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渋沢栄一の生涯:500社を創り日本経済を築いた立役者

こんにちは!今回は、第一国立銀行の創設、富岡製糸場の立ち上げ、教育・福祉支援まで手がけ、日本に近代資本主義の土台を築いた実業家・社会事業家、渋沢栄一(しぶさわえいいち)についてです。

パリ万博での欧州視察をきっかけに道徳と経済の融合「論語と算盤」を体現し、生涯で約500社の企業、600を超える社会事業に関わった“日本近代経済の父”の驚くべき生涯をたどります。

目次

農村に始まる渋沢栄一の原点

深谷の農家に生まれた少年と家業の手伝い

渋沢栄一は1840年、現在の埼玉県深谷市にある血洗島村で、農業と藍の製造・販売を営む家に生まれました。農家といっても自作農であり、経済的には比較的恵まれていましたが、生活は質素で、子どもも労働力として重要な存在でした。幼い栄一は田畑の作業に加えて、家業の藍づくりを自然と手伝うようになります。重い藍玉を運び、藍の仕入れや出荷にも加わることで、彼は物の価値や人とのやりとりを肌で覚えていきました。

両親は教育にも熱心で、読み書き算盤だけでなく、儒学や道徳の基本を厳しく教えました。こうした厳格ながらも愛情に満ちた家庭の中で、栄一は労働の尊さと学問の意義を同時に身につけていきます。現実の生活と学びが融合する環境は、後に彼が「論語と算盤」という思想に至る素地ともなりました。血洗島の自然、家族、そして農と商が混ざり合う生活こそが、渋沢栄一の原点だったのです。

藍づくりと商才の芽生え、実学の土台

藍は当時、高価な染料として広く使われており、深谷地域でも重要な産物でした。渋沢家も藍玉の製造と商いを通じて、地域の経済に深く関わっていました。少年時代の渋沢栄一は、この藍づくりに日常的に関わることで、自然と商売の仕組みを身につけていきました。彼は村の市や問屋との交渉に同行し、人の心理や値段の駆け引きを実地で学んでいきます。この経験が、彼の商才の芽生えとなりました。

また、藍の出来は天候や土壌に左右され、品質管理や供給の安定化が常に課題でした。そうした不確実性を管理し、利益を最大化するためには知恵と工夫が必要であり、栄一は自然と「実学」の重要性を理解していきます。書物だけでは解けない現実の問題に立ち向かうなかで、実用的な知識と判断力が彼の中に育まれていったのです。後の近代産業や金融制度づくりにも通じるこの「現場の知恵」は、深谷の藍玉づくりから生まれました。

尾高惇忠との出会いと陽明学への傾倒

渋沢栄一の人生を大きく動かしたのが、従兄であり師ともなった尾高惇忠との出会いです。惇忠は当時すでに陽明学を学び、義と実践を重んじるその思想を若き栄一に説きました。陽明学は、知ることと行うことは一体であるという教えであり、現実の行動を通じて自己を鍛えるという点で、商いの現場で生きる栄一に強い影響を与えました。

特に印象的だったのは、「心即理(しんそくり)」という考え方です。人の心には本来、道理が備わっており、それに従って行動することで真の価値が生まれるとするこの教えは、彼の後の「道徳経済合一」の思想の根幹にもなります。惇忠との議論を重ねる中で、栄一は学ぶことの意味を単なる知識の吸収から、社会への働きかけへと拡張していきました。血洗島の藍づくりと陽明学の思想が交差するこの時期こそ、渋沢栄一が一個の人間として「志」を持ち始めた転機だったのです。

渋沢栄一が攘夷に燃えた青春と決起の計画

尊王攘夷思想と渋沢栄一の行動

渋沢栄一が青年期を迎えた幕末、日本は黒船来航を機に急速な政情不安に陥っていました。1858年に締結された日米修好通商条約は、天皇の勅許を得ないまま進められたことから、幕府への不信と尊王攘夷の機運を全国的に高めました。陽明学の影響を受けていた渋沢は、師であり従兄でもある尾高惇忠から「知行合一」の思想を学び、思想を実行に移すことこそが誠実であると信じていました。この考えは、彼の思想形成の根幹を成し、やがて実際の行動へと彼を導くことになります。

深谷の農村に身を置きながらも、栄一は国の行く末を案じ、自らが変革の一端を担うべきだと強く感じていました。こうして彼は、同郷の若者たちと共に尊王攘夷運動に身を投じていきます。幕府の弱体化、外国勢力の増長、そして民衆の不満といった複雑な社会情勢が、栄一の内に秘めた理想主義を刺激していったのです。

尾高家での密議と同志たちの結束

渋沢栄一が攘夷の志を具現化するために動き始めたのは、尾高惇忠の私塾を拠点とする密議の中でした。ここでは、惇忠の弟・尾高長七郎をはじめとする同志たちとともに、激しい議論が交わされ、具体的な行動計画が策定されていきます。彼らの多くは農村出身の若者でしたが、陽明学の影響下にあり、義を貫くことに生きがいを見出していました。

彼らは、武力を用いた実力行使を通じて、幕府を倒し、攘夷を断行するという大義を掲げました。その象徴的な計画が「高崎城乗っ取り構想」でした。高崎城を占拠し、兵糧や武器を調達したのちに、横浜の外国人居留地を襲撃しようというものでした。この計画には、資金調達、兵力の確保、情報の管理といった多岐にわたる準備が必要であり、渋沢はその中心的な役割を担いました。この過程で、彼は組織運営の基本や指導者としての統率力を身につけることになります。

高崎城計画中止の決断と京都への逃避

1863年、ついに高崎城襲撃の決行日が迫る中、計画は大きな転機を迎えます。京都から戻った尾高長七郎が、「八月十八日の政変」によって尊王攘夷派が京都から一掃されたという情報を持ち帰ったのです。これは、天皇のもとに攘夷の大義を訴える拠点を失ったことを意味し、計画の実現可能性が一気に崩れました。この知らせを受けた渋沢栄一は、同志と協議の末、ついに決行の中止を決断します。

中止を決めた彼らは、幕府に察知されることを恐れて身を隠し、渋沢自身は江戸ではなく京都へと逃亡しました。この逃避行は、命を賭けた決断であり、彼の信念と理性の間で揺れ動いた結果でもありました。失意の中で栄一が得たものは、理想を貫くことの困難さ、そして時勢を読む力の重要性でした。後年の『雨夜譚』においても、栄一はこの挫折を振り返り、「志を持つだけでは足りない。時に応じて柔軟に考え、行動する力が必要なのだ」と語っています。この経験が、彼を理想主義者から現実主義的改革者へと変化させる大きな転機となったのです。

渋沢栄一が一橋家で得た政治と組織運営の知見

平岡円四郎との出会いと仕官の決断

渋沢栄一が一橋家に仕官するきっかけは、京都逃避中の偶然ではなく、人脈と縁故を通じたものでした。尊王攘夷活動の余波で幕府に追われる身となっていた栄一は、親類や同志の縁を頼りに動き、やがて一橋家家臣の平岡円四郎に紹介される機会を得ます。当時、円四郎は若き一橋慶喜を支える実力者であり、抜きん出た人材を探し続けていました。

平岡は栄一との面談で、その知識の深さと行動力、そして何よりも誠実さに目をとめます。渋沢にとって、一橋家、ひいては幕府に仕えることには、当初大きな葛藤がありました。なぜなら、彼はつい数ヶ月前までその幕府を倒そうとしていた立場にあったからです。しかし、平岡は「今後は幕府の中から世の中を変える時代だ」と語り、渋沢の心を動かします。この一言が、栄一の進路を大きく転じさせました。彼は武士として、一橋家に仕える覚悟を決め、新たな人生の扉を開いたのです。

一橋慶喜の側近としての活躍

一橋家に仕官した渋沢栄一は、すぐにその能力を発揮し、慶喜の側近としてさまざまな実務に携わるようになります。とくに注力したのは財政の管理と再建でした。幕府の財政は既に逼迫しており、歳入の確保と無駄の削減が喫緊の課題だったのです。渋沢は帳簿の整理から始め、支出の内訳や経費の妥当性を分析し、組織の財務を根本から見直していきました。

また、彼は外交にも関与し、外国使節との応対や通商政策にも接する機会を持ちました。これは国内だけでなく国際社会との接点を持つ、貴重な経験となります。さらに、人材の登用や業務の割り振りといった組織運営の実務も任され、調整力と先見性が試される毎日でした。混乱を極める幕末政局の中で、一橋慶喜の側に立ちながら働いた経験は、渋沢にとって後の財界での活動の土台となる「組織を動かす力」を養う場であったと言えます。

幕末政局の只中で学んだ政治と組織運営

幕末は、尊王攘夷、開国、討幕といった複雑な思想と利害が交錯する未曾有の時代でした。渋沢栄一は一橋家に仕えてから、各藩との協議や財政支援の交渉、情報収集など、まさに政局の最前線で働くことになります。ここで彼が痛感したのは、「理想」だけでは世の中は動かず、「現実」を見据えたうえでの行動が不可欠だということでした。

とりわけ、彼が学んだのは「理をもって人を動かす」という考え方でした。上からの命令ではなく、納得のある説明と信頼関係によって人を導く——これは後に『論語と算盤』で説かれる「道徳と経済の両立」という思想にも直結します。渋沢はこの経験を通じて、政治や組織運営に必要なのは個人の資質だけでなく、環境を把握する観察力、他者との関係を築く協調力、そしてタイミングを読む判断力であると理解していきました。

渋沢栄一が企業や社会事業の世界で類まれな成果を挙げることができたのは、この時代に国家レベルの政務と対峙し、「現場での判断と理念の調和」を徹底的に学んだからにほかなりません。激動の中で得たこの知見こそが、彼の経済人としての真価を形作ったのです。

渋沢栄一が西洋で学んだ資本主義と文明の衝撃

徳川昭武に随行し西洋を体感

1867年、渋沢栄一は幕臣として徳川昭武に随行し、フランス・パリを中心とした欧州視察に参加しました。彼の役職は「勘定格陸軍附調役」。この視察は、同年開催のパリ万博に将軍名代として昭武が派遣されることになり、栄一はその随員として選ばれたのです。身分制度の厳しい江戸時代末期において、農家出身の栄一が国際舞台に立つことは異例であり、まさに近代日本の転換点を象徴するような出来事でした。

パリに到着した渋沢は、その都市の近代的な構造と機能に深い衝撃を受けます。街の整然としたインフラ、上下水道や交通網の発達、そして国家と民間が対等に協力し合う社会構造は、身分制度に縛られた日本との大きな違いを感じさせました。特に、現地の銀行家フリュリ・エラールとの交流は大きな転機となります。エラールは栄一に対して、合本組織――すなわち株式会社制度――の仕組みや社会的意義を語り、日本の将来に資本制度が不可欠であることを強く印象づけました。

この視察を通して栄一は、「国家を強くするのは武力ではなく制度と経済」であるという現実を直視し、帰国後の行動理念を形づくっていきます。

パリ万博と近代資本主義社会の衝撃

1867年4月から10月にかけて開催されたパリ万博には、世界各国から最新の技術と産業構造が集まりました。渋沢栄一は、ただ展示品を見るのではなく、その背後にある制度と思想に鋭い関心を持ちました。各国の出展品には、それを支える企業、資本、流通、そして国家との関係性が組み込まれていたからです。栄一はここで、国家主導の官製経済とは異なる、民間の創意と信用に基づく経済活動の在り方に深く感銘を受けます。

特に、合本組織=株式会社制度が、いかにして個人のリスクを分散し、資本を集め、事業を拡大していくかという仕組みに強く惹かれました。この制度は、フリュリ・エラールの説明によりより立体的に理解され、日本での応用可能性を真剣に考えるようになります。また、鉄道や金融といったインフラが社会の基盤として機能している様子を目の当たりにしたことで、「経済」が社会の安定と発展の根幹であるという考えを確信するようになります。

この経験が、後に渋沢が「第一国立銀行」など多くの近代企業を設立する原動力となるのです。

「論語と算盤」思想の原点となる旅

欧州での体験を通じて、渋沢栄一はひとつの根源的な問いにたどり着きます。それは「利益を追求することは、果たして道徳に反するのか」ということでした。フランスやイギリスでは、商人や実業家が社会的に高い地位を持ち、誇りをもって職務にあたっている姿がありました。彼らは公共の利益を意識しながら経済活動を行っており、そこには倫理と経済の融合が存在していたのです。

これに触発された栄一は、日本でも経済活動に対する価値観を変えなければならないと痛感します。後に彼が提唱する『論語と算盤』の思想、「道徳(論語)と利益(算盤)は両立する」という考えは、まさにこの欧州体験が出発点となっています。ただ金儲けを追求するのではなく、社会に役立つ企業活動を行うことで、個人も社会も豊かになれるという信念は、この旅の中で培われたものでした。

帰国後、栄一は大蔵省に入り、「国立銀行条例」の制定や第一国立銀行の創設に携わります。それは、西洋で学んだ合本制度と信用経済を、日本の実情に合わせて応用する第一歩でもありました。渋沢栄一の「論語と算盤」思想は、ただの理念ではなく、国際経験に裏打ちされた現実的な経済設計思想として、日本の近代化に大きく貢献していくのです。

渋沢栄一が明治政府で進めた制度改革と産業基盤づくり

明治新政府への参加と制度整備

明治維新後、渋沢栄一は新政府からの誘いを受け、大蔵省に出仕することになります。この登用のきっかけとなったのは、旧幕臣への理解が深かった大隈重信による強い説得でした。西洋視察の経験と財政知識を持つ栄一の力を、新しい国づくりに活かすべきだというのが大隈の考えでした。新政府は人材登用において身分より能力を重視しており、旧幕府出身でありながらも渋沢は異例の形で官界入りを果たします。

栄一が大蔵省で取り組んだのは、国家財政の基礎づくりでした。彼は租税の金納化を進め、江戸時代の年貢制度から脱却して現金による納税制度を整備しました。また、新たな通貨単位「円」の導入や、近代的金融制度の骨格となる「国立銀行条例」の起草にも深く関わります。国家予算の策定、会計制度の透明化といった改革も次々に実行に移され、日本経済の近代化が一気に進んでいきました。

倫理的な視点を重視した栄一は、制度設計においても「信頼」「誠実」を要と考えていました。経済と道徳の両立という理念は、後に『論語と算盤』へと結晶していく思想の萌芽でもありました。

富岡製糸場の設立と近代産業への道

日本初の本格的な官営模範工場として設立された富岡製糸場の創設にも、渋沢栄一は深く関与しました。当時、絹は日本の主要輸出品であり、その品質と生産量の向上が急務とされていました。伊藤博文らと協力し、栄一はフランス人技師ポール・ブリューナを招聘するなど、西洋技術導入を主導。さらに、工場建設の資金調達や事業計画の策定に尽力します。

また、場長には信頼のおける従兄・尾高惇忠を推挙し、運営の信頼性を確保しました。工女の募集に際しては、「良家の子女」を中心に採用し、職業としての製糸を社会的に正当化するため、待遇や教育環境の改善にも力を注ぎました。食事、住居、医療といった福利厚生の充実は、当時としては画期的な試みでした。

ただし、富岡製糸場がその後民営化され、全国に同様の民間製糸場が増える中で、労働環境は一様ではなくなっていきます。のちに「女工哀史」と語られるような過酷な労働の一面も生まれましたが、富岡の創設当初には、渋沢の理念に基づいた先進的な産業と労働の姿があったのです。

「官」から「民」への転身の決意

1873年、渋沢栄一は大蔵省を辞し、民間の実業界へと身を転じます。この転身には、彼自身の「経済は民が主役であるべきだ」という信念がありましたが、背景には当時の政局の混乱もありました。特に大久保利通との予算編成を巡る対立が決定打となり、井上馨の辞任に連動するかたちで栄一も官界を去ることになります。

この退官は「敗北」ではなく、むしろ「解放」でした。国家財政の骨格を整えた彼は、次なるステージとして、民間から国を支える道を選びます。それは、ただ企業を起こすだけではなく、「制度を社会に実装する」実験の場でもありました。彼はまず、国立銀行条例を自ら実践すべく、第一国立銀行の設立に着手します。これは日本初の株式会社組織による銀行であり、「資本と信頼を民間に根づかせる」大きな試みでした。

以後、渋沢は500社を超える企業の創設や運営に関わることになります。そこには、官で培った制度設計力と、民の側に立った改革者としての実践力が融合していました。幕臣、官僚、そして実業家——それぞれの立場を通じて、「人のための経済」という彼の思想は、現実のかたちとして動き始めたのです。

渋沢栄一が創設した第一国立銀行と金融制度の礎

日本初の株式会社組織による銀行設立

渋沢栄一は1873年、大蔵省在職中に第一国立銀行の設立を実現しました。これは明治政府が公布した「国立銀行条例」に基づき、日本で初めて民間資本によって設立された株式会社形式の銀行でした。従来の特権的な金貸し業とは異なり、公共性と透明性を備えた金融機関を日本に根づかせることを目的としていました。

この銀行は、三井組や小野組といった当時の代表的な商社の資本によって支えられ、渋沢は創設における総監役として中心的な役割を果たします。彼が重視したのは、資本出資者が単に利益を追うのではなく、社会の信頼を預かる存在であるという倫理観でした。銀行業務は、個人や企業への貸付、預金の受け入れ、為替取引のほか、当時は銀行券(紙幣)を発行する機能も備えており、日本初の信用創造の場でもありました。

この銀行設立は、日本社会に「資本の共有」「経済の近代化」「信頼の制度化」という新たな観念を導入する、大きな転換点となりました。

第一国立銀行と近代金融の礎

第一国立銀行は設立当初から、単なる営利機関ではなく、日本の近代金融制度の中心的存在として機能します。預金、貸付、為替といった基本業務の整備に加え、渋沢は銀行集会所(後の全国銀行協会)や東京の手形交換所の創設を主導し、銀行間の情報共有と取引円滑化を推進しました。これにより、銀行間の信用取引が制度化され、全国的な金融ネットワークが形成されていきます。

また、全国各地で同様の国立銀行の設立が相次ぎましたが、そのモデルとなったのが第一国立銀行でした。日銀設立(1882年)以前のこの時期、渋沢が率いた第一国立銀行は、政府の補完的な立場から金融安定を担い、国家財政の信用を支える役割を果たしていました。とはいえ、「事実上の中央銀行」とまでは言えず、正確には「最大規模の国立銀行として民間金融の中核を成した」といえます。

渋沢は金融制度においても、制度の導入だけでなく、それを「人がどう運用するか」を重視し、制度と倫理の両立を図ったのです。

民間経済発展の基盤づくり

第一国立銀行を通じて、渋沢栄一は単なる金融業ではなく、「社会の成長を支える資本の循環」を実現しようとしていました。彼は、繊維業をはじめとする地場産業や鉱業、商業といった多様な分野に対して、銀行資本を通じて支援を行います。特に生糸産業の振興には熱心で、富岡製糸場の設立と運営の延長線上にあるかたちで、生糸輸出業者や養蚕農家への融資を積極的に進めました。

また、渋沢は中小企業や地方経済の自立を重視し、地方銀行や信用組合の設立にも助言を行っています。直接的な「経済教育」の記録は多く残っていませんが、500社以上の創業・経営に関与する中で、若い企業家や実業家たちが渋沢の思想と実践から多くを学んだことは間違いありません。

渋沢にとって、銀行とは単なる金銭の出し入れを行う場ではなく、社会における「信」の流通を支える根幹でした。その姿勢は、『論語と算盤』に示される「道徳と経済の融合」という思想に貫かれており、制度の枠組みを超えた実践的哲学として、現代の金融観にも大きな示唆を与え続けています。

渋沢栄一が支えた日本産業の広がりと共栄の思想

鉄道・保険・製紙から紡績まで幅広い事業支援

渋沢栄一が日本産業の近代化に果たした貢献は、単一分野にとどまりません。彼が関与した産業は、鉄道、保険、製紙、紡績など多岐にわたります。鉄道分野では、日本鉄道会社の創設に尽力し、上野駅の建設にも関わるなど、交通インフラを「経済の動脈」と位置付け、全国的な物流網の整備に先見的な視点を持って取り組みました。

保険分野では、1879年創業の東京海上保険会社(現・東京海上日動)の発起人・相談役を務め、日本初の本格的保険会社の立ち上げに深く関与しました。これは、貿易や国内流通のリスク管理を可能にし、経済活動の安定化に大きな影響を与えました。製紙業においても、抄紙会社(後の王子製紙)の設立を主導し、輸入依存の脱却と国産紙の普及を実現。さらには、大阪紡績(現・東洋紡)をはじめとする紡績会社群の設立を支援し、繊維産業の自立と輸出振興にも寄与しています。

これらの支援は、資金提供だけに留まらず、制度設計、経営方針の助言、人材の紹介、そして業界内の利害調整といった多面的なものです。渋沢は「一業一社」の専属型支援ではなく、「一原則多業展開」というネットワーク型のアプローチを志向し、合本主義に基づく相互扶助と持続可能な成長の仕組みを築いていきました。

500社超の創業・経営に関与した手腕

渋沢栄一が創業・支援に関与した企業の数は、500社を超えるとされています。その全てを自ら創業したわけではありませんが、発起人としての立場や、資金調達、人材斡旋、経営助言、利害調整といった多様な形での関与がありました。彼の支援対象は、銀行、鉄道、保険、製紙、紡績、通信、農業、出版、医療と非常に広範であり、まさに近代日本の産業の骨格を形成したと言っても過言ではありません。

渋沢は、単に成功可能性の高い企業に資本を投下するのではなく、事業の社会的意義や公共性を重視しました。また、設立後も経営陣の選定、組織体制の見直し、将来構想の指導に関与し、事業の長期的安定と倫理的経営の定着を図りました。特に「企業は利潤の追求とともに社会的責任を担うべき」という理念は、彼の支援先企業に共通する文化として根づいていきます。

その象徴とも言えるのが、東京株式取引所(旧・東京株式取引所)の設立支援です。資本市場の整備は、企業活動に必要な資金の調達環境を整えるだけでなく、経済全体の流動性を高め、公正な競争と情報公開を促進するものでした。渋沢の活動は、単なる実業家の域を超え、制度構築者としての面も強く示しています。

経済の発展と「共存共栄」のビジョン

渋沢栄一の産業支援の根底には、「共存共栄」という明確なビジョンがありました。これは、企業が社会とともに成長し、全体の福祉に資する存在であるべきだという信念に基づいています。取引先や従業員だけでなく、地域社会や国家全体の利益を考慮に入れた経営こそが、真に持続可能な経済成長を導くというのが、渋沢の持論でした。

この思想は、彼の代表的著作『論語と算盤』にも明確に表現されています。そこでは、道徳(論語)と利益(算盤)を両立させる「道徳経済合一」の思想が説かれており、企業家が利潤の追求だけでなく、倫理的判断を下すことの重要性が強調されています。渋沢は経営においても、現場の声に耳を傾け、小規模な業者や労働者の立場にも目を配ることを怠りませんでした。

この「共栄」の思想は、単なる道徳論ではなく、経済合理性に裏打ちされた実践的な経営哲学として位置づけられていました。そしてそれは、現代で言うところのCSR(企業の社会的責任)やサステナビリティ経営、SDGsといった価値観にも通じる、時代を超えた普遍性を持っています。渋沢の経済観は、利益と信義を両立させることが可能であるという強い信念のもとに、産業と社会の橋渡しを目指したのです。

渋沢栄一が晩年に託した教育・福祉と道徳の力

教育・社会福祉に捧げた後半生

実業界の第一線からは徐々に退いた渋沢栄一でしたが、そのエネルギーは晩年においても衰えることなく、教育と福祉の分野へと注がれていきました。彼は自身の財をなげうって、数多くの教育機関や福祉団体の設立・運営に関与します。とくに代表的なものが、「日本女子大学校(現・日本女子大学)」「大倉商業学校(現・東京経済大学)」「東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)」などで、教育の裾野を広げる努力を惜しみませんでした。

その支援は、都市の高等教育にとどまらず、地方の夜学校や養護施設にも及びます。彼が重視したのは、「どんな境遇の子どもにも学びの機会を」という思想でした。これは、自身が農村の出自でありながら学問によって社会に出ることができたという経験に深く根ざしています。また、社会福祉では、孤児院や病院、救済施設の運営に資金援助を行い、東京慈恵医院や養育院などの近代的福祉機関の整備を推進しました。

これらの活動の背景には、経済的発展の果実を特定の層だけにとどめてはならないという渋沢の倫理観があります。彼は「富は社会に還元されてこそ意味がある」と考えており、公益活動こそが経済人の最終的な責任であると位置付けていたのです。

『論語と算盤』に込めた理念と警鐘

渋沢栄一が1916年に発表した『論語と算盤』は、彼の生涯の思想の結晶といえる著作です。儒教の倫理を重んじる「論語」と、実務・収益を象徴する「算盤」とを結びつけ、「道徳と経済は両立する」という理念を明快に説いています。これは単なる理想論ではなく、彼自身が長年にわたり実業界で培ってきた現実の知見を背景に持つ、具体性と実効性を伴った思想でした。

この書において渋沢は、近代日本における急速な産業発展が、倫理の崩壊や拝金主義を生み出していることへの警鐘も鳴らしています。彼は、「経済活動が個人の欲望にのみ基づけば、社会は分断と衰退を招く」と語り、企業や経済人に対して、自らの行為が社会にどのような影響を及ぼすかを常に問うよう促しました。

また、「算盤は心の支えがあって初めて価値を持つ」という一節には、経済行為における内面の誠実さの重要性が込められています。この思想は、戦後の混乱期にも再評価され、21世紀の現代に至るまで、企業倫理や社会的責任の根幹を成す指針として語り継がれています。

静かな最期と次世代への希望

1931年11月11日、渋沢栄一は91歳でその波乱と栄光に満ちた生涯を閉じました。晩年の彼は多くの公職からも引退し、東京・飛鳥山の自邸で静かな余生を送りながらも、なおも訪問者は絶えず、国内外の経済人・政治家・教育者たちが教えを請いに訪れました。最期の瞬間も決して華美ではなく、質素で誠実な生き方を貫いた彼の人生そのものを象徴するような静けさに包まれていました。

彼の死は新聞各紙で大きく報じられ、「日本資本主義の父」としての業績だけでなく、「徳と理の人」としての人格にも注目が集まりました。その後、彼の理念は遺族や弟子たちによって語り継がれ、多くの記念碑や教育施設にその名が残されていきます。現在も、彼の志を受け継ぐ形で活動を続ける団体は少なくありません。

そして、現代において彼の肖像が新一万円札に選ばれたことは、「お金の顔」として、単に財を成した人物ではなく、倫理と経済をつなげた「思想の体現者」としての評価に他なりません。渋沢が信じた「未来のために道をつくる」という姿勢は、今なお、多くの人々に希望と指針を与え続けています。

渋沢栄一の思想と生涯は現代の日本にも息づいている

自著『論語と算盤』『雨夜譚』にみる思想の深み

渋沢栄一が自らの思想と実践を言語化した著作には、1916年に刊行された『論語と算盤』のほか、晩年に口述筆記としてまとめられた自伝『雨夜譚(あまよがたり)』があります。いずれも、彼の人生哲学と経済観を読み解くうえで極めて重要な文献です。『論語と算盤』は、道徳と利益の両立、誠実な経営、社会的責任を中心に据えた内容で、現代の企業倫理の先駆的教科書ともいえる存在です。

一方の『雨夜譚』は、彼の半生を回顧する形で語られた作品であり、攘夷運動の挫折から一橋家での実務、西洋視察、実業界への転身、そして教育・福祉活動に至るまでの道のりが、時にユーモラスかつ率直な語り口で綴られています。とりわけ印象的なのは、どの場面においても「時代に逆らうのではなく、時代を読む」姿勢を貫いていた点です。理想主義者に見えて、その実、非常に現実的な合理性を持ち合わせていたことが、両書からは明確に伝わってきます。

これらの著作は、ただの回想録や倫理書ではなく、渋沢が生涯を通じて見つめ続けた「人間としてどう生きるか、いかに経済と関わるか」という問いへの実践的な回答書であり、現代に生きる私たちにもなお響くメッセージを含んでいます。

漫画や児童書での再発見と親しみやすさ

21世紀に入り、渋沢栄一の人物像は単なる歴史上の偉人としてではなく、教育や文化を通じて再発見されるようになりました。代表的なものとしては、星野泰視による歴史漫画『日本を創った男~渋沢栄一青き日々~』があります。この作品では、若き日の渋沢が悩み、決断し、変化していく様が臨場感あふれる筆致で描かれ、多くの読者に「等身大の栄一像」を印象づけました。

また、児童向けの書籍でも渋沢の思想が積極的に紹介されており、『角川まんが学習シリーズ まんがで名作 渋沢栄一の論語と算盤』や、『お札に描かれる偉人たち 渋沢栄一・津田梅子・北里柴三郎』などが刊行されています。これらの書籍は、難解になりがちな渋沢の言葉や行動原理を、親しみやすいストーリーとイラストで再構成し、子どもたちが自然に学べるよう工夫されています。

渋沢の功績は、制度や経済にとどまらず、「人としての在り方」にも通じているからこそ、時代を越えて語り継がれる価値があるのです。漫画や児童書といった身近なメディアで再評価されていること自体が、彼の思想の普遍性を物語っています。

大河ドラマ「青天を衝け」と現代の再評価

2021年、NHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送され、主演の吉沢亮が若き渋沢栄一を演じたことで、彼の人生と思想が改めて注目を集めました。この作品は、大河ドラマとしては異例の「経済人」を主人公に据えたものであり、視聴者にとっては新鮮な体験であったと同時に、渋沢の知られざる側面を多くの人々に紹介する機会となりました。

ドラマでは、血洗島の農村に育った少年が、尊王攘夷に走り、西洋の合理性と出会い、実業を通じて国を支える決意に至るまでの過程が、史実に基づきながらも感情豊かに描かれました。とりわけ、道徳と経済の両立を説く場面や、教育・福祉への思いを語る場面では、多くの視聴者が共感し、渋沢の人物像に親近感を抱いたといいます。

このドラマを契機に、若い世代や企業経営者の間でも渋沢栄一の理念に関心が高まり、『論語と算盤』の再読が進むなど、静かなブームが生まれました。また、渋沢が2024年から発行される新一万円札の顔に選ばれたことも相まって、「いまなぜ渋沢か?」という問いが、多くの人々に投げかけられる時代となっています。

渋沢の人生は、決して順風満帆ではありませんでした。しかし、その中で彼が常に問い続けたのは、「変わる世界の中で、自分は何を信じ、どう行動するか」という姿勢でした。その探求の軌跡は、今なお多くの人にとって、心の道標となっているのです。

渋沢栄一が残した思想は、未来を照らす灯火である

渋沢栄一の生涯は、激動の時代を生き抜いた一人の実践家として、また思想家としての軌跡でした。農村に生まれ、尊王攘夷に燃え、一橋家で政治を学び、欧州で資本主義の本質を体感した彼は、制度と倫理の両立を掲げ、近代日本の経済と社会の礎を築きました。その信念は『論語と算盤』に象徴され、利益と道徳の調和という理念は、企業経営から教育・福祉まで一貫して貫かれました。500社以上の企業に関わっただけでなく、「共存共栄」の思想をもって社会全体の繁栄を見据えていた点に、渋沢の真価があります。今日、新紙幣の顔として再び注目を浴びる彼の存在は、私たちに「何のために働き、いかに生きるか」という問いを投げかけています。渋沢栄一の思想は、今なお生き続ける未来への羅針盤なのです。

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