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サー・トーマス・ウェードの生涯:日本・清国・英国を繋いだ外交官

こんにちは!今回は、19世紀のイギリス外交官であり、中国語研究のパイオニアでもあるサー・トーマス・フランシス・ウェード(Sir Thomas Francis Wade)についてです。

アヘン戦争を経て中国語に目覚めた彼は、香港で通訳官としてキャリアを積み、駐清公使として活躍しました。また、中国語のローマ字表記法「ウェード式」を考案し、中国語教育の基礎を築いたことでも知られています。そんなウェードの生涯を詳しく見ていきましょう!

目次

アヘン戦争とウェードの中国語習得

ウェードの生い立ち—名門出身の学識豊かな青年

サー・トーマス・フランシス・ウェードは1818年8月25日、イギリスのロンドンに生まれました。彼の父トーマス・ウェード少将は、イギリス陸軍において長年指導的立場を務めた人物であり、軍人一家に育ったウェードも幼い頃から規律や責任感を重んじる環境で育てられました。家庭では高い教育を受けることが奨励され、幼少期から語学や文学に親しみ、特にラテン語やギリシャ語といった古典語の習得に励みました。

ウェードはケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに進学し、言語学と文学を専門的に学びました。当時のイギリスでは東洋学が徐々に注目され始めており、中国との貿易や外交の重要性が高まっていました。特にアヘン貿易をめぐる対立が激化する中で、中国語を解する人材の需要が高まっていました。ウェードも、こうした時代の流れの中で東洋言語に関心を持つようになり、中国語の学習に意欲を示すようになったのです。

アヘン戦争とイギリスの対清戦略

ウェードがケンブリッジ大学を卒業する頃、イギリスと清朝の関係は極めて緊張した状態にありました。19世紀初頭のイギリスは、中国から茶、絹、陶磁器などの輸入を急速に増やしていましたが、対価としての銀の流出が経済問題となっていました。これを補うため、イギリスはインドで生産したアヘンを中国市場に密輸し、銀を取り戻すという貿易戦略を取りました。しかし、アヘンの流通が中国国内で深刻な社会問題を引き起こしたため、清朝政府はこれを厳しく取り締まり、1839年には林則徐が広州でアヘンを没収・廃棄するという強硬策に出ました。

これに対してイギリスは軍事行動を開始し、1840年にアヘン戦争が勃発しました。イギリス海軍の近代的な軍艦や火砲に対し、清軍の戦力は圧倒的に劣っており、戦争はイギリスの勝利に終わりました。1842年に締結された南京条約により、香港はイギリスに割譲され、広州・厦門・福州・寧波・上海の五港が開港されました。これにより、イギリスは清朝との外交交渉を本格化させる必要に迫られましたが、最大の課題は言語の壁でした。外交交渉において通訳が不可欠となる中、中国語を解するイギリス人の育成が急務となりました。

通訳官としての任務と中国語との出会い

こうした状況の中、ウェードは1845年にイギリスの外交官として中国へ派遣され、香港総督府で通訳官としての任務を開始しました。当時、イギリスの外交官のほとんどは中国語を話せず、清朝との交渉には現地の通訳を頼るしかありませんでした。しかし、清朝側の通訳が必ずしも正確な翻訳を行っているとは限らず、外交交渉は常に困難を極めていました。時には、清朝の通訳が意図的に情報を歪めたり、イギリス側の要求を弱めて伝えたりすることもありました。

こうした状況を打破するため、ウェードは自ら中国語を学ぶことを決意しました。彼は独学に加え、中国人教師の応龍田から官話(北京語)を学びました。当時、西洋人が中国語を学ぶ際には、広東語や福建語を習得するのが一般的でした。しかし、ウェードは清朝の官僚が用いる官話こそが最も実用的であると考え、北京語の学習に重点を置きました。彼は日々の業務の合間を縫って、中国の古典文学や公文書を読み込み、清朝の言語体系や文化への理解を深めていきました。

清朝との初対面—言語の壁と交渉の難しさ

ウェードが初めて清朝の官僚と直接交渉を行ったのは、1848年に上海での商務交渉に通訳として同行した時のことでした。清朝の役人は基本的に漢文による筆談を好みましたが、実際の会話では官話(北京語)が使われていました。しかし、当時のイギリス人通訳官の多くは広東語を学んでおり、交渉の場では言葉が通じず、議論が滞る場面が多々ありました。清朝の官僚たちは、広東語を話すイギリス人通訳を見て「夷人(異国人)とはまともな交渉ができない」と軽視することもありました。

ウェードはこの現実に衝撃を受け、「言語の壁を乗り越えなければ、清朝との外交は成功しない」と痛感しました。彼はより実践的な中国語の習得に努め、清朝の官僚たちが使う表現や慣習を学ぶために現地の学者たちとの交流を深めました。また、中国の官僚制度や法律についても研究し、交渉における戦略を模索しました。こうした努力により、ウェードは次第に清朝の役人たちの信頼を得るようになり、交渉の場でも発言力を持つようになっていきました。

ウェードの中国語習得は、単なる語学学習ではなく、清朝との外交を成功に導くための重要な手段でした。彼の努力は、やがて彼自身の外交官としてのキャリアを大きく発展させることとなり、さらには中国語研究の分野にも多大な影響を与えることになります。

香港総督府での通訳官時代と外交の第一歩

香港総督府での通訳官としての役割

1845年、サー・トーマス・フランシス・ウェードは正式にイギリスの外交官として中国へ派遣され、まず香港総督府に所属する通訳官としての任務を開始しました。香港は1842年の南京条約によってイギリスに割譲されたばかりであり、当時の香港総督ヘンリー・ポッティンジャーは、植民地統治の基盤を整えるとともに、中国本土との外交交渉を進める必要に迫られていました。こうした状況の中で、ウェードのような中国語を理解する人材は極めて重要な存在でした。

ウェードの主な役割は、清朝官僚との交渉における通訳を務めること、そして政府文書の翻訳を担当することでした。特に、当時のイギリスは清朝との貿易拡大を最優先事項としており、関税や港湾管理に関する交渉が頻繁に行われていました。ウェードは、清朝の役人が使用する文書の表現や外交儀礼を学びながら、イギリスの要求を正確に伝えることに努めました。

清朝との交渉で求められた語学力と通訳技術

ウェードは、中国語を学び始めたばかりの頃から、単なる通訳ではなく、交渉を成功に導くための「戦略的な通訳」を目指していました。彼は単に清朝の役人の発言を訳すのではなく、彼らの意図や文化的背景を理解した上で、より効果的な表現に言い換えることを心がけていました。

例えば、清朝の役人は「上奏文」や「勅令」といった格式張った表現を好み、外交の場でもそれに基づく文体を用いる傾向がありました。ウェードはこうした言葉遣いを慎重に扱い、イギリス側の意向を強調しつつも、相手の文化を尊重する形で通訳することを徹底しました。こうした配慮は、清朝側からの信頼を得るために重要な要素となりました。

また、通訳の場では、清朝の官僚がわざと曖昧な表現を用いることがありました。例えば、「考慮する」という表現が、単なる拒否の婉曲表現であることも多かったのです。ウェードはこうした言葉の真意を読み取り、イギリス側の交渉官に適切な対応を助言する役割も果たしました。彼の通訳技術は次第に評価されるようになり、外交交渉において欠かせない存在となっていきました。

外交官への転身—言語を武器にしたキャリアの始まり

ウェードが香港総督府での通訳官として活動する中で、彼の語学力と交渉能力は高く評価され、次第により重要な外交任務を任されるようになりました。彼が大きな転機を迎えたのは、1848年のことでした。この年、清朝との貿易摩擦が激化し、特に上海や広州の港で関税問題をめぐる対立が深まっていました。イギリスはこれらの問題を解決するため、外交団を派遣し、清朝との交渉に乗り出しました。ウェードもこの交渉団に通訳官として加わることになり、初めて本格的な外交交渉の場に立つこととなったのです。

この交渉では、清朝の役人がイギリスの要求を渋る場面が多く見られました。ウェードは、清朝の官僚たちが何を重視しているのかを観察しながら、交渉を円滑に進めるための言葉選びを工夫しました。例えば、清朝の役人が「長期的な関係」を強調する際には、それを利用して「安定した貿易関係を築くための譲歩が必要である」といった論理で交渉を進めるよう助言しました。

この経験を通じて、ウェードは単なる通訳ではなく、外交官としての素養を磨くこととなりました。彼は言葉の力を最大限に活用し、異なる文化を持つ国家同士の橋渡しをする役割に大きな意義を感じるようになったのです。

この時期を境に、ウェードは本格的に外交官としてのキャリアを歩み始めることになります。そして、この経験が、後の彼の中国語研究や外交政策に大きな影響を与えていくこととなるのです。

上海での税関行政と国際貿易への影響

上海副領事として直面した貿易摩擦

1850年代、サー・トーマス・フランシス・ウェードは香港総督府の通訳官から外交官としての正式な地位を確立し、1854年に上海副領事として着任しました。上海は1842年の南京条約で開港された五港のひとつであり、外国貿易の拠点として急速に発展していました。しかし、開港後の上海では、清朝側と西洋諸国の間で関税や税関の管理をめぐる摩擦が続いており、貿易の混乱が深刻化していました。

当時、清朝の税関行政は非常に複雑で、地方の役人が徴税を担当していたため、腐敗や不正が横行していました。上海港でも、清朝の役人が外国商人から過剰な関税を徴収する一方で、一部の中国商人には便宜を図るなど、不公平な税制が問題となっていました。さらに、条約で定められた税率が一貫して適用されず、西洋商人の間には不満が高まっていました。

このような状況の中で、ウェードはイギリスの貿易利益を守るため、清朝官僚との交渉に乗り出しました。彼は中国語に堪能であることを活かし、現地の官僚や商人と直接対話を重ねながら、税関行政の透明化を進めるための改革を提案しました。

税関行政の整備とイギリスの影響拡大

ウェードは、貿易の公正性を確保するためには、西洋諸国が税関の管理に積極的に関与する必要があると考えました。そこで彼は、清朝に対し「洋員税関制度」の導入を提案しました。この制度は、税関の管理を清朝の役人だけでなく、イギリスをはじめとする西洋諸国の官吏と共同で運営するものであり、最終的には中国の関税制度の改革へとつながっていきました。

この提案は清朝側にも一定の利点がありました。当時、清朝は太平天国の乱(1851年~1864年)によって財政が逼迫しており、効果的な税収の確保が急務となっていました。洋員税関制度を導入することで、欧米諸国からの貿易収益を安定化させることができると考えた清朝は、最終的にこの改革を受け入れることになりました。

1854年、上海においてイギリス、フランス、アメリカの代表と清朝官僚との間で交渉が行われ、新しい税関制度が正式に導入されました。この制度の下で、イギリスのロバート・ハートが税関の管理者として任命され、清朝の関税収入の安定化が図られることとなりました。ウェードはこの交渉において中心的な役割を果たし、清朝との外交における実務的な手腕を発揮しました。

清朝官僚との交渉—信頼関係の構築と外交の実践

ウェードの外交手腕が特に発揮されたのは、清朝の官僚たちとの信頼関係の構築でした。当時、西洋諸国の外交官は清朝の官僚から「夷人(異国人)」として軽視されることが多く、交渉は形式的なものになりがちでした。しかし、ウェードは流暢な中国語を話し、清朝の文書や儀礼にも精通していたため、他の西洋人外交官とは異なる立場を築くことができました。

特に、清朝の重臣であり外交交渉を担当していた恭親王奕訢との関係は、ウェードの外交活動において極めて重要なものでした。奕訢は西洋諸国との交渉に理解を示す一方で、中国の主権を守ることにも強いこだわりを持っていました。ウェードは彼との交渉を通じて、清朝が完全に西洋諸国に従属するのではなく、相互の利益を考慮しながら協調的な関係を築くことが可能であることを示しました。

ウェードはまた、清朝の官僚だけでなく、中国の商人層とも積極的に交流を持ちました。彼は上海の有力な商人たちと直接対話し、西洋諸国との貿易が清朝経済にとって有益であることを説明しました。こうした地道な活動により、上海におけるイギリスの影響力は次第に強まっていきました。

北京駐在と中国語研究の深化

北京での通訳・翻訳業務の本格化

1858年、サー・トーマス・フランシス・ウェードはイギリスの外交官として北京に駐在することになりました。この年、イギリスとフランスは清朝との間で第二次アヘン戦争(1856年~1860年)を戦い、その戦勝の結果として天津条約を締結しました。この条約によってイギリスは北京に公使館を設置する権利を獲得し、ウェードはその最前線で活動することになったのです。

北京駐在の最大の目的は、清朝との条約履行を確実にすることでした。1858年に締結された天津条約は、清朝側に対して外国公使の北京常駐を認めさせる条項を含んでいましたが、清朝の保守派官僚たちはこれに強く反発していました。彼らは外国人が皇帝のいる紫禁城の近くに駐在することを「国辱」と捉え、西洋諸国の要求に消極的な姿勢を示していました。こうした状況の中で、ウェードは清朝官僚と交渉を行い、条約の履行を確実にする役割を担うことになりました。

北京でのウェードの業務は、多岐にわたりました。外交交渉における通訳や翻訳業務はもちろん、清朝政府から送られてくる膨大な量の公文書の解読や分析も重要な任務でした。清朝の公文書は、古典的な漢文で記されており、詩的な表現や歴史的な比喩が多用されるため、その解釈には高度な知識が求められました。ウェードはすでに流暢な中国語を話すことができましたが、より正確な翻訳を行うために、さらに深く中国の政治制度や法律体系を研究するようになりました。

また、この時期の外交交渉は、単なる言葉の問題にとどまらず、文化的な違いによる誤解が頻発するものでした。例えば、清朝の外交儀礼では、外国の使節は皇帝に対して三跪九叩頭の礼(ひざまずいて9回額を地面につける礼儀)を行うことが求められていましたが、西洋の外交官たちはこれを「屈辱的な行為」として拒否していました。ウェードはこうした問題を円滑に解決するため、清朝側に対してより対等な交渉の場を作るよう働きかけました。彼は中国語の正確な理解だけでなく、外交儀礼や歴史的背景にも通じていたため、西洋と中国の間で橋渡しをする重要な役割を果たしたのです。

中国語研究とウェード式ローマ字表記の確立

北京駐在を通じて、ウェードは中国語研究の必要性をより強く認識するようになりました。当時、清朝と交渉を行う西洋の外交官の多くは、中国語をほとんど理解していませんでした。そのため、交渉では常に清朝側の通訳に頼らざるを得ず、時には意図的な情報操作が行われることもありました。この状況を改善するため、ウェードは中国語教育の体系化に着手し、西洋人がより効率的に中国語を学べる方法を模索することになります。

その中で生まれたのが、後に「ウェード式ローマ字表記(Wade-Giles system)」と呼ばれる中国語の音訳方式です。19世紀の中国語には標準的な発音表記の方法が存在せず、西洋人が中国語の正しい発音を学ぶのは困難でした。ウェードは、北京語の発音をアルファベットで表記し、西洋人が容易に学習できるようにすることを目指しました。この表記法では、中国語の音節をラテン文字に置き換えるだけでなく、発音の違いを明確に区別するための記号も導入されました。例えば、「北京」は「Peking」、「重慶」は「Chungking」と表記されるなど、後に英語圏で広く使われる表記法の基礎が築かれました。

ウェード式ローマ字表記は、西洋人が中国語を学ぶための革新的な手段となり、後にハーバート・ジャイルズによって改良が加えられました。20世紀に入ると、この方式は中国語学習の標準的な表記法として広く採用され、特にイギリスやアメリカの学者、外交官の間で重用されました。中国語を学ぶための最初の体系的なアプローチとして、ウェードの業績は非常に大きな影響を与えたのです。

また、ウェードは単に表記法を作るだけでなく、中国語学習のための教科書も執筆しました。彼の代表的な著作のひとつが、『語言自邇集(Yü-yen Tzŭ-erh Chi)』です。この書籍は、中国語を学ぶ西洋人向けに作られたもので、実際の会話表現や官僚との交渉で用いられる言葉などが詳細に記載されていました。これは当時の外交官や商人にとって貴重な学習資料となり、中国語教育の分野においても革新的な試みとなりました。

語学を超えた外交手腕—清朝との交渉の工夫

ウェードは北京での駐在を通じて、中国語の研究を深めるだけでなく、実際の外交交渉においても卓越した手腕を発揮しました。彼の交渉スタイルの特徴は、清朝の官僚が重視する文化的・歴史的背景を理解した上で、西洋式の論理的な交渉術を組み合わせることでした。

例えば、清朝の官僚たちは「面子(メンツ)」を非常に重視しており、直接的な要求や強硬な態度を取ることは逆効果になることが多かった。ウェードはこれを理解し、清朝側が譲歩しやすい形で交渉を進めるため、穏やかな表現や過去の事例を引用するなどの工夫を凝らしました。また、清朝の官僚たちは儒教的な価値観を持ち、西洋式の契約社会とは異なる思考をしていたため、ウェードは彼らの道徳観や倫理観を考慮しながら交渉を行いました。

このような工夫により、ウェードは清朝との外交交渉において数々の成果を挙げることができました。彼の外交手腕は、単に言葉の問題を超えたものであり、西洋と中国の間に新たな関係を築く上で重要な役割を果たしました。

『語言自邇集』の編纂と中国語教育の革新

中国語教育の必要性を痛感したウェードの試み

北京駐在を通じて、サー・トーマス・フランシス・ウェードは、中国語教育の体系化が急務であることを痛感しました。彼自身は長年の学習と実践を通じて流暢な北京語を話せるようになっていましたが、イギリスの外交官や商人のほとんどは中国語を理解できませんでした。そのため、西洋人が清朝の官僚や商人と直接交渉する際には、必ず通訳を介する必要がありました。これは単なる言語の問題ではなく、外交や貿易における主導権を握るためにも重要な課題でした。

特に、西洋諸国と清朝の関係が緊迫する中で、正確な通訳の必要性がますます高まっていました。清朝側の通訳が意図的に西洋諸国の要求を弱めて伝えたり、逆に自国の立場を有利にするよう翻訳したりするケースも多かったため、イギリス外交官たちは常に不利な立場に置かれていました。こうした状況を改善するためには、単に通訳に頼るのではなく、西洋人自身が中国語を習得し、清朝の官僚と直接交渉できるようにすることが不可欠だったのです。

また、ウェードは、中国語を学ぶ上で最大の障害は「発音の難しさ」と「文法の違い」であると考えていました。特に北京語は声調(四声)を持つ言語であり、これを正しく発音できないと意味がまったく異なってしまうため、西洋人にとって習得が困難でした。さらに、漢字は表意文字であり、アルファベットを用いる西洋人にとっては読み書きが非常に難しかったのです。ウェードは、これらの問題を克服するために、独自の中国語学習法を開発しようと考えました。

『語言自邇集』の特徴とその革新性

こうした背景のもと、ウェードは1867年に『語言自邇集(Yü-yen Tzŭ-erh Chi)』を編纂・出版しました。この書物は、西洋人が中国語(特に北京語)を学ぶための教科書として作られたものであり、当時としては画期的な試みでした。

『語言自邇集』の最大の特徴は、「ウェード式ローマ字表記(Wade-Giles system)」 を用いて、中国語の発音を正確に記録した点にあります。それまで、西洋人が中国語を学ぶ際には、英語の発音に近いカタカナ的な表記を用いることが多かったため、実際の発音とは大きく異なっていました。しかし、ウェードは北京語の発音を詳細に分析し、ローマ字で正確に表記する方法を開発しました。たとえば、「北京」は「Peking(ペキン)」、「重慶」は「Chungking(チョンキン)」と表記するなど、現在でも英語圏で見られる中国の地名表記の多くは、ウェードの方式に由来しています。

また、『語言自邇集』は単なる単語集ではなく、実際の会話や公文書の例文を豊富に掲載していた点でも画期的でした。それまでの中国語学習書は、主に漢文(書き言葉)を中心に構成されていましたが、ウェードは外交交渉や商取引の場で実際に使われる「話し言葉(口語)」を重視し、実用的な会話例を数多く掲載しました。たとえば、「港で荷物を通関する際の会話」や「清朝官僚と税関交渉をする際の言い回し」など、西洋人が直面する場面ごとに具体的な例文を提供したのです。

さらに、『語言自邇集』には、清朝の法律や政治制度、外交儀礼に関する説明も含まれており、中国の文化や習慣を理解するための重要な手引きとなりました。ウェードは単なる語学書ではなく、「中国との外交や貿易を成功させるための実用書」としてこの本を編纂したのです。

後世への影響—中国語学習に与えた変革

『語言自邇集』は、西洋における中国語教育に革命をもたらしました。それまで、中国語は「文語(漢文)」を学ぶものとされていましたが、ウェードの著書によって初めて「口語(北京語)」を体系的に学習する方法が確立されたのです。この影響は、後にハーバート・ジャイルズによる改良を経て、20世紀の中国語学習の基礎となりました。

また、ウェード式ローマ字表記は、その後100年以上にわたり、西洋人が中国語を学ぶ際の標準的な発音表記として使用されました。特に、イギリスやアメリカの外交官や学者たちは、この方式を用いて中国語を学び、清朝との交渉や学術研究を進めることができるようになりました。

さらに、『語言自邇集』は、日本の中国語教育にも影響を与えました。19世紀後半から日本でも中国語学習が盛んになり、明治時代の学者たちはウェードの著書を参考にして中国語教育の方法を研究しました。特に、日本の外交官や通訳官の養成において、ウェードの教材は重要な役割を果たしたのです。

しかし、ウェード式ローマ字表記は後に中国国内で廃止されることになります。20世紀に入ると、中国ではピンイン(漢語拼音)が開発され、1958年には正式に中国政府によって採用されました。ピンインは、中国語の発音を表記するための新しい方式であり、現在では世界中で標準的に使用されています。しかし、ウェードの方式は長年にわたり西洋の学術界や外交界で使用され、中国語学習の発展に大きく貢献したことは間違いありません。

このように、『語言自邇集』の編纂は、単なる語学書の出版にとどまらず、西洋人が中国語を学び、清朝との外交や貿易を円滑に進めるための礎を築くものとなりました。ウェードの中国語教育への貢献は、後世においても高く評価されるべき偉業であり、中国語学習の歴史において重要な転換点となったのです。

駐清公使としての外交戦略

駐清公使就任—イギリスの対清政策を牽引

サー・トーマス・フランシス・ウェードは、1871年にイギリスの駐清公使に正式に就任しました。当時、清朝は太平天国の乱(1851年~1864年)や洋務運動(1860年代~1890年代)の影響を受け、西洋列強との関係を模索している最中でした。一方で、イギリスをはじめとする列強諸国は、中国市場の拡大を目指し、さらなる貿易の自由化と権益確保を求めていました。こうした状況の中で、ウェードは駐清公使として、イギリスの対清外交を主導する立場となったのです。

ウェードの外交戦略は、単なる武力による圧力ではなく、言語と交渉を駆使して清朝側に譲歩を引き出すことにありました。彼は長年の中国語研究を生かし、清朝官僚と直接対話を行うことで、従来の強硬策とは異なるアプローチを取りました。特に、恭親王奕訢(きょうしんおう えききん)との関係を重視し、イギリスと清朝の協調的な関係構築を目指しました。奕訢は清朝内で西洋の技術や制度の導入を推進する開明派であり、ウェードとの交渉を通じて清朝の近代化を進めようとしました。

ウェードが公使として直面した最大の課題の一つは、条約の履行問題でした。清朝は1860年の北京条約でイギリスに天津の開港を認めていましたが、実際には開港が進まず、イギリス商人の活動が制限されていました。この問題を解決するため、ウェードは清朝側と粘り強い交渉を続け、1876年に 「芝罘条約(ちふじょうやく)」 を締結しました。この条約によって、天津を含む複数の港が正式に開港され、イギリス商人の活動範囲が拡大されることになりました。

西洋列強の進出と複雑化する外交交渉

19世紀後半になると、イギリスだけでなくフランス、ロシア、ドイツなどの列強も中国への進出を強め、清朝との外交交渉はますます複雑化していました。フランスはベトナムを支配下に置き、ロシアは中央アジアから清朝領内に圧力をかけるなど、各国が中国に対する影響力を競い合っていました。

ウェードは、この列強間の競争の中でイギリスの利益を守るために、清朝との関係を慎重に調整する必要がありました。彼は清朝が極端にフランスやロシアに傾くことを防ぐため、イギリスとの友好関係を維持しつつ、適度な距離を取るよう働きかけました。

特に1870年代には、新たな外交問題が浮上しました。1875年、イギリス人探検家のオーガスタス・レイモンド・マーガリーが中国雲南省で殺害される事件が発生しました。マーガリーは、イギリスとビルマ(現在のミャンマー)間の貿易ルートを調査していた最中であり、この事件はイギリス国内で大きな反響を呼びました。ウェードは直ちに清朝に対して強い抗議を行い、事件の責任追及と賠償を要求しました。清朝側は当初、マーガリー殺害が現地の暴徒によるものだと主張し、責任を回避しようとしましたが、ウェードは事件の徹底調査と処罰を求めて交渉を行いました。最終的に、清朝はイギリス側の要求を受け入れ、1876年の芝罘条約の中でマーガリー事件に関する補償と、イギリス人の安全確保を約束しました。

この一連の交渉を通じて、ウェードは清朝との外交において「圧力と妥協のバランス」を取ることの重要性を示しました。彼は、単に強硬な態度を取るのではなく、清朝側の立場を理解しながら交渉を進めることで、最終的にイギリスの利益を確保する道を選んだのです。

清朝との条約締結—イギリス外交の成果と影響

ウェードが駐清公使として行った最大の功績は、1876年の芝罘条約の締結です。この条約によって、イギリスは清朝との関係をより有利なものとし、中国市場へのさらなる進出を実現しました。

芝罘条約の主な内容は以下の通りです。

  1. 天津の正式開港 – 1860年の北京条約で開港が約束されていたものの、清朝側が実施を遅らせていた天津が正式に開港され、イギリス商人の活動が自由に行えるようになった。
  2. 貿易の拡大 – イギリス商人が中国国内で移動しやすくなり、新たな貿易ルートが開拓された。特に、内陸部への商業進出が可能になったことは、イギリス経済にとって大きなメリットとなった。
  3. マーガリー事件の解決 – 清朝はイギリスに対して謝罪し、関係者の処罰と賠償を行うことが約束された。
  4. 外交官の自由な移動 – イギリスの外交官が清朝国内を自由に移動できるようになり、情報収集や交渉の自由度が増した。

この条約の締結によって、ウェードはイギリスの対清政策において重要な役割を果たしました。彼の交渉手腕は、単なる武力による圧力ではなく、言語能力と文化理解を駆使した外交の成果として高く評価されました。

しかし、芝罘条約は清朝にとってさらなる西洋列強の進出を許すものでもありました。この条約の結果、イギリスのみならず、他の列強諸国も中国市場への関心を高め、清朝の半植民地化が加速する要因の一つとなりました。ウェード自身は中国との協調関係を模索していましたが、結果的には列強の影響力が強まり、清朝の主権が次第に失われていくこととなったのです。

ウェードは1883年に駐清公使を退任し、イギリス本国に帰国しました。 しかし、彼が残した外交政策の影響はその後も続き、イギリスと清朝の関係を大きく変えることになりました。

日清関係における調停者としての役割

台湾出兵問題—その背景と外交的緊張

サー・トーマス・フランシス・ウェードが駐清公使として活動していた1870年代、東アジアの国際情勢は大きく変化していました。特に、日本の明治政府が近代化を進め、国際的な影響力を拡大しつつあったことが、清朝との間で新たな緊張を生む要因となっていました。その中でも、1874年の「台湾出兵」は、日清関係をめぐる最初の大きな外交問題となりました。

台湾出兵(征台の役)は、日本が清朝の統治下にある台湾へ軍事介入を行った事件です。その発端となったのは、1871年に発生した「琉球漂流民殺害事件」でした。この事件では、琉球王国(当時はまだ日本の完全な統治下にはなかった)の漁民が台湾に漂着し、現地の原住民によって殺害されるという事件が発生しました。これに対し、日本政府は清朝に対して賠償を要求しましたが、清朝側は「台湾の原住民は政府の支配下にないため責任は負えない」と主張し、交渉は難航しました。

これを受けて、日本政府は1874年に軍を派遣し、台湾南部の原住民居住地に攻撃を加えました。清朝は日本の出兵を強く非難しましたが、国内では太平天国の乱の影響が残り、さらに洋務運動による軍事改革の最中であったため、すぐに日本と戦争をする余裕はありませんでした。そのため、清朝は外交交渉による解決を模索することになり、この問題の調停役としてウェードが重要な役割を果たすことになったのです。

ウェードの仲介外交—バランスを取る手腕

台湾出兵をめぐる交渉において、ウェードは慎重な調停を行いました。イギリスは当時、日本との貿易関係を深めつつありましたが、一方で清朝との関係も重視していました。そのため、ウェードはどちらか一方に肩入れするのではなく、両国の主張を尊重しつつ、武力衝突を回避するための交渉を進めることを優先しました。

ウェードはまず、清朝側に対して、日本が台湾出兵を正当化する論拠を詳しく説明しました。日本は、「琉球王国は日本の属国であり、その国民が殺害された以上、国家として報復する権利がある」と主張していました。一方、清朝は「台湾は清朝領であり、日本が勝手に軍を派遣するのは国際法違反である」と反論していました。ウェードはこうした双方の立場を整理し、清朝側には「日本がこの問題を外交交渉ではなく軍事力で解決しようとしているのは、清朝の対応の遅れが一因である」と指摘しました。

さらに、日本側には「清朝が直接統治していない地域に軍事介入することは、国際社会において問題視される可能性がある」と警告しました。特に当時のイギリス政府は、中国市場の安定を重視しており、日本が清朝と戦争を起こすことは貿易に悪影響を及ぼすと考えていました。ウェードは日本政府に対して、台湾からの撤退を条件に清朝が一定の譲歩をするように提案しました。

この交渉の結果、1874年10月に日清間で「北京議定書」が締結されました。 その内容は、清朝が日本に対して琉球漂流民殺害に関する賠償金(50万両)を支払うこと、日本軍が台湾から撤退することなどでした。この解決策は、日本の面子を保ちつつも、清朝との全面衝突を避けるという形で決着しました。ウェードはこの仲介に成功し、東アジアの安定に貢献したのです。

日本・清国・英国の関係構築に与えた影響

ウェードの台湾出兵問題における調停は、日清関係だけでなく、イギリスの東アジア政策にも重要な影響を与えました。第一に、イギリスの対日外交政策の転換です。この事件を通じて、イギリスは日本が急速に近代化し、国際的な影響力を拡大しつつあることを実感しました。それまで、日本は中国や朝鮮と同様に「アジアの一国」として扱われていましたが、ウェードを含むイギリスの外交官たちは、日本が西洋列強と肩を並べる可能性を持つ国であると認識するようになりました。これが後の 日英同盟(1902年) につながる一つの契機となったと考えられます。

第二に、清朝の外交姿勢の変化です。ウェードの調停を通じて、清朝は「武力衝突を避けつつ、西洋列強と協力することで国際問題を解決できる」ことを学びました。これは、後の 李鴻章を中心とした「外交による国益の確保」 という戦略につながり、清朝の近代外交の基礎が築かれることになります。

第三に、日本と清朝の対立の芽生えです。この事件は一時的には平和的に解決されたものの、日本は清朝の対応を「弱腰」と見なし、さらに積極的な対外進出を図るようになりました。これが後の 日清戦争(1894年~1895年) へとつながっていく要因の一つとなったのです。

ウェードの調停外交の評価

ウェードの外交手腕は、この台湾出兵問題において高く評価されました。彼は 「力による威圧」 ではなく、「言語と交渉を駆使した調停」 によって紛争を回避し、双方が受け入れられる妥協点を見出すことに成功しました。この手法は、19世紀後半の国際関係において重要な外交モデルとなり、後のイギリス外交にも影響を与えました。

ウェードはこの事件を通じて、日本、清朝、イギリスの三国間関係を調整しつつ、東アジアの安定を維持することに貢献しました。しかし、この調停が長期的に日清関係を改善することにはつながらず、やがて両国は戦争へと突入していくことになります。ウェードの努力は一時的な成功を収めたものの、東アジアの国際情勢は彼の期待とは異なる方向へと進んでいったのです。

ケンブリッジ大学での学術貢献と後進育成

帰国後の学術的キャリア—中国語研究の発展へ

1883年、サー・トーマス・フランシス・ウェードは駐清公使の任を退き、長年にわたる外交活動に終止符を打ちました。40年近くにわたり中国と深く関わり続けた彼は、単なる外交官ではなく、言語学者としても高い評価を得ていました。帰国後、ウェードは中国語研究と後進の育成に力を注ぐことを決意し、その活動の場として母校であるケンブリッジ大学を選びました。

ケンブリッジ大学は、当時のイギリスにおいて最も権威ある学術機関のひとつであり、特に東洋学の研究においても先進的な取り組みを行っていました。ウェードは1888年に同大学の初代中国語教授に就任し、西洋における中国語教育の礎を築くことになります。彼の目的は、外交官や貿易商が実務に役立つ中国語を学べるようにすること、そして中国の歴史や文化を深く理解する人材を育成することにありました。

教授としてのウェードは、単なる語学教育にとどまらず、清朝の政治制度、法律、経済、外交史など幅広い分野にわたる知識を学生に伝えました。彼は「言語を学ぶことは、その国の考え方を学ぶことに他ならない」という信念を持っており、単なる会話能力だけでなく、中国文化や社会制度に対する深い理解を重視しました。そのため、授業では中国の公文書や条約文、儒教経典などのテキストを使用し、当時の外交交渉の実例を交えながら、実践的な知識を提供しました。

ケンブリッジ大学教授としての教育活動と影響

ウェードが教授として最も力を入れたのは、「ウェード式ローマ字表記」の普及と体系化でした。彼は北京駐在時代に開発したこの発音表記法を正式な教材として使用し、学生たちがより正確に中国語の発音を学べるようにしました。この方法は、西洋人が中国語を学ぶ際の標準となり、20世紀初頭まで広く用いられました。

また、彼はケンブリッジ大学において、中国語学科のカリキュラムを整備し、初めて正式な中国語学習プログラムを確立しました。それまでは、東洋学の一環として中国語が学ばれることはあっても、体系的な学習環境は整っていませんでした。ウェードは、初学者向けの発音・文法講座から、高度な文語文の読解まで段階的に学べるカリキュラムを作り、中国語教育を学問として確立することに貢献しました。

ウェードの教育活動は、ハーバート・ジャイルズをはじめとする後進の学者にも影響を与えました。ジャイルズはウェードの後任としてケンブリッジ大学で中国語を教え、ウェード式ローマ字表記を改良し、後に「ウェード=ジャイルズ式」として標準化しました。この方式は20世紀の中国語研究の基盤となり、特に英語圏で長く使用されることになります。

さらに、ウェードのもとで学んだ学生たちは、外交官、貿易商、宣教師などとして中国に渡り、現地での活動において彼の教育を活かしました。彼の門下生の中には、後に中国学の発展に寄与する研究者も多く輩出され、西洋における中国研究の礎が築かれることになりました。

中国語蔵書の寄贈とその意義—知の継承

ウェードは教育者としての活動だけでなく、学術資料の充実にも尽力しました。彼は駐清公使として長年にわたり中国各地を巡り、多くの貴重な書籍や文献を収集していました。特に、清朝の官僚制度に関する書物、儒教経典、漢文による歴史書などを重点的に集めており、これらは西洋における中国研究にとって貴重な資料となりました。

1895年、ウェードは自身の蔵書の大半をケンブリッジ大学に寄贈しました。この寄贈によって、同大学の東洋学研究は大きく発展し、中国語学習のみならず、歴史、文化、法律に関する研究の基盤が整えられました。ウェードの寄贈した書物の中には、現在でも貴重な歴史資料として保管されているものもあります。

この蔵書の寄贈は、単なる書籍の提供にとどまらず、「中国研究を西洋で発展させるための知的遺産の継承」 という意味を持っていました。ウェードは、自身の知識や経験を次世代に伝えることが最も重要であると考えており、学問の発展のために惜しみなく貢献しました。彼の寄贈した書籍は、20世紀を通じて多くの学者たちによって活用され、中国研究の発展に寄与することとなりました。

学者としての晩年と遺産

ウェードはケンブリッジ大学での教育活動を続けながら、晩年も中国語研究と執筆活動に励みました。彼は自身の著書の改訂作業を行い、中国語の発音表記法や文法体系の研究をさらに深めました。1895年には『語言自邇集』の改訂版を出版し、より精密な中国語教育の手引きを提供しました。

1895年7月31日、ウェードはロンドンでその生涯を閉じました。 享年76歳。彼の死後も、彼の業績は学問の世界に深く刻まれ続けました。彼が確立した中国語の教育体系は、20世紀における西洋の中国研究の基盤となり、彼の弟子たちによって引き継がれていきました。

特に、彼の「ウェード式ローマ字表記」は、後に改良されながらも20世紀半ばまで標準的に使用され続けました。現在ではピンイン(拼音)が中国語の標準表記となっていますが、ウェードの方式が中国語学習の歴史に与えた影響は計り知れません。

彼の学問への貢献は、単なる語学教育にとどまらず、西洋における**「中国理解の深化」** という大きな役割を果たしました。ウェードの研究と教育活動によって、中国語学習が実務的なものから学問として確立され、多くの人々が中国文化への理解を深めることができるようになったのです。

書物の中のウェード—評価と遺産

『終戦史録』にみるウェードの外交的評価

サー・トーマス・フランシス・ウェードの外交官としての功績は、19世紀後半のイギリス対清政策において重要な役割を果たしました。彼の交渉術や中国語能力を活かした外交スタイルは、後の英国外交官たちに多くの示唆を与えました。特に、日本の外務省が編纂した『終戦史録』 には、ウェードの外交活動に関する評価が記されています。

『終戦史録』は、日本政府が日清戦争(1894年~1895年)の経緯を記録した公式文書であり、その中でウェードの名前がしばしば登場します。彼は1870年代から1880年代にかけて、日清間の外交摩擦に関与しており、その調停役としての働きが評価されています。特に、台湾出兵問題(1874年)において、武力衝突を回避し、平和的解決を導いた手腕 は高く評価されていました。

しかし、日本側の視点から見ると、ウェードの外交姿勢には「慎重すぎる」との批判もありました。日本は当時、急速な近代化を遂げ、積極的な対外政策を展開していましたが、ウェードはあくまでも**「清朝との対話を重視する穏健な外交路線」** を貫いたため、日本政府とはしばしば意見が対立しました。

また、彼の仲介が一時的な解決にはつながったものの、最終的に日清戦争の勃発を防ぐことはできませんでした。日本は1894年に清朝と戦争を開始し、結果として清朝は敗北、1895年に下関条約が締結されました。これにより、清朝の国際的地位はさらに低下し、中国は列強による半植民地化の道を進むことになりました。ウェードの調停外交は一時的には成功を収めましたが、長期的な視点では東アジアの構造的な対立を解決することはできなかったのです。

『萬國公法』とウェードの国際法知識

ウェードの外交手腕を語る上で、国際法に関する知識も重要な要素の一つでした。彼は中国との交渉において、西洋の国際法を駆使しながら条約交渉を進めました。その際、特に参照したのが、清朝初の国際法書である『萬國公法』 でした。

『萬國公法』は、アメリカ人法学者ヘンリー・ホイートンの国際法書『Elements of International Law』を、W.A.P.マーティンが中国語に翻訳したものです。この書物は、清朝が西洋諸国との条約交渉を行う際の基準となり、近代的な国際関係の概念を中国にもたらしました。

ウェードは、『萬國公法』の内容を熟知しており、清朝との交渉ではしばしばこの書を引用しました。例えば、1876年の芝罘条約の交渉では、「国家主権」と「条約履行の義務」について清朝側に理解を促すために、『萬國公法』の内容を用いました。これは、清朝の官僚たちに西洋の国際法を受け入れさせる上で有効な手段となり、結果として条約締結が円滑に進むことになりました。

しかし、ウェードが駆使した国際法は、最終的に清朝にとって不利に働くことが多くなりました。西洋諸国は国際法を「普遍的な原則」として清朝に受け入れさせましたが、実際には自国の利益を最大化するための道具として活用していました。結果的に、清朝は「条約による外交」を通じて西洋諸国の影響下に置かれることになり、半植民地化が進む要因の一つとなったのです。

『尋津録』『問答篇』『登瀛篇』—中国語研究の集大成

ウェードの遺産は外交だけにとどまらず、彼の中国語研究も後世に大きな影響を与えました。彼が生涯をかけて取り組んだ中国語教育の集大成ともいえるのが、彼の著作である『尋津録(Xun Jin Lu)』『問答篇(Wen Da Pian)』『登瀛篇(Deng Ying Pian)』の3冊です。

『尋津録』 は、中国語の実践的な会話集であり、外交交渉や商取引の場面を想定した具体的な対話例を掲載しています。これは、中国語を学ぶ西洋人にとって非常に実用的な教材となり、当時の外交官や商人たちが広く利用しました。

『問答篇』 は、漢文の解釈と語法に関する研究書であり、文語文(古典中国語)の読解方法について詳細に解説しています。この書物は、中国古典文学を学ぶ西洋の学者たちにとって貴重な資料となりました。特に、清朝の官僚文書を正確に理解するための指針として用いられ、西洋における漢文学研究の発展に貢献しました。

『登瀛篇』 は、中国語の音韻体系に関する研究書であり、ウェード式ローマ字表記の詳細な解説を含んでいます。彼はこの書物の中で、中国語の発音をより正確に表記する方法を提案し、後の言語学者たちが彼の方式を改良する基礎を築きました。

これらの著作は、19世紀の中国語学習における画期的な成果であり、西洋における中国語研究の発展に多大な貢献を果たしました。特に、ウェード式ローマ字表記は、20世紀初頭まで英語圏で広く使用され、中国語教育の標準となりました。

ウェードの遺産—学問と外交の橋渡し

サー・トーマス・フランシス・ウェードの生涯を振り返ると、彼は単なる外交官ではなく、言語学者・教育者としても卓越した功績を残した人物 であることがわかります。彼の外交交渉における言語能力は、西洋と中国の間の架け橋となり、国際関係の歴史において重要な役割を果たしました。

また、彼の学術的な遺産は、後の中国研究に大きな影響を与えました。彼の著作や教育活動は、中国語学習を体系化し、西洋における中国理解を深める基盤を築いた のです。

ウェードの功績は、現在でも中国語教育や東洋学の分野で語り継がれています。彼の名は「ウェード式ローマ字表記」として今なお知られ、その影響は世界中の学者や言語学習者に受け継がれています。

まとめ

サー・トーマス・フランシス・ウェードの生涯は、外交と学問の両面で西洋と中国の架け橋となった人物の軌跡 そのものでした。彼は駐清公使として、清朝との外交交渉を通じてイギリスの権益を拡大しつつも、単なる強硬策に頼るのではなく、言語と文化の理解を武器にした**「対話による外交」** を実践しました。その姿勢は、1876年の芝罘条約の締結や、台湾出兵問題の調停といった場面で顕著に表れ、武力衝突を避けつつイギリスの国益を確保するという巧みな戦略を示しました。

また、ウェードは単なる外交官ではなく、言語学者・教育者としての顔も持ち、中国語教育に多大な貢献をしました。『語言自邇集』の編纂や、ウェード式ローマ字表記の開発 により、西洋における中国語学習の標準を築きました。彼の研究と教育活動は、後にハーバート・ジャイルズによって引き継がれ、20世紀初頭まで英語圏の中国語学習に大きな影響を与えました。

さらに、ウェードが駐清公使を退任した後も、ケンブリッジ大学で中国語教育の礎を築き、多くの後進を育成 しました。彼の教育活動によって、中国研究は単なる実務的な語学教育から、より体系的な学問へと発展しました。彼の寄贈した蔵書は、今でも学術研究の貴重な資料として活用されています。

しかし、彼の外交努力にもかかわらず、清朝は19世紀後半から西洋列強の圧力にさらされ、結果的に半植民地化への道を歩むことになりました。ウェードの「対話と交渉による外交」が一定の成果を上げた一方で、列強間の競争や清朝の内政的混乱が、東アジアの国際情勢をさらに複雑にしていったことは否めません。

それでも、彼の業績は西洋と中国の相互理解を深める礎 となり、特に言語学と外交の分野において、彼が果たした役割は今もなお評価されています。彼の名前は「ウェード式ローマ字」として記憶され、中国語学習の歴史の中で確固たる地位を築いています。

サー・トーマス・フランシス・ウェードは、外交と学問の両面で中国との関係構築に貢献したパイオニア でした。その生涯を通じて彼が築いた知的遺産は、今もなお、国際関係と東洋学の分野において生き続けています。

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