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李承晩の生涯:英雄か暴君か?韓国初代大統領

こんにちは!今回は、朝鮮独立運動家であり、大韓民国の初代大統領を務めた李承晩(り しょうばん/イ・スンマン)についてです。

祖国の独立を目指してアメリカで博士号を取得し、国際社会を舞台に奔走した一方で、建国後は権力に固執し、ついには民衆の怒りによって追放された―そんな光と影を併せ持つ波乱の生涯をたどります。

韓国現代史の「はじまり」を語るうえで欠かせない人物、李承晩の実像に迫りましょう。

目次

没落両班の家に生まれた李承晩

士族「両班」の役割と朝鮮末期の社会構造

近代韓国の初代大統領となった李承晩(イ・スンマン)は、朝鮮王朝末期の1875年、黄海道平山郡の農村に生まれました。彼の家系は王族・全州李氏の分家にあたり、由緒ある両班(ヤンバン)階層に属していました。両班とは、もともと科挙に合格して官職に就いた者に与えられる称号で、朝鮮社会における政治的・文化的エリートを指します。しかし19世紀後半になると、身分の形式化と経済格差の進行によって、名目上の両班が急増する一方で、実質的には貧困にあえぐ家も多くなっていました。李承晩の父・李敬善も、家系としての格式は保っていたものの、官職に就くことはなく、生活は決して裕福ではありませんでした。形式的には士族ながら、経済的・社会的には下層に沈んだ「名ばかりの両班」としての実情がそこにはありました。旧来の秩序が揺らぐ中で育った李承晩は、体制への忠誠とその限界を同時に体感しながら、複雑な社会意識を形づくっていきます。

黄海道での幼少期と家庭の教育観

李承晩の幼少期を過ごした黄海道平山郡は、儒教的価値観が色濃く残る農村地域でした。彼は幼くして村の書堂(私塾)に通い、四書五経や漢文を学ぶ中で、朝鮮伝統の倫理や秩序に触れていきます。特に母親は教育熱心で、経済的に苦しい中でも、息子に「学問によって身を立てる」道を強く勧めました。これは、家が両班であることへの誇りと責任感の表れでもありました。家庭内では、身分に見合う知性と品位を持たねばならないという価値観が強く、幼い李承晩にとって学びは単なる知識の吸収ではなく、「生き方そのもの」でもありました。一方で、外の世界から伝わってくる情報——特に日本の明治維新や西洋文明の進展に関する話題——は、彼の思考に揺さぶりを与えます。村の外に広がる新しい世界への関心は、伝統と革新が交差する空気の中で、彼の中に静かに芽生えていきました。

激動の近代と民族意識の目覚め

19世紀末の朝鮮半島は、王朝の腐敗と民衆の不満、そして列強の干渉という三重の圧力にさらされていました。1894年の甲午農民戦争や日清戦争は、朝鮮が自立国家として存続することの困難さを、国民に痛感させる事件でした。これらの出来事は、若き李承晩にとって単なる政治的事件ではなく、自らが生きる社会の根幹を揺るがす体験として深く刻まれます。儒教的な秩序の中で育ちながらも、その限界と矛盾を目の当たりにした彼は、やがて「民族とは何か」「国家はいかにして独立しうるのか」といった問いに向かうようになります。感情的な愛国心ではなく、制度や理念としての国家を意識しはじめる知的契機。それがこの時期に彼の中に芽生えたのです。後年の李承晩が見せる論理的かつ戦略的な思考の基盤は、この時代の社会的動揺と個人的な知的模索の中で、すでに静かに築かれていたのでした。

独立運動に目覚めた青年・李承晩

独立協会との邂逅と政治的覚醒

1896年、李承晩はソウルに出て、近代的な学びを求めながら生活を始めました。そこで彼が出会ったのが、当時新進の政治団体「独立協会」でした。この協会は、新聞『独立新聞』を通じて言論啓蒙を行い、民衆の政治参加を促すなど、朝鮮に近代的な市民社会の芽を植えようとしていました。若き李承晩は、この運動に強く惹かれ、活動に参加します。ここで彼は初めて、政治という営みに直接関わり、演説や記事執筆などを経験しました。とくに重要だったのは、専制から脱し、近代的法治国家を目指すという理念に触れたことです。旧来の身分秩序に対する違和感は、この時期に具体的な改革意識へと変わっていきます。李承晩は両班の血を引くがゆえに、古い価値を内面化していましたが、独立協会での経験はその内側にあった疑念を明確に言語化させました。ここで彼は、政治は単なる官職の延長ではなく、民のためにあるべきだという考えを深めていったのです。

獄中生活が育んだ思想と信念

1898年、李承晩は皇室批判を含む政治活動に関与したとして逮捕され、約5年間を漢城監獄で過ごすことになります。この獄中生活は、彼にとって単なる試練ではなく、思想的錬成の場でもありました。彼は収監中に英語の習得に励み、聖書やアメリカの政治思想書を読みふけりました。特に、アメリカ合衆国の独立の歴史や、リンカーン、ジェファーソンといった人物の思想に触れることで、自由・平等・民主という概念が彼の中で明確に根を張っていきます。また、同房の囚人たちとの対話や監獄での規律体験は、彼に社会の現実を肌で教えました。この時期に得た読書と内省は、やがて彼が自由民主主義に傾倒し、アメリカへの留学を志す伏線となっていきます。つまり、李承晩にとって獄中は「閉じられた空間」ではなく、内面を鍛え直し、自己と国家の関係を新たに問い直す場であったのです。

釈放後の再起とアメリカ行きの決断

1904年、李承晩は恩赦により釈放されます。だが、彼を取り巻く状況は好転していませんでした。日露戦争を契機に日本の朝鮮支配が強まり、政治的な自由はますます制限されていきました。かつての仲間たちが弾圧を受ける中で、李承晩は再び表舞台に立つことを試みます。だが、その声はもはや届きにくくなっていました。彼は、自らの理想をこの地で実現するには限界があると痛感し、視線を外へと向けます。ここで彼が選んだのがアメリカ留学という道でした。獄中で育んだ自由主義への共感、国際的な視野の必要性、そして朝鮮を外から変えたいという強い願い——それらが交差し、決意は固まりました。資金の調達は困難を極めましたが、支援者の協力を得て、彼は渡米の準備を進めていきます。李承晩はこのとき、単なる学問留学ではなく、「新しい朝鮮の設計図」を学びに行くという気概を胸に抱いていたのです。

学問と理念を求めアメリカに渡った李承晩

渡米からプリンストン大学へ至る学問の道

1905年、李承晩は新たな知の探求を胸に、アメリカの地に足を踏み入れました。最初に入学したのはワシントンD.C.のジョージ・ワシントン大学で、ここで彼は政治学を学びながら学士号(B.A.)を取得します。ただし、成績は平均Cと特筆すべきものではなく、学力よりも意欲と目的意識の強さが際立っていたと見られます。その後、彼はハーバード大学へ進み、修士号(M.A.)を取得。学問に対する粘り強い姿勢と、祖国の未来を見据えた思索が、学府の枠を越えて評価されるようになります。最終的に彼はプリンストン大学へと進学し、自由主義思想と国際政治の理論に深く触れることになります。この時期、彼の中で「知」は単なる知識の集積ではなく、朝鮮という国の未来を築く「道具」として明確な形を持ちはじめました。未知の環境においても自己を貫いたこの経験が、彼の精神に確かな芯を与えていったのです。

ウィルソンの影響と博士号が意味するもの

プリンストン大学での研究生活の中、李承晩は当時学長を務めていたウッドロウ・ウィルソンの思想に強い影響を受けます。ウィルソンは理想主義的な国際秩序観と民族自決の原則を掲げ、やがてアメリカ大統領として世界に大きな影響を与える人物となります。李承晩はこのウィルソンの講義や考えに触れ、朝鮮の未来を語る言葉を見出していきました。ウィルソンが後年、李承晩を「朝鮮独立の未来を担う人物」と評価したことは、両者の理念的共鳴を象徴しています。1910年、李承晩は『アメリカに影響された戦時中立の概念(Neutrality as Influenced by the United States)』という論文を完成させ、朝鮮人初のプリンストン大学博士号取得者となります。この博士号は、単なる学歴の証明ではなく、彼が国際社会の中で思想的武器を手にしたことを意味しました。彼の中で「国を導くとは何か」が、理論と実践の交差点で確かな輪郭を持ちはじめた瞬間でした。

キリスト教と自由主義思想の精神的融合

アメリカでの生活は、李承晩の宗教観にも大きな影響を与えました。彼はすでに獄中で聖書に触れており、アメリカ滞在中もメソジスト派の信仰を深めていきます。個人の尊厳を重視し、他者への奉仕を説くキリスト教の精神は、彼が学ぶ自由民主主義と自然に結びついていきました。後年、彼の政権下では閣僚や高官の約4割がキリスト教徒で占められていたことからも、信仰と国家理念の連携がうかがえます。李承晩にとって信仰とは、私的な慰めではなく、社会を構築するうえでの倫理的基盤でした。信仰によって育まれた「普遍的な正義観」と、アメリカで培った自由主義との融合が、彼独自の国家観へとつながっていきます。その視野はすでに朝鮮一国にとどまらず、国際社会の中で生き残る「思想としての国家」の構想へと発展していました。

国際社会で独立を訴えた李承晩の戦い

三・一運動と臨時政府樹立の意義

1919年、朝鮮半島全土に響き渡った「独立万歳」の叫びは、李承晩にとって祖国の声が世界に届く決定的な瞬間となりました。この三・一運動は、民衆の自発的な抗議として勃発し、日本の統治に対する大規模な非暴力抵抗運動でした。李承晩はこの動きを受けて、海外にいた独立運動家たちと連携し、同年4月に中国・上海で「大韓民国臨時政府」が樹立されると、遠く離れたアメリカからその初代大統領に推戴されました。彼はこの新政府の正統性を国際社会に認知させるべく、すぐさま外交活動を開始します。自ら起草した文書を携えてパリ講和会議に訴えたものの、列強は既に日本の統治を黙認しており、李承晩の試みは実を結びませんでした。それでも、臨時政府の樹立という事実は、朝鮮人が自ら国家を形成しうる意志と能力を世界に示す象徴となり、李承晩にとっても国家設計者としての新たな立場を得る一歩となったのです。

初代大統領として挑んだ外交と内部対立

臨時政府の初代大統領に就任した李承晩は、アメリカを拠点に各国政府や有力者に朝鮮独立の必要性を訴え続けました。彼はキリスト教ネットワークや学術関係者、移民コミュニティなど多方面に働きかけ、講演や寄稿を通じて世論を喚起しようと努めます。しかし、こうした活動は、しばしば実効性に乏しく、臨時政府内でも評価が分かれました。特に、中国を拠点に現地で実務を進めていた金九や李東輝らと軋轢を深め、やがて「大統領権限の越権行使」などを理由に1925年、政府から正式に罷免されるに至ります。李承晩は国家ビジョンを持つ理想家であった一方、強い単独行動主義も持ち合わせており、それが組織内の調和を乱す要因となったことは否めません。理想と現実のはざまで、彼の外交努力は評価されながらも、組織的な連携には困難を伴いました。この経験は、彼の政治観に「個の強さ」と「孤立の代償」という二面性を刻む結果となります。

ハワイ亡命後の国際ロビーと資金調達活動

臨時政府を去った後も、李承晩の独立への情熱は冷めることなく、彼はハワイを新たな拠点としました。ホノルルに移り住んだ彼は、現地の韓人移民社会と連携し、資金調達や情報発信を継続します。彼が創設した韓人基督教会や教育機関は、単なる宗教や学問の場ではなく、朝鮮独立を志す意志の共有地でもありました。また、第二次世界大戦が近づくにつれ、彼はアメリカ政府や議会への働きかけを強化し、日本の軍国主義と朝鮮の被支配構造を結びつけて訴えるロジックを展開します。特筆すべきは、資金面においても民間からの寄付を巧みに活用し、自身の活動を持続させた点です。限られた人脈と資源の中で、李承晩は自らを外交官、思想家、運動家、そして実務者として多面的に位置づけ、国際社会の目を朝鮮に向けさせようと努力し続けました。彼のこの孤独な戦いは、後の国家建設において「外から国家を動かす」という思想的原型となるのです。

大韓民国の建国に導いた李承晩

日本敗戦と朝鮮半島の分断状況

1945年8月、日本の敗戦により35年にわたる朝鮮半島の植民地支配が終わりを迎えました。しかし、人々の歓喜の中で待ち受けていたのは、単純な独立ではなく、「解放」と「分断」という矛盾した現実でした。アメリカとソ連の協議により、北緯38度線を境に朝鮮半島は南北に分割され、それぞれアメリカ軍とソ連軍が進駐。国際社会はこの地域を信託統治の対象と見なしており、すぐに独立国家が誕生する見通しはありませんでした。こうした状況に対し、李承晩はアメリカから帰国後、強硬に「即時独立」を主張。ソ連との共同統治や信託統治案に強く反発しました。彼の主張は、民衆の不安と独立への渇望に共鳴し、次第に支持を集めていきます。一方で、彼の姿勢は他の独立運動家や左派勢力と鋭く対立し、朝鮮半島は政治的にも分断へと突き進んでいきました。李承晩にとって、民族の自由とは「外の力を排すること」に他ならず、それを実現する手段として、彼は南半部だけの国家樹立という現実的選択を受け入れる方向へと舵を切ります。

米軍政との交渉と新国家の青写真

敗戦後の朝鮮南部には、アメリカ軍による軍政(USAMGIK)が敷かれました。李承晩はこの占領行政のもとで、独立運動の「象徴的存在」として迎えられますが、実務的には厳しい交渉と駆け引きが続きます。彼はアメリカ側に対し、南朝鮮単独での政府樹立を強く提案し、信託統治への反対デモを背景にその正統性を主張します。この間、彼は金九や呂運亨といった独立運動の盟友とも激しく対立します。とくに「統一優先」か「分断独立」かという理念の違いが、彼らを深く分けることになります。李承晩は、統一という理想を追いながらも、現実の国際情勢を踏まえ、南部のみの政府樹立を押し進めます。彼はこの過程で、政党間の調整や国連との連携、地方指導者との連絡など、多面的な政治構築作業を進めました。「建国」は一つの瞬間ではなく、政治的な累積と人脈の編成の中で形づくられたものであり、その中心には常に李承晩の計算と信念がありました。

1948年、大韓民国建国と初代大統領就任

1948年5月、国連監視下で南部単独の総選挙が行われ、7月には制憲議会が新憲法を制定。李承晩はその議会によって初代大統領に選出され、8月15日、ソウルにおいて「大韓民国」の建国が正式に宣言されました。彼が掲げたのは、自由民主主義と反共主義を基盤とする新国家の建設でした。朝鮮半島北部では金日成がソ連の支援を受けて「朝鮮民主主義人民共和国」の設立を進めており、ここに南北分断国家体制が決定的となります。李承晩の大統領就任は、長きにわたる亡命生活と国際ロビー活動の帰結であると同時に、現実政治の中での勝利でもありました。その道のりには、理想を捨てることも、対立を受け入れることも含まれていました。彼は理想家として出発し、現実主義者として国家の座に就いたのです。建国という達成の背後には、数々の挫折と葛藤、そして果断な判断の積み重ねがあったことを見落としてはなりません。

大統領となった李承晩の政治と軍事戦略

朝鮮戦争勃発と李承晩の危機対応

1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を越えて南進し、朝鮮戦争が勃発しました。李承晩はすぐにこの事態を「共産主義の侵略」と定義づけ、国際社会に対して強いメッセージを発信します。その結果、アメリカを中心とした国連軍が朝鮮半島に派遣され、戦争は一国の内戦ではなく、冷戦の代理戦争として国際化されました。しかし、開戦直後の対応には大きな問題が残りました。6月27日、李承晩はソウルを特別列車で離れ、その後、避難命令が十分に行き渡らないまま漢江橋が爆破され、多くの民間人が犠牲となります。この決断は国民から強い非難を受け、今も韓国社会において議論の的となっています。その後、戦局が逆転し、国連軍が北進を始めても、李承晩は「北進統一」を主張し、休戦協定に反対し続けました。彼にとってこの戦争は、単なる軍事防衛ではなく、朝鮮半島における自由主義体制の正当性を国際的に訴える場であり、政治的意図が色濃く反映された対応だったのです。

反共体制の強化と米韓同盟の形成

李承晩政権の基盤には、徹底した反共主義が据えられていました。1948年の済州島四・三事件では、左派とされた住民が大量に虐殺され、1950年の国民保導連盟事件では、開戦直後に数万人規模の民間人が命を落としたとされます。これらは共産主義への警戒を理由とした過剰な暴力であり、政権の人権意識を問う重大な事件です。その一方で、李承晩はアメリカとの軍事的・政治的な関係を強化します。1953年には「韓米相互防衛条約」が締結され、韓国はアメリカの安全保障網に組み込まれました。この条約は朝鮮半島の安全保障を担保する枠組みとして、現在まで続く日米韓関係の出発点ともいえるものです。李承晩は「韓国の安全はアメリカとの同盟にかかっている」としばしば強調し、この同盟を内政・外交両面での柱としました。反共という大義は、外敵の脅威への備えであると同時に、国内政治の統制手段としても機能していたのです。

政権維持のための制度改変と不正操作

李承晩の統治は、やがて民主主義の枠組みを逸脱し、権力の長期化と集中に向かって進んでいきます。1952年、戦争中にもかかわらず彼は軍を動員して議会を包囲し、憲法を改正して大統領直接選挙制を導入しました。以後、1956年、1960年と続く選挙では、不正行為や言論統制、野党排除が繰り返され、民主的正統性は著しく損なわれていきます。特に1960年の選挙では、李承晩の再選と副大統領に擁立した李起鵬の当選が大規模な不正の結果であったことが明るみに出て、民衆の怒りが爆発。「3・15不正選挙」に端を発する学生や市民の抗議は、やがて全国規模の「四月革命」へと発展し、李承晩はついに失脚に追い込まれます。彼は晩年まで「自由の守護者」を自任していましたが、実際の統治は、自由を制限し、自らの権力維持を優先する体制へと変質していたのです。その矛盾は、最終的に民衆の手によって糾弾され、李承晩政権の幕を閉じさせることとなりました。

革命によって退陣した李承晩の晩年

四月革命と市民の決起

1960年3月15日、韓国で行われた大統領・副大統領選挙は、政権与党による大規模な不正によって行われました。副大統領候補であり李承晩の側近であった李起鵬が、信じがたい得票率で当選したことが市民の怒りを爆発させ、抗議運動の火種となります。さらに、慶尚南道・馬山で行われたデモ中に、中学生の金朱烈(金主烈)が警察によって殺害され、その遺体が発見されたことで事態は一変します。遺体の状態を目の当たりにした市民の衝撃と怒りは、デモを一気に全国へと拡大させました。4月19日にはソウルを中心に学生・市民による大規模なデモが発生し、「李承晩退陣」を求める声が国を揺るがします。当初は強硬姿勢を取っていた李承晩でしたが、アメリカ政府の圧力と国民の抗議に屈し、ついに4月26日、大統領職を辞任。これが「四月革命」として記憶されることになります。この革命は、韓国における市民による初の大規模な民主化運動として、今も高く評価され、記念日として語り継がれています。

失脚と亡命、ハワイでの晩年

李承晩は辞任から約1ヶ月後の1960年5月末、妻フランチェスカ・ドナーや数人の側近と共に韓国を離れ、アメリカ・ハワイ州ホノルルへと亡命しました。以後、彼は政治の表舞台から完全に退き、静かな晩年を送ります。ハワイでの生活は質素なもので、政界への影響力を取り戻すことはありませんでしたが、韓国の政治や社会の動向に関心を持ち続けていたという証言も複数残されています。退任後、彼は一度も韓国の地を踏むことはなく、1965年7月19日、ホノルルにて死去。享年90歳。その遺体は韓国に戻され、ソウル郊外の国立墓地に埋葬されました。波乱に満ちた政治人生を経たその最期は、かつての絶対的権力者であった人物としては静かで、どこか象徴的なものを感じさせます。

功罪併せ持つ評価の現在地

李承晩は、韓国現代史における最も評価が分かれる人物の一人です。一方では、朝鮮独立運動を長く国際社会で訴え、臨時政府を経て大韓民国の建国を主導し、米韓同盟を礎から築いた指導者として、保守層を中心に「建国の父」として称えられています。反共主義を掲げて冷戦下の国家体制を築いた点も、国家安全保障の視点から一定の評価を受けています。しかし他方では、独裁的な政権運営、不正選挙、野党弾圧、そして済州島四・三事件や国民保導連盟事件といった民間人への重大な人権侵害など、強権統治の負の側面に対する厳しい批判も根強く存在します。特に若年世代や進歩派の間では、李承晩の統治は「民主主義の破壊者」として語られることが多いのが現状です。このように、李承晩の評価は世代や思想によって大きく揺れ動いており、功績と過失が複雑に絡み合った多層的な人物像が、現代における再評価の出発点となっています。一面的な断定ではなく、多角的な視点での考察こそが求められているのです。

書物と映像で再検証される李承晩の実像

木村幹『韓国における「権威主義的」体制の成立』に見る構造的分析

政治学者・木村幹は、著書『韓国における「権威主義的」体制の成立』において、李承晩政権を「反共主義」と「米国依存」の二軸を中心とした体制として冷静に分析しています。本書は、李承晩の統治を個人の資質や野心に還元するのではなく、植民地支配の残滓や冷戦構造、そして建国初期の制度的未成熟といった構造的要因が相互に作用した結果として位置づけています。とりわけ、済州島四・三事件や国民保導連盟事件といった重大な人権侵害を「体制維持のメカニズム」として捉え、「暴力を伴った国家建設」の実態を明らかにしている点は、本書の重要な貢献の一つです。李承晩を一方的に肯定も否定もせず、彼を取り巻いた制度や国際環境に焦点をあてることで、個人ではなく「体制が人を作る」という視点から再評価を促すこの視座は、韓国政治を歴史の厚みとともに捉える上で大きな意義を持ちます。

池東旭『韓国大統領列伝』が描く人物の陰影

外交学者・池東旭による『韓国大統領列伝――権力者の栄華と転落』は、より人物志向の筆致で李承晩の政治人生を描き出しています。池は、李承晩を「独立運動家」から「建国の父」へ、そして「権力に固執する統治者」へと変貌していく人物として捉え、その内面の揺らぎや政治的駆け引きを豊富なエピソードとともに描いています。特に、対米外交における巧みな立ち回りや朝鮮戦争期の強いリーダーシップへの評価は、李承晩の力量を肯定的に捉える一方で、1950年代後半の選挙操作や政敵排除、独裁体制の構築には厳しい視線を向けています。理想主義と現実政治の交錯、信念と計算が交わる中で変質していく彼の姿は、権力というものの普遍的な誘惑と、それに抗えなかった人間としての李承晩を浮かび上がらせます。池の記述は、一面的な英雄や悪役としてではなく、矛盾を抱えたまま時代を駆け抜けた政治家の姿を、読者にじっくりと問いかけてきます。

映画『建国戦争』が提示する視覚的再評価

2024年に公開されたドキュメンタリー映画『建国戦争(原題:건국전쟁/英題:The Birth of Korea)』は、映像メディアならではの力を用いて李承晩の実像に迫ります。この作品は、記録映像・再現ドラマ・専門家の証言・現代の若者による討論シーンを織り交ぜながら、李承晩を「英雄でも悪役でもない、矛盾を抱えた人物」として描いています。監督は制作意図として、「歴史の歪曲を正し、四・一九革命の精神とも矛盾しない形で再評価を促す」と語っており、李承晩の光と影の双方を観客に提示する姿勢が貫かれています。とりわけ印象的なのは、世代間で李承晩の評価が大きく分かれる様子を映像化した点です。若者たちが映像資料を見て討論する場面は、記憶の継承がいかに「現在」と関係しながら変容していくかを示しています。映画『建国戦争』は、李承晩を語る上で不可避な「評価の揺らぎ」をそのまま映像に封じ込め、観る者に判断の余白を託す表現となっています。これはまさに、すべてを語らず、観客の想像力に委ねる現代的な「歴史叙述」の試みといえるでしょう。

矛盾と共存する指導者像としての李承晩

李承晩という存在は、近代朝鮮と現代韓国を結ぶ裂け目の中に立つ人物でした。独立運動家として国際社会を駆け回り、大韓民国の建国を主導し、冷戦下の自由主義陣営で国の礎を築いた一方で、独裁体制の確立や人権侵害といった負の遺産も残しました。その評価は、時代や立場、世代によって大きく揺れ動きます。だが、その揺らぎこそが、李承晩という政治家の複雑さと、韓国という国家の生成過程を浮かび上がらせているのです。書物、証言、映像――あらゆるメディアを通じて再検証される李承晩像は、私たちに「一面的な歴史観では捉えきれない人間の深さ」を教えてくれます。今なお交差し続けるその光と影は、未来の視点から再び照らされることを待っているかのようです。

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