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稲生若水とは何をした人?江戸の大百科『庶物類纂』を遺した博物学者の生涯

こんにちは!今回は、江戸時代中期の医学者・本草学者・儒学者、稲生若水(いのうじゃくすい)についてです。

薬草や動植物を徹底的に調べ上げ、日本初の“博物大百科”とも言える『庶物類纂(しょぶつるいさん)』の編纂に挑んだ若水は、知識を一人で抱え込むのではなく、後進の育成にも力を注ぎました。

約1000巻にも及ぶこの空前のプロジェクトが、どのように始まり、いかに受け継がれ、そして日本の学問に何を残したのか――その壮大な生涯を追っていきましょう。

目次

稲生若水の原点をたどる

江戸の淀藩屋敷に生まれて

稲生若水は、明暦元年(1655年)、江戸の淀藩屋敷で生まれました。父・稲生恒軒(本名・正治)は山城国淀藩に仕える儒医で、藩内外からその教養と人柄を評価されていました。儒医とは、儒学の精神に基づいた医療を行う医師であり、人の身体だけでなく心と倫理にも目を向ける存在でした。若水はそのような家に長男として生まれ、漢籍や医学書、薬草と共にある環境の中で育ちます。

江戸における藩邸生活は、単なる居住ではなく、学びの拠点でもありました。恒軒は治療の傍ら詩を詠み、書を読み、息子にも思索することの大切さを語ったと伝えられます。若水が家の蔵書を開き、漢文の語句や薬草の図に魅了されていったのは、自然な流れだったといえるでしょう。家庭の中に学問の息吹があり、書物の中に世界があった。そうした空気が、若水の知への扉を静かに開いていきました。

父・恒軒の学問と遺産

稲生恒軒は、ただ医術に優れた人物ではありませんでした。詩文を嗜み、儒学に通じ、中国の医学書や本草書を多数所蔵する教養人でもありました。その蔵書には『新校正本草綱目』や『炮炙全書』などが含まれ、若水はそれらに幼少のうちから触れていたとされます。文字と図が織りなす知の構造に彼が惹き込まれたのは、成り行きというより、環境が彼をそう導いたからでしょう。

恒軒の教育方針は、読書と実践の両立にありました。「学ぶとは、ただ記すことでなく、考え抜くことだ」――こうした姿勢が、若水の知的土壌を形成します。恒軒は延宝8年(1680年)に没しましたが、その時若水は25歳。学問の基礎を築きながら父を見送り、志の続きを自らの歩みとして継ぐことになります。父が遺したのは書物だけでなく、思考するためのまなざしでした。そのまなざしは、若水の生涯にわたり燃え続ける灯火となったのです。

江戸に学んだ知の感性

江戸という都市は、若水にとって単なる居住地ではありませんでした。寺子屋や私塾が並び、書肆や薬種商が通りを賑わせる江戸は、学問と情報の奔流が交差する知の都市でした。若水は、父の医療活動に同行する中で、こうした江戸の知的環境に自然と触れていきます。店先に並ぶ薬草、往来で交わされる学者たちの言葉、そして書物の香り――それらすべてが、彼の感性を刺激していきました。

とりわけ薬種商に対する関心は深く、彼は店頭に並ぶ薬草の実物を見ては、その名称や効能を知りたがったとされます。書物に描かれた植物と、実際の草根が結びついたとき、若水の中で学びは生きた知識となっていきました。観察と読書が結びつくこの体験が、彼の本草学への志を決定づけたのです。江戸という都市は、若水に「学ぶとは世界と交わることだ」という感覚をもたらし、それが彼の後の学問における礎となっていきました。

稲生若水、学問に目覚めた若き日々

父の書庫で広がった知の宇宙

稲生若水が初めて本草学という世界に足を踏み入れたのは、父・恒軒の書庫にある一冊の書物がきっかけでした。ある日、書棚から手にした『本草綱目』の厚い頁をめくると、そこに描かれていた精緻な草木の図と漢字の組み合わせが、彼の目を捉えました。「この葉は毒にも薬にもなる」「この根には温める力がある」と記された説明に、言葉が物質を変える力を感じたのです。それは知識が世界を再構築する瞬間であり、若水にとっては知的な衝撃でした。

父の留守中にこっそりと書を開き、筆で草の形を写し取り、解説文を読み返す――そんな習慣が、いつしか日課となっていきました。蔵書には『食物伝信纂』や『炮炙全書』もあり、それぞれに書かれた効能や用法に夢中で線を引く日々。植物、動物、鉱物といった多様な「もの」が、文章と絵で秩序立てられ、一つの世界を構成している。それを目にした若水は、書物の向こうに広がる自然の宇宙を感じ取り、深く惹かれていったのです。

福山徳潤のもとで得た本草学の実践

青年期を迎えた若水は、父の縁を通じて本草学者・福山徳潤と出会います。この出会いが、若水の学問における実践の扉を開くことになりました。徳潤は、現地に足を運び、自ら植物を観察し、採集し、分類・記録することを重視する人物であり、その学びの姿勢は書物の中の知識だけでは満足できなくなっていた若水にとって、新たな地平を開いてくれました。

若水は徳潤に同行し、山野や市場を歩きながら、実際の草木を手に取ってその形や香りを確かめる体験を重ねます。ある薬草が「温」とされる根拠を土の質や生育条件から探ること、魚や鳥の性質を食味や調理法とともに理解することなど、彼の知識は自然と身体を通して拡張していきました。徳潤が口にした「書は人に始まり、物に帰す」という言葉が、若水の胸に深く刻まれたといいます。知識が現実とつながる感覚、それが若水を本草学に決定的に向かわせたのです。

和漢医学書との格闘と学問の深化

若水の学問は、本草学にとどまりませんでした。彼は儒医の家に生まれた背景から、和漢の医学書にも自然と手を伸ばしていきます。『医心方』や『万病回春』、『和蘭陀本草図経』といった書物を読み解き、比較し、時にはその記述に疑問を投げかけながら、知を自らの中で消化していきました。書かれた知識を鵜呑みにするのではなく、照らし合わせ、矛盾に気づき、再構築する力――それこそが彼の学問を深化させた鍵でした。

とくに彼が関心を抱いたのは、薬効の理論と実際の効能との間のずれでした。漢方では「寒熱虚実」の理論体系がある一方で、日本での実用には地域性や気候の違いも影響します。若水は書中の知識と自らの観察、そして師からの実地学びを往復させながら、学問を一層立体的なものにしていきました。その姿勢は、後に彼が大規模な博物学的事業を担う際にも大きな基盤となります。学ぶとは、文字を追うことではなく、世界をより深く理解することである――この時期の若水の営為が、それを体現していたのです。

京都で深めた稲生若水の儒学と本草学

伊藤仁斎の古義堂で思想を鍛える

稲生若水が学問の思想的深化を遂げたのは、京都において伊藤仁斎の私塾・古義堂に入門した時期でした。仁斎は朱子学の抽象性に対して、古典の原義に立ち返る実践的儒学を説き、『論語』と『孟子』を日常の倫理として捉える教えを展開していました。若水はこの思想に共鳴し、学問とは文字を超えて「人間の真実」に迫る営みであることを体得していきます。

古義堂では、古典の素読と釈義を通じて、言葉の背後にある「心」を問う思考が重視されていました。門人の回想によると伝えられる若水の学びは、単なる語句の解釈にとどまらず、言葉の選び方一つにまで思索をめぐらせるものだったとされます。のちの著作『詩経小識』に見られるように、植物や動物の象徴性を倫理の観点から解釈する姿勢は、この仁斎の教えに端を発していると言えるでしょう。若水にとって学問とは、生き方を探る術でもあったのです。

儒学と本草学を結ぶ知の融合

京都での学びの中で、若水は儒学と本草学という一見異なる二つの分野を、深い次元で結びつけていきました。本草学が自然の観察を通じて世界を知ろうとする学であるのに対し、儒学は人の倫理や心を問う思想ですが、若水にとってはどちらも「理(ことわり)」を探る営みでした。彼の中では、草木の性質と人間の性質が静かに照応し始めていたのです。

『庶物類纂』の序文には、物の性質と人間社会の関係性を見つめる眼差しがにじんでおり、『詩経小識』では、古典詩に詠まれた動植物の象徴的意味を、自然哲学と倫理思想の両面から解釈しています。たとえば、寒中に咲く花には「困苦に耐える徳」が宿るとされ、そのような比喩の使い方に若水独自の思想が表れています。草木を通じて人を見、人を通じて天地の理を知る――それが彼の学問の姿勢となっていきました。

詩文と古典に見る教養の広がり

稲生若水は、学者としての側面だけでなく、詩人・文人としての顔も併せ持っていました。京都での生活は、彼に豊かな詩文の教養を育む機会を与えました。若水が残した詩文は多くは散逸しましたが、『稲生若水筆一行書』などに見られる断片には、自然と人生の交錯を詠み込んだ繊細な感性が感じられます。薬草の成長や花の香りを人生の儚さと重ねる視線は、彼の思想と実感が結びついた証左といえるでしょう。

また、若水は中国の医薬・本草の文献だけでなく、儒学や詩経、さらには『和蘭陀本草図経』など海外文献にも広く目を通し、博物学的な注釈を施しました。『新校正本草綱目』の校訂にも関わり、既存の知識に修正と考察を加えようとする姿勢は、知の受け手ではなく、創り手としての自覚を示しています。詩と理、古典と観察、文字と体験。そのすべてが交錯する場に、若水の学問は育まれていきました。

稲生若水と加賀藩主・前田綱紀の運命的な出会い

元禄6年、転機の訪れ

稲生若水が学問的な転機を迎えたのは、元禄6年(1693年)のことでした。この年、加賀藩主・前田綱紀の招きにより、若水は金沢へと移住します。綱紀は学問と文化の奨励に熱心な大名であり、特に実学に通じた人材を求めていました。若水の名は、彼の著作や評判を通じてすでに江戸・京都の知識人たちの間で知られており、その知の確かさと儒医としての実績が高く評価されていたのです。

綱紀が若水を迎え入れた背景には、ただ博物学に対する関心だけではなく、藩政を文化と学問で支えようという明確な意図がありました。当時、加賀藩は経済的にも文化的にも他藩を凌ぐ力を持っており、その中で「知」を藩の資産とみなす視点があったのです。若水はこの招きに応じ、自らの学問をより広い場で展開する道を歩み始めました。これまでの書物と自然の世界に向けられていた眼差しが、ここから社会と制度に開かれていくことになります。

文化奨励と博物学への追い風

前田綱紀の文化政策は、単なる趣味の域を超えて制度として整備されていました。文庫の拡充、藩校の創設、古書・古器物の収集といった事業は、知識を収蔵し伝えることへの強い意志を表しています。そのような中で、若水は本草学・医学の専門家としてのみならず、儒学者としての見識も買われ、藩の学問顧問として迎えられました。

綱紀のもとでは、本草学が単なる薬学的知識にとどまらず、「国家経営の知」として重視されました。農業、食料、医療といった生活の根幹に関わる分野において、自然の理を探求する本草学は政策的意義を持っていたのです。若水は、蔵書の整理や新たな文献の校訂を任され、時には藩士や医師への講義も行いました。実学が評価される時代において、若水の知識はまさに時宜を得た存在だったのです。

加賀藩と築いた知のネットワーク

金沢に拠点を移した若水は、藩内外に広がる学問ネットワークの中心として活動していきます。彼のもとには、各地から若い学者や医師が集い、私的な講義や議論の場が生まれていきました。その中心となったのが、若水が設けた私塾であり、ここでは本草学のみならず、詩文や儒学も講じられました。彼の教えは一方通行ではなく、対話を重んじるものだったと伝えられています。

この時期、若水のもとで学んだ人物には、後に『和蘭陀本草図経』を著す野呂元丈や、医学・本草学の発展に寄与した松岡恕庵、丹羽正伯などがいます。彼らは単なる弟子ではなく、若水とともに博物学的事業に取り組む仲間でもありました。加賀藩という制度の傘のもとで、若水は「個人の学問」を「共同体の知」へと昇華させていったのです。知の場が開かれ、そこに人が集い、次なる探究へとつながる――金沢でのこの時間は、若水の学問にとってかけがえのない熟成期となりました。

稲生若水、『庶物類纂』に挑む

元禄10年、空前の百科事典編纂が始まる

元禄10年(1697年)、加賀藩主・前田綱紀の命により、稲生若水は壮大な博物学的事業『庶物類纂』の編纂に着手します。この書物は、動植物、鉱物、食材、薬物、日用品に至るまで、あらゆる「もの」を網羅し、それらの名称、形状、効能、出典、用例を記述した百科事典であり、近世日本の博物学の金字塔とも言える存在です。

若水は、この編纂を単なる知識の整理ではなく、「物の理(ことわり)」を可視化する試みとして捉えていました。その背景には、加賀藩の文化政策と、実学をもって地域経営に貢献しようという若水自身の意図がありました。実際、『和蘭陀本草図経』などオランダ由来の薬草知識も参照され、海外文献との照合も図られています。知識は閉じたものではなく、社会に活かされるべきもの――若水の筆はその信念に導かれて走り始めたのです。

分類・観察・記録の手法を確立

『庶物類纂』の構成において特徴的なのは、全体が26の「属」に分類され、項目ごとに厳密な観察と記録が施されている点です。植物、動物、鉱物などの分類は、形状や性質だけでなく、用途・季節・産地・方言名など多面的な要素によって整理されています。これは、従来の本草書に見られる抽象的・重複的な分類を見直し、実用に耐える体系化を目指したものです。

若水とその弟子たちは、現地調査を重ね、加賀国内のみならず他藩にも調査を依頼するなど広範な資料収集を行いました。特に弟子の丹羽正伯は、各地の産物調査に携わり、生活現場から得た情報を記録として残しました。市場での聞き取り、薬草の実地観察、農具や漁具の利用法の調査など、記述には現場の知が息づいています。若水の学問は、書斎から飛び出し、現実に根ざした知識として結実していったのです。

完成を託された弟子と子

若水は『庶物類纂』編纂の最中である正徳5年(1715年)に没しました。このとき、全362巻のうち完成していたのは一部に過ぎず、その後の作業は弟子たちに託されました。中でも中心となったのが丹羽正伯であり、さらに若水の子・稲生新助もこの編纂作業に深く関与しました。編集の継続、写本の整備、内容の加筆修正などが引き継がれ、最終的に完成したのは延享4年(1747年)のことでした。

松岡恕庵や野呂元丈といった弟子たちもまた、それぞれの知識と観察を持ち寄り、この集大成を支えました。若水は生前、単なる知識の伝達ではなく、「弟子が考え、判断し、記すこと」に重きを置いており、その教育方針がこの共同作業の中で見事に生かされています。『庶物類纂』は、若水一人の業績ではなく、彼の信念と教育が生んだ「共同体の知」の象徴でもあったのです。

稲生若水の教育者としての顔

私塾での教育と学びの哲学

稲生若水は加賀藩における公式な学者として活動する一方、自宅に私塾を設け、数多くの弟子たちに門戸を開いていました。そこには、江戸・京・大坂からだけでなく、地方の藩医や本草学志望の青年たちが集い、学問と実践を往復する濃密な学びの場が築かれていました。若水の教育は、単なる知識の伝達ではなく、弟子一人ひとりの関心と気質に応じて導く「対話の学び」でした。

講義は本草書や儒学書の素読から始まり、やがて弟子たちは実際の薬草観察や図譜の作成にも携わります。若水は弟子たちに「考えて書け、見て疑え」と語り、受動的な学びではなく、能動的な知の構築を促しました。この教育方針は、単なる技術者や記録者ではなく、「思考する観察者」を育てるものでした。私塾でのやりとりは、若水が生涯をかけて磨いた学問の本質――知は世界と交わるための言葉であり、行動である――を、次代へと確かに手渡していく場でもあったのです。

松岡恕庵・野呂元丈らの飛躍

若水の門下からは、後に日本の本草学史に名を残す人物が複数登場します。その代表格が松岡恕庵と野呂元丈です。松岡は、若水のもとで儒学と本草学を学んだ後、独自の医学体系を築き上げ、実地の治療と教育に力を注ぎました。彼の著作『用薬須知』は、当時の医療現場に即した実用書として高く評価され、民間にも広く流通しました。

一方の野呂元丈は、蘭学の導入期にあたる時代にあって、海外の知見を積極的に吸収し、『和蘭陀本草図経』を著しました。この書物は、オランダ経由で伝わった薬草や医薬品について、日本語で記述した初期の図譜であり、若水の実学精神を継承した成果といえます。彼らの活躍は、単に師の業績を踏襲するものではなく、それぞれが新たな時代の知の扉を開こうとした意志の結晶でした。若水が育てたのは「弟子」ではなく、自立した「後継者」だったのです。

次代の本草学へ受け継がれた灯

若水の教育の成果は、弟子個人の業績にとどまらず、本草学という学問そのものの継承と展開にも深く寄与しました。『庶物類纂』の編纂は、その象徴的な結晶でしたが、それを可能にしたのは、各分野に長けた弟子たちの存在でした。丹羽正伯は調査と記録の実務に徹し、膨大な産物調査記録をまとめあげ、若水の死後も一貫して完成に尽力しました。

また、稲生新助は父の意志を継ぎ、編集と校訂作業に参加し、編纂作業を制度的にも支え続けました。若水の教育がもたらしたのは、知識の継承だけでなく、「知を完成させる力」でした。弟子たちは各自の道を歩みながら、若水が種をまいた思考法と実践力をそれぞれの現場で育て、花開かせていったのです。

このようにして、若水が私塾で灯した小さな知の光は、弟子たちの手によって各地へと広がり、江戸期の本草学を支える大きな流れとなりました。それは、静かに息づきながらも、深く、そして長く、日本の知の地層に刻まれていく灯火でした。

晩年の稲生若水と遺したもの

静かなる晩年と変わらぬ探究心

稲生若水は、正徳年間に入ってもなお、学問への情熱を失うことなく日々を過ごしていました。加賀藩の学問顧問としての役割を果たしながら、引き続き『庶物類纂』の編纂作業に専心し、全国から寄せられる産物資料の校閲や分類に尽力しました。その作業量は膨大でありながら、若水は冷静かつ丹念に一つひとつの項目に目を通し、知識の精度を保つことに心血を注いでいたと伝えられます。

晩年の居住地は京都と金沢の双方に及んでいましたが、とくに金沢では屋敷内に書庫と観察室を設け、朝から筆を執り、午後は弟子に講義を行い、夜は文献の整理を行うという規則正しい生活を送っていました。書物の中に閉じこもるのではなく、実地の記録や観察を重視するその姿勢は生涯変わらず、若水は最後まで「知の探究者」としての在り方を貫き通しました。

『庶物類纂』を超えた著作群

若水の学問的成果は、『庶物類纂』だけにとどまりません。晩年にかけては、『詩経小識』(1709年執筆)や『結髦居別集』(1714年刊)など、儒学と詩文の領域にも筆を伸ばし、自然と思想、倫理と象徴の融合を試みた著作を生み出しました。『詩経小識』では、『詩経』に登場する動植物を本草学的に整理し、それらに込められた道徳的意味を注釈することで、古典と自然観察の接点を探るという新たなアプローチが示されています。

一方、『結髦居別集』には若水の詩文や随筆的記録が収められ、自然へのまなざしや日常の些細な発見を繊細な言葉で綴っています。そこには、静けさの中に世界を見つめる詩人のような眼差しがあり、本草学者としての知識とはまた異なる層での知の豊かさが感じられます。学問は生き方そのものである――若水の晩年の著作には、その思想がにじみ出ています。

没後の評価と名誉、贈位に至るまで

稲生若水は正徳5年(1715年)、加賀藩に仕えたまま、61歳で没しました。その時点で『庶物類纂』は全362巻まで完成しており、以後の作業は弟子の丹羽正伯や息子の稲生新助らによって引き継がれ、延享4年(1747年)に全1054巻という壮大な規模で完成を見ました。若水の死後も、その思想と方法は弟子たちの手で守られ、加賀藩内外においてその存在は顕彰され続けました。

近代に入ってからも、若水の学問に対する評価は衰えることなく、明治42年(1909年)にはその功績により「従四位」が追贈されました。この贈位は、若水の知が藩という枠を超えて、国家的な文化遺産として認識されたことを意味しています。また、彼の墓所は京都市左京区の迎称寺にあり、師・伊藤仁斎とその一門が眠る地に葬られています。墓碑には弟子たちの手で刻まれた辞が残され、今なお訪れる人々に静かな学びの姿を語りかけています。

稲生若水という存在の再発見

『庶物類纂』に込めた知の魂

稲生若水の代表作『庶物類纂』は、江戸期の百科事典としてのみ語られることが多いですが、その本質は単なる知識の集成にはありません。若水がそこに込めたのは、「世界をどう見るか」「自然をどう理解し、人と結びつけるか」という根源的な問いへの応答でした。項目ごとに記された物の名称や効能は、情報の羅列ではなく、対象を深く観察し、言葉で編み上げる行為の痕跡なのです。

現代の私たちにとって、『庶物類纂』は単に博物学の歴史資料ではなく、知と観察の倫理を問い直す手がかりになります。誰が、なぜ、どのように世界を記述するのか――そうした問いが、若水の記述の中から静かに立ち上がってくるのです。若水が目指したのは、知識の所有ではなく、共有と継承、そして人間と自然の関係の再構築でした。その精神は、今日の学際的アプローチやエコロジカルな視点とも深く共鳴しています。

『江戸の花鳥画』が映す文化的光芒

稲生若水の知は、図像文化の中にも確かな痕跡を残しています。今橋理子の『江戸の花鳥画 博物学をめぐる文化とその表象』では、江戸時代の博物学と美術の交差点として若水の仕事が取り上げられています。若水の知識体系がもたらした影響は、単なる理論的知識にとどまらず、草木や鳥獣の描かれ方、さらには自然を美術的にどう捉えるかという視覚表現にも及んでいたのです。

たとえば、花鳥画に描かれた草花や鳥類が、『庶物類纂』や本草学書の図譜を参照して描かれていた例も確認されており、若水の整理した知が、絵師たちの造形の基盤になっていたことが分かります。ここには、文字と絵、科学と芸術の間を自在に往還する江戸文化の柔軟性があり、若水はその交点に位置する存在でした。彼の学問は「美」の形成にも静かに貢献していたのです。

現代に甦る稲生若水の博物学精神

今日、気候変動や生物多様性の危機が叫ばれる中で、自然をどう見るか、どう記録し、どう共存するかという問いが再び重要性を増しています。そうした文脈において、稲生若水の博物学は新たな意味を帯びて甦ってきます。彼が重視した「観察に基づいた記述」「生活と知の接続」「人と自然の相互関係」は、現代のエコロジカルな思考に通じるものです。

若水は、自然をただの資源や対象としてではなく、意味と価値を持つ存在として丁寧に見つめ、記録しました。そこには、人が自然の一部であるという感覚と、その一部として責任ある関係を築こうとする倫理が宿っていました。今日、博物館や大学、地域の自然教育の現場でも、若水のような視点が求められているのは偶然ではありません。時代を越えて語りかけるその学問のあり方こそ、若水の残した最も深い遺産であり、再発見されるべき理由なのです。

稲生若水という知の旅人を見つめて

稲生若水は、江戸時代という動的な時代にあって、自然と人間、知識と倫理、個人と社会をつなぐ「知の橋」を架けた人物でした。医師としての実践、儒学者としての哲学、本草学者としての観察力を融合し、その成果を『庶物類纂』として形に残した彼の歩みは、単なる知識の集積ではなく、世界のあり方を問い続ける旅でもありました。弟子たちへの教育、詩文へのまなざし、そして没後の再評価を通じて、若水の精神は今も静かに息づいています。自然との共生が再び問われる今日、若水の博物学は過去の遺産ではなく、未来への問いを内包した生きた知です。彼のまなざしの先にあるもの――それは、知を愛し、世界と丁寧に向き合う私たち一人ひとりの姿かもしれません。

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