こんにちは!今回は、明治から昭和初期にかけて日本のキリスト教界と教育界を牽引した牧師であり思想家・教育者、小崎弘道(こざきひろみち)についてです。
「熊本バンド」の一員として信仰の道を歩み出し、霊南坂教会の創設、同志社の再建、そして世界宗教大会への参加と、国内外で活躍した小崎弘道の波乱と情熱に満ちた生涯について、じっくりひもといていきます!
キリスト教に人生を捧げた先駆者・小崎弘道の原点
熊本藩士の家に生まれた幼少期の環境
小崎弘道は1856年、熊本藩に仕える藩士の家に生まれました。武士階級に属する家系であったため、幼いころから厳格な儒教的価値観のもとに育ちました。儒教では「忠孝」が最も重んじられており、親や藩への絶対的な忠誠が求められました。弘道も、幼少期から漢籍を学び、朱子学や孟子の教えに親しむことで、精神的な鍛錬を積んでいきました。しかし、次第にそうした思想の枠組みに疑問を抱くようになります。たとえば「なぜ親の命令には絶対服従しなければならないのか」「個人の意志はどこにあるのか」といった素朴な疑問が、幼心に芽生えていたのです。このような精神的葛藤は、後年、彼がキリスト教の教えに出会ったときに深く共鳴する下地となりました。武士としての誇りと、知への探求心を兼ね備えた家庭環境が、彼の思想形成に大きな影響を与えたのです。
熊本洋学校で出会ったキリスト教と同志たち
1871年、小崎弘道は熊本洋学校に入学します。これは熊本藩が新しい時代に対応するために設立した西洋式の教育機関で、アメリカ人宣教師リロイ・ランシング・ジェーンズが教鞭を執っていました。ジェーンズはキリスト教徒でありながら、無理に布教することはせず、人格教育や自由の精神を重視する教育を行っていました。弘道はここで、従来の儒教では得られなかった「個人の尊厳」や「自由意思」という考え方に触れ、大きな衝撃を受けます。また、この学校では多くの優秀な若者たちと出会いました。宮川経輝、田村直臣、渡瀬常吉らとは特に深い友情を育み、生涯にわたる信仰と活動の仲間となっていきます。彼らと日々討論を重ねる中で、弘道の内面にあった信仰への問いが少しずつ形を持ち始めました。この時期の経験が、彼をキリスト教への道へと導く転機となったのです。
熊本バンドの結成と小崎の信仰の芽生え
1876年1月30日、小崎弘道を含む熊本洋学校の生徒35名が、ひそかにキリスト教への信仰を宣言する誓約を交わしました。これが「熊本バンド」の結成です。彼らはまだ洗礼を受けていなかったものの、自らの信仰を内面で確立し、今後の人生をキリスト教的倫理に基づいて生きることを誓いました。弘道にとってこの誓いは、これまでの儒教的価値観からの決別を意味していました。なぜ公の場でなく、秘密裏に誓約が交わされたのかといえば、当時の日本社会ではキリスト教がまだ「邪教」として見なされ、信仰を表明すること自体が大きなリスクを伴っていたからです。それでも弘道は、「真理の前に誠実であること」を優先し、信仰の道を選びました。熊本バンドの仲間たちとは、その後も同志として多くの局面で行動を共にします。この集団体験こそが、彼の信仰の芽生えと、生涯にわたる活動の原点となったのです。
新島襄と出会い、信仰に生きる覚悟を固めた小崎弘道
新島襄との出会いと同志社英学校への進学
熊本バンドを結成した翌年、1877年、小崎弘道は上京し、新島襄と出会います。新島は若き日の密航を経てアメリカで教育を受け、日本におけるキリスト教主義教育の普及を志していた人物です。彼が創設したばかりの同志社英学校(現・同志社大学)は、単なる語学学校ではなく、「キリスト教を基盤とした人格形成」を目的とする教育機関でした。小崎は新島の教育理念と人格に深く感銘を受け、「この人のもとで学びたい」と強く願うようになります。新島はまた、小崎の知性と誠実さを高く評価し、同志社の初期学生として迎え入れました。この進学は、小崎にとって単なる学問の場以上の意味を持ちます。それは信仰と学びを統合させる道であり、自らの人生をキリスト教に委ねる覚悟を固める契機となったのです。この出会いがなければ、日本のプロテスタント史における小崎の名は刻まれなかったかもしれません。
小崎弘道の受洗と信仰の確立
小崎弘道は1878年、同志社英学校在学中に受洗します。洗礼を授けたのは、同志社創設者であり、彼の師でもあった新島襄です。この受洗は、小崎にとって信仰を「内面の確信」から「公の表明」へと昇華させる重要な一歩でした。日本においてキリスト教がまだ広く受け入れられていない時代、受洗には社会的リスクが伴いました。信仰を公にすることで、将来の就職や人間関係に支障が出ることも考えられました。それでも小崎は、「神の御前に誠実であることこそ人としての本分である」との信念から、洗礼を受ける決断を下しました。この時期から彼は、日々の祈りや聖書の黙想を欠かさず、自らの信仰を内面から深めていきます。のちに彼が唱える「積極的福音」や『政教新論』における信教の自由への主張は、この若き日の確かな信仰体験に根ざしています。
学生時代に築いた人的ネットワークとその後の影響
同志社での学生生活を通じて、小崎弘道は多くの重要な人物と出会い、深い人的ネットワークを築いていきました。たとえば、後に日本キリスト教界を牽引する植村正久や田村直臣、平岩愃保らとの交流は、彼の思想形成に大きな影響を与えました。特に田村・平岩とは、後にYMCAの日本支部設立において協力し、青年教育と社会奉仕を重視する運動を全国へと広めていく基盤となります。また、熊本バンドの盟友たちとは、同志社で再会を果たし、信仰共同体としての絆をさらに強めました。こうした人的つながりは、小崎がのちに霊南坂教会を創設し、日本組合基督教会の指導的立場に立つ際にも大きな助けとなります。同志社での数年間は、単なる学問の修得にとどまらず、人生の理念と仲間を得た、かけがえのない時期だったのです。
日本人による日本の教会を──小崎弘道が切り拓いた伝道の第一歩
上京と伝道活動の開始
同志社英学校を卒業した小崎弘道は、1879年に東京へと移ります。当時の東京は文明開化の波の中にありながら、キリスト教に対する社会的偏見も根強く残っていました。小崎はそのような環境にあえて身を置き、自らの信仰を実践するための伝道活動を本格的に開始します。彼が目指したのは、西洋の宣教師に依存しない「日本人自身による教会」の確立でした。これには、日本語による説教、日本人による教会運営、地域社会との接点を重視する姿勢が含まれていました。最初は家庭集会や路傍説教といった小規模な布教活動から始め、地道に信者を増やしていきました。その熱意と誠実な語り口は、多くの人々の心を打ちました。また、同志社時代の仲間たちとも連携を取りながら、伝道の輪を広げていったのです。彼の上京は、キリスト教を日本社会に根づかせる第一歩であり、後の霊南坂教会設立へとつながる布石でもありました。
新肴町教会(のちの霊南坂教会)創設の経緯
1881年、小崎弘道は東京・新肴町(現在の港区赤坂付近)に小さな礼拝所を設けました。これが、のちの霊南坂教会となる新肴町教会の始まりです。この教会は、日本人の信者によって自立的に運営されることを原則とし、資金も可能な限り国内で調達されました。このような教会の設立は当時としては非常に画期的であり、西洋宣教師主導の教会運営が一般的だった時代にあって、日本人による「自国のための教会」という理念を形にした先例となりました。設立には同志社の仲間である田村直臣や平岩愃保らの協力もあり、彼らとともに青年層への教育活動や地域支援活動にも積極的に取り組みました。新肴町教会は単なる礼拝の場にとどまらず、信仰と生活を結びつける拠点として機能し、都市部におけるキリスト教布教のモデルケースともなりました。
牧師としての初期の活動と社会的反響
牧師としての小崎弘道は、ただ説教を行うだけでなく、社会の現実と向き合う行動派でもありました。彼の初期の説教は、人間の尊厳、正義、公平、そして神の愛を説くもので、当時の聴衆にとっては新鮮かつ刺激的な内容でした。特に、貧困層や教育の機会に恵まれない人々に対して、キリスト教的倫理に基づく社会支援の必要性を訴えた点が注目されました。また、彼は教会の外にも積極的に出向き、講演活動や勉強会を通じて信仰と社会との接点を模索しました。その一環として、青年たちへの教育と道徳的指導に力を入れたことが、後のYMCA設立への土台となっていきます。こうした彼の活動は、一部の保守的な層からは批判も受けましたが、次第に市民の信頼を集め、教会は徐々に拡大していきました。小崎の姿勢は、「信仰を行動に移す」ことの重要性を体現するものであり、牧師の新たなロールモデルとして大きな影響を与えました。
小崎弘道と霊南坂教会──日本独自のプロテスタント教会を築く
霊南坂教会の設立とその特徴
1886年、小崎弘道は東京・霊南坂に教会を移設し、新たに「霊南坂教会」を設立しました。この教会は、先に設けた新肴町教会を発展的に継承するもので、日本人による、日本人のための自立した教会を目指す象徴的な存在となります。霊南坂教会の大きな特徴は、当時としては珍しく、日本人の信者が運営の中心を担い、礼拝も日本語で行われた点にあります。さらに、会堂の建設に際しても国内から資金を募るなど、「自給自立」の精神を徹底していました。小崎はこの教会を、単なる宗教的な拠点ではなく、教育や福祉、社会活動の拠点として位置づけ、地域住民に開かれた教会づくりを目指しました。礼拝後には勉強会や社会問題に関する討論会も開催され、知識層や青年層の関心を集めました。霊南坂教会は、その革新性と自主性により、当時の教会界に一石を投じる存在となったのです。
教団の枠を超えた活動と教会運営の革新性
小崎弘道が霊南坂教会で目指したのは、単なる一教団内の活動にとどまらない、広く社会に開かれた「公共的な教会」の構築でした。彼は教団間の枠組みに囚われることなく、他の教派や団体とも積極的に連携し、多様な人々との対話を重視しました。たとえば、日本組合基督教会に所属しながらも、長老派やメソジストの教会とも共同イベントを開催し、青年教育や社会問題への対応など、宗派の垣根を越えて協力を呼びかけました。また、教会運営においては、信徒による自治の導入や会計の透明化など、現代にも通じるガバナンス改革を早くから実践していました。こうした姿勢は、植村正久や海老名弾正といった他の指導者たちにも影響を与え、日本のプロテスタント教会全体の方向性に変革をもたらしました。小崎の革新性は、教会を「信仰の場」だけでなく、「社会を変える場」として位置づけた点にこそあったのです。
日本組合基督教会や日本基督教連盟での指導的役割
小崎弘道は霊南坂教会の牧師としての活動にとどまらず、広く教団組織の中でも指導的な役割を果たしました。特に、彼が関わった日本組合基督教会は、複数の教派が合同して設立された日本初の超教派的教会連合体であり、小崎はその初期の形成と運営に深く携わりました。彼は、会議の場で常に「日本人の手による、日本の教会の独立性」を主張し、外国宣教師中心だった従来の運営体制に疑問を投げかけました。また、1920年代には日本基督教連盟の設立にも参画し、キリスト教の全国的なネットワーク形成にも貢献しています。これらの団体での活動は、小崎が単なる地方教会の牧師にとどまらず、日本プロテスタント史全体に影響を与える指導者であったことを物語っています。彼の理念は、組織の規模や構造よりも、信仰の本質と社会的責任を重んじるものでした。
教育で日本を変える──同志社第2代社長・小崎弘道の覚悟と改革
社長就任と教育理念の実践
1890年、小崎弘道は同志社の第2代社長に就任しました。創設者・新島襄の死からわずか数年後のことであり、同志社は理念の継承と組織の安定に苦慮していました。小崎はこの重要な局面において、同志社の教育理念を再確認し、「良心を手腕に運用する人物」の育成という基本方針を打ち出しました。彼の教育方針の核心には、人格形成を重んじるキリスト教精神と、実社会で役立つ知識・技術の習得の両立がありました。また、教職員の自主性や学生の自治を尊重し、全員が「同志」として協働する学校づくりを目指しました。小崎自身がかつて新島から受けた影響を胸に、教育現場に頻繁に足を運び、学生と直接対話を重ねました。校長室に籠ることなく「共に考え、共に悩む教育者」としての姿勢を貫いたことは、学生たちの信頼を得る上でも大きな意味を持ちました。
外国人宣教師との軋轢と宗教教育方針の対立
小崎弘道の教育理念は、当時同志社で多数を占めていた外国人宣教師たちとの間にしばしば対立を生みました。とくに問題となったのが、宗教教育のあり方をめぐる方針の違いです。外国人教師たちは厳格な信仰告白や教義中心の教育を重視していたのに対し、小崎はキリスト教の精神に基づく「人格の陶冶」を重んじ、より柔軟かつ包括的な教育方針を掲げていました。この違いが顕在化したのが、1892年に起きた「同志社内教職員の信仰基準をめぐる問題」です。小崎は、教職員の信仰を形式的に測るのではなく、その人の人格と行動において信仰が生きているかを重視すべきだと主張しました。しかし、これに反発した宣教師側は辞任をちらつかせるなど、同志社内部は一時混乱を極めました。この出来事は、小崎にとって困難な挑戦でしたが、日本人自身による教育の自主性を貫く重要な転機ともなりました。
困難を乗り越えた同志社の再建と教職育成の改革
多くの外国人宣教師が離脱した後も、小崎弘道は同志社の舵取りを続けました。彼は「今こそ日本人自身が教育機関を担うべき時」と位置づけ、日本人教職員の育成と登用に注力します。これにより、同志社は「日本人によるキリスト教主義教育」のモデルケースへと変貌を遂げていきました。特に、神学部や師範学校における教職養成に力を入れ、単なる学問伝達者ではなく、信仰と倫理を備えた教育者の育成を目指しました。また、彼の改革は学生にも波及し、学生の主体的な学びを奨励する制度づくりや、自治組織の導入など、近代的な大学運営の基盤がこの時期に形成されました。小崎の教育改革は、単なる制度変更にとどまらず、「教育を通じて日本社会を変える」という志のもとに実践されたものでした。後の同志社が日本のキリスト教系教育機関の中核として発展する土台は、まさにこの時期に築かれたのです。
世界へ響いた日本の声──小崎弘道、宗教大会で「積極的福音」を語る
1893年のシカゴ世界宗教大会への参加
1893年、小崎弘道はアメリカ合衆国・シカゴで開催された「世界宗教大会」に日本代表として出席しました。この大会は、シカゴ万国博覧会の一環として行われ、世界中の宗教指導者が一堂に会し、それぞれの宗教について理解と対話を深めることを目的とした、当時としては極めて画期的な国際宗教会議でした。小崎はこの場に、プロテスタントを代表する日本人として招聘され、日本国内でも注目を集めました。日本のキリスト教が誕生してからまだ数十年しか経っていない中での参加は、小崎の活動が国内外に認められていた証でもあります。また、この渡米に際し、彼は自費を投じ、教会や同志社関係者からも支援を受けて渡航しました。彼の参加は、日本のキリスト教が「受け入れられる存在」から「発信する存在」へと変わる象徴的な出来事であり、彼自身にとっても世界の宗教的知識人と対等に語り合う貴重な経験となりました。
「積極的福音」による演説とその国際的評価
世界宗教大会において、小崎弘道は「積極的福音(Positive Evangelism)」という独自の理念を基に講演を行い、大きな注目を集めました。彼の演説は、日本人が単に欧米の宗教を受け入れるのではなく、日本の文化的背景や精神性と融合させながら、独自のキリスト教理解を築き上げているという点を強調するものでした。特に「信仰は個人の心の内に宿ると同時に、社会を変革する力を持たねばならない」との主張は、聴衆の大きな共感を呼びました。演説後には、アメリカやヨーロッパの宗教関係者から高い評価が寄せられ、彼の思想は国際的な宗教論争の中でも独自の位置を占めることになります。また、彼の講演内容は後日、英文で公表され、海外の神学校や教会でも紹介されることとなりました。小崎の「積極的福音」は、単なる理論ではなく、彼自身が日本で実践してきた信仰と社会貢献の結実でもありました。
世界的ネットワークとの交流とその影響
シカゴ世界宗教大会への参加を通じて、小崎弘道は世界の宗教指導者たちとの間に新たな人的ネットワークを築きました。彼は特に、アメリカの進歩的な神学者や、インドの宗教思想家たちと親しく交流し、宗教の役割や倫理観について深い議論を重ねました。この経験は、彼の思想に国際的な視野を与えただけでなく、日本のキリスト教をいかにグローバルな文脈の中で展開すべきかを考えるきっかけともなりました。帰国後、小崎はこの体験をもとに各地で講演を行い、「信仰とは世界と対話するものである」と語り、信者たちに外の世界へ目を向けることの大切さを説きました。また、彼の講演はYMCAの国際的な活動にも影響を与え、日本支部の国際連携強化にも寄与しました。小崎の国際的な発信は、日本のキリスト教界における新たな時代の扉を開く一歩となったのです。
名誉牧師・小崎弘道が伝え続けた信仰と思想のバトン
名誉牧師としての後進育成と講演活動
1907年、小崎弘道は霊南坂教会の正式な牧師職を退き、「名誉牧師」の称号を受けました。しかし、これは単なる引退ではなく、新たな活動の始まりでした。小崎はその後も全国各地の教会や学校を訪れ、後進の育成に情熱を注ぎました。特に力を入れたのは若手牧師の教育と支援です。彼は若い牧師に対して、単に神学的知識を教えるだけでなく、「生活と信仰が一致することの大切さ」を説き、自らの失敗談や体験も包み隠さず語りました。講演では、「信仰とは一時の感情ではなく、日々の実践である」と何度も繰り返し、現場のリアルな問題と向き合う姿勢を伝えました。さらに、YMCAの支部設立や学生運動の支援にも尽力し、田村直臣や平岩愃保といった盟友たちと共に、青年層の育成に尽力しました。名誉職に就いてからも変わらぬ行動力と誠実な語り口は、多くの人々に深い感銘を与え続けました。
著作活動と「政教新論」などの思想的展開
小崎弘道は、晩年にかけて多数の著作を世に送り出しました。その中でも代表作とされるのが『政教新論』(1904年)です。この書は、日本の宗教と国家の関係について論じたもので、明治政府が進める国家神道体制に対して、明確に「政教分離」を主張した革新的な内容でした。特に注目されたのは、儒教的倫理観に対する批判です。小崎は、儒教が個人の精神的自由を奪うものであり、国家による道徳統制と結びつくことで、信仰の自由が脅かされると論じました。こうした主張は、当時の保守的な宗教界や政府関係者からの反発も招きましたが、一方で新しい時代の思想家たちに大きな影響を与えました。また、他の著作においても教育、社会問題、信仰の実践に関する考察を幅広く展開し、牧師でありながら一人の知識人として、社会に対して強いメッセージを送り続けました。著述を通じて、小崎は「言葉による伝道」の新たな可能性を切り拓いたのです。
戦前の社会におけるキリスト教のあり方を模索
明治末から大正、昭和初期にかけて、日本社会は国家主義と軍国主義が台頭する激動の時代を迎えました。小崎弘道はこのような時代状況の中で、キリスト教がいかにして社会に貢献し、また信仰を守り続けるかを深く模索していきます。彼は軍事国家化する社会の中で、教会が国家の道徳装置と化すことに強い危機感を抱いていました。特に神道と国家が一体化する動きに対しては、一貫して「信仰の自由」と「教会の独立性」を守るべきだと訴え続けました。この時期、小崎は数々の講演で「教会は社会に奉仕するが、国家に従属してはならない」と語り、キリスト者が持つべき良心のあり方を説きました。また、当時の若者たちに対しても「信仰は個人の内部の問題であると同時に、公共の良識を形づくる力である」と教え、その思想は多くの信徒に影響を与えました。戦争の時代においても信仰と自由を守るために行動し続けた彼の姿勢は、キリスト教の本質を体現するものでした。
小崎弘道の死と、その後に生き続けた思想と実践
1938年の死去とその葬儀
小崎弘道は1938年9月3日、東京にて82年の生涯を閉じました。その死は、日本のキリスト教界にとって一つの時代の終わりを意味する出来事となりました。彼の葬儀は、霊南坂教会において行われ、多くの教職者や信徒、かつての教え子、さらには教育・宗教界の代表者たちが列席しました。会場には新島襄をはじめとする同志社関係者や、日本組合基督教会の仲間たちの遺影も掲げられ、彼の歩みが多くの人々に支持され、敬愛されていたことが伺えました。葬儀の中では「信仰と行動の人」としての生涯が振り返られ、参列者は一様にその遺徳に深く頭を垂れました。特に印象的だったのは、かつて彼の教えを受けた青年たちが成長し、今や牧師や教育者となって彼の言葉を語り継いでいた姿です。彼の死は肉体の終わりに過ぎず、その精神は多くの弟子たちに受け継がれ、新たな時代へと歩み出していました。
日本キリスト教界に残した精神的遺産
小崎弘道が日本のキリスト教界に遺した最大の財産は、その「信仰を実践へとつなげる思想」にあります。彼は生涯を通じて、教義や形式だけにとらわれない、現実社会と向き合う信仰の在り方を体現しました。儒教的価値観が根強く残る時代にあって、彼は個人の自由と内面の誠実さを基盤とした信仰を主張し、『政教新論』では国家権力と宗教の癒着に警鐘を鳴らしました。その姿勢は、後の戦時体制下においても、良心に従って抵抗したキリスト者たちにとって、大きな精神的支えとなりました。また、霊南坂教会での開かれた教会運営や、同志社での自由な教育理念は、形式よりも本質を追求するプロテスタントの精神を日本に定着させる礎となりました。彼の信仰はただの個人的救済にとどまらず、教育・社会・国家との関係の中で実践されたものであり、その思想は今なお現代のキリスト教徒に問いかけ続けています。
同志社・YMCA・霊南坂教会への影響と評価
小崎弘道の足跡は、彼が直接関わった同志社、YMCA、霊南坂教会のそれぞれに深く刻まれています。同志社では、新島襄の後継者として教育の舵を取り、学校の存続と発展に貢献しました。彼の信念に基づく人格教育は、今日の同志社の校風にも色濃く反映されています。また、YMCA設立にも深く関与し、青年の身体・知性・精神のバランスある成長を目指した運動の理念は、小崎の実践思想に通じています。彼は田村直臣や平岩愃保らと共に、YMCAを単なるクラブ活動にとどめず、社会貢献と人格形成の拠点へと育て上げました。そして霊南坂教会では、日本人の手による日本人のための教会というモデルを提示し、教団独立の可能性を切り拓きました。これらの機関は、彼の死後もその理念を守りながら発展し、小崎の存在を「記憶される過去」ではなく「生きた思想」として継承し続けています。
著作から読み解く小崎弘道──信仰・教育・国家を貫いた思想
『政教新論』に見る儒教批判と政教分離思想
1904年に刊行された『政教新論』は、小崎弘道の思想を最も明確に示した著作として知られています。この書は、当時の日本において支配的だった国家神道と儒教的倫理に対して、信仰の自由と政教分離を強く主張した画期的な論考でした。小崎は、儒教が人間の道徳を形式化し、個人の内面の自由を抑圧するものと捉え、「信仰とは個人の内なる誠実であり、権力や制度に従属するものではない」と論じました。特に、明治政府が天皇制と神道を国家の中心に据え、教育勅語に儒教的徳目を組み込んでいく中で、小崎の主張は明確な対抗軸を提示していました。彼は「宗教が国家の道具となるとき、その本質は失われる」と警告し、キリスト教の真価は自由な個人の選択と行動の中にあると強調しました。この思想は、のちの日本のキリスト者たちが国家体制と対峙する際の思想的支柱となり、戦前・戦後の宗教論争にも多大な影響を与えました。
『小崎弘道全集』で辿る思想の変遷と一貫性
小崎弘道の思想は、長い生涯の中で社会状況に応じて発展しながらも、その根幹には一貫した価値観が貫かれていました。その全容を示すのが、死後に編纂された『小崎弘道全集』です。この全集には、彼の説教原稿、講演録、日記、書簡、神学的論考などが網羅されており、彼の思想の歩みを丹念にたどることができます。たとえば、青年期の書簡には熊本バンド時代の信仰の葛藤が、また、同志社社長時代の記録には教育と信仰の統合を目指す情熱が表れています。霊南坂教会の説教録からは、社会問題への鋭いまなざしと、信仰を通じた実践的な解決への取り組みが読み取れます。彼の文章は常に平易な言葉で書かれており、学者向けではなく一般の信徒にも届くよう工夫されています。その姿勢からは、「言葉は人を育てる道具であり、信仰を広げるための架け橋である」という小崎の教育者・牧師としての哲学がにじみ出ています。
『同志社百年史』に描かれた教育者としての実像
同志社大学が編纂した『同志社百年史』には、小崎弘道が果たした教育者としての功績が、豊富な資料とともに克明に記されています。新島襄亡き後、教育方針の混乱と財政難に見舞われた同志社を、小崎がいかに立て直し、教育理念を守り抜いたかが、具体的なエピソードとともに描かれています。特に興味深いのは、小崎が教職員と学生の対話を重視し、教室の外でも頻繁に交流していた様子です。彼は「学問と信仰が一つとなった人格を育てる」ことを掲げ、教育内容だけでなく教育者の生き方そのものに重きを置いていました。新島の理想を継承しつつ、より現実的で柔軟な運営を行った点において、小崎は同志社における「実践的信仰教育」の礎を築いた人物とされています。また、教職育成や学生自治の促進に努めたことから、彼の教育方針はその後の同志社の発展に深く根付いていきました。『同志社百年史』は、小崎の思想がどのように組織と制度の中で形を取り、継承されていったかを知るうえで不可欠な資料です。
小崎弘道が遺した信仰と実践の軌跡
小崎弘道は、日本におけるプロテスタントの自立と発展を導いた先駆者として、その生涯をキリスト教信仰と社会実践に捧げました。熊本バンドでの信仰の芽生えに始まり、新島襄との出会いを経て教育者・牧師として活躍し、霊南坂教会や同志社大学、YMCAなど多くの機関にその理念を根づかせました。とりわけ『政教新論』に見られる政教分離思想や、「積極的福音」を掲げた国際的な宗教対話への参加は、信仰を社会と結びつける彼の姿勢を象徴しています。生涯を通じて一貫していたのは、信仰を生活に根づかせ、人々とともに歩むことの大切さでした。彼の思想と行動は、今なお日本のキリスト教界に深く息づいており、現代を生きる私たちにも、信念を持って社会と関わることの意義を問いかけ続けています。
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