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志筑忠雄とは何者か?蘭学者の生涯と科学用語の誕生

こんにちは!今回は、江戸時代後期に長崎で活躍した蘭学者にして「科学用語の名付け親」、志筑忠雄(しづきただお)についてです。

病弱で通詞職を辞した後、彼は翻訳と研究に身を投じ、「重力」「地動説」「鎖国」など、今や当たり前の言葉を日本に紹介しました。西洋の最先端科学と思想を日本へつなげた、知の架け橋・志筑忠雄の驚くべき生涯をたどります。

目次

“科学を言葉にした男”志筑忠雄、長崎に生まれる

国際都市・長崎の商家に生まれた五男

志筑忠雄は1760年(宝暦10年)、鎖国下の日本で唯一西洋との窓口となっていた長崎に、商家・中野家の五男として生まれました。長崎は出島を通じてオランダとの交易が盛んに行われ、異国文化が漂う国際都市でした。中野家は薬種や輸入雑貨を扱う有力な商家で、三井家の代理として貿易品取引にも関わっていたことが近年の研究で明らかになっています。中野家の屋敷にはオランダ渡りの物品が並び、日蘭貿易関係者が出入りするなど、幼い忠雄は自然と異文化に触れる環境で育ちました。また、家の周囲にはオランダ語通詞の家庭も多く、異国の言語や話題が身近にあったことは確かです。こうした背景のもと、忠雄は早い段階から異国の知識や言葉に対する関心を育むこととなり、のちに彼が日本に西洋科学を伝える役割を担う素地が、自然と形成されていったのです。

中野家の環境が育んだ学問への素地

中野家は商家でありながら、蘭書や貿易知識を集める知的な環境を備えていました。兄弟たちが中国語やオランダ語を学んでいたという直接的な記録はありませんが、貿易活動に関連する知識が必然的に求められたため、語学や自然科学への関心が高かったと推察されています。幼い忠雄もこのような環境の中で、自然と異国の書物や道具に親しみ、学びへの興味を育んでいきました。後年、彼が『暦象新書』や『鎖国論』などの翻訳において高度な語学力と科学的理解力を発揮した背景には、幼少期から培われたこの素地があったと考えられます。なぜオランダ語を学び、なぜ科学を理解しようとしたのか。それは家の中に常に「外の世界」への入り口があり、知識が生活に結びついていたからに他なりません。中野家という環境は、単なる商売の場を超え、忠雄にとって知的探究の始点となったのです。

好奇心と異文化体験が育てた探究心

志筑忠雄が幼少期から知的好奇心旺盛だったことは、彼の生涯の業績からも推測されています。潮の満ち引きや星の運行に興味を持ったという具体的な逸話は伝えられていませんが、忠雄が後に天文学や物理学を翻訳し、日本に地動説やニュートン力学を紹介した事実は、彼の根底に強い探究心があったことを物語っています。中野家の環境や長崎の国際的な空気は、幼い忠雄に「なぜ」という問いを自然に抱かせる場となりました。なぜ異国の人々は違う言葉を話すのか、なぜ異なる世界観を持つのか――そうした素朴な疑問が、彼の学問への道を開いたのです。通詞たちとの間接的な接触や、日々の中で見聞きするオランダ語の響き、西洋の物品との出会いは、忠雄にとって単なる異文化体験ではなく、未知を理解しようとする知的衝動を刺激する原体験となりました。この探究心こそが、後の翻訳活動へと繋がっていったのです。

志筑忠雄、「異文化の翻訳者」への第一歩

通詞の名家・志筑家への養子入り

1776年、志筑忠雄が16歳のとき、長崎のオランダ語通詞の名家である志筑家に養子として迎えられました。当時の通詞は、単なる翻訳者ではなく、西洋との外交・貿易交渉を支える重要な存在であり、知識・語学・交渉術すべてに秀でている必要がありました。志筑家は代々オランダ通詞を務めており、忠雄がその一員となったのは、語学の素養に加え、学問への意欲が買われたからでした。長崎では養子縁組によって有能な若者を職能家に引き入れる例が多く、忠雄の例もその一環といえます。志筑家に入ったことで、彼は出島での通訳実務に直結する本格的なオランダ語教育を受け始めると同時に、外交現場の空気を肌で感じるようになります。この養子入りは、忠雄にとって「異文化」との本格的な接触の始まりであり、後の「翻訳者」としての道を切り開く重大な転機となりました。

外交の最前線を担った通詞の世界

江戸時代の通詞は、出島に滞在するオランダ商館長や医師、商人たちとの会話を通じ、日本と西洋を結ぶ唯一の言語的パイプ役を担っていました。特に長崎では、通詞が幕府の命を受けて公式な文書の翻訳や通訳に従事しており、彼らの誤訳ひとつが国際関係に影響を与えることもあったのです。志筑忠雄が通詞見習いとしてその仕事を学んでいた18世紀後半は、ちょうど西洋の科学技術や思想が徐々に日本に流入し始めていた時期であり、通詞の役割は情報の取捨選択を含む知的労働へと変化しつつありました。通詞には語学力だけでなく、相手の文化的背景を読み解く力が求められました。なぜオランダ人はこのように表現するのか、なぜその概念が日本にはないのかといった「文化の翻訳」までもが仕事に含まれていたのです。こうした厳しい現場に立つ中で、忠雄は単なる言葉の置き換えではない、深い理解に基づく翻訳の必要性を痛感するようになります。

“家業”として出会ったオランダ語と知識

志筑忠雄が初めてオランダ語を学び始めたのは、通詞見習いとしての訓練の一環としてでした。当時の通詞教育は、辞書や文法書が整備されていない中で、実際の会話や文書を通じて少しずつ言語の感覚を身につけていくという、極めて実践的かつ困難なものでした。忠雄は、先輩通詞たちが書き残した写本を繰り返し読み、出島での会話に同席しながら、言葉と知識の両方を吸収していきました。なぜこの単語がこの場面で使われるのか、どうしてこの文法になるのかという疑問を常に抱えながら、粘り強く言語の構造を解明していったといいます。また、オランダ語の奥には天文学、医学、物理学といった西洋の最新知識が詰まっており、忠雄はその内容自体に強く引き込まれていきました。翻訳の技術を身につけるうちに、彼は次第に通詞という職能を超えて、学問そのものを自分の生涯の主軸に据えたいと考えるようになっていったのです。

通詞を捨てて学問へ――運命を変えた病と決断

若き通詞見習い時代の実務と葛藤

志筑忠雄は志筑家に養子入り後、1776年(安永5年)に稽古通詞、すなわち通詞見習いとしての訓練を本格的に始めました。長崎出島では、オランダ商館との対応、契約文書や技術文書の翻訳など、多岐にわたる業務が存在し、忠雄も現場で実地訓練を積んでいきました。しかし、忠雄の内心には次第に葛藤が生まれます。当時の通詞の多くは語学を実務の技術とみなしていましたが、忠雄は言葉を単なる仕事道具としてだけでは捉えず、そこに潜む思想や理論そのものへの関心を深めていったのです。一次資料には直接の証言はないものの、後年の彼の業績からみて、実務中心の通詞の世界に窮屈さを感じ、自らの知的探究心とのズレに悩んでいたことは十分推察されます。この時期、彼は言葉の向こうに広がる未知の知識へと強く惹かれるようになっていったのです。

病に倒れ、18歳で通詞職を辞す

1777年(安永6年)、志筑忠雄はわずか18歳で通詞職を辞します。理由は病によるもので、生来体が弱く、多病質であったことが記録に残されています。この病によって通詞見習いとしての訓練を続けることが困難となり、彼は職を辞する道を選びました。長崎の通詞社会では、通詞職は家業として代々受け継がれるのが通例であり、若くしてこの道を断念するのは極めて異例のことでした。辞職後、忠雄は外出もままならない体調のもと、家にこもり、蘭書の翻訳と自然科学の研究に没頭する生活を始めます。彼の学問への傾倒はこの療養生活から本格化し、特に天文学や物理学への関心を深めていきました。体が自由に動かせない状況でも、知を求める意志だけは衰えることなく、むしろ内面に燃え上がったのです。

翻訳という天職を見定めた瞬間

通詞の家業を捨てた志筑忠雄は、生活の保障を失いながらも、ただ学問と翻訳にすべてを賭ける道を選びました。彼はオランダ語原典に立ち戻り、ジョン・ケイルの自然哲学書などを独自に読み解きながら、天文学や力学の知識を日本語で体系的に表現しようと試みます。特筆すべきは、単なる直訳ではなく、日本人にも伝わる新たな言葉を生み出そうとした姿勢です。たとえば「重力」や「地動説」といった新語創出は、彼が翻訳を単なる言語置換ではなく、知の再構築と捉えていた証しといえます。直接的な証言は残されていないものの、彼の業績からは翻訳を「創造の行為」と見なしていたと推察されます。この決意こそが、後に日本の近代科学の言語基盤を築く偉業へとつながっていったのです。

志筑忠雄、翻訳という“知の冒険”へ漕ぎ出す

語学と論理に燃えた孤独な修行時代

通詞の職を辞した志筑忠雄は、自身の生涯を翻訳と学問に捧げることを決意し、周囲の支援もない中で、文字通り孤独な修行の時代に入ります。特に1780年代、彼は出島での活動を通じて手に入れたオランダ語の自然科学文書や天文学書を独学で読み漁り、それを日本語に訳しながら、概念の理解と表現の工夫に時間を注ぎました。忠雄が注目したのは、単語の直訳では表せない「理論の構造」そのものです。たとえば、重力や遠心力といったニュートン力学の用語は、日本語には対応する言葉が存在せず、語学力と論理的思考を駆使して新しい言語表現を編み出さねばなりませんでした。なぜこの理論が西洋で成立したのか、日本の思想とどう異なるのか、と自問し続ける彼の学びは、まさに哲学的探究にも近いものでした。この期間、忠雄は人との交流をほとんど断ち、ただひたすらに言語と知識の海を泳ぎ続ける日々を送っていたのです。

本木良永との出会いが広げた天文学の扉

そんな孤独な時期に、志筑忠雄は後に盟友となる本木良永と出会います。本木は通詞としての実務に従事しつつ、天文学に深い関心を抱いていた人物で、長崎を拠点とする蘭学者たちのネットワークの中でも一目置かれる存在でした。出会いのきっかけは、出島を通じて入手した天文学書『八円儀』に関する話し合いだったとされており、互いの知識と問題意識がすぐに一致したといいます。本木は、天体の観測や位置計算に優れた技術を持ち、忠雄の翻訳作業に実践的な科学的視点を与えました。一方で忠雄は、本木にとって理論的な裏付けや西洋的発想の解釈を提供し、両者は互いに補い合う形で学問を深めていきました。なぜ星は動くのか、なぜ日蝕が起こるのか、そうした「天の理」を共に解き明かす中で、忠雄の翻訳は単なる言語の橋渡しではなく、理論と観測をつなぐ知の実験へと発展していきました。

蘭学ネットワークの中核を担う存在に

忠雄は本木良永との交流をきっかけに、長崎を中心とする蘭学者たちのネットワークにも深く関わるようになりました。特に吉雄権之助や山片蟠桃といった人物との交流は、彼の思考に多大な影響を与えました。吉雄は実学を重視する蘭学者として知られ、忠雄の翻訳作業に具体的な応用の視点を持ち込んだ人物です。山片蟠桃は大胆に地動説を紹介し、日本思想の枠組みを揺るがせようとしていた思想家で、忠雄の科学的理論への理解をより深める刺激を与えました。こうした仲間たちとのやり取りを通じて、忠雄は「なぜこの理論が必要なのか」「それを日本語でどう表現するべきか」という根本的な問いを、常に持ち続けるようになります。やがて彼は、単なる一翻訳者ではなく、学問の核心を担う論客として、長崎蘭学の中心的人物として認識されるようになりました。翻訳という行為を通じて、志筑忠雄は知のネットワークの中で自らの立ち位置を築き、同時に後進への道をも切り開いていったのです。

西洋科学と格闘した日々――志筑忠雄の翻訳力

ニュートンやケプラーの思想に肉薄する

志筑忠雄の翻訳の対象は、単なる語学教材や医学書にとどまりませんでした。彼が取り組んだのは、アイザック・ニュートンやヨハネス・ケプラーといった近代科学の巨人たちの理論書でした。たとえば『暦象新書』において忠雄が紹介した「重力」や「遠心力」といった概念は、ニュートン力学の核心をなすものであり、当時の日本には存在しなかった自然観に基づいています。なぜ物体は落ちるのか、なぜ月は地球の周りを回るのかといった現象を、彼はオランダ語文献から読み解き、日本語で表現し直そうとしました。特に困難だったのは、数学的に裏付けられた理論を、図や記号の少ない日本語環境で理解し、言葉にするという点です。彼は原文に忠実であると同時に、読者にとって理解しやすいかどうかという視点を常に持ち続けており、その姿勢こそが、単なる翻訳者ではなく、思想の媒介者としての彼の評価を高めることになったのです。

言葉の壁を越えた“読み解き”の技

志筑忠雄の翻訳には、単なる辞書的な置き換えでは済まされない困難が常につきまといました。オランダ語には存在しても、日本語に対応する言葉がまったく存在しない概念が多々あったからです。たとえば「引力」や「慣性」といった言葉も、当時の日本では理解されていないどころか、仏教や儒教の世界観とは大きく異なる発想でした。忠雄はそれらをただ直訳するのではなく、なぜその考えが生まれたのか、どういう現象を説明するためのものなのかを丁寧に分析し、日本語でどう言い換えるべきかを検討しました。この“読み解き”の力こそが、彼の翻訳の本質であり、科学と文化のあいだに立って言葉の橋を架けるために必要不可欠な技でした。なぜこの言葉を選んだのか、どうしてこの表現にしたのかという跡が、忠雄の翻訳には随所に見られ、それはまるで哲学的対話のような深さを持って読者に迫ってきます。

先人なき時代に概念を輸入した挑戦者

志筑忠雄が翻訳に取り組んだ18世紀末から19世紀初頭にかけて、日本には西洋科学を体系的に理解できる前例や指導者は存在していませんでした。つまり彼は、まったくの“ゼロ”の状態から、未知の理論や概念を自ら解釈し、それを日本語に置き換えるという前人未到の作業を行っていたのです。忠雄の挑戦は単に学術的な翻訳という枠を超え、日本人の思考体系そのものに新しい地平を開こうとする営みでした。たとえば、重力という概念をどう表現すべきかを巡っては、「物が自然に地に落ちる力」といった曖昧な表現では科学的厳密さが保てず、彼は“重さによって引かれる”というイメージを伴う語を選びました。なぜ自分がこの概念を伝える必要があるのか、なぜ今の日本にこの理論が必要なのかという信念を持って作業を進めていたことがうかがえます。彼の翻訳は、単に情報を伝えるだけでなく、日本の知のあり方を根本から問い直す“挑戦”そのものだったのです。

「重力」「遠心力」…日本語に“科学”を吹き込んだ瞬間

『暦象新書』がもたらしたインパクト

1802年ごろ、志筑忠雄は『暦象新書』を完成させました。この書は、イギリスの自然哲学者ジョン・ケイルの著作をオランダ語訳経由で翻訳したものであり、西洋の天文学、物理学の理論を日本語で紹介した画期的なものでした。『暦象新書』ではニュートン力学に基づく「重力」や「遠心力」、さらにはケプラーの法則や地動説に至るまで、天体の運動を論理的に説明しています。当時の日本において、西洋科学の知見をここまで整然と紹介した書物は稀であり、後に渋川景佑らの天文学研究にも大きな影響を与えました。なぜ月は地球に落ちないのか、なぜ星は軌道を描くのか――そうした素朴な疑問に対し、忠雄はオランダ語文献を読み解き、日本語による科学的説明を与えることに挑戦したのです。

言葉がなかった時代に生まれた新語たち

『暦象新書』の最大の功績の一つは、新たな科学用語の創出にありました。志筑忠雄は「重力」「遠心力」「求心力」「属子(分子)」といった言葉を日本語に導入し、当時の日本には存在しなかった自然現象の概念を表現可能にしました。「重力」という訳語は、物体がその重さによって引かれる力を直観的に捉えたものであり、「遠心力」は回転する物体が中心から外へ押し出される力を端的に表現しています。一方で、「公転」や「自転」といった用語は後世の造語であり、忠雄の訳語ではない点には注意が必要です。志筑は、単に語を輸入するのではなく、「なぜこの現象がこう説明されるのか」を踏まえて、日本語に適切な表現を与えようと苦心しました。新しい言葉を生み出す作業そのものが、彼にとって翻訳以上の知的創造だったのです。

翻訳者を越え、“知の創造者”へと進化

志筑忠雄の翻訳作業は、単なる言葉の置き換えを超え、日本の思想世界に新たな地平を開くものでした。『暦象新書』には、西洋科学の合理精神を伝えるだけでなく、東洋思想――たとえば易経や陰陽五行説――と対話するかのような独自の自然哲学も見られます。彼の別著『混沌分判図説』では、カント=ラプラスの星雲説に先駆ける宇宙生成論が展開されるなど、その独創性は驚くべきものです。訳文には「忠雄曰く」と注釈を加え、自らの解釈を添える姿勢も見られ、読者にただ答えを与えるのではなく、考えるきっかけを提示しようとしていたことがわかります。翻訳を通じて、新たな知を創造し、日本語の中に科学を根付かせた――その静かだが深い挑戦こそ、志筑忠雄の真骨頂だったのです。

“鎖国”という言葉を生んだ男の世界観

ケンペル『日本誌』を読み解いた先見性

1801年(享和元年)、志筑忠雄はオランダ語訳経由で伝わったケンペル著『日本誌』をもとに、『鎖国論』の翻訳に取りかかりました。ケンペルの原題は「日本が自国民の出国と外国人の入国・交易を禁じている」ことを説明する長いものであり、そこには「鎖国」という単語は存在していません。忠雄はこれを受け、日本の外交政策を一言で表す新たな訳語「鎖国」を創出しました。なぜ「鎖国」と名づけたのか。それは、国を意図的に閉ざす行為を「鎖(とざ)す」という力強い動詞で表現し、自主独立の意志を際立たせるためでした。彼の訳業は、単なる外国書の紹介に留まらず、日本の政策を理論的に位置づけようとする先見的な試みだったのです。この訳語は後に定着し、日本史観における重要な概念となっていきました。

誤解されがちな「鎖国」という概念の真実

「鎖国」と聞くと、すべての対外接触を絶った閉鎖国家のイメージが浮かびますが、実態は異なります。江戸幕府はオランダや中国との交易を出島などを通じて継続し、対馬・琉球・蝦夷地などでも限定的な交流を行っていました。志筑忠雄が『鎖国論』で描いたのは、単なる閉鎖ではなく、外来の干渉を防ぎつつ日本の独立性と文化を守るための積極的な政策でした。なぜ外からの接触を制限する必要があったのか――それは、日本が自給自足できる豊かな資源と、独自の文化体系を有していたからだと、忠雄は肯定的に解釈しました。このように「鎖国」という言葉には、単なる拒絶ではなく、自主防衛という積極的な意味が込められていたのです。明治以降、「鎖国」は完全閉鎖政策と誤解されがちですが、忠雄の意図はもっと柔軟かつ戦略的なものでした。

閉じた世界に、広い視野を持ち込んだ思想

志筑忠雄の『鎖国論』翻訳には、「閉じること」と「守ること」を同時に見つめた冷静な視点が貫かれています。忠雄自身が「選択的な開放」を直接的に説いた記録は残されていないものの、日本が一部の外国と交易を続け、情報を慎重に取り入れていた事実を肯定的に評価していたことは間違いありません。異国文化との接点を持ちながらも、自国の文化と秩序を守ろうとする姿勢に、彼は一定の合理性を認めていたのです。また、忠雄が科学書『暦象新書』で地動説を排除せず紹介したことからも、彼が知識の受容に対して閉鎖的ではなかったことがうかがえます。単なる拒絶ではなく、必要な知を選び取るという態度――それこそが、忠雄が「鎖国」という言葉に込めた、もうひとつの世界観だったのかもしれません。

最後まで学問に生きた志筑忠雄の静かな闘い

執筆と研究にすべてを捧げた晩年

志筑忠雄は通詞を辞して以降、終生にわたり公職には就かず、ひたすらに学問と翻訳に打ち込みました。彼の晩年は、名声を求めることも、門下生を持つこともなく、静かに研究と執筆に時間を費やす日々でした。特に50歳を過ぎた頃からは体調の優れない時期もありましたが、それでも彼は筆を置くことなく、天文学、地理学、物理学といった多様な分野の翻訳に取り組み続けました。『求力論』『日蝕絵算』などの著作はこの頃に書かれたものであり、観測と理論、言語と概念を結びつける志筑の姿勢が随所に見てとれます。なぜ彼はそこまで学問に身を投じたのか――それは、日本という島国において、世界の真理を自らの言葉で理解しようとする、その一点に賭けていたからです。誰にも強制されず、誰に評価されるわけでもない孤独な営みを、忠雄は「知ること」そのものの価値として追求し続けました。

幕府と蘭学者に遺した計り知れない影響

生前、志筑忠雄はあまり表立って賞賛される存在ではありませんでしたが、その翻訳書や用語は、知らず知らずのうちに多くの蘭学者や幕府官僚に影響を与えていました。たとえば、幕府天文方に所属していた本木良永は、忠雄の『暦象新書』に基づいて天体観測や天文計算を進めており、その成果は暦改正や航海術の発展に寄与しました。また、吉雄権之助ら後進の蘭学者も、志筑の用語や翻訳手法を参照しながら、自らの研究に応用していきました。なぜ幕府が蘭学を必要としたのかといえば、それは近代化への布石を探るためであり、忠雄の翻訳がその礎の一部をなしていたのです。さらに、シーボルトも来日中に志筑の書に触れ、その科学的正確さに驚いたと記録しています。直接の弟子は持たなかった忠雄ですが、彼の影響は広範囲にわたり、学問の言語や方法論の面で、確実に次代へと受け継がれていったのです。

時代を越えて残る“知の問いかけ”

志筑忠雄が遺した著作や翻訳は、単に過去の資料として価値があるだけでなく、現代においても「知るとは何か」「理解するとはどういうことか」という根源的な問いを投げかけ続けています。例えば、彼の翻訳にはしばしば注釈や補足が加えられており、それは読者が正確に理解できるようにとの配慮からでした。なぜその表現を使ったのか、どうして別の言い回しではいけないのか――そうした逡巡の跡が、翻訳という営みを超えて、思考の軌跡として今も読み取れるのです。さらに、忠雄のように制度や組織に頼らず、個人として知の探究を貫いた姿勢は、現代においても研究者や学習者に深い示唆を与えています。彼の静かな闘いは、時代を越えて「問いを持ち続けること」の意義を伝えており、その姿勢こそが、彼の真の遺産といえるでしょう。名を残すよりも、考え方を残す――その哲学は、今もなお多くの人々の心に響き続けています。

志筑忠雄の挑戦は今も続く――現代からのまなざし

マンガ『チ。』が描く、信じる知の姿勢

近年、志筑忠雄の思想や姿勢が、意外な形で再評価されています。そのひとつが、地動説と思想の葛藤をテーマとしたマンガ『チ。-地球の運動について-』です。この作品では、科学的な真理を追求する者たちが、時代や制度に抗いながらも「知りたい」という純粋な欲求を貫こうとする姿が描かれています。直接的に志筑忠雄をモデルとした登場人物が現れるわけではありませんが、その精神は作品全体に息づいており、作中で扱われる地動説や重力といった概念は、まさに忠雄が『暦象新書』などで翻訳し、日本語に定着させようとした科学知識そのものです。なぜ科学を知ろうとするのか、なぜそれを言葉にする必要があるのか――そうした問いを、現代の読者に改めて突きつける『チ。』は、まさに志筑の「知を言葉にする」という挑戦が、今なお私たちの思考の深部に訴えかけている証といえるでしょう。

『江戸の科学者列伝』が語る評価と意義

『江戸の科学者列伝』(大人の科学.net)では、志筑忠雄が「江戸の翻訳科学者」として高く評価されています。この記事では、彼の業績がいかに孤独な環境の中で成し遂げられたかが紹介され、翻訳という行為の本質が改めて問い直されています。なぜ翻訳者が科学の発展に貢献できたのか。そこには、ただ言語を移し替えるのではなく、未知の知識を自国語に「根づかせる」ための格闘があったからです。この記事では、志筑が翻訳者でありながら、新語を創出し、科学的思考を促進する「教育者的役割」を果たしていたことも強調されています。また、シーボルトのような後続の蘭学者や医師が、彼の成果を土台にして発展したことも触れられ、彼の役割が日本近代化の「静かな原動力」であったことが浮かび上がります。現代の科学者や教育者にとっても、志筑忠雄の歩みは、知識をどう伝えるかという普遍的課題へのヒントとなっているのです。

『暦象新書』に息づく探究者の魂

『暦象新書』は、発表から200年以上を経た今もなお、科学史の重要文献として読み継がれています。その理由は単に歴史的価値にとどまりません。むしろそこに記されているのは、「わからないことを言葉で理解しようとする」人間の普遍的な営みであり、志筑忠雄という一人の探究者の魂です。なぜ月は落ちないのか、なぜ星は巡るのか――そうした素朴な問いに対し、オランダ語の科学文献を読み、意味を考え、理解し、日本語に変換する。そこには、機械的な作業では決して到達できない、深い思考の蓄積があります。現代でもこの書を読み解こうとする研究者たちは、志筑の言葉の選び方や注釈の記し方に、その誠実な姿勢を感じ取っています。地動説、重力、遠心力――彼が初めて言葉にしたこれらの概念は、今も私たちの常識の中に生き続けています。『暦象新書』とは、知を翻訳することで世界を見つめ直そうとした、一人の人物の静かな熱意の記録なのです。

志筑忠雄が遺した“言葉”という遺産

志筑忠雄は、江戸時代の限られた情報環境の中で、西洋科学の最先端に触れ、それを日本語で理解・表現するという、極めて困難な作業に生涯を捧げました。彼が創り出した「重力」「遠心力」などの言葉は、今もなお科学教育や日常の中に息づいています。その背景には、知識をただ伝えるのではなく、「なぜその言葉が必要なのか」「どうすれば理解されるのか」と問い続けた、深い哲学と誠実な姿勢がありました。名声や権威を求めず、ただ「知ること」と「伝えること」に誠実であり続けた志筑忠雄。その姿は現代に生きる私たちに、言葉の力と、学び続ける意義を静かに問いかけています。彼の挑戦は、時代を超えて今も続いているのです。

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