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五代友厚の生涯:経済・教育・外交で日本の近代化を築いた“実行の人”

こんにちは!今回は、幕末から明治にかけて日本の近代化を支えた実業家、「大阪財界の父」と呼ばれた五代友厚(ごだい ともあつ)についてです。

薩摩藩出身の彼が、世界を学び、日本を変えるために尽力した波瀾万丈の49年の生涯を、熱く、面白く、そして詳しくご紹介します!

目次

薩摩の教育が育てた、近代化の先駆者・五代友厚

名家に生まれた五代友厚、若き日の才覚

五代友厚は1836年(天保7年)、薩摩藩士・五代直左衛門の家に生まれました。五代家は代々中級武士の家柄であり、藩の中でも教養と武勇を重んじる家庭環境のもとで育てられました。幼少期から記憶力や理解力に優れ、特に算術や漢学、蘭学に強い関心を示しました。10代の頃にはすでに外国との交易や軍事の変化に目を向け、学問のためなら夜通し勉強を続けるほどの熱意を持っていたと伝えられています。また、藩校である造士館で学ぶ中で、その聡明さと柔軟な発想が藩の上層部にも知られるようになりました。周囲からは将来を嘱望され、やがて父の遺志を継いで藩士としての道を歩むことになります。後に五代が国の近代化を導く人物となる背景には、このように早くから培われた知的好奇心と実行力があったのです。

自然と武士道が共存する薩摩で得た土台

五代が育った薩摩は、現在の鹿児島県にあたる地域で、桜島や錦江湾といった自然に囲まれた風光明媚な土地でした。一方で、他藩と比べても厳しい軍規と忠誠心を重んじる気風が強く、薩摩武士たちは幼い頃から剣術や精神修養に励みました。こうした土地柄の中で、五代は人間としての「強さ」と「しなやかさ」を身につけていきます。特に印象深いのは、藩士の間で共有されていた「敬天愛人」の精神です。これは後に親交を深めることになる西郷隆盛が掲げた理念でもあり、人を敬い、天命に従うという思想は五代にも大きな影響を与えました。自然と共に生きる中で自らを律し、他者のために尽くす姿勢は、五代がどんなに大きな立場になっても変わることはありませんでした。このような薩摩独自の文化と思想が、彼の行動や判断の基盤となり、後の日本経済の構築にまで通じる「人格の土台」となっていきました。

郷中教育が鍛えた“志”と“リーダーシップ”

薩摩藩で広く実施されていた「郷中教育(ごじゅうきょういく)」は、五代友厚の人物形成に欠かせない制度でした。これは地域ごとの若者が集まり、年長者が年少者を指導する独特の仕組みで、家庭や学校とは別に、地域が一体となって青少年を育てるものでした。五代も「加治屋町郷中」という地域の集まりに属し、そこでは後に明治維新を牽引する西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀といった同世代の人材たちと日々切磋琢磨していました。郷中教育では単に学問や武術を教えるだけでなく、「なぜ行動するのか」「どうすれば人を導けるのか」といった実践的な思考力が養われました。五代はこうした訓練の中で自然と統率力を発揮し、若くして指導的立場を任されるようになります。後に多くの人々を導き、国家の経済構造を築いていく彼の原点は、まさにこの郷中教育の経験にありました。個人主義ではなく「公のために尽くす」という価値観は、五代の生涯を通して貫かれることになります。

世界とつながる扉を開いた、長崎での学び

長崎海軍伝習所に抜擢された理由とは?

1857年(安政4年)、五代友厚は薩摩藩の推薦により、長崎海軍伝習所へ派遣されました。伝習所は幕府がオランダの協力を得て設立した洋式海軍の養成機関であり、日本で最も早く本格的に西洋科学と軍事技術を学べる場として注目されていました。本来、幕臣や譜代藩士の子弟が中心でしたが、外様の薩摩から五代が選ばれた背景には、彼の卓越した蘭学の素養と語学力、さらには国際情勢に対する鋭い感覚がありました。なぜ五代が選ばれたのか。それは、彼が藩の中でも特に新しい知識に貪欲で、外国語にも精通し、何よりも国の未来に必要な人材だと認められていたからです。推薦に関わったのは小松帯刀と見られており、彼らは五代の能力を高く評価し、藩を越えて国のために活躍できる器と判断していたのです。この派遣は五代にとって、自身の視野を大きく広げ、日本の進むべき道を見極めるための重要な一歩となりました。

航海術・科学技術で「世界」を体感

長崎海軍伝習所での学びは、五代友厚にとって知的衝撃の連続でした。オランダ海軍士官を講師に迎えたこの教育機関では、航海術、測量術、砲術、造船技術、天文学など、当時の西洋最先端の知識と技術が体系的に教授されていました。授業はオランダ語で行われ、五代は苦労しながらも独学で語学力を高め、講義内容をノートに詳細に記録して学びを自分のものにしていきました。なぜ彼はそこまで学びに没頭したのか。それは、当時の日本が欧米列強の軍事力に圧倒される中、自国を守り発展させるにはまず相手を正しく知る必要があるという強い危機感を抱いていたからです。また、ここで勝海舟や榎本武揚と出会い、互いに思想や情報を交換することで視野をさらに広げました。特に勝海舟の「開国こそ国を守る道」という考えに共感を覚えた五代は、単なる藩士としてではなく、国の命運を担う近代人としての自覚を深めていきます。船に乗って行う航海実習では、自ら羅針盤を操作し、風と波を読みながら操船の技術を体で覚えるなど、学びは実践的かつ生きた知識として身に付いていきました。

“薩摩の藩士”から“日本を導く近代人”へ

長崎での学びを通じて、五代友厚は「自分が属するのは薩摩藩ではなく、日本という国だ」という意識に目覚めていきます。それまで藩士としての忠義がすべてだった彼にとって、この変化は大きな転機でした。西洋の科学技術や思想に触れ、「世界は常に変化し、変化に対応できる国だけが生き残れる」という現実を実感したのです。なぜこの気づきが重要だったのか。それは、明治維新を迎える数年前という時代背景の中で、日本の存亡がかかる選択を迫られていたからです。五代は、もはや一藩の利害ではなく、国家全体の利益を考えるべきだという考えに至り、それを行動に移す準備を始めます。長崎で得た技術と思想は、やがて彼が薩英戦争後に英国へ留学する伏線となり、さらには日本初の株式取引所設立など、経済制度の近代化へと結実していきます。また、この頃に出会った榎本武揚や勝海舟らとの交流は、生涯にわたって五代の行動に影響を与えました。五代はここで、世界を見据えた「近代人」としてのアイデンティティを確立し、歴史の表舞台へと一歩を踏み出したのです。

薩英戦争と英国留学で掴んだ世界基準の視野

戦争で痛感した「国力の差」と敗北の現実

1863年(文久3年)、薩摩藩はイギリスと直接武力衝突する「薩英戦争」に突入します。これは前年、尊王攘夷の風潮の中で起きた生麦事件をきっかけに、イギリスが報復として薩摩へ艦隊を派遣したことで勃発しました。五代友厚はこの戦争において、後方支援や交渉の補佐として関わり、その中で西欧列強と日本の「圧倒的な国力差」を痛感します。なぜ薩摩は戦いを選んだのか。それは当時、幕末の混乱の中で藩の威信と独立性を守るためでしたが、イギリス海軍の近代的な艦船や砲撃力の前に、薩摩の砦や城下町は焼かれ、多くの被害を受けました。この敗北を単なる屈辱ではなく「学びの機会」として捉えたのが五代の真骨頂です。彼は戦後、西郷隆盛や大久保利通とともに冷静に状況を分析し、「攘夷ではなく開国と近代化こそが生き残る道」であると確信するに至ります。薩英戦争は、五代にとって世界との距離を目の当たりにした現実の衝撃であり、彼を次なる行動――英国留学へと駆り立てる原動力となりました。

ロンドンで経済・文化・思想を吸収

薩英戦争の翌年、1865年(慶応元年)、五代友厚は藩命を受けて英国留学を果たします。このとき、五代は薩摩藩の密航使節団として小松帯刀の指示のもと、伊藤博文や寺島宗則(松木弘安)らと共にヨーロッパを視察しました。彼が訪れたのはイギリスの首都ロンドン。当時のロンドンは、産業革命の絶頂期にあり、鉄道や銀行制度、証券取引所などが急速に発展していた世界最先端の都市でした。五代はここで、経済活動が民間の自由な競争によって活性化されていることに衝撃を受けます。また、政治においても議会制民主主義が実現され、産業と政治が連動しながら国家を築いていく構造を直接目にします。なぜこれほどの発展が可能なのか。彼はその答えを「教育」と「情報公開」、そして「実業の自由」に見出します。ロンドン滞在中、五代はロスチャイルド家の金融業務を視察し、商社マンとして働く人々の姿から商業の可能性を学び取りました。この経験は、後に大阪商法会議所や大阪株式取引所の創設へとつながる彼の実業家としての発想を育むきっかけとなります。

五代友厚が思い描いた“世界と戦える日本”

英国留学を通じて五代友厚が胸に描いたのは、単なる模倣ではない「世界と戦える日本」の構築でした。彼は、文明の力とは単なる武器や技術ではなく、それを運用し国家として成熟させる「制度」と「人材育成」にあると確信します。五代は帰国後、ただちに薩摩藩内外で得た知識の共有に努めると同時に、「産業の育成こそ国の礎」という持論を展開していきます。その背景には、ロンドンで出会った商工業者たちの姿がありました。彼らは決して貴族でも武士でもなく、庶民から身を起こした経済人たちでした。彼らの実行力と責任感に感銘を受けた五代は、日本においても「階級を越えて国家のために動ける経済人の育成」が急務であると考えます。そして、自らもその先陣を切る覚悟を持つに至ったのです。世界に通じる商業都市、そして教育と制度を整えた日本。五代が思い描いた未来は、後の大阪再生と近代経済制度の設計という形で実現していくことになります。

五代友厚、維新の舞台裏で動かした日本の針路

政変の中で果たした外交・経済の調整役

1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いを機に明治維新が始まり、江戸幕府は崩壊します。この激動の時代、五代友厚は幕府側でも薩摩藩の表舞台でもなく、「経済」と「外交」の裏側で極めて重要な役割を果たしました。特に新政府が発足する前後、国内が混乱し物資や資金が不足する中で、五代は薩摩藩の命を受けて兵糧や軍資金の調達に奔走します。その背景には、彼がすでに欧州で得た金融や貿易の知識、そしてトーマス・グラバーなどの外国人実業家との人脈がありました。彼はグラバーを通じてイギリスからの物資支援を調整し、また外国商人との取引において不利にならないよう為替や契約の管理にも細心の注意を払いました。なぜ彼が外交の最前線に立ったのか。それは、単に語学が堪能というだけでなく、相手の文化や価値観を理解し、対等な交渉ができる数少ない実務家だったからです。新政府の基盤づくりにおいて、五代の調整力はまさに不可欠な存在だったのです。

西郷・大久保とともに動いたリアルな改革

明治維新を成し遂げた中心人物といえば、西郷隆盛や大久保利通がよく知られていますが、五代友厚も彼らと深い信頼関係を築きながら、現実の改革を支える実行役として働きました。特に明治初期の税制改革や物流整備、貨幣制度の近代化など、多くの面で彼の提言が採り入れられています。なぜ彼がそこまで踏み込んだ改革に関われたのか。それは、五代が薩摩藩時代から西郷・大久保と志を共にし、「日本を西洋に対抗し得る国へ育てる」という明確な目標を共有していたからです。また、五代の実務能力は官僚的な枠組みを超え、現場に即した柔軟な対応力を発揮するものでした。大久保が中央集権体制の構築を推進し、西郷が国民意識の涵養を目指す中、五代はその両者の中間で、民間と国家をつなぐ経済インフラの整備に力を注ぎました。改革は理想だけでは動かせない。だからこそ、理想と現実をつなぐ「実行力」を持った五代の存在が、新政府の中でひときわ重要だったのです。

明治政府で実現した“実務家”としての信念

1871年(明治4年)、五代友厚は新政府から正式に任命され、開拓使出仕や参与職などを歴任します。特に注目されるのが、同年の岩倉遣欧使節団の出発にあたり、国内の留守政府において産業政策を担った役割です。彼は鉄道の敷設、郵便制度の導入、銀行制度の整備など、欧米視察で得た知見をもとに、制度の構築に尽力しました。五代が重視したのは、いかにして民間の力を引き出し、国の発展に寄与させるかという点です。なぜ民間に目を向けたのか。それは、国が変わるには上からの命令だけではなく、民衆が生活の中で「近代化」を実感できるようにする必要があると考えたからです。また、彼は伊藤博文とも連携を取りながら、外国との条約交渉や貿易の円滑化にも尽力しました。五代のこうした“実務家”としての働きは、華々しい功績というよりも、制度の隙間を埋め、実行可能な形で現場に落とし込む、まさに縁の下の力持ちでした。彼の信念は、国を支えるのは理論ではなく「仕組み」であるという、極めて現実的で先進的なものでした。

商都・大阪を再生した「大阪財界の父」五代友厚

大阪商法会議所を設立、経済の骨格を構築

1878年(明治11年)、五代友厚は大阪の経済界の中心となる「大阪商法会議所」(現在の大阪商工会議所)を創設しました。当時、大阪は明治維新によって政治と経済の中心が東京へと移り、商都としての活力を大きく失っていました。五代はその現状に深い危機感を抱き、「大阪の再生なくして日本経済の発展はない」との信念のもと、自ら立ち上がります。なぜ大阪だったのか。それは、五代が欧州で学んだ「都市が自律的に産業を育てる力」の重要性を理解していたからです。大阪商法会議所は、商人たちの声を政治に届け、地域経済の活性化を目的とした民間主導の組織であり、その設立には伊藤博文や榎本武揚らの支援もありました。設立当初から五代は初代会頭に就任し、関税制度、貿易、流通、教育など幅広いテーマを扱い、実業家の立場から制度設計に関与していきます。この組織は後に全国各地に広がる商工会議所制度の先駆けとなり、日本の産業発展を支える「経済の骨格」を形づくったのです。

大阪株式取引所の創設と資本主義の土台

五代友厚は、資本の循環がなければ経済は発展しないと考えていました。そのため、彼は近代的な証券市場の必要性を痛感し、1878年(明治11年)に大阪株式取引所を設立します。これは東京に次いで日本で二番目の証券取引所であり、西日本における金融の中心となるものでした。なぜ取引所を作ったのか。それは、工場の建設、鉄道敷設、貿易振興といった近代産業の発展に不可欠な「資本調達」の仕組みを整える必要があったからです。当時の日本には、現在のような銀行融資や投資の文化が根付いておらず、事業を始めるにも私財に頼るのが一般的でした。五代は、欧州で見た証券市場が果たす役割――企業と投資家をつなぐシステムに着目し、日本にも同様の仕組みが必要だと考えたのです。大阪株式取引所は設立直後から地域の商人や事業者の資金調達の場として機能し、関西経済の活性化を後押ししました。後に全国の証券市場制度の基盤ともなり、日本における資本主義の制度的整備の中核を担う存在となりました。

疲弊した大阪を、日本経済のエンジンへ

五代友厚が大阪へ本格的に活動の拠点を移したのは1874年(明治7年)以降です。当時の大阪は、江戸時代の「天下の台所」としての面影を残しながらも、明治政府による中央集権化で商業機能が東京に集中し、産業の衰退と人口流出が進んでいました。五代はこの状況に強い危機感を持ち、「大阪を再び日本の経済エンジンにする」ことを目標に掲げます。そのためにまず行ったのが、インフラ整備と教育環境の拡充でした。彼は港湾の近代化や鉄道網の整備、さらに商業教育の充実に投資を行い、大阪の再興に力を尽くします。また、民間主導で動く「産業振興型都市モデル」を志向し、行政だけに頼らない経済成長の道を提案しました。なぜ五代は大阪にこだわったのか。それは、大阪の持つ商人文化と人的資源、そして地理的条件にこそ、日本の経済成長を支える鍵があると確信していたからです。彼の取り組みは徐々に実を結び、1880年代には大阪は再び活気を取り戻し、「商都」の名を全国に知らしめるまでになります。五代の先見性と行動力がなければ、今日の大阪の経済的地位はなかったかもしれません。

教育で未来を変える――人材育成に賭けた情熱

「人を育てねば国は栄えぬ」という哲学

五代友厚の活動を貫いていたのは、「経済の発展には人材育成が不可欠である」という揺るぎない信念でした。彼はかつて英国留学中、産業と教育が連動し、現場に即した実務教育によって優秀な経済人が次々と育っていく様子を目の当たりにしており、帰国後は日本でもそのような人材を育てなければ、国が真に豊かにはならないと確信していました。「人を育てねば国は栄えぬ」という言葉は、五代の口癖として知られており、それは単なる理想論ではなく、彼自身が行動によって示した実践的哲学でした。なぜ教育がそこまで大切なのか。五代は、制度や技術があっても、それを動かすのは常に“人”であるという本質を理解していたのです。特に明治政府の中央集権化が進む中で、地方からも優秀な人材が育たなければ国家全体の均衡が崩れると憂い、教育を通じた地方創生の必要性を繰り返し訴えました。彼にとって教育は、未来の国家を築く“投資”であり、産業の土台を支える“国策”そのものでした。

大阪商業講習所に込めた未来への投資

1880年(明治13年)、五代友厚は「大阪商業講習所」を設立します。これは現在の大阪市立大学商学部の前身にあたる機関で、当時としては画期的な“商業実務”に特化した教育施設でした。なぜこのような学校を設立したのか。それは、明治維新以降、西洋式の産業制度が急速に導入される中で、それに対応できる商人や事務官、経営者が圧倒的に不足していたからです。五代は「机上の学問」だけではなく、「現場で役立つ知識と技術」を身につけた実務人材の育成を目指しました。講習所では簿記、貿易、外国語、算術などが教えられ、五代は自身が築いた実業界のネットワークを活かして、現役の経済人を講師に招くなど、実践的なカリキュラムを構築しました。また、入学金や授業料をできる限り抑え、貧しい家庭の子どもでも学べる環境を整えたことも特徴です。この講習所は単なる職業訓練校ではなく、五代が思い描いた「国を担う次世代リーダーの育成機関」であり、彼の教育哲学が具体的な形として結実した事例でした。

経済人を育てる“教育改革者”としての顔

五代友厚は、単なる実業家ではありませんでした。彼は教育という社会基盤を再構築することで、持続可能な経済成長を目指した“教育改革者”でもありました。大阪商法会議所や大阪株式取引所といった制度的枠組みを整える一方で、その枠を活用できる人材を育てるために、教育こそが最優先事項であると考えていたのです。五代の教育活動は、単に学校をつくるという物理的なものではなく、「どのような人材が未来に必要か」を逆算し、それにふさわしい教育内容と環境を整えるという、極めて戦略的なものでした。なぜ五代がそこまで教育にこだわったのか。それは彼自身が郷中教育で育てられ、師や仲間との学びの中で自らの可能性を開花させたという原体験があったからです。五代は教育を通じて、すべての若者に「自分の力で社会を変えられる」という希望と道筋を与えようとしました。そして彼が残した教育機関は、現在も多くの若者を育て続けており、彼の思想が形を変えて現代にも息づいているのです。

名誉か信念か――試練の晩年と北海道開拓使事件

開拓使官有物払い下げ事件で問われた倫理

1881年(明治14年)、五代友厚の晩年を揺るがす重大な事件が発生します。それが「開拓使官有物払い下げ事件」です。開拓使とは、北海道の開発と行政を担う明治政府の出先機関で、当時その所管していた広大な土地・建物・事業体を民間に払い下げる計画が進んでいました。この払い下げに関し、五代が関与する商社「関西貿易社」が優遇されたとして、政界や世論から強い批判が巻き起こりました。背景には、政府高官と財界の癒着を疑う声があり、実際に伊藤博文や大隈重信といった政権中枢にも疑いの目が向けられました。なぜこのような問題が発生したのか。それは、明治政府が近代国家への急速な転換を進める中で、制度整備や倫理規範が追いついていなかったからです。五代自身は「国家の発展のために有効活用されるべき事業」として受け取ったとされ、実際には不正の証拠はなく処罰もされませんでしたが、この事件により「利益のために政府と結託した実業家」といったイメージを世間に植えつけられる結果となりました。

誤解と批判の渦中で守った経済人としての矜持

開拓使官有物払い下げ事件をめぐる騒動の中、五代友厚は一貫して沈黙を守り続けました。弁明の機会はあったものの、彼は「行いは天が知っている」という信念のもと、自らの正当性を声高に主張することはありませんでした。この態度は当時の政財界からは高く評価されたものの、一般市民からの誤解や中傷は収まらず、精神的な重圧は相当なものであったといわれています。なぜ五代は沈黙を選んだのか。それは、彼が「経済人は言葉よりも行動で信頼を勝ち取るべき」とする哲学を持っていたからです。事件の直後も、大阪商法会議所の活動を続け、教育機関への支援も手を緩めることはありませんでした。彼のもとには、親交のあった勝海舟や榎本武揚からの励ましの書簡も届いており、その信念の強さが人を動かしていたことがわかります。五代にとって、自身の名誉よりも重要だったのは「国家と社会の進歩に資するかどうか」であり、どれほど非難されようともその矜持を曲げることはありませんでした。

病と誹謗の中で貫いた“信念の死”

事件の影響もあって、晩年の五代友厚は次第に体調を崩していきます。かねてから持病を抱えていた彼は、1885年(明治18年)に病床に伏すようになり、同年9月25日、大阪にて49歳の若さでその生涯を閉じました。晩年は誹謗中傷と闘いながらも、大阪の未来を思い続け、死の直前まで商法会議所や講習所の運営について指示を出していたといわれています。なぜ彼はそこまで執念を燃やし続けたのか。それは、五代が自らの人生を「日本近代化のための実行」に捧げたと考えていたからです。彼の死は、表向きには「汚名を残した財界人の死」とも受け止められましたが、彼の遺志を継いだ人々の手によって、彼の事績は再評価されていくことになります。現在、五代の墓地は大阪市天王寺区の大江墓地にあり、地元では今も彼の功績を称える人が絶えません。誤解と批判の中で倒れながらも、決して信念を曲げなかった五代友厚の晩年は、まさに“信念の死”と呼ぶにふさわしいものでした。

五代友厚の遺産が今に語る「日本近代化の礎」

日本経済・教育・文化を支えたレガシー

五代友厚が遺した功績は、単なる経済活動にとどまらず、日本の近代国家としての土台を築く上で欠かせないレガシーとして今日まで受け継がれています。まず経済面では、大阪商法会議所や大阪株式取引所の設立を通じて、日本における市場経済の制度設計を先導しました。これにより、資本の流動性が高まり、全国的な産業発展の基盤が整えられていきます。教育面では、大阪商業講習所の創設を通じて、実務に強い経済人材の育成に力を注ぎました。こうした機関は現在の大学教育やビジネススクールの原型となっており、実学重視の教育理念は今も広く評価されています。また文化的側面においても、五代は西洋文化の積極的導入を通じて日本人の視野を世界へと開かせました。なぜ五代の遺産が現代まで影響を持つのか。それは彼の思想が「仕組みと人材こそが国を動かす」という普遍的な真理に基づいていたからです。彼の活動は個人の野心ではなく、「日本の未来」のための行動だったからこそ、時代を超えて語り継がれているのです。

今も大阪に息づく五代の事績

現在の大阪には、五代友厚の功績を示す数多くの痕跡が残されています。大阪商工会議所の礎を築いた記念碑や、大阪取引所の設立を記念する文書類、さらに彼が支援した教育機関の系譜を引く大学などがその代表です。また、2015年には大阪市中央公会堂前に五代の銅像が建立され、地元市民や観光客からも親しまれています。この銅像建立の背景には、長らく埋もれていた五代の評価を再発見しようという市民運動の広がりがありました。なぜ今、五代友厚が再び注目されているのか。それは、彼が示した「地域主導の経済発展モデル」や「教育による社会変革」という考え方が、現代の日本にとっても大いに有効だからです。特に、大阪の地方創生や中小企業の活性化といった課題において、五代の先進的な取り組みは今なお参考とされ続けています。五代の理念は建物や制度という形だけでなく、「志を持って社会を動かす」という精神として、現代の大阪にも確かに息づいているのです。

“実行の人”が再評価される理由

五代友厚は、近代日本の黎明期において「言葉よりも行動」を重んじた“実行の人”として知られています。彼の名が一時的に歴史の陰に埋もれていたのは、表舞台に立つことを良しとせず、実務に徹した姿勢によるものでした。しかし近年、その真摯な実行力と先見性が再び脚光を浴びるようになっています。再評価の背景には、経済的な格差や中央集権の弊害が指摘される現代において、地域と民間の力を生かした五代の「草の根的リーダーシップ」が時代に合致しているという点があります。また、ドラマや書籍などのメディアでも取り上げられ、多くの人が彼の存在を知る機会が増えたことも大きな要因です。なぜ今、五代が必要とされるのか。それは彼の行動原理が常に「未来のために何を成すべきか」にあったからです。利益ではなく公益、名誉ではなく信念を貫いた五代友厚という人物像は、変化の時代に立ち向かう現代の私たちにとって、大きな示唆と勇気を与えてくれる存在となっています。

本とドラマで辿る、五代友厚という生き様

『新・五代友厚伝』『五代友厚伝』で知る深層

五代友厚の生涯や思想を深く知るには、一次史料だけでなく、彼の人物像に迫った評伝や小説の存在が大きな助けとなります。その中でも代表的なのが、関西財界出身の作家・田中彰が執筆した『五代友厚伝』および後年に出版された『新・五代友厚伝』です。これらの書籍では、史実に基づきながらも、五代の内面や人間関係に深く切り込んでおり、実業家・教育者・外交人としての多面的な姿が描かれています。特に『新・五代友厚伝』では、彼がどのようにして欧州留学を経て、大阪再興のために尽力したかが克明に描かれ、単なる偉人伝ではない“生きた人物”としての五代に触れることができます。なぜこうした書籍が今でも読み継がれているのか。それは、現代の経済人や教育者にとっても、五代の思考と行動が普遍的な価値を持っているからです。彼の決断の背景や葛藤を知ることで、読者は時代を超えて“何をもって社会に貢献するか”という問いを自らに投げかけることになるでしょう。

『青天を衝け』に見る人物像の魅力

2021年に放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、五代友厚が重要な準主役として登場し、広く一般にその名が知られる契機となりました。演じたのはディーン・フジオカ氏で、品格と情熱を兼ね備えた近代的実業家としての五代の姿が多くの視聴者に感銘を与えました。このドラマでは、五代が西洋と対話しながらも日本の伝統を尊重する姿勢や、渋沢栄一らとともに日本経済の近代化を支えた実務家としての側面が強調されています。なぜ『青天を衝け』で五代が注目されたのか。それは、近代化の波に立ち向かう中で「どうすれば国家と民衆を両立させられるか」という普遍的なテーマに、五代の行動が見事に重なっていたからです。また、物語の中では西郷隆盛、大久保利通、渋沢栄一といった歴史的人物との関係性も丹念に描かれ、彼がいかに周囲と連携しつつ、信念を貫いていたかが浮き彫りになります。五代の魅力は、派手さではなく、地道な努力と確かな実行力にあり、まさに“影の立役者”としての存在感が再評価された瞬間でした。

現代に甦る“経済の開拓者”のリアル

かつては歴史の片隅に追いやられていた五代友厚の名は、近年になって再び脚光を浴びています。その要因の一つは、現代日本が抱える課題――地方経済の衰退、教育の機能不全、国際競争力の低下――に対して、五代の思想と行動が多くの示唆を与えてくれるからです。五代は常に「時代を先読みし、必要な仕組みをつくり、人を育てる」という視点で社会を見ていました。これはまさに、現在の企業経営者や政策立案者が直面する問題にも通じるものです。たとえば、スタートアップ支援や地域振興の取り組みにおいても、五代の“民間主導・実学重視”の精神は再評価されています。また、メディアやイベントを通じて五代の功績を掘り起こす試みも増えており、大学や自治体が連携してシンポジウムを開くなど、彼の思想を現代的に継承しようとする動きも活発です。五代友厚は、もはや過去の人物ではなく、“今を生きる私たちに語りかけてくる”存在となっているのです。

五代友厚が現代に遺した“実行の思想”と未来へのまなざし

五代友厚の人生は、常に「日本の未来のために何をすべきか」という問いに貫かれていました。薩摩の郷中教育で鍛えられた志、長崎や英国で培った国際的視野、そして維新後の大阪で展開した制度改革と人材育成。彼は華やかな政治家ではなく、地に足の着いた“実務家”として、経済・教育・外交という多方面から近代日本の骨格を形づくった人物です。また、開拓使事件のような逆風にも毅然と立ち向かい、信念を貫いた晩年の姿は、まさに「実行する者」の矜持を象徴しています。現代の私たちが直面する課題に対しても、五代の精神と行動は大きなヒントを与えてくれます。制度をつくる、教育に投資する、地域から未来を育てる――五代友厚が遺した思想は、今もなお、生きた教訓として私たちに語りかけ続けているのです。

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