こんにちは!今回は、明治から大正にかけて活躍した哲学者・教育者・仏教者、井上円了(いのうええんりょう)についてです。
「哲学館(現・東洋大学)」を創設し、哲学の普及と民衆啓蒙を掲げて全国を巡回、さらには“妖怪学”を打ち立てて迷信と格闘した、まさに知の冒険者。近代日本の精神世界に深く切り込んだ井上円了の生涯を、学問・教育・妖怪の3つの視点から徹底的に解き明かします!
井上円了の少年時代と学びの原点
越後の寺に生まれた探求心あふれる少年
井上円了は1858年、越後国三島郡小島谷村(現在の新潟県長岡市小島谷)にある浄土真宗大谷派の寺「慈光寺」に生まれました。父・円悟(または乗雲とされる資料もあります)はこの寺の住職であり、円了は幼い頃から仏教の教えや経典と自然に触れる生活を送っていました。書物に対する好奇心は早くから芽生え、仏典だけでなく多様な分野の書籍に親しむことで、思索の芽を育てていったのです。
教育制度がまだ整備されていない時代の農村において、寺に生まれたという背景は円了にとって非常に大きな意味を持ちました。日常の中にある知識へのアクセスと、語らいの中で培われる理解の精神は、彼の思考の土壌を形成していきます。求めて学び、考え、深めていく姿勢は、後に彼が東洋と西洋の思想を融合させる知的冒険へと踏み出す礎となったのです。
父の死が促した学問への決意
13歳の頃、井上円了は父・円悟を失います。家族の支柱であり、学問と信仰の両面において範を示してきた父の死は、少年にとって大きな転機となりました。父は教養深く、寺の住職としてだけでなく、家庭でも日常的に教育的な言葉を投げかける存在でした。その言葉や立ち振る舞いが、円了にとっては何よりの学びの源でした。
この喪失を経て、円了は一層学問に心を傾けるようになります。父の遺志を継ぎ、寺を支える責任を感じながら、円了は知識を深めることに強い使命感を抱くようになります。知ることが、自身の心を耕し、やがて他者に手渡す力になる――その直観的な理解が、彼を後の哲学者・教育者としての歩みに導いていきました。
地域と家族に育まれた連帯と共感の精神
小島谷村の地域社会は、強い相互扶助と共生の精神に根ざしていました。慈光寺は単に宗教的な施設にとどまらず、村の相談所や集会の場として機能し、住民の悩みや希望が交錯する生活のハブであったといえます。円了はそうした日常の中で、人と人との関わり、言葉の力、そして「共に生きる」ことの意味を体感していきました。
家族との関係もまた、彼の人格形成に深く影響を与えました。父亡き後、母や兄弟たちと支え合いながら暮らす中で、責任感と共感の心が養われていきます。人間関係の中で磨かれたこの感性は、彼の哲学に見られる「他者理解」や「公共のための教育」といった思想に通底しています。地域と家族の中で育まれた連帯の感覚は、後に彼が語り続けた「啓蒙と学び」の根源にあったのです。
井上円了と漢学塾での学問修行
石黒思惑・木村鈍椴に学んだ伝統の学び
井上円了は10歳ごろから、越後の漢学塾で本格的な学問修行を始めました。彼が学んだのは、地元の漢学者である石黒思惑と木村鈍椴が指導する私塾で、そこでは儒教の四書五経を中心にした厳格な教育が行われていました。教室には暖房もなく、冬の寒さの中、雪道を裸足で通ったという逸話が残るほど、円了は学びに熱意を持って取り組みました。
授業は早朝から始まり、筆を走らせ、文章を暗記し、師の解釈を繰り返し写すという、古典的な方法が徹底されていました。この時期、円了は知的土台を固めただけでなく、「学ぶとは自らを鍛えること」という態度を深く刻み込んでいきます。後年の論理的な文章構成や難解な思想の整理能力も、こうした初期の修練が基礎となっていたのです。
儒教と仏教の往還から生まれる視座
漢学塾での学びは、儒教にとどまることなく、井上円了に複眼的な視座をもたらしました。孟子の「浩然の気」には、精神の高潔さと道徳的自律を見出し、自己修養への関心が深まっていきます。同時に、寺の出身である彼は、仏教の教義とも親しく、特に「空」の思想には哲学的深みを感じ取っていました。
儒教の倫理と仏教の存在論という、異なる思想体系の中で対話を重ねながら、円了は「思想は対立ではなく融合を目指すべき」という観点を育んでいきます。この頃からすでに、彼の知的関心は体系の内側にとどまらず、その外側にある可能性を見つめていたのです。後の東西思想を調和させる構想の萌芽は、まさにこの若き日々の中に宿っていました。
独学という内なる探究の旅
漢学塾での厳格な指導と並行して、井上円了は独学によって知の世界をさらに押し広げていきました。寺や地域で入手できる限りの書籍を手に取り、儒仏以外の思想や歴史、自然科学の書にも目を通し、自らの内で比較と反省を繰り返しました。彼にとって読書とは、ただ知識を得る行為ではなく、思索の鏡として自らを映し出す営みでした。
一冊の書物に対し、疑問を立て、注釈を加え、自分なりの理解を築き上げる姿勢は、後年の哲学講義や著作活動にも色濃く表れています。この時期の独学は、思想の「受け手」から「構築者」へと彼を転換させた鍵だったのです。外から与えられた知識では満たされず、自らの手で思索の地平を切り拓こうとする内的な衝動が、静かに、しかし確かに円了の中で育っていきました。
僧侶から哲学者へ、井上円了の進路選択
東本願寺での修行と進学への葛藤
漢学塾での基礎教育を終えた井上円了は、1877年(明治10年)、19歳で京都の東本願寺教師教校に入学しました。真宗大谷派・慈光寺の長男として生まれた円了にとって、僧侶としての修行は当然の道と見なされていた時代です。教師教校では、仏教経典の読解と伝道のための教育が行われ、宗門の担い手としての資質を養うことが求められていました。
しかし円了の胸中には、修行の日々の中で次第に大きな疑問が膨らんでいきます。教義をなぞるだけでは満たされない、より根源的な問いへの欲求です。「なぜ人は生きるのか」「真理とは何か」といった哲学的関心が、形式的な修行を超えて彼を突き動かしました。その思索の延長線上に、彼は東本願寺の推薦を受けて東京での学びを志し、哲学という未知の領域へと歩み出していくのです。
哲学に目覚めた青年時代
1878年(明治11年)、井上円了は東本願寺の留学生として東京大学予備門に入学します。ここで3年間、英語を中心とする語学教育に励み、欧米の思想を読み解くための基盤を築きました。そして1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学科へと進学します。当時、この学科での学生は円了ただ一人であり、彼の思索は孤独と集中の中で深められていきました。
この時期、彼が触れた西洋哲学は、それまでの漢学や仏教と異なる枠組みで世界を捉える知の体系でした。西周らが紹介したカント、スピノザ、そしてヘーゲルの論理的構築は、円了にとってまさに「知的地図」となり、新たな世界観を切り開く手がかりとなったのです。また、後に東京大学の教授となる井上哲次郎の思想と共鳴する部分も多く、円了はその片鱗を在学中から学び取っていたと考えられます。
東京大学で出会った西洋思想の衝撃
東京大学での哲学研究を通じて、井上円了は東洋思想と西洋思想の対話の可能性に気づきます。特にヘーゲル哲学に見られる弁証法的構造は、仏教の「空」や「縁起」といった概念と思想的に共鳴する点があり、後年の彼の主著『仏教活論序論』や『真理金針』において、その接点は明確に展開されるようになります。
円了は自ら多言語を学び、哲学書の原典に直接あたることで理解を深めました。彼の勉学姿勢は、教師からの受動的な学びにとどまらず、独自に構築する探究の姿勢に貫かれており、それが後に哲学館設立へとつながっていく精神的基盤ともなりました。西洋と東洋、理性と宗教、そのいずれかに偏ることなく、両者を融合しようとするまなざしこそが、この時期の井上円了を形づくった知の核心でした。
井上円了が設立した哲学館と教育の未来
私塾「哲学館」創設とその理念
1887年(明治20年)、井上円了は東京市湯島麟祥院境内(現在の文京区湯島)に私塾「哲学館」を創設しました。これは後の東洋大学の前身であり、日本で初めて「哲学」を校名に冠した私立教育機関として、当時の教育界に新風を巻き起こします。円了がこの学舎に込めた理念は、「真理の探究」「人格の陶冶」「公益の増進」。単なる学問の習得を超えて、個人の内面を鍛え、社会に役立つ知を育むという明確な教育目標がそこにはありました。
講義内容は、哲学・倫理・論理・心理・宗教学など多岐にわたり、形式にとらわれない自由な議論が推奨されました。円了は「哲学とは、自己を磨き社会を照らす灯火である」と考え、学生に単なる知識の蓄積ではなく、「考える力」そのものを培うよう説き続けました。この理念は、後の「思索型人材」育成という近代教育の理想に先行するものであり、哲学館はその先駆けとなったのです。
国家主導の教育への批判と提言
井上円了は、明治政府が推し進める忠君愛国を軸とした教育政策に対して、一貫して批判的な立場を取りました。彼が危惧したのは、形式的な道徳と実利主義に偏るあまり、人間の内面的な成長が軽視されることであり、哲学なき文明はやがて形骸化すると警鐘を鳴らしています。
哲学館での教育は、制度や国家の権威に疑問を持ち、そこに代替案を提示するような「批判的精神」の涵養を重視していました。円了にとって哲学とは、単なる思索ではなく、社会を変える原動力でもありました。明治という時代にあって、教育とは何かを根本から問い直す試みは、哲学館を通して具現化されていったのです。
夜間学校と館外員制度による教育の普及
哲学館のもう一つの革新は、誰もが学べる仕組みを実現した点にあります。昼間部に加え、「余資なく、優暇なき者」のための夜間部が設置され、働きながらでも学問に触れられる環境が整えられました。ここでは、倫理・心理・社会学など、日常に即した学問が展開され、庶民層の精神的自立を後押ししました。
さらに注目すべきは、通学困難な地方の人々のために導入された「館外員制度」です。円了は全国に「館外員」を募り、講義録を送付することで、通信教育のような形で哲学館の教育を広げていきました。『哲学館講義録』は、思想的教養を全国に届ける役割を果たし、学びを地域や階層を越えて共有するモデルを先駆的に示しています。
こうした実践の根底には、「教育はすべての人に開かれるべきだ」という円了の信念があります。哲学館とは、まさにその信念を具体化した空間であり、教育とは形式ではなく理念と実践の融合であることを世に示した存在でした。
学問としての妖怪研究と井上円了の挑戦
妖怪を学問対象にした理由と背景
1886年、井上円了は「不思議研究会」を設立し、全国から約500件の妖怪現象に関する報告を収集しました。明治期の日本では、近代化の進行にもかかわらず、「狐憑き」や「コックリさん」などの怪異現象が人々の間に広まり、社会的混乱を招くことも少なくありませんでした。円了は、そうした現象を一笑に付すのではなく、哲学と科学の視座から体系的に分析し、迷信の構造を解明しようと試みました。
彼は妖怪を「虚怪(偽怪・誤怪)」と「実怪(仮怪・真怪)」の二大分類に分け、さらに細分化しました。虚怪とは、人為的な作為や知覚の錯誤に基づく誤認であり、実怪とは自然現象や超理的現象に由来するものとされます。中でも「真怪」は、円了が「超理的妖怪」と定義したように、科学的説明が不可能な宇宙的神秘の領域を意味しました。この分類は、合理的精神を育むための知的枠組みであると同時に、人間の理性の限界を認める哲学的姿勢を表していたのです。
『妖怪学講義』に込めた哲学的メッセージ
円了が1893年から1894年にかけて行った連続講義は、1896年に『妖怪学講義』として書籍化されました。この書は、妖怪を題材としながら、理性と批判的思考の重要性を説く啓蒙書として位置づけられ、明治天皇も愛読したと伝えられています。刊行当時はベストセラーとなり、広く庶民の手にも渡りました。
『妖怪学講義』の中で、仮怪は「物怪」(物理的現象)と「心怪」(心理的現象)にさらに分類され、各妖怪現象の発生条件や人間の認知構造に至るまで精密に分析されました。こうした構成は、単なる迷信否定ではなく、「思考の鍛錬」として妖怪を扱うという、円了ならではの哲学的戦略の表れでした。そして何より特筆すべきは、円了が「真怪」の存在をあえて残した点にあります。それは、「すべてを理性で解き明かせるわけではない」という、知への謙虚な態度を示すものであり、哲学の核心を体現するものでした。
迷信を破ることで目指した啓蒙社会
井上円了の妖怪研究は、知識の普及を超えて、「自ら疑い、自ら問い、考える力を養う」という哲学的実践でした。彼は妖怪の正体を明かすことではなく、人がそれを「なぜ信じるのか」を考察することで、迷信という見えざる力から人間を解放しようとしたのです。この思想は、全国215箇所に及ぶ巡回講演でも一貫して貫かれ、人々に思考の道筋を示す教育活動として実践されました。
円了のアプローチは、妖怪を文化として捉えた柳田國男とは明確に異なります。柳田が『妖怪談義』で妖怪を「神の零落」として民族文化の一端と見なしたのに対し、円了は妖怪を「迷信打破の教育素材」として位置づけました。この対比は、妖怪という現象をめぐる近代日本の知の多様性を象徴するものであり、科学・哲学・民俗学がそれぞれの視点から語る多層的世界の構図を浮かび上がらせます。
妖怪を通じて井上円了が問いかけたのは、「人はなぜ恐れるのか」「信じるとは何か」という根源的な人間理解でした。それは、目に見えぬ存在を追うことによって、目に見える世界を深く理解しようとする試みであり、哲学者としての彼の真摯なまなざしが貫かれていました。
全国を巡って語り続けた井上円了の講演活動
各地を訪れながら続けた啓発の旅
井上円了がその思想を社会へと届けた最も直接的な手段が、全国各地での講演活動でした。哲学館設立後の1889年頃から本格化し、特に1906年から始まった「修身教会」運動期には、彼の講演は頂点に達します。1906年から1919年までの13年間で訪れた地域は2831ヶ所、講演回数は5291回、生涯の講演は5400回を超え、総聴衆は延べ140万人以上にのぼりました。まさに、全国の半数以上の市町村を実際に訪れ、声を届けたことになります。
その講演の場は、寺院の本堂、町の集会所、学校の講堂、さらには市井の空き地まで多様であり、移動手段には鉄道・馬車・徒歩が用いられました。日中の移動、午後からの講演、夜は揮毫という過酷な日程をこなす日々。その姿は、書斎にとどまる哲学者ではなく、行動する思想家としての真骨頂を示していました。
テーマもまた多岐にわたり、哲学や宗教のみならず、教育論、倫理、修身、実業、迷信批判、果ては欧米事情に至るまで、時代の要請と地域の関心に応じて柔軟に変化させていきました。
民衆に親しまれた語り口と講演スタイル
井上円了の講演は、単なる知識の押しつけではありませんでした。難解な哲学用語や理論を、農村や町場の聴衆にも理解できるよう、日常的なたとえ話やユーモアを交えて語る手法が取られていました。例えば因果律や自己修養といった抽象概念も、家庭や農作業に例えることで、聴衆は自分ごととして受け止めることができたのです。
また、円了の講演は一方通行ではなく、問答形式を重視し、聴衆との対話を積極的に取り入れていました。「聞く」ことから「考える」ことへと聴衆を導くそのスタイルは、参加型の哲学実践ともいえるものでした。笑いを引き出す軽妙さと、静かな間で問いを投げかける重厚さを併せ持つ語りは、円了自身が編み出した「移動式の哲学教育」の成果だったといえるでしょう。
教育者としての覚悟と実践
井上円了にとって講演は、単なる啓蒙活動ではなく、「哲学を社会に返す」教育実践の場でした。彼は知識を「配る」のではなく、「ともに考える」場を各地に生み出していきました。移動中にも地元の人々の生活に触れ、宿で語られた悩みに耳を傾ける中で、円了の思想は単なる理論にとどまらず、実践知として更新され続けていったのです。
その根底には、「教育は国家のためである前に、個人の自由と理性のためにあるべきだ」という円了の揺るぎない信念がありました。中央の権威によらず、地方の声に直接応答し、自らの言葉で思想を伝える。その積み重ねこそが、彼の哲学的活動の核心だったのです。円了の講演は、まさに歩いてつくられた学校であり、言葉によって築かれた「移動する哲学館」そのものでした。
哲学堂公園に込められた井上円了の世界観
公園という空間に表現した哲学的構想
哲学堂公園は、井上円了が自らの思想を空間として具現化した唯一無二の「哲理苑(てつりえん)」です。東京・中野の地に1904年(明治37年)から造成が開始され、主な整備は1917年(大正6年)まで、実に十数年にわたって構想と建設が進められました。その目的は単なる公園の造成ではなく、「東洋と西洋、宗教と科学、古代と現代の思想を融合し、体験的に哲学を学ぶ場」を創出することでした。
公園内には「哲学堂七十七場」と呼ばれる順路が設けられ、訪れる者が歩きながら精神修養と哲学的思索を深めていけるよう設計されています。中心には「四聖堂」が構えられ、釈迦・孔子・ソクラテス・カントという東西の四大哲人が祀られています。その他にも、「宇宙館」「絶対城」「万物一覧亭」「幽霊舎」など、名づけに思想的含意をもつ施設が随所に点在し、それぞれが人間精神の旅路を象徴しています。
このように、哲学堂公園は円了の思想そのものを歩いて体感する場であり、「空間の書物」とも呼ぶべき存在でした。
建築と配置に見られる思想の遊び心
哲学堂公園の魅力は、思想的厳格さに留まらず、井上円了特有の「遊び心」にもあります。たとえば「六賢台」には、聖徳太子、菅原道真、荘子、朱子、龍樹、迦毘羅仙といった東洋の賢者が祀られており、その配置は歴史や宗派の順にとらわれず、思索の自由を象徴する形となっています。
また「哲理門(別名:妖怪門)」には天狗や幽霊の像が配され、「幽霊舎」とともに、円了が展開した妖怪学との連携が見られます。これらは単なる奇抜な装飾ではなく、物質界と精神界の不可解さを象徴する存在として、哲学的問いを誘発する装置です。
園内には円了の著書『哲学問答』や『修身要義』から引用された格言を刻んだ石碑も多く設置され、散策の合間に立ち止まり、読んで、考えるという「身体を通じた学び」が自然に誘発されるよう工夫されています。このような構造全体が、円了の教育理念「哲学は日常にある」を具体化したものにほかなりません。
晩年も衰えぬ探究心と創造力
哲学堂公園の整備に携わっていた井上円了は、1919年(大正8年)、講演旅行先の大連にて客死しますが、その直前までこの公園の設計図に手を加えていたと伝えられています。円了にとって哲学堂公園は完成品ではなく、思索を更新し続ける「未完の思想書」だったのです。
この公園は現在も、「問い続ける場」として多くの人々に訪れられ、哲学を学ぶ者にとっての精神的聖地となっています。そこにあるのは、完成された理論ではなく、開かれた思考のための場。井上円了の哲学は、書物の中に閉じこもることなく、空間に、配置に、そして名づけられた建物たちに染み込んでいます。
哲学堂公園とは、歩くことで学び、見ることで考え、立ち止まることで深める「体験としての哲学」そのものであり、円了が残した最も創造的な知の遺産といえるでしょう。
井上円了の晩年と思想の遺産
中国・大連で迎えた静かな最期
1919年(大正8年)6月6日、井上円了は講演旅行の途上、中国・大連の地で脳溢血のため生涯を閉じました。享年62歳(満61歳)。このときも「修身教会」運動の一環として、現地での啓蒙活動を行っていた最中であり、彼の生涯が文字通り「語り続ける哲学者」としてのものであったことを象徴するような最期でした。
すでに1906年には哲学館(後の東洋大学)の学長職を辞していた円了でしたが、その後も全国各地、時には国外にまで足を運び、教育と啓蒙の現場に立ち続けていました。午前の移動、午後の講演、夜の揮毫という過密な日程を貫き、その過程で体調を崩しながらも、思想の種を一人ひとりに届ける姿勢を崩さなかったのです。
彼の遺体は帰国後に東京へと戻され、哲学館にて盛大な追悼式が行われました。教育者・思想家として明治日本の知的景観を築いたその精神は、多くの人々に見送られながら静かに葬られました。
著作が残した哲学的・教育的影響
井上円了の残した著作は、その生涯と同じく広大な領域に及びます。『真理金針』『純正哲学講義』『仏教活論』『心理療法』などに代表されるその仕事は、カントやヘーゲルの思想を参照しつつ、東洋的思考と融合させた独自の「純正哲学」として結実しました。これらの著作群は、哲学と宗教、倫理と心理、理性と実践という分野横断的な統合を目指すものとして、今日も再評価が進んでいます。
とりわけ『妖怪学講義』は、民間信仰に根ざした現象を合理的に分析するという斬新な視点から、現在では大衆文化研究や民俗学の文脈でも注目される存在です。哲学を「生活の問い」として扱った円了の姿勢は、現代の哲学教育においても示唆に富んでいます。
円了の教育思想は、単に知識を伝えるのではなく、個人が自ら考え、行動する力を育むことを目的としていました。「人格形成」「知徳兼全」「独立自活」といった理念は、東洋大学の建学精神に深く根付いており、今なお多くの教育者に受け継がれています。
後世に受け継がれる精神と信念
井上円了の遺産は、制度的な教育機関としての哲学館(東洋大学)だけでなく、哲学堂公園のような空間表現、そしてそれを貫く思想そのものとして多層的に残されています。彼の遺した「純正哲学」や「仏教活論」は、現代の哲学・宗教論においても新たな文脈で読み直される対象となっており、その思想的射程の広さは時代を超えて語られています。
また、妖怪学の視座は柳田國男ら民俗学者との対比においても注目され、哲学と民俗の交差点における先駆的な知的実践として再評価されています。加えて、福沢諭吉、清沢満之、境野黄洋ら明治の知識人たちとの交流も、当時の思想的ネットワークの中における円了の役割を浮き彫りにしています。
彼が生涯を通じて主張したのは、「哲学は社会と無関係ではありえない」「思考は行動の伴侶である」という強い信念でした。その信念は、書物や制度に留まらず、歩いて語り続けた道筋や、問い続ける空間としての哲学堂公園、今も続く東洋大学の教育理念の中に、確かに生き続けています。井上円了の精神とは、答えよりも問いを、形式よりも実践を、知識よりも考える力を重んじた哲学そのものだったのです。
井上円了を描いた作品たち
漫画『円了』で描かれる人間味と教育者像
井上円了の人物像を現代に再提示する試みの一つに、東洋大学の公式ウェブサイトで連載された漫画『円了』があります。この作品は、円了の生涯と思想を一般読者にわかりやすく伝えるために制作されたもので、史実に基づきながらも、親しみやすさと感情的な奥行きを兼ね備えた表現が特徴です。
作中では、円了が僧侶の子として生まれ、少年時代から読書と学問に没頭した様子、漢学塾での厳しい修行、そして東京大学での哲学との出会いなどが丁寧に描かれています。読者はその過程を通じて、円了がどのようにして思想家として成長していったのかを視覚的に追体験できます。
特に興味深いのは、「妖怪学」や「哲学館」など、一般には奇抜に見える活動が、彼の内なる論理と人間への信頼に裏打ちされていたことが描かれている点です。教育者としての姿勢や、言葉に宿る責任への自覚が、ドラマの中で強く印象づけられています。円了は「難しいことをわかりやすく伝える」ことに徹し、その姿はまさに哲学を日常に根ざしたものへと変換する教育者としての理想像と重なります。
講談『井上円了物語』の語りの魅力
もう一つ、井上円了の人物像を現代に伝える手法として特筆すべきなのが、講談『井上円了物語』です。これは講談師・神田山緑による語り芸で、史実に基づきながらも語り口の妙と演出によって、円了の人生を生き生きと蘇らせるものです。
講談の形式では、円了の講演活動が「演説」というよりも「語り」として構築されていたことと相まって、彼の実像に非常に適したメディアとなっています。たとえば、寒村の寺から出発し、全国を巡って理性と自由を説いた円了の姿が、聴衆とのやり取りやエピソードを交えて再現され、その声の温度と間が、円了の「人となり」を観客の中に刻みつけます。
この語りの中では、哲学堂を歩きながら考えを巡らせる円了、妖怪に興味を持ちつつも理性の重要性を説く円了など、多面的な彼の姿が描かれます。講談は史実をもとにしながらも、その余白に聴衆の想像力を招き入れ、彼の思想を一層「人間味のあるもの」として届けているのです。
『妖怪学講義』に表れた知的好奇心の深さ
フィクション表現とは異なりますが、『妖怪学講義』自体もまた、井上円了という人物の知的風景を生き生きと伝える「作品」として読むことができます。妖怪というテーマを学問の枠に取り込み、そこに心理学、物理学、哲学の視点を導入したこの書は、まさに彼の好奇心と分析力の融合の成果といえるでしょう。
読者は、この一冊を通じて、円了がなぜ「妖怪」という現象にこだわり、それを通して何を伝えたかったのかを知ることができます。そしてその動機には、単に迷信を打ち破るという啓蒙主義的意図だけでなく、人間の知覚や思考の限界に真摯に向き合おうとする哲学的誠実さが宿っていることが伝わってきます。
漫画や講談といった現代的表現が円了を大衆に紹介する役割を果たす一方で、『妖怪学講義』のような本人の著作が、その知的背骨を形成しています。つまり、円了像は「語られ」「描かれ」「読まれ」ることによって、今なお更新され続けているのです。
このように、井上円了という人物は、さまざまな表現手法によって異なる角度から再解釈されており、そのいずれもが彼の思想の深さと幅広さを際立たせています。現代における井上円了の存在とは、歴史的偉人としてだけではなく、今なお問いを生む存在として、読者や聴衆と対話を続けているのです。
井上円了という思想の旅人
井上円了の生涯は、「考える」という行為を徹底的に社会に開いた旅でした。僧侶の家に生まれ、仏教と儒教を出発点に、やがて西洋哲学と出会い、日本人の精神風土に根ざした「純正哲学」を打ち立てた円了。その歩みは、寺の書斎から東京大学、哲学館、そして全国5400回に及ぶ講演へと広がっていきます。妖怪学で迷信を切り裂き、哲学堂では空間を通じて思索を促し、晩年に至るまで問い続けた彼の姿は、静かながらも揺るぎない知の実践でした。現代では漫画や講談を通じて再び語られ始めたこの思想家は、なおも私たちに「あなたはどう考えるのか」と問いかけ続けています。思索は歩き、語られ、そして残される──井上円了はそのすべてを生きた人でした。
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