味を持つのかが考察されています。

『上原專祿著作集』に収められた膨大な研究成果の全貌

上原專祿の研究を体系的に知る上で最も重要な資料が、評論社から刊行された『上原專祿著作集』(全28巻)です。この著作集には、彼の生涯にわたる研究の集大成が収録されており、中世ヨーロッパ史の研究から、戦後の教育論、そして晩年の宗教思想に至るまで、幅広いテーマが網羅されています。

著作集の中でも特に重要とされるのが、彼の代表的な論文群です。

  • 「13世紀=世界史の起点」論上原の歴史学の根幹をなすこの理論は、世界史の流れを単なる西洋中心史観ではなく、ユーラシア全体の視点から捉え直すものでした。モンゴル帝国の拡張と交易ネットワークの発展、貨幣経済の広がりなどがどのように近代へとつながるのかが詳細に論じられています。
  • 中世封建制の社会経済的分析上原は、従来の封建制度の研究が政治史に偏りすぎていることを批判し、経済史や社会史の視点を取り入れました。彼は、西ヨーロッパと東ヨーロッパ、さらには日本の封建制を比較し、その構造的な共通点と相違点を明らかにしようとしました。
  • 戦後の大学改革と教育思想上原は、教育の場において歴史学が果たすべき役割を重視していました。戦後日本の教育制度のあり方を批判しながら、新たな学問のあり方を模索した論文群は、現代の教育政策を考える上でも示唆に富む内容となっています。
  • 宗教史と日蓮研究晩年の隠遁生活の中で、上原は日蓮思想に関する研究を深めました。彼は日蓮の思想を、日本中世の宗教史の文脈だけでなく、ヨーロッパ中世の宗教運動と比較しながら分析し、「宗教が社会変革に果たす役割」を考察しました。

この著作集は、上原の学問的遺産を後世に伝える重要な記録であり、彼の研究が現代の歴史学や社会科学にどのような影響を与えたのかを理解する上で欠かせない資料となっています。

『クレタの壺』が示す世界史観の形成プロセス

上原專祿の研究を象徴する書籍の一つに、『クレタの壺―世界史像形成への試読』があります。この著作は、彼が歴史学を通じて世界史の見方をどのように形成していったのかを示すものであり、彼の思想の変遷を理解する上で非常に重要なものです。

本書のタイトルにある「クレタの壺」は、ギリシャ文明の中核をなしたクレタ島の文化を象徴するものです。上原は、この壺を歴史学の比喩として用い、「一つの文化や文明は、個々の要素の集合体として成立する」という考えを示しました。つまり、歴史とは単独の国家や民族の発展ではなく、異なる文化や社会が影響を与え合いながら形作られるものである、という視点です。

本書の中で、上原は「歴史とは何か?」という根本的な問いに立ち戻り、歴史学の方法論についても言及しています。彼は、従来の歴史学が政治や戦争の記述に偏りすぎていることを批判し、経済・社会・宗教・文化といった多角的な視点を取り入れるべきだと主張しました。この考え方は、現代のグローバル・ヒストリーの視点と一致するものであり、上原の歴史学が時代を先取りしたものであったことを示しています。

また、本書の中では「歴史学は未来を考えるための学問である」という彼の信念が強く打ち出されています。過去の出来事を分析するだけでなく、その知識をもとに現代社会の課題を読み解き、未来の方向性を見出すことこそが歴史学の使命であると彼は考えていました。この思想は、彼が晩年に至るまで追求し続けたテーマであり、知識人としての彼の姿勢を象徴するものです。

上原專祿の研究は、その独創性と視野の広さにおいて、今なお多くの学者や読者に影響を与え続けています。彼の著作や研究は、単なる過去の遺産ではなく、現代の歴史学や教育にとっても貴重な指針を示すものとなっています。

まとめ——上原專祿の生涯とその遺産

上原專祿は、戦前から戦後にかけて、日本の歴史学と教育の発展に多大な影響を与えた知識人でした。京都の商家に生まれながらも学問の道を志し、ウィーン大学での留学を経て、中世ヨーロッパ史の研究を深化させました。彼の「13世紀=世界史の起点」論は、当時の日本の歴史学界に新たな視点をもたらし、西洋史を単なるヨーロッパの歴史としてではなく、世界史の中の一部として捉える重要性を説きました。

一橋大学では、戦後の大学改革を推進し、「社会科学総合大学」としての新たな教育方針を確立しました。彼の提唱した「上原構想」は、単なる経済・商業教育を超えて、歴史・社会学・政治学などを統合的に学ぶ場を提供し、現代の学際的な研究の礎を築きました。

また、1960年の安保闘争においては、知識人として積極的に発言し、社会と学問の関係について深く考え続けました。しかし、その後は政治的な疲弊と自己の思想的探求のために隠遁し、「高島宗助」として宗教思想の研究に没頭しました。特に日蓮思想に関心を寄せ、「知識人の使命」と「歴史学の本質」についての思索を深めていきました。

彼の死後、遺された研究や著作は再評価され、歴史学のみならず、教育や社会思想の分野にも影響を与え続けています。『上原專祿著作集』や『クレタの壺』などの著作は、現代においても重要な研究資料とされており、彼の「歴史を通じて未来を考える」という理念は、多くの研究者や教育者によって受け継がれています。

上原專祿の生涯は、学問と社会の関わりを問い続けた知識人の軌跡そのものでした。彼の研究と思想は、歴史学の枠を超えて、現代社会における知識人の役割とは何かを問いかけ続けています。彼の生き方から学ぶべきことは多く、今後もその遺産は受け継がれていくことでしょう。

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