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式亭三馬って何した人?笑いと毒舌で江戸を描いた戯作界のスターの生涯

こんにちは!今回は、江戸の笑いとことばで庶民の暮らしを鮮やかに描き出した戯作者、式亭三馬(しきていさんば)についてです。

『浮世風呂』や『浮世床』といった滑稽本で、銭湯や床屋に集まる人々の日常やおかしみを巧みに表現した三馬は、まさに江戸版のコメディ作家。黄表紙・洒落本・合巻など様々なジャンルで127作を生み出し、出版業や薬屋経営にも手を広げたそのマルチな才能と、弟子たちに慕われた親分肌な人柄も魅力です。

そんな三馬の波乱と笑いに満ちた生涯をたっぷりと紹介します!

目次

式亭三馬の原点 ― 浅草に生まれた想像力豊かな少年時代

江戸・浅草田原町に生まれた背景と板木師の家族

式亭三馬(しきてい さんば)は、安永5年(1776年)、江戸・浅草田原町三丁目、現在の東京都台東区雷門一丁目に生まれました。本名は菊地泰輔(きくち たいすけ)といい、父親は木版印刷を生業とする板木師、菊地茂兵衛でした。板木師とは、書物の版木を彫る職人であり、出版業界を支える重要な存在でした。当時の浅草田原町は、浅草寺門前の賑わいの中で、商人や職人たちが活発に活動する町であり、三馬はこの活気ある文化的土壌の中で育ちました。

家は商家ではなく、職人一家でしたが、町人としての地位は安定しており、出版や印刷に関わる仕事を間近で見ながら成長しました。とはいえ、当時の職人の家では、子どもが早くから奉公に出るのが一般的であり、三馬も例外ではありませんでした。彼は8~9歳のころには、本石町(現在の中央区日本橋本石町)にあった地本問屋・翫月堂(がんげつどう)に丁稚として奉公に出されます。家庭の経済的事情だけでなく、職業的な流れとして自然なものでした。こうした幼少期の経験が、後の彼の戯作活動に大きな影響を与えることとなります。

読書好きな少年が地本制作に親しんだ日々

三馬は奉公に出された翫月堂で、多忙な日常業務の合間を縫っては本を読みふけるほどの読書好きな少年でした。翫月堂は、黄表紙や洒落本、滑稽本といった庶民向けの娯楽書を取り扱う地本問屋であり、三馬はその現場で自然と多様な文芸作品に触れる機会を得ました。幼いながらも、文章の面白さや挿絵の巧みさに惹かれ、自らも物語世界を空想する癖を身につけていきました。

特に影響を受けたのは、黄表紙や洒落本を得意とした山東京伝、平賀源内、芝全交といった先人たちの作品でした。彼らの軽妙な語り口、風刺に富んだ描写、江戸庶民を巧みに表現する技術に、三馬は深い憧れを抱きました。唐来参和や烏亭焉馬の名をペンネームに用いたという説もありますが、これは後世の推測に基づくものであり、確定的な事実ではありません。しかしながら、こうした戯作者たちの影響を受け、早くから「自分も書き手になりたい」という強い志を抱いていたことは間違いありません。奉公先での日々は、単なる労働だけでなく、彼にとって文学の素養を深める場でもあったのです。

浅草の町と町人文化に育まれた語彙力と観察眼

三馬が育った浅草田原町は、当時から江戸有数の繁華街でした。浅草寺への参詣客で賑わう町には、商人、職人、芸人、旅人が絶えず出入りし、多様な階層の人々が交わる活気に満ちた場所でした。このような環境は、幼い三馬に自然と町人社会の言葉や風俗を身につけさせました。

彼は町の噂話、商売人の売り口上、祭りの掛け声といった生きた言葉に触れながら、鋭い観察眼を養っていきます。後に彼が戯作で描いた江戸庶民の滑稽で人間味あふれる言動は、まさにこの頃に吸収した生の江戸語が土台になっています。町人たちの軽妙な言い回しや洒落、ちょっとした虚勢や見栄の張り合いを敏感に捉える力は、三馬の作品の大きな魅力となって現れます。

彼にとって浅草の町は、単なる生まれ故郷ではありませんでした。それは、言葉を学び、人間を知るための絶好の「生きた教科書」だったのです。こうして培われた語彙力と観察力は、式亭三馬が後に江戸戯作界において確固たる地位を築く原動力となりました。

式亭三馬、丁稚として見た「本の世界」の裏側

9歳で奉公に出た地本問屋とはどんな場所か

式亭三馬はわずか9歳で、地本問屋と呼ばれる出版業者に丁稚として奉公に出されました。当時の江戸では、子どもが10歳に満たない年齢で労働に従事することは決して珍しいことではありませんでしたが、三馬にとってこの早すぎる社会経験は、後の人生を決定づける重要な出発点となりました。地本問屋とは、現代でいう出版社と書店を兼ねたような業態で、主に庶民向けの絵入り本や読み物、つまり「地本(じほん)」を製作・販売していた業者です。

江戸の出版文化は非常に盛んで、黄表紙や滑稽本、合巻といったジャンルの書物が多数出版されていました。地本問屋はその最前線にあり、版元として作家と挿絵師をつなぎ、印刷から販売までを担っていました。三馬が奉公した先でも、日々さまざまな原稿や版木、挿絵の見本が飛び交い、職人たちが活気に満ちた作業を進めていたことでしょう。幼い三馬は、そうした現場で紙の仕分けや使い走りをしながら、本ができるまでの工程や、作家たちの苦労と工夫を目の当たりにすることになりました。文字や絵が商品として生まれ変わる瞬間を間近に見られたこの経験は、のちに自ら戯作を手がけ、出版業にも乗り出す彼にとって、かけがえのない財産となったのです。

書物の流通に携わる中で磨かれた観察力

地本問屋での奉公は、単なる労働ではなく、三馬にとっては日々が学びの連続でもありました。書物を作る過程に加え、出来上がった本がどのように流通し、人々の手に渡っていくのかという流れを間近に見ることができたからです。江戸時代の書物は今のように全国一律に流通していたわけではなく、問屋が各地の本屋や行商に配本し、読者は貸本屋などで書物を借りるのが一般的でした。そのため、どんなジャンルの本が人気を集め、どの作家が読者に支持されているかといった「現場の声」を、三馬は直接知ることができたのです。

また、問屋にはさまざまな人物が出入りしていました。職人、作家、挿絵師、流通業者、そして時には売れ筋の作家に憧れる若者も訪れました。彼らのやりとりを間近で聞くことで、三馬は自然と人々の言葉づかいや性格、心の機微に敏感になっていきました。どのように言えば相手が喜ぶのか、どうすれば笑いが生まれるのかといった感覚を、彼はこの時期に体得していったのです。つまり、書物の流通に携わることは、彼にとって「人を見る力」を鍛える修業の場でもあったのです。後の作品に活かされる観察眼は、この現場経験に根ざしていたといえるでしょう。

人間模様が財産に、奉公先での経験と出会い

地本問屋での奉公生活は、決して楽なものではありませんでした。早朝から夜遅くまで働き、時には理不尽な叱責を受けることもあったはずです。しかし、そのような厳しい環境の中でこそ、三馬は多くの人間模様を目にし、心に刻んでいきました。問屋では、気難しい作家が版元と揉める場面もあれば、挿絵師が酒に酔って原稿を落とすようなこともありました。また、下働き同士の間でも仲間意識や対立が生まれ、それぞれの性格が露わになる瞬間を数多く経験しました。

このような環境に身を置きながら、三馬は人々の性格や行動をじっくりと観察し、その経験を後の作品に投影していくことになります。彼の作品に登場する人物たちがどこか身近で、読者に「こんな人、どこかにいたな」と思わせるリアリティを持つのは、まさにこうした実体験に裏打ちされているからです。また、奉公先で出会った年長の職人たちの語る昔話や苦労話、時に挟まれる笑い話なども、彼の語り口にユーモアを与える大きな影響を及ぼしました。

この時期に培った人脈や知識、経験のひとつひとつが、三馬という人物を形成し、のちの戯作家としての飛躍へとつながっていったのです。

式亭三馬、筆一本で挑んだ戯作の世界へ

18歳でのデビュー作『天道浮世出星操』と注目された若き才能

式亭三馬は18歳のとき、寛政6年(1794年)に黄表紙『天道浮世出星操(てんどううきよでづかい)』を発表し、戯作作家としてデビューしました。『天道浮世出星操』は、江戸庶民の暮らしを背景に、滑稽な日常のエピソードを洒脱な筆致で描いた作品であり、初めての作品ながらも三馬の持つ鋭い観察力と語り口の巧みさがすでに光っていました。

当時の戯作界は、町人文化の成熟とともに、多様なジャンルが生まれ、読者の嗜好も洗練されつつありました。そんな中で、三馬は地本問屋での奉公経験を活かし、庶民の日常感覚に寄り添った作品を世に送り出しました。特別な物語の展開よりも、何気ない日常のやりとりを丁寧に拾い上げる彼のスタイルは、読者の共感と笑いを誘い、戯作界で注目を集める存在となりました。三馬の作風は、単なる風刺や滑稽にとどまらず、人間観察の細やかさによって、他の作家とは一線を画していました。デビュー作を皮切りに、彼は江戸戯作の新たな潮流を作り上げていきます。

黄表紙から洒落本・滑稽本・合巻へとジャンルを拡げた挑戦

デビュー以降、三馬は黄表紙を中心に作品を次々と発表しました。黄表紙とは、若い読者層をターゲットにした絵入りの読み物であり、時事風刺や庶民の生活を軽妙に描くことを得意とするジャンルです。三馬はこの形式で人気を博しながらも、やがて洒落本や滑稽本、さらには合巻にも手を広げていきました。

洒落本は主に成人男性を対象にした文学ジャンルで、吉原遊郭などの遊里を舞台にした艶笑譚が中心です。三馬は、実際に吉原の様子を取材した記録は残っていないものの、町の観察を通じて生きた遊里文化の雰囲気を巧みに描き出しました。庶民の会話や風俗をリアルに表現する力は、こうした題材にも見事に生かされています。

また、合巻では、長編形式の物語にも挑戦し、幅広い読者層を取り込もうとしました。ジャンルを超えて作品を発表し続けた三馬の姿勢は、彼が単なる流行作家にとどまらず、江戸戯作文化の発展を自ら切り拓こうとした意欲の表れでした。読者のニーズを鋭く捉え、自在に文体やテーマを変えていく柔軟さは、彼の大きな魅力の一つです。

唐来参和・烏亭焉馬に学び、語り口を磨いた影響

式亭三馬は、先人たちからの影響を受けながら、自身のスタイルを磨いていきました。特に尊敬していたのは、洒落や風刺を得意とした戯作者・唐来参和(とうらいさんな)と、落語中興の祖としても知られる烏亭焉馬(うていえんば)です。両者の作品に共通するのは、庶民の感覚に寄り添いながらも、洒脱な笑いと社会風刺を巧みに織り交ぜる手法でした。

三馬の筆名「式亭三馬」は、「式三番」のもじりであるとともに、「参和(さんな)」と「焉馬(えんば)」のそれぞれから一字ずつ取ったとする説が一般的に知られています。ただし、これについては後付けの解釈である可能性も指摘されており、確定的な事実とは言い切れません。

とはいえ、唐来参和の洒落を効かせた文章や、烏亭焉馬の語るような筆致から三馬が学び取ったものは非常に大きかったのは間違いありません。三馬の作品には、「話しているように書く」というリズム感が色濃く現れており、読者がまるで耳で聞いているかのような臨場感を味わうことができます。こうして三馬は、先人たちの技法を吸収しながらも独自のスタイルを築き、江戸庶民文化をリアルに描く筆の力を身につけたのです。

式亭三馬の結婚生活と「蘭香堂」に込めた想い

蘭香堂の婿養子となった式亭三馬と新たな出発

式亭三馬は、20代前半にあたる寛政9年(1797年)頃、江戸・浅草の本屋「蘭香堂」万屋太治右衛門の婿養子となり、結婚しました。最初の妻については、蘭香堂の娘であったこと以外、詳細な記録は残されていません。結婚を機に、三馬は作家としての活動だけでなく、出版業にも本格的に関わることになります。

当時の戯作者たちは多くが不安定な生活を余儀なくされていましたが、三馬は婿養子となることで一定の経済的基盤を得ることができたと考えられます。夫婦での具体的な支え合いについての直接的な記録はありませんが、蘭香堂の出版事業を通じて生活と創作の両立を図ったことから、家庭の支えがあったと推測されます。また、三馬の作品には庶民の家族や夫婦の姿を温かく描く場面が多く見られ、当時の町人文化をよく理解していたこともうかがえます。作家と出版人という二つの顔を持つことになった三馬にとって、この結婚は人生の大きな転機となったのです。

寛政9年に始まった蘭香堂での出版挑戦

婿養子となった寛政9年(1797年)以降、三馬は蘭香堂の名義で自作や弟子たちの作品を積極的に出版するようになります。従来の版元に頼らず、作品の製作から流通に至るまで自ら手がけるスタイルは、当時としては先進的なものでした。これにより、検閲や版元からの干渉をある程度避け、より自由な創作活動を行うことが可能になったと考えられます。

地本問屋での奉公経験を活かし、出版業務全体を見渡す目を持っていた三馬は、読者の嗜好を的確に把握し、人気作品を次々と世に送り出しました。蘭香堂からは、三馬自身の黄表紙や滑稽本のほか、門弟たちによる作品も刊行され、徐々に江戸市中で存在感を高めていきました。蘭香堂での出版活動は、文化11年(1814年)頃に始まったわけではなく、寛政9年からすでに軌道に乗り始めていた点を正確に押さえる必要があります。

このように、三馬にとって蘭香堂は単なる出版レーベルではなく、自由な表現を追求する拠点であり、自らの文芸観を形にするための場であったのです。

挿絵へのこだわりと出版人としての審美眼

式亭三馬は、出版物の内容だけでなく、その外観にも強いこだわりを持っていました。紙質の選定、版木の彫りの美しさ、装丁の工夫など、細部に至るまで読者を楽しませる工夫を怠りませんでした。特に挿絵については重視しており、人気絵師の歌川豊国(初代)とたびたび組んで作品を発表しています。

豊国との協業は作品に華やかさと視覚的な魅力を加え、多くの読者を引きつけました。ただし、両者の間では意見の相違による衝突があったとも伝えられており、三馬の出版物に対する妥協のない姿勢がうかがえます。この点については、明確な記録が残っているわけではなく、後世の伝承や推測に基づいていることを踏まえる必要があります。

また、三馬の出版物の中には、巻末に制作過程や執筆の裏話、関係者への謝辞などを記したものもあり、単なる作品提供にとどまらず、読者との双方向的なコミュニケーションを志向する姿勢が見て取れます。娯楽作品でありながら、時に社会風刺や批評精神を忍ばせた彼の出版スタイルは、江戸後期の出版文化において独自の存在感を放っていました。

商人・式亭三馬のもうひとつの顔 ― 古本屋と薬屋の経営

薬屋としての活動と町人文化への関わり

式亭三馬は戯作者として名を馳せる一方で、生活の基盤を支える手段として薬屋も営んでいました。薬屋としての活動は、文政七年間(1810年)に浅草近辺に自らの店舗を構え、庶民向けの漢方薬などを販売していたといいます。当時、医療は庶民にとって非常に限られたものであり、薬屋は町人の健康を守る重要な存在でした。三馬はこの商売を通じて、町人の日常にさらに深く関わるようになり、その中で得た知見や人間模様を作品に活かしていきました。

また、薬屋は単なる物売りの場ではなく、情報交換や井戸端会議的な役割も果たしていました。体調の相談に来る人々との会話から、家庭の事情や流行病、江戸のうわさ話まで耳にすることができたのです。三馬はそうした人々の声にじっと耳を傾け、そこから人間の弱さや滑稽さ、時には強さをすくい取っていました。このように、薬屋としての活動は、彼の文学にさらなる深みとリアリティを与える役割を果たしたのです。商いと創作を並行して行うことで、三馬はまさに「生活する作家」として、江戸庶民文化と真正面から向き合っていたのです。

古本屋としての二足のわらじと文筆業の両立

薬屋と並行して、三馬は古本屋としても商いを行っていました。この古本屋業もまた、彼が戯作作家として活動するうえで欠かせない収入源であり、また知識の収集手段でもありました。江戸時代の古本屋は、単なる中古書籍の売買だけでなく、情報のハブとしての役割も担っており、読者や書き手、さらには他の出版関係者との接点となる場所でもありました。

三馬の古本屋では、黄表紙や洒落本、滑稽本はもちろん、学問書や歴史書、随筆なども扱っていたとされます。彼自身もこれらの書物を読み漁り、構想のヒントを得たり、言葉の使い方を学んだりしていました。特に、同時代の戯作者である山東京伝や曲亭馬琴の作品などを丹念に読み込み、自身の作風との違いや新しい表現技法を探る姿勢が見て取れます。

古本屋という仕事は、在庫管理や仕入れ、値付け、客とのやりとりといった手間が多く、決して楽なものではありませんでしたが、それでも三馬は文筆業と並行してこの商売を続けました。その背景には、書物という文化財を人々の手に届ける使命感と、自らの創作に不可欠な「知の源泉」としての古書への敬意があったのです。

人と情報が集まる“場”としての店の役割

三馬が営んでいた薬屋と古本屋は、いずれも単なる物販の場所にとどまらず、人と情報が行き交う“場”として機能していました。そこには常連客や近所の住民、旅の商人や好奇心旺盛な若者、さらには文筆業に興味を持つ弟子たちまでが自然と集まり、日々さまざまな話題が飛び交っていました。店内には、商品として並べられた本のほかにも、彼自身の新作原稿の話や、検閲に引っかかった作品の裏話などが飛び出すこともあったとされます。

このような“場”を維持するには、三馬自身の人柄や話術も欠かせないものでした。江戸の町人社会では、信頼と噂がすべてと言っても過言ではなく、彼の店が賑わいを見せていたのは、単に商品が良かっただけでなく、三馬という人物に人々が惹かれていたからでもあります。店は単なる収入源ではなく、三馬にとっては情報を収集し、交流を深め、作品のネタを探るための「開かれた書斎」でもあったのです。

こうして、薬屋・古本屋という二つの店舗を通じて三馬は町人文化のど真ん中に身を置き続け、その声に耳を傾けながら、自らの創作を育てていったのです。この“商人としての顔”もまた、式亭三馬という人物を語るうえで欠かせない重要な側面です。

式亭三馬の代表作に見る江戸庶民のリアル

『浮世風呂』に描かれた銭湯という社交の場

式亭三馬の代表作『浮世風呂』は、文化6年(1809年)から文化10年(1813年)にかけて刊行された全4編9冊の滑稽本です。舞台は江戸の銭湯。男湯と女湯をそれぞれ分けて描き、庶民たちの日常会話や振る舞いを丹念に記録しています。物語の形式ではなく、複数の小話が連なる連作スタイルを取り、脱衣場や湯船で交わされる何気ないやり取りを通して、江戸庶民の生きた声を生き生きと表現しました。

銭湯は単なる入浴の場ではなく、町人たちにとって情報交換や社交の場でもありました。三馬は、こうした空間における庶民の滑稽な会話や、ちょっとした見栄や皮肉を巧みに捉え、笑いと風刺を織り交ぜて作品化しました。男湯と女湯で異なるエピソードを展開する手法も独創的で、登場人物の年齢や職業も多岐にわたり、読者に「こういう人、いるいる」と共感を呼び起こしました。

『浮世風呂』は娯楽作品であると同時に、当時の庶民生活を克明に記録した社会史資料としても高く評価されています。銭湯という江戸庶民の日常を舞台に、彼らの笑い、暮らし、心情を巧みに映し出したこの作品は、三馬の観察眼と筆力の高さを証明する代表作といえるでしょう。

『浮世床』が切り取った床屋と町人の会話劇

『浮世床』もまた、式亭三馬の代表作のひとつです。初編は文化10年(1813年)、続編は文化11年(1814年)に刊行されました。舞台となるのは髪結床、すなわち床屋です。当時の床屋は、単なる散髪の場ではなく、男性たちが集まって世間話に花を咲かせる社交空間でもありました。

この作品では、客と店主、または客同士の間で繰り広げられる会話が中心となっています。話題は身の上話から恋愛沙汰、流行、政治への皮肉、見栄の張り合いに至るまで幅広く、当時の江戸っ子たちの性格や価値観が生き生きと描かれています。文章は会話体が中心で、まるで舞台劇や落語の一場面を聞いているかのような臨場感を持っています。

登場人物の多くは町人階級の男性であり、三馬は彼らの口調、仕草、心理を細やかに描写しました。そのリアリティは、単なる滑稽を超えて、庶民社会の奥行きや矛盾、愛嬌を鮮やかに映し出しています。『浮世床』もまた、当時の町人文化を知る上で貴重な資料となっており、滑稽本の傑作として現在でも高い評価を受けています。

笑いと風刺で捉えた“生きた江戸”の風景

式亭三馬の作品群には、一貫して「江戸庶民を描く」という強い意志が貫かれています。しかも、それは理想化された江戸ではありません。三馬が描いたのは、愚かで、見栄っ張りで、しかしどこか愛らしい、人間味あふれる庶民の姿でした。銭湯や床屋という、身分や階層を問わず誰もが集う場を選び、そこで交わされる何気ない会話や行動の中に、社会への皮肉や権威への風刺を巧妙に織り交ぜています。

三馬の風刺は、決して過激な批判ではありません。あくまで庶民の笑いの中に自然に溶け込む形で提示されており、それが作品全体に温かみを与えています。現実社会を映し出しながらも、読者に押し付けがましさを感じさせないこの手腕は、三馬ならではのものです。

また、三馬が描いた江戸の人間たちの滑稽さ、愛嬌、したたかさは、現代に生きる私たちにも共通する「人間の普遍的な姿」として響き続けています。式亭三馬の作品は、滑稽本の枠を超えて、江戸庶民文化の本質を映す鏡であり、今なお読み継がれる価値を持ち続けているのです。

式亭三馬と弟子たち、文壇で築いた絆と対立

為永春水ら門弟との師弟関係

式亭三馬は、戯作者としての名声を確立する中で、多くの弟子を育てたことでも知られています。中でも特に有名なのが、為永春水(ためなが しゅんすい)です。春水は、のちに人情本の名手として名を馳せますが、もともとは三馬の門下で学び、その語り口や構成力を徹底的に学び取っていました。ほかにも、楽亭馬笑(らくてい ばしょう)、古今亭三鳥(ここんてい さんちょう)、益亭三友(えきてい さんゆう)といった弟子たちが、三馬の元で筆の技術を磨きました。

三馬は師として厳格ながらも面倒見がよく、作品の推敲をともに行うなど、実践的な指導を重視していたと言われています。また、弟子たちの個性を尊重し、それぞれが自分なりの文体や題材を追求することも奨励していました。例えば、春水は恋愛要素の強い人情本に進みましたが、これは三馬の滑稽本とは異なる方向性でありながらも、師弟関係のもとで認められた試みでした。三馬の下で学んだ弟子たちは、後にそれぞれが独自の作品を生み出し、江戸後期の文学の多様性を築くことに寄与しました。

このように、三馬は単なる作家にとどまらず、次代を担う戯作者たちを育てた教育者でもあったのです。その弟子たちの活躍は、三馬の文壇における影響力の広がりを示す証とも言えるでしょう。

江戸戯作者としての評価と立ち位置

三馬は、江戸の戯作界において一線を画す存在でした。彼の作品は、黄表紙や滑稽本の枠を超え、庶民の生活や感情を深く掘り下げた点で高く評価されました。洒落や言葉遊びに長けているだけでなく、人物描写においても一人ひとりの性格や背景を丁寧に描き分ける手腕があり、読者の共感を得やすかったのです。こうした作風は、戯作の「軽さ」を超えた「重み」すら感じさせるものであり、多くの文芸評論家から「戯作文学を一段階進化させた」とも称されています。

三馬は出版人としての活動も積極的であり、蘭香堂を拠点に自ら編集や印刷、販売を手がけました。このようなセルフプロデュース力は、他の戯作者と一線を画す要素となりました。また、江戸庶民の感覚に最も近い視点から作品を描いていたため、「庶民の代弁者」としての立ち位置も確立していました。山東京伝のような洒落本の名手や、曲亭馬琴のような重厚な読本作家と比べられることも多く、それぞれに異なるスタイルを持ちながらも、江戸文学の多様性を形作った柱の一つとされています。

三馬は庶民の「声」と「生活」を作品に昇華させることのできた、稀有な作家でした。そのため、彼の文学的な評価は、時代を経てもなお高まり続けており、現在でも江戸文学研究の重要な対象として位置づけられています。

曲亭馬琴との確執とその背景にある価値観

式亭三馬の文学的功績は高く評価される一方で、同時代の戯作者・曲亭馬琴(きょくてい ばきん)との確執は有名です。馬琴は『南総里見八犬伝』などの長編読本を手がけ、道徳観や忠義を重視する硬派な作風で知られていました。一方、三馬は庶民の笑いや日常をテーマにした滑稽本を得意としており、両者の作風と文学観には大きな隔たりがありました。

確執のきっかけとなったのは、馬琴が自身の日記などで三馬の作品を「低俗」「品がない」と痛烈に批判したことです。これに対して三馬が直接的な反論を行った記録は残っていませんが、彼の作品には、形式や権威にとらわれない自由な創作精神が息づいており、それ自体が暗黙の「返答」であったとも捉えられます。馬琴が重厚長大な物語を展開する一方で、三馬は軽妙な語り口で日々の小さな出来事を鮮やかに描き出しました。この違いは、まさに文学の「何を描くべきか」という根本的な価値観の違いに起因しています。

皮肉なことに、両者の対立は結果的に江戸文学の多様性を際立たせることになりました。格式を重んじる読本と、大衆の感覚に根差した滑稽本。その両方が存在していたからこそ、江戸文学は豊かであり続けたのです。そして三馬の姿勢は、自由な創作の在り方や、庶民の言葉を文学に昇華させる可能性を体現するものでした。

式亭三馬の晩年 ― 病と向き合い、文化を遺す

体調悪化とともに変化した晩年の創作リズム

式亭三馬は、文政5年閏1月6日(1822年2月27日)、江戸でその生涯を閉じました。享年は47歳(満年齢では45〜46歳)でした。晩年は、体調を崩しがちになり、創作活動のペースも徐々に落ちていったことが複数の評伝や研究書で記録されています。特に、大酒を好んだことや、胃腸系の不調に悩まされていたことが推測されており、過労や消耗が重なった末の病没だったと考えられています。

しかし、体力が衰える中でも三馬は筆を折ることなく、作品を発表し続けました。晩年に手がけた『続浮世床』などには、老いや孤独、時代の移り変わりへの戸惑いといったテーマが織り交ぜられ、若い頃の作品には見られなかった哀感や深みが加わっています。単なる滑稽ではない、人間の弱さや儚さをも笑いの中に描こうとする姿勢は、晩年ならではの成熟した表現であり、三馬が戯作文学に新たな境地を開いた証ともいえるでしょう。

志を継いだ門弟たちの存在

式亭三馬は、生涯を通じて多くの弟子を育てました。なかでも為永春水は、師の影響を色濃く受け、人情本という新たな文学ジャンルで名を成しました。春水の語り口や登場人物の感情の機微を丁寧に描く作風は、三馬から学んだ細やかな観察眼を受け継いだものだと評されています。

また、楽亭馬笑、古今亭三鳥、益亭三友といった弟子たちも、それぞれ滑稽本や随筆、講談などの分野で活躍しました。三馬は晩年に至るまで弟子たちとの交流を大切にし、創作に関する助言を惜しまなかったと伝えられています。弟子たちは、三馬の精神と技術を受け継ぎつつ、自らの時代に合った文芸表現を模索していきました。

こうして三馬の影響は、彼自身の作品にとどまらず、次代の文壇にも大きな足跡を残しました。彼の教えを受けた弟子たちによって、江戸後期の文学世界はさらに多様化し、発展していったのです。

江戸文化を後世に伝える文化遺産としての意義

式亭三馬の作品群、とりわけ『浮世風呂』『浮世床』は、江戸庶民の口語表現や生活風俗を生き生きと記録した貴重な一次資料とされています。明治以降、国語学や民俗学の研究において、三馬の作品は江戸時代の言語と生活文化を探るうえで欠かせない存在となりました。

たとえば、江戸時代の銭湯での作法や、床屋での会話のやりとり、町内の付き合い方、祭礼の様子など、細部にわたる生活描写は、現代の研究者たちにとっても重要な情報源となっています。三馬のリアルな会話文や庶民の暮らしの描写は、単なる文学表現にとどまらず、言語学的・民俗学的な価値を持ち続けています。庶民文化を言葉と物語で活写した“文化の記録者”として、今なお日本文学史に燦然と名を刻んでいるのです。

現代に響く式亭三馬 ― 評価とメディアでの再発見

『浮世風呂』映画化で見直される魅力

式亭三馬の代表作『浮世風呂』は、昭和33年(1958年)8月24日、松竹配給により映画化されました。監督は木村恵吾、主演は伴淳三郎で、江戸時代の銭湯を舞台に、庶民たちの人間模様と滑稽なやりとりを描いた作品として公開されました。三馬原作の軽妙な会話や風刺精神を生かしたこの映画は、当時の観客からも高い評価を受けました。

1958年版『浮世風呂』は、銭湯という社交空間を背景に、町人たちの喜怒哀楽を活写するという点で、三馬作品の持ち味を忠実に再現しています。この映画化をきっかけに、式亭三馬の作品群や、彼が描いた江戸庶民文化が改めて注目されるようになりました。時代背景こそ異なれど、登場人物たちの会話や振る舞いが現代人にも共感できるものであることが、三馬作品の普遍的な魅力を改めて浮き彫りにしました。

『マンガ日本の古典』に見る現代的解釈

1980年代から1990年代にかけて中央公論社より刊行された『マンガ日本の古典』シリーズでは、式亭三馬の『浮世風呂』や『浮世床』が取り上げられました。たとえば、漫画家・古谷三敏による『浮世床』では、三馬の世界観を現代的な表現で再構築し、若い世代や一般読者にも親しみやすい形で紹介されました。

このシリーズでは、原作に忠実な台詞運びやテンポの良い会話劇を生かしながら、三馬作品に宿る人間観察の妙やユーモアを巧みに表現しています。さらに、江戸語を現代語訳せずにそのまま使う場面も多く、読者に当時の空気感をリアルに伝えています。こうした現代的解釈を通じて、三馬の滑稽本は「古典」から「生きた文学」へと再評価され、今なお多くの人に親しまれています。

巧みな言葉運びが落語・漫画文化に与えた影響

式亭三馬の作品は、その巧みな言葉運びと会話劇構成によって、後世の落語や漫画文化に大きな影響を与えました。特に、『浮世床』『浮世風呂』に見られる登場人物同士のかけあいや、間(ま)を活かした笑いの構造は、現代落語の「床屋噺」や「銭湯噺」に色濃く受け継がれています。滑稽なやりとりの中に人間の本音やズレを描く手法は、今の漫才やコントにも通じるものがあります。

また、昭和から平成にかけて発展したギャグ漫画にも、三馬の影響が見られます。日常のささいな出来事を大げさに拡大解釈し、リアクションを誇張して笑いに変えるスタイルは、滑稽本の基本構造と共通しています。三馬は「日常を観察し、そこに潜むズレや違和感を巧みに突く」技法を早くから確立しており、これが後世の日本語による笑い文化の礎となったといわれています。

式亭三馬の遺した文学は、単なる江戸の風俗描写にとどまらず、現代にまで続く「言葉で笑いを生む技術」の原点ともなっています。彼の作品は今なお、読むたびに新たな発見と笑いを与えてくれる、生きた古典なのです。

式亭三馬が遺した“笑い”と“記録”の文学

式亭三馬は、江戸の町人文化を真正面から捉え、笑いと風刺を通して人々の暮らしを描いた戯作者でした。幼くして奉公に出て出版の現場を知り、独自の観察眼と語彙力を磨いた彼は、『浮世風呂』『浮世床』といった作品で江戸庶民の声を活写しました。薬屋や古本屋の経営者としても人と情報に囲まれながら、時代の息遣いを吸収し続けた三馬。彼の筆は、単なる娯楽を超え、江戸という時代を“言葉”で保存する記録装置でもありました。弟子たちに託した志はのちの文壇へと受け継がれ、現代に至るまで、落語や漫画の表現にも影響を残しています。三馬が遺したのは、人間を見つめるまなざしと、それを言葉にする力。そして、それは今も、読む者の笑いと共感を引き出す“生きた古典”として息づいています。

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