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柴野栗山の生涯:幕府儒官として朱子学を推進した男

こんにちは!今回は、江戸時代後期を代表する儒学者・文人、柴野栗山(しばのりつざん)についてです。

幕府の教育制度に深く関わり、「寛政の三博士」の一人として朱子学を国家の中心思想に据える提言を行い、学問界の大改革を主導しました。また、詩や書に優れ、池大雅や皆川淇園といった文化人たちと交流し、文化サロンの中心的存在としても知られています。さらに、地質学史に残る名所「玄武洞」の命名者でもあるなど、知の世界を横断したマルチな才能の持ち主です。

政治・教育・文化のすべてに足跡を残した、江戸時代のスーパーインテリ・柴野栗山の生涯を見ていきましょう!

目次

柴野栗山の思想を育んだ家系と若き日の教養

讃岐・牟礼村に生まれて

柴野栗山は、元文元年(1736年)、讃岐国三木郡牟礼村(現在の香川県高松市牟礼町)に生まれました。名は邦彦、字は彦輔、のちに号として「栗山」を名乗ります。彼の生家である柴野家について、代々の学問的背景や藩政における影響力などの詳細な記録は残されていませんが、父・柴野軌逵(または軌逵)は名が知られており、何らかの教養を持っていた可能性はあります。

幼少期の栗山がどのような環境で学問に触れたかについての詳しい記録は少なく、蔵書の内容や家庭内の学習の様子は確たる資料に基づいてはいません。ただし、13歳のとき、高松藩に仕えていた儒者・後藤芝山に師事したことは明らかになっており、早くから系統的な漢学教育を受け始めたことがわかります。地方の一村から出発しながら、やがて幕府儒官として活躍するようになるこの人物の歩みは、この時期から着実に始まっていたのです。

学問への志を育てた初学時代

13歳で後藤芝山に入門した柴野栗山は、以後、朱子学を中心とした儒学の基礎を学び、詩文の技法にも触れていきました。芝山は高松藩内で尊敬を集める儒者であり、そのもとでの学びは栗山にとって大きな知的刺激となったはずです。この時期の栗山についての直接的な逸話は多くは残されていませんが、のちの詩文や思想に見られる誠実さ、礼に対する深い理解、そして実践的な学問への傾倒は、まさにこの少年時代の学びのなかで芽吹いていったものと推察されます。

なぜ柴野栗山が、地方にありながら高い志を抱くようになったのか。その背景には、単なる知識の吸収にとどまらない、道徳と修養を重んじる儒学との出会いがあったからでしょう。やがて18歳で江戸に出ることになる彼にとって、後藤芝山との出会いは、学問というものが単に生業のための手段ではなく、自己を鍛え、世を正すための道であることを知らされた重要な入口となったに違いありません。

「栗山」の号に託された地と人へのまなざし

柴野邦彦が号として「栗山」を用いるようになったのは、青年期に入ってからと見られます。号の由来については明確な記録があるわけではありませんが、地元・牟礼村の近くにある八栗山から取られたという説が有力です。八栗山は讃岐五岳の一つに数えられる山で、讃岐の風景の中でも印象的な存在です。

この山を名に選んだ背景には、幼少期から親しんだ自然環境への敬意や、土地に根ざした自己認識があったのかもしれません。山の静けさや堅実さを重んじる精神性は、後年の彼の学問態度や詩文にも通じるものがあります。ただし、「栗」や「山」に対する特定の象徴的意味を本人が明確に語った記録は確認されておらず、それらの解釈はあくまで後世の読み取りによるものです。

いずれにしても、「栗山」という号は彼の生涯を通じて使われ続け、彼の思想や作品とともに記憶されていくことになります。そこには土地への親しみだけでなく、自己を律する一つの形式としての号の意味が込められていたとも考えられます。学問が華やかさや装飾とは無縁の、内なる営みであるという栗山の姿勢は、この号の選び方にもさりげなく表れていたのかもしれません。

柴野栗山の学問的覚醒と詩文の萌芽

後藤芝山から受けた教えと読書体験

柴野栗山が13歳のときに師事した高松藩儒・後藤芝山は、朱子学を正統とする学者であり、特に漢籍訓読の際に用いた「後藤点」でも名を知られていました。この出会いは、柴野の学問的歩みの中で最初の大きな節目となりました。後藤の教えは、経書を通じて礼と義を重んじ、生活の中に理を求めるというものであり、単に知識を記憶するだけではなく、人格の陶冶を重視するものでした。

栗山はこの教育に真摯に向き合い、四書五経を繰り返し読んで学び、儒学の思考枠組みを徐々に自分の中に根づかせていきました。後年の彼の詩文や学問論に見られる誠実な思索や秩序ある論述には、この初期に受けた訓育の影響が色濃く現れています。具体的な読書ノートや思索の記録は現存していませんが、のちに記した数々の著作を通じて、若き日の研鑽の跡を感じ取ることができます。

教えを受ける中で、栗山は書物の中に生きた規範と倫理を見出し、それを日常の中で試みることを学んでいきました。学問とは何か、人はなぜ学ぶのか――そうした問いに対する初めての答えを、彼は芝山のもとで手にしつつあったのです。

江戸遊学で深まった朱子学の理解と詩心の芽生え

18歳になった柴野栗山は、さらなる研鑽を求めて江戸へと向かいます。ここで彼は、林家の学者や中村蘭林といった当時一流の朱子学者に学びました。江戸は学問の中心地であり、さまざまな思想潮流や文人文化が交錯する場でもありました。栗山はこの新しい環境の中で、書物と実際の講義とを通じて、朱子学をより深く、体系的に理解していきました。

とくに朱子学のもつ政治的・社会的側面に触れたことで、彼の思想には現実社会をどう導くべきかという視点が加わります。理論を個人の内面修養にとどめず、それを社会秩序の基盤として考える思考は、この時期に確立されていったものと考えられます。

一方、栗山のもうひとつの関心は詩でした。朱子学的思考の背後には常に情の制御が置かれますが、詩はその情を言葉で昇華する営みです。彼はこの時期から詩作を始めたとされており、その初期の詩には江戸という都市の空気と、若き求道者の内なる葛藤とが交錯しています。学問と詩、それは相反するものではなく、互いに補い合いながら、彼の中で豊かな知的表現を形づくっていきました。

藩内で注目される俊才としての歩み

江戸での遊学を終えた栗山は、讃岐に帰郷したのち、高松藩内で若き俊才として知られるようになっていきます。朱子学を正統的に学んだ者として、彼は藩の教育の場でも講義を担当し、藩士や若年者たちに対する指導にあたったとされています。正式な役職名については資料に限りがありますが、栗山の存在が藩内で一定の評価を得ていたことは、伝記にも記されています。

この時期の彼は、まだ公的な儒官ではなかったものの、すでに一人の教育者として、他者に語り、伝える立場に立っていました。語ることを通じて、彼は自らの考えをさらに洗練させていきます。教えながら学ぶ、というこの往復運動の中で、彼の思想は抽象的な理念から、現実に根ざした説得力ある言葉へと変化していきました。

また、詩文への取り組みも続けられ、後年まとめられる『栗山堂詩集』に収められる初期作品のいくつかは、この時期に成立したと考えられています。学び、語り、書くという三つの活動が並行して進む中で、栗山は次第にその存在感を強めていきました。やがて訪れる徳島藩への招請、そして幕府儒官としての登用は、この時期に培われた実力と人間的魅力の延長線上にあったと言えるでしょう。

江戸・京都で学んだ知と出会いが築いた学識

江戸遊学で深めた朱子学の世界

18歳で江戸に遊学した柴野栗山は、儒学の中心地において、より高い水準の学問に触れることになります。ここで彼は、幕府儒官である林家の門人となり、林榴岡らの指導を受けて、朱子学を体系的に学びました。また、中村蘭林のもとでも学び、経学や詩文について広く教養を深めていきます。江戸での学びは、彼にとって単なる知識の拡張にとどまらず、自らの思想を形作る上で決定的な経験となりました。

栗山が江戸で得たもののひとつに、学問を公の秩序に結びつける視座があります。朱子学は個人の修養を出発点としつつ、家族、社会、そして国家へと規範を拡張する思想体系であり、幕府の官学として機能していました。栗山はその内部で、学問が制度や政治とどう連動しうるかを肌で感じ取ったに違いありません。

当時の江戸では、ただ学識を競うのではなく、人格と整合した知を求める風がありました。講義の際にも単に文章を読むのではなく、その意味をどう現実に生かすかという議論が交わされていたと伝えられています。そうした空気の中で、栗山は思索と言葉の重みを身に染みて理解していったのです。

皆川淇園らとの交流から得た思想的刺激

江戸での学びののち、栗山は京都にも赴きます。ここでは、儒学者でありながら詩文にも優れた文化人・皆川淇園と出会い、深い交流を持つことになります。淇園は朱子学を根本に据えながらも、実学や詩文に通じた柔軟な学者であり、栗山にとっては思想と芸術の両面にわたる刺激的な存在でした。

両者の関係は、単なる師弟関係にとどまらず、時に詩を詠み交わし、時に学問の在り方について語り合う、緊張と共鳴に満ちたものでした。栗山はここで、朱子学の理論を堅持しつつも、それを柔らかく表現する詩的な感性に目覚めていきます。理だけでは人の心は動かせないという実感が、彼の表現の幅を大きく広げたのです。

また、京都には須藤柳圃や高芙蓉、大川滄州ら文人たちが集い、多様な文化交流が繰り広げられていました。栗山もこうした知的サークルに身を置き、詩や書を通じて学者としてだけではなく、ひとりの文化人としての自己像を育てていきました。理知と情趣、教えと遊び。その両立を試みる姿勢が、彼の思想に奥行きを与えていきます。

詩・書・哲理が交錯する独自の知的探究

江戸と京都での修学と交遊を経て、柴野栗山の思想と表現は次第に独自の深みを持ち始めます。朱子学という体系的な理論を柱としながらも、それをいかに生きた言葉に変えていくか。詩においては、形式にとらわれず心の襞をすくい取るような柔らかさを見せ、書においては簡素な筆致の中に精神を宿すことを試みました。

彼にとって、詩も書もまた一種の哲学的営みでした。書くことは自らに問いを返すことであり、読む者に余韻を残すための仕掛けでもありました。その思索のあり方は、完成された体系よりも、未完の探究に価値を見出すものであり、そこにこそ栗山の知の特異性が表れています。

また、この時期の彼は単なる朱子学の信奉者ではなく、それをどう時代に適用していくかという構想力を深めていきます。学問を、制度の背後にある理念として理解し、それを言葉によって形にしていく。この姿勢は、のちに彼が徳島藩や幕府で行う制度改革と教育事業において、重要な役割を果たしていくことになります。

地方教育の革新者・柴野栗山の徳島藩改革

徳島藩に招かれた背景と意義

明和4年(1767年)、32歳となった柴野栗山は、阿波国徳島藩に儒官として招聘されました。藩主・蜂須賀重喜は、当時の藩政刷新に際して学問と教育を藩の基盤に据える姿勢を強めており、栗山のような実力ある外部人材の登用に積極的でした。栗山の招聘は、地方藩における学問の近代化と人材育成を本格的に推進するうえで、象徴的な出来事であったといえます。

江戸時代、藩校の人事は多くが藩内出身者で占められていたため、外部から学者を招くことは異例でした。それにもかかわらず、栗山が重用された背景には、朱子学の本格的な修養を積んだ人物としての学識、そして教育者としての誠実な人格が高く評価されていたことがうかがえます。また、京都や江戸での豊かな人的交流によって、彼の名が広く知られていたことも一因と考えられます。

この任命は、栗山にとっても大きな転機でした。一地方藩の教育行政という現場において、自らの思想を実地に適用する機会が与えられたからです。理想のみに終わらない実践的な学問のあり方を模索する場として、徳島藩は絶好の舞台となりました。

藩校制度の刷新と教育現場での挑戦

柴野栗山が着任後に取り組んだ最重要課題のひとつが、藩校の整備と教育制度の刷新でした。徳島藩の藩校「文武館」において、彼は教育理念から教材構成、教師の役割に至るまで、根本的な見直しを進めていきます。中心に据えられたのは朱子学であり、とりわけ四書五経の素読と講義を通じた人格形成が重視されました。

彼の教育方針は、単なる知識の注入ではなく、学ぶ者自身が言葉の意味を理解し、行動として体現することを目的としていました。記憶ではなく理解へ、形式ではなく実質へと軸足を移す試みは、当時としては斬新なものでした。また、教師たちにも学識だけでなく、人間としての在り方を重視し、身をもって範を示すことが求められました。

栗山はまた、生徒一人ひとりの資質を見きわめ、個別に対応する柔軟な指導を心がけたといいます。その姿勢は、教えることの本質を「導くこと」と捉える彼の信念の表れでもありました。彼のもとで学んだ門人のなかには、のちに藩政や学問の世界で重要な役割を担う者も多く、栗山教育の実りが確かな形となって現れています。

官学の理想を地方で形にした実践者として

栗山の徳島藩における活動は、朱子学に基づいた官学の理念を地方において具現化する先駆的な試みでした。中央の学問制度――たとえば幕府の昌平坂学問所が標榜した理想を、地方の現実に即して形にするという作業は、理論と実務を兼ね備えた者でなければ成し得ないものでした。

彼の関与は単なる授業内容にとどまらず、教育制度そのものにまで及びました。具体的には、学科構成の再編成、教員の登用と育成、評価基準の確立など、教育行政の根幹に関わる実務を担当していたと伝えられています。このような広範な制度設計への関与は、学者という枠を超えて、一種の政策形成者としての役割を担っていたことを示しています。

栗山の徳島での経験は、後に幕府に登用され、昌平坂学問所の再建を託される際の重要な準備となりました。地方という限られた条件の中で、理想を具体的な制度として形にするという経験は、彼にとって、単なる地方儒官以上の意味を持っていたのです。

幕府儒官として果たした制度設計と教育再生

松平定信に見出されて昌平坂学問所を再建

天明8年(1788年)、柴野栗山は53歳で幕府儒官に任命され、幕政改革を進めていた老中・松平定信のもとで、寛政改革の中核を担うことになります。この人事は、栗山が徳島藩で教育行政に携わり、実績を上げていたことが評価された結果でした。任命後、栗山は幕府直轄の学問機関・昌平坂学問所(昌平黌)の再建に携わり、「寛政の三博士」として学問所改革の指導にあたります。

当初の三博士には柴野栗山、尾藤二洲、岡田寒泉(のちの古賀精里)が名を連ねており、それぞれが講義や制度整備を分担しながら、官学としての朱子学の確立を目指しました。昌平坂学問所は、林家の私塾的性格から脱却し、幕府による人材育成の拠点としての制度的整備が急務とされていた時期です。

この動きのなかで、栗山は地方での経験を活かしながら、中央官学にふさわしい教育機関への再構築を進めていきます。その姿勢には、理想を空論に終わらせず、制度として実装するための構想力と、経験に裏打ちされた実行力が表れていました。

教育体制の整備と幕府人材育成への貢献

栗山は朱子学に基づいた教育体制の整備に尽力し、四書五経の講義を形式的な素読にとどめず、経典解釈を通じた思考訓練や政治・倫理への応用を重視しました。1792年には学問所に講舎が完成し、「学問吟味」と呼ばれる試験制度の運用が始まります。これにより、学問の成果を公的に評価し、登用につなげる体制が築かれました。

教育機関としての昌平坂学問所は、1797年に正式に幕府直轄機関として再整備され、この時点で旗本のみならず、諸藩士や浪人にも門戸が広く開かれる体制が確立しました。この段階的な制度改革の背景には、「学問をもって人材を選び、登用する」という定信と栗山の共通理念がありました。

教員の選抜も厳格化され、人物と学識の両面が問われるようになります。栗山自身もその審査に関わり、学問所が「徳と才を備えた官僚を育てる場」としての品格を持つよう、心を砕きました。このようにして彼は、制度としての教育と、教育を通じた社会的秩序の再構築を結びつけていったのです。

政治と儒学を結びつけた構想力と実行力

栗山の思想的影響がもっとも明確に現れたのが、寛政2年(1790年)に出された「寛政異学の禁」です。これは、朱子学以外の学派、特に陽明学や古学派を、昌平坂学問所などの幕府教育機関から排除する政策でした。政策はあくまで幕府教育の範囲に限定されたものではあるものの、学問的自由に対する統制として、当時大きな反響を呼びました。

栗山はこの政策の理論的な基盤を支えた人物の一人とされており、「正学」たる朱子学を唯一の官学として位置づけることによって、思想的統一と社会秩序の維持をはかろうとしました。この考え方は、私的な思想の多様性を否定するものではなく、公的機関における教育内容の一貫性を重視する実務的判断であったと解釈されています。

ただし、この政策に対しては反発もありました。陽明学者の佐藤一斎が私塾で陽明学を教えていたように、官学の枠外での多様な学問活動は依然として存在し、また当時「寛政の五鬼」と呼ばれる異学派の儒者たちがこの統制に異を唱えたことも記録に残っています。こうした反発を受け止めながらも、栗山は制度としての儒学と、社会を導く思想との接点を模索し続けたのです。

理論と現実、理念と制度――それらを結ぶ言葉と行動をもち、栗山は時代の知を再構築していきました。その姿勢は、寛政改革という一時の政策にとどまらず、江戸後期の思想史と教育制度の中に、確かな軌跡として刻まれています。

思想統制の旗手としての柴野栗山

「異学の禁」建議がもたらした知的統制

寛政2年(1790年)、幕府は「寛政異学の禁」を発布し、昌平坂学問所をはじめとする幕府直轄の教育機関において、朱子学以外の学派――とくに陽明学や古学派――の講義を禁じる措置を講じました。背景には、幕政と学問を一致させ、思想的統一によって社会秩序を安定させようとする老中・松平定信の政治理念がありました。そして、その政策を思想面から支えた存在が、幕府儒官・柴野栗山であると伝えられています。

栗山が定信に提出したとされる意見書――通称「栗山上書」と呼ばれる建議の存在が史料で示唆されており、彼の提言がこの政策の方向性に影響を与えたことは確かです。ただし、その具体的な文書名や内容は明示されていないため、現時点ではあくまで「建議があったとされる」と留保をつけて記述するのが適切です。

この禁令はあくまで幕府の教育機関に限定されたものであり、私塾や地方藩校における学問の自由までは直接規制していませんでした。たとえば、陽明学者・佐藤一斎は、文化・文政期(1804~1830年)において私塾で陽明学を教授し続けており、その学問活動は異学の禁の後年にも継続されていました。また、藩校においても多様な学問体系が導入されており、たとえば佐賀藩の弘道館では、古賀精里を中心に洋学や国学の導入が進められていたことが知られています。

それでも、官学として朱子学が制度的に位置づけられたことは、幕府の思想統制を象徴する出来事でした。これに対しては、亀田鵬斎をはじめとする「寛政の五鬼」と呼ばれる異学派儒者たちが反発し、自らの信条に基づいた学問の自由を訴える動きを見せました。栗山の提言が推進したこの政策は、官による学問の枠組みの形成という意味で、江戸時代の知の制度化を象徴する転換点でもありました。

寛政の三博士としての思想的リーダーシップ

昌平坂学問所の改革と官学体制の整備において中心を担ったのが、「寛政の三博士」と称された柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉(のちに古賀精里に交代)の三人でした。彼らはそれぞれの専門分野を活かしつつ、学問所を幕府直轄の人材育成機関へと再構築する任務にあたりました。

柴野栗山は、この三者の中でもとくに制度設計と朱子学の厳格な理論的解釈を主導する役割を果たしました。彼は経典の解釈に厳密を期し、学問が統治の基礎となるべきであるという思想のもと、政策提言と教育方針の両面から体制強化を図りました。その姿勢は時に厳格とも映りましたが、制度と思想の一体化を目指す点においては、揺るぎない信念を持っていたといえます。

尾藤二洲は、学生との対話を重視した温厚な教育者として知られ、とくに『近思録』を中心教材として思索を深める教育法を確立しました。講義においては、思考を促す問いかけを通じて理解を促すなど、学問の「感得」を重視する教育スタイルが特徴的でした。

古賀精里は、記録整理と試験制度(学問吟味)の実務運営を担い、学問所を行政的にも安定した組織へと導きました。その管理能力は高く評価され、学問所の長期的制度運営の礎を築くことに貢献しました。

三博士のこうした分担と協働は、単なる知の伝達にとどまらず、政治・教育・思想が連動する幕府の学問機関の中核を担うものとなりました。

尾藤二洲・古賀精里との役割分担と協働体制

寛政の三博士は、それぞれの専門性と気質の違いを活かしながら、昌平坂学問所を支える協働体制を築いていきました。柴野栗山は、朱子学を官学とするための理論構築と制度改革を担当し、幕府教育における思想的統一を推進する立場に立ちました。彼の講義は、言葉の意味と用法を厳格に問い、制度としての学問の礎を築こうとするものだったとされています。

尾藤二洲は、教育の現場において対話を重視した柔軟な授業を展開しました。『近思録』を活用し、学生の主体的思考を促す教育法は、理に偏りがちな官学教育に新たな息吹をもたらしました。学生からの信頼も厚く、栗山とは異なる温かみある教育者像を確立しています。

古賀精里は、文書管理と学問吟味の制度整備を一手に担いました。制度運営に欠かせない記録の整理や、教育成果を評価するための試験制度の実装において、彼の実務的貢献は極めて大きなものでした。

こうして1797年、昌平坂学問所は正式に幕府直轄の教育機関として制度化され、旗本だけでなく諸藩士や浪人にも門戸を開放する体制が完成します。三博士の知見と努力は、幕府が朱子学を国家の中枢思想として制度化し、それに基づく官僚育成機関を確立するに至る過程を、思想・教育・制度の三位一体で支えていたと言えるでしょう。

文化人・柴野栗山の芸術的営みと玄武洞の命名

詩文・書画における高い評価と作風

柴野栗山は儒者としての活動にとどまらず、詩文や書画の分野においてもその才を発揮しました。特に漢詩の分野では、厳格な朱子学者としての立場から離れた、情緒と自然観に富んだ作風で多くの人々に親しまれました。彼の詩は、古典的な詩律を守りつつも、心情の機微を丁寧に掬い上げる筆致が特徴的で、形式の中に自在な感性が息づいています。

その詩文を収めた『栗山堂詩集』や『栗山文集』には、時事への見識とともに、旅先の風景や友人との交遊、静かな自省が巧みに織り込まれており、儒者であると同時に芸術家としての面貌を感じさせます。書画においても、彼は名筆家として知られ、特に書では、宋代の風格に倣いながらも、自らの思索を滲ませるような端正な筆使いが見られます。

学者としての理論に偏ることなく、詩や書といった表現によって自らを解放しようとした栗山の姿勢は、彼の学問と芸術が常に呼応し合っていたことを物語ります。理屈だけでは到達できない、人間の深部に触れる表現を求め続けたこの一面は、彼の人物像を豊かに彩る重要な要素となっています。

池大雅ら文化人との深い親交と対話

栗山はその生涯において、多くの文化人・知識人と深い交友を結びました。中でも画家の池大雅とは京都滞在中に親しく交流しており、書画を通じた対話を重ねる中で、彼自身の芸術的感性を磨いていったと考えられます。池大雅の自由闊達な筆致に触れたことで、栗山の表現にも柔らかさや余韻が加わったと評されることもあります。

また、詩人・韓天寿や高芙蓉、大川滄州、西依成斎、須藤柳圃といった文人たちとも、詩を贈り合い、筆を交え、時に議論を戦わせながら、互いの思想と感性を響かせていきました。こうした交流は、栗山にとって単なる趣味の域を超え、学問における厳格さを緩和し、新たな視点や柔らかな言葉を得る機会でもあったのでしょう。

詩や書といった芸術表現は、栗山にとって自らの「理」を補完するものであり、交友はまた「知」を深めるための鏡であったと言えます。思考の枠組みを揺さぶられるような出会いのなかで、彼の思想はさらに滋味を増し、学者としての言葉に彩りと陰影を与えていったのです。

玄武洞命名に見る学者の目と感性

柴野栗山が文化人としての才能を発揮した象徴的な出来事のひとつが、玄武洞への命名です。この洞窟は現在の兵庫県豊岡市に位置し、柱状節理の見事な玄武岩の岩肌で知られています。栗山は寛政9年(1797年)、豊岡を訪れた際、この景観に深い感銘を受け、その黒々とした石肌と北方を司る玄武の神に因み、「玄武洞」と命名したと伝えられています。

この命名には、ただの自然観察を超えた、深い象徴的意味が込められていました。四神思想に基づく宇宙観、東洋的な自然認識、そして景観と精神世界の連関といった要素が重なり合い、単なる命名行為が学者としての感性と見識の発露となっているのです。

栗山が命名した「玄武洞」という名は、後年この場所が地質学的にも注目されるようになることと相まって、学問的・文化的にも重みを持つ言葉として残ることになります。この洞窟は、日本における地質学の黎明期にも参照された自然遺産として知られ、栗山の洞察と命名が、自然の造形美に理を見出す東洋的知性の典型として再評価されています。

自然の中に秩序を見出し、言葉として定着させる――その行為は、学者の眼差しと詩人の感性の融合そのものでした。栗山が見たのは、単なる岩の群れではなく、自然と人間とを繋ぐ象徴的な「かたち」だったのかもしれません。

晩年の教育活動と「栗山学」の継承

後進育成に尽くした晩年の講義と著作

柴野栗山は、寛政期の中央儒官としての活動を経て、文化年間に入る頃から徐々に第一線を退き、晩年は教育者としての務めに心血を注ぎました。彼は官職から退いた後も、昌平坂学問所や私的な場での講義を続け、後進の指導に力を尽くしました。晩年の講義は、理屈の正確さだけでなく、経験に裏打ちされた思慮深い語り口が印象的だったと、門人たちの記録に残されています。

この時期の栗山は、自身の思想と実践を一つの体系として伝えることを強く意識していました。単なる儒学の解釈ではなく、自己修養と社会倫理を結びつけた「生きた学問」を残すこと。それが彼の晩年の目標でした。そのため、教える内容も朱子学の経典にとどまらず、これまでの政治経験や人間関係に基づく生々しい洞察を交えた、独自の講義録や随筆へと広がっていきます。

彼の教育姿勢は、形式をなぞるのではなく、学問を通じて人としての「かたち」を整えることに主眼が置かれていました。晩年の栗山は、若いころのように厳しさだけでなく、温かく柔らかい眼差しで学生と向き合い、その言葉には重みと同時に、にじみ出る人間味がありました。学びとは、他者を通じて自己を問い直す営みであることを、彼自身が実践していたのです。

実践儒学者としての生き方と指導力

栗山の教育の根幹には、「理は言葉に宿るが、行いに映る」という思想がありました。彼は儒学を単なる知識としてではなく、生活のあらゆる場面で実践すべき倫理として捉え、生徒たちにも常にその姿勢を求めました。学んだことをいかに日常の行動に移すか、その点を問う彼の講義は、しばしば厳しくも真剣な対話の場となりました。

こうした実践的な儒学観は、栗山自身の生き方にも反映されています。徳島藩や幕府での制度改革の経験は、彼にとって学問の現実的意義を考える契機となり、晩年においてはそれを後進に伝える責務へと転化していきました。学問は、社会に生きる人間としての立ち位置を見定める道具である――この信念が、彼の教育を一過性の知識伝達ではなく、人生の根幹に関わる営みに高めていたのです。

門人たちの中には、栗山の影響を強く受けた者が数多く存在しました。彼らは藩政に携わる者もいれば、教育者として道を歩む者もあり、それぞれが「栗山門下」としての誇りを持ち、その学風を継承していきました。栗山の指導は、教えられた内容よりも、「どう在るべきか」という姿勢そのものが印象深く、人を育てる根源的な力として働いていたことが伝わります。

『栗山文集』に刻まれた思想とその広がり

晩年の柴野栗山の思想は、彼の死後に編まれた『栗山文集』を通じて、より広く後世に伝わることとなります。この文集は、彼の講義録や詩文、政策的な意見書などをまとめたものであり、儒者としての思索と実践が凝縮された記録として、当時の学者たちにも大きな影響を与えました。内容は多岐にわたりますが、その根底には常に、理と行を一致させる一貫した思想が貫かれています。

『栗山文集』に収められた文章の多くは、単なる学術論文ではなく、日常のなかに息づく倫理を語ったものであり、その語り口は時に簡潔、時に情熱的です。そこには、朱子学の厳格な解釈にとどまらない、栗山自身の人間観と社会観がにじみ出ており、彼を単なる教条的な儒者として片付けることの難しさを感じさせます。

この文集は、江戸後期から明治期にかけて多くの読者を得て、「栗山学」とも呼ばれる学風の一つの基盤となっていきました。それは、制度に仕えながらも人間の本質を問う姿勢、思想と行動を結びつける哲学、そして何より、誠実に生きるという実践の道でした。栗山の遺した言葉は、形式にとらわれず、人を内側から照らす明かりとして、時代を超えて読み継がれていったのです。

柴野栗山を読み解くための文献と思想の手がかり

『栗山文集』『栗山堂詩集』に見る知の深淵

柴野栗山の思想と表現を読み解くうえで不可欠な文献が、『栗山文集』と『栗山堂詩集』です。『栗山文集』は、1842年に刊行されたもので、講義録、上申書、随筆などが収められています。幕政に関わる意見や教育理念、朱子学を基盤とした倫理観が体系的に整理されており、彼の知的営みが制度と現実の間でどのように展開されていたかを知る貴重な手がかりとなります。

一方の『栗山堂詩集』(全四巻)は、儒者であると同時に文化人としての栗山を伝える文献です。風景描写や友人との交遊、旅の感慨などを詠んだ詩には、儒学者としての厳格な顔とはまた異なる、柔らかく豊かな感受性が現れています。詩の技法は古典に則りつつも、その内容には当時の生活や思索が色濃く反映され、学問と詩心が交錯する稀有な記録といえるでしょう。

これらの文献から浮かび上がるのは、規範や制度に根ざした「言葉の強さ」と、心情や風景をすくい取る「感性の細やかさ」とが共存する人物像です。柴野栗山は、学問によって行動を律するだけでなく、詩や書によって自己を解放し、人間としての深みを探ろうとする姿勢を持ち続けました。その多面的な知の在り方が、今なお多くの読者の思考を揺さぶるのです。

実践倫理を伝える『進学三喩』と『孝義録』への関与

栗山の思想に通底する実践的な倫理観は、『進学三喩』という短いながらも含蓄ある文章に端的に示されています。この文献は、若者たちに学問への姿勢を説いたもので、善峯寺や摩耶山の旅をたとえに、学ぶことの意味と努力の価値を平易な言葉で語っています。三つの寓話的な構成を通じて、知を積むことの苦しみと尊さが静かに示され、聞き手の内省を促す内容となっています。

このように、抽象的な理論ではなく具体的な体験や景観に託して語る栗山の手法は、当時の学生たちにとって理解しやすく、かつ実生活に結びつけやすいものでした。学問を知識の獲得に終わらせず、生き方そのものに根づかせるという教育哲学は、彼の講義姿勢とも一致しています。

一方で、『孝義録』については栗山の著作ではありません。これは寛政期、幕府が諸藩から善行者の事績を募り、編纂した官撰の道徳書であり、朱子学的な倫理を実例で示すものです。栗山はこの『孝義録』の編纂そのものに関わった記録は残っていないものの、寛政異学の禁を支えた官学整備の流れにおいて、政策的な背景として関与していた可能性が指摘されています。すなわち、栗山が構築した思想的枠組みは、『孝義録』のような倫理教材の普及と密接な関係を持っていたと考えられます。

『春水遺稿』に見る知識人との連関と栗山の影

栗山の人物像を補完的に理解するうえで、直接の記録とは別に、同時代の知識人の言葉にも目を向ける必要があります。その一例が、頼春水の遺稿を子の頼山陽が編集した『春水遺稿』です。この文書には栗山への直接言及は少ないものの、同時代を生きた儒者たちがどのような思想風土に身を置いていたかを知るうえで、重要な背景資料となります。

頼春水と栗山は学派や思想の違いはあれど、同時代の知的空間を構成した重要な存在であり、その交流圏には共通する論点や価値観も多く見られます。書簡や記録に残る間接的なやり取りからは、学者たちが互いの知見に刺激を受けながらも、それぞれの立場を貫こうとした緊張感が伝わってきます。

栗山の思想や教育が制度の中で語られることが多い一方で、こうした文献から浮かび上がるのは、制度外の人間的なつながりと、知の連環としての学問の姿です。彼が他者と交わした言葉の余韻や、静かに表明された感情は、思想の堅牢さの奥にある「もうひとつの栗山」を想像させます。

学者としての厳格さと、文化人としての柔軟さ。その両面を理解するためには、公式な著作だけでなく、周囲の声や記録、そして読み手自身の解釈の余地を含んだ文脈も重要です。栗山という人物の読み解きは、資料の隙間に浮かぶ姿を探るような、奥深い知の作業なのです。

柴野栗山という人物を読み解くために

柴野栗山は、江戸時代中後期という思想と制度の転換点にあって、朱子学を柱とする官学の再編を支えた中心人物でありながら、詩文や芸術においても豊かな表現を残した多面的人物でした。制度設計者、教育者、詩人、書家――そのいずれの顔にも、知を実践に結びつけようとする一貫した志が通っています。教条に陥らず、かといって理想をあきらめることもなく、学問の可能性を現実の中に根づかせようとしたその姿勢は、現代においてなお読み継がれるに値する価値を持っています。栗山の言葉には常に余白があり、読み手の内省をうながす静かな力があります。形式にとらわれず、本質を問い続けたその生涯は、知と行、理念と実務の交差点に立ち続けた者の、静かで力強い軌跡だったのです。

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