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木村喜毅とは?咸臨丸に乗った幕府海軍の立役者の生涯と功績

こんにちは!今回は、幕末の幕臣であり、幕府海軍創設に尽力した軍艦奉行、木村喜毅(きむら よしたけ)についてです。

咸臨丸の総督として太平洋を横断し、幕府海軍の発展に力を注いだ木村喜毅。明治維新後は隠遁しながらも、福澤諭吉らと交流を深めました。幕末の外交や海軍創設に関わった彼の生涯について詳しく見ていきましょう!

目次

名家に生まれ、期待を背負った幼少期

幕臣・木村家の家柄とその影響

木村喜毅(きむら よしたけ)は、江戸幕府の幕臣として名を馳せた木村家に生まれました。木村家は代々幕府に仕える家柄で、特に父・木村則昭は幕府の要職を歴任し、幕府の中でも信頼を得ていた人物でした。そのため、喜毅も幼い頃から将来は幕府に仕えることが当然とされ、家族や周囲から大きな期待を背負って育ちました。

幕府の武家社会において、家柄は身分や出世に大きな影響を与えました。特に、木村家のように長く幕府の要職を務めた家柄の子弟には、それ相応の教育が施され、幕臣としての資質を磨くことが求められました。喜毅も例外ではなく、武芸と学問の両面で厳格な教育を受けることになります。これは、当時の幕府が抱えていた国際情勢の変化を受け、単なる武士としてではなく、知識を持った指導者を求めていた時代背景とも関係しています。

特に19世紀前半、日本は欧米列強との接触が増えており、ペリー来航(1853年)をはじめとする外国勢力の圧力が強まる中、幕府は国際感覚を持つ新しい人材の育成を急務としていました。木村家のような幕臣の家柄の子弟には、こうした時代の変化に対応できる知識や能力が強く求められていたのです。

学問と武芸に励んだ幼少期

木村喜毅は、幼少期から学問に秀でていました。彼が学んだのは、当時の武士階級にとって必須とされていた儒学であり、特に朱子学の教えを深く学びました。また、彼は単なる学問の習得にとどまらず、時代の要請に応じた実学にも関心を持っていたことが後の活動からもうかがえます。

加えて、彼は武芸にも優れた才能を持っていました。剣術、弓術、馬術など、幕臣として必要な技能を若い頃から鍛錬し、特に剣術においては当時高名だった流派の教えを受けたとされています。こうした武芸の鍛錬は、後に彼が幕府海軍に関わる際にも役立つことになります。

また、学問と武芸に励んだ背景には、彼の生まれた時代特有の緊張感も影響していました。幕末は欧米列強が次々とアジアへ進出し、日本も例外ではありませんでした。特にアヘン戦争(1840年~1842年)における清の敗北は、日本にとって大きな衝撃を与え、西洋の軍事力と外交手腕を理解し、備える必要があることを幕府に痛感させました。このような状況下で育った喜毅は、学問と武芸の両方に励むことで、時代の要請に応えようとしていたのです。

将来を嘱望された青年時代

木村喜毅は、青年期に入るとさらにその才能を開花させ、周囲から将来を嘱望される存在となりました。彼の学識の深さと冷静な判断力は、幕府内でも高く評価され、やがて幕府の中枢に関わる道を進むことになります。

特に彼の運命を大きく変えたのは、勝海舟や岩瀬忠震といった幕府の中でも革新的な考えを持つ人物たちとの出会いでした。彼らは日本の近代化を進めるために、海外の制度や技術を積極的に取り入れるべきだと考えていました。喜毅はこうした人物たちと関わる中で、自らの知識と能力を磨き、幕府内での影響力を強めていきました。

また、彼は語学の習得にも熱心で、当時の幕臣の中では珍しく外国の文化や技術に対して積極的な関心を持っていました。これは、後に彼が幕府海軍の創設に関わる際に、大いに役立つことになります。

彼の青年時代は、日本が大きく変革しようとしていた時期と重なります。ペリー来航から日米修好通商条約の締結(1858年)に至るまで、日本は激動の時代を迎えていました。こうした中で、喜毅は幕府の中で台頭し、将来を嘱望される若き才能としての道を歩み始めたのです。

幕府での出仕と頭角を現した若き才能

幕府に仕官した経緯と背景

木村喜毅が幕府に正式に仕官したのは、嘉永年間(1848年〜1854年)のことであると考えられています。彼が幕府に仕えた背景には、当時の日本が直面していた国際的な危機が深く関係していました。

幕末の日本は欧米列強の圧力に晒されており、特にアヘン戦争(1840年〜1842年)で清がイギリスに敗北したことは、日本の幕府に大きな衝撃を与えました。「日本も同じように侵略されるのではないか」という危機感が幕府内で高まり、これまでの鎖国政策を維持しながらも、外国の軍事技術や海防策を学ぶ必要性が議論され始めたのです。

こうした状況の中、幕府は従来の武士の育成方針を見直し、新たな国防政策を担う有能な人材の登用に力を入れるようになりました。特に、外国語や西洋の軍事技術、造船技術に関心を持つ幕臣は重宝される傾向にありました。木村喜毅は幼少期から学問に秀で、軍事や海防にも関心を持っていたため、幕府内での適性を高く評価され、出仕することになったのです。

彼の仕官後の最初の役職は詳細には記録されていませんが、嘉永5年(1852年)頃から長崎を拠点とする海防政策の研究に関与したと考えられています。長崎は日本にとって唯一の西洋との交流拠点であり、オランダを通じた西洋技術の導入が進められていました。木村喜毅は、ここで最新の造船技術や航海術を学ぶ機会を得るとともに、後の軍艦奉行としての役割を果たすための基盤を築いていきました。

勝海舟や岩瀬忠震との運命的な出会い

木村喜毅の才能が本格的に幕府内で認められるようになったのは、勝海舟や岩瀬忠震といった幕府の改革派との出会いが大きく影響しています。

勝海舟は、西洋式の海軍力を持つことが日本の独立を守る鍵だと考え、海軍の近代化に尽力していた人物です。彼は長崎海軍伝習所の設立に関わり、自らもオランダ海軍の指導を受けながら、日本の新たな海軍制度を模索していました。木村喜毅は、この勝海舟の活動に深く関与し、ともに幕府海軍の近代化に取り組むようになります。

また、岩瀬忠震との出会いも木村の人生にとって重要な転機となりました。岩瀬は、幕府の外交交渉において重要な役割を果たし、日米修好通商条約(1858年)の締結にも関与した幕末の有能な外交官でした。岩瀬は、外国と対等な交渉を行うためには、幕臣たちが西洋の文化や国際法を学ぶ必要があると考えていました。木村は岩瀬の考えに共感し、海軍のみならず、日本の外交のあり方についても関心を持つようになりました。

彼らとの交流を通じて、木村喜毅は単なる幕臣ではなく、国際情勢を見据えた改革派の一員として成長していきました。この時期の木村の学びは、後の咸臨丸での渡米や、幕府海軍の創設において重要な役割を果たすことになります。

軍艦奉行としての初期の活躍

木村喜毅が軍艦奉行に任命されたのは、文久2年(1862年)のことでした。軍艦奉行とは、幕府の海軍運営を担う役職であり、特に西洋式の軍艦の建造や管理を担当する重要な役職です。当時、日本は開国を迎え、西洋諸国との交流が増える中で、国防強化が喫緊の課題となっていました。

この頃、幕府はオランダやアメリカから軍艦を購入し、西洋式の海軍力を整備しようとしていました。その中でも特に有名なのが「咸臨丸」の導入です。咸臨丸は、文久元年(1861年)にオランダから購入され、日本初の本格的な西洋式軍艦として運用が始まりました。木村喜毅は、咸臨丸の運用に関与し、その管理や乗組員の育成に尽力しました。

また、彼は幕府の海軍士官の育成にも力を入れました。長崎海軍伝習所でオランダ式の海軍教育を受けた経験を活かし、幕臣たちに最新の航海技術や戦術を指導しました。これにより、日本の海軍は徐々に近代化が進み、後の明治政府の海軍創設の基盤ともなりました。

しかし、軍艦奉行としての木村の仕事は順風満帆ではありませんでした。幕府内には、依然として西洋式の海軍導入に反対する保守派も多く、予算の確保や艦隊の編成には困難が伴いました。特に、従来の幕府軍は陸上戦を主としており、海軍の必要性を理解する者が少なかったのです。木村は、こうした抵抗を乗り越えるために、勝海舟らと協力しながら、幕府内での説得を続けました。

木村喜毅は、こうした努力の末、軍艦奉行として一定の成果を上げることができました。彼の取り組みは、幕府海軍の近代化に大きく貢献し、後の日本の海軍発展の礎を築いたのです。そして、この経験は、後の咸臨丸での渡米や幕府海軍の組織化において、さらに大きな影響を与えることになります。

長崎海軍伝習所での挑戦と試練

オランダ式海軍教育の導入とその壁

木村喜毅が長崎海軍伝習所で学んだのは、幕府が西洋式海軍の導入を本格的に進めていた時期でした。嘉永6年(1853年)のペリー来航を受け、日本の海防の脆弱さが露呈し、幕府は急速に近代的な軍事力の整備に動き始めました。その一環として、幕府はオランダに支援を要請し、安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を開設しました。この伝習所では、オランダ海軍の士官が直接指導にあたり、日本人に航海術や砲術、船舶運用の技術を教えることになりました。

木村喜毅は、この長崎海軍伝習所の一期生として学ぶ機会を得ました。しかし、オランダ式海軍教育の導入には、多くの壁がありました。まず、日本の幕臣たちは長年の鎖国政策の影響で、西洋式の軍事技術に対する知識がほとんどなく、オランダ人教官の授業を理解することすら難しい状況でした。特に、航海術の計算に必要な数学や天文学の知識が不足しており、多くの幕臣が途中で脱落していきました。

また、オランダ語の壁も大きな課題でした。当時の日本にはまだ十分なオランダ語の翻訳技術がなく、通訳を介した学習には限界がありました。このため、木村らは独学でオランダ語を学びながら、授業についていく必要がありました。彼の語学力と学問に対する努力はここで大いに発揮され、次第にオランダ人教官とも直接議論ができるほどの知識を身につけていきました。

幕府海軍の近代化に懸けた情熱

木村喜毅は、長崎海軍伝習所で学ぶ中で、日本の海軍力強化が急務であることを痛感しました。当時の日本は、外国船に対してほぼ無防備な状態であり、海上防衛のための軍艦も不足していました。オランダ海軍の教官から最新の軍事技術を学ぶ中で、木村は幕府の海軍組織そのものを改革する必要があると考えるようになりました。

その情熱の表れとして、木村は伝習所の訓練に誰よりも真剣に取り組みました。特に、軍艦の操縦法や砲術訓練では優れた成績を修め、オランダ人教官からも高い評価を受けました。彼の努力が実を結び、後に軍艦奉行として幕府の海軍運営を主導する立場へと成長していくのです。

しかし、幕府内では西洋式海軍の導入に対して反発する保守派も多く、木村たち改革派は困難に直面しました。幕府の重臣の中には、長年の武士の伝統にこだわり、「船戦よりも陸戦を重視すべきだ」と考える者も少なくありませんでした。そのため、木村たちはただ技術を学ぶだけでなく、西洋式海軍の有用性を幕府内で説得する必要もありました。

勝海舟との協力と意見の対立

この時期、木村喜毅は同じく海軍近代化を推進する勝海舟と密接に協力するようになりました。勝海舟は、幕府海軍の必要性を誰よりも理解し、その実現のために奔走していた人物です。木村と勝は、共にオランダ式の軍事技術を学び、日本に適した形での海軍制度を模索しました。

しかし、彼らの間には意見の違いもありました。勝海舟は、海軍の中心を江戸に置くべきだと考えていましたが、木村は長崎や横浜といった外国との交流が盛んな港湾都市に海軍の拠点を築くべきだと主張していました。この違いは、幕府海軍の方向性を巡る重要な議論となり、最終的に幕府は両者の意見を取り入れつつ、横浜を主要な拠点とし、長崎を訓練施設として維持する形を取ることになりました。

また、勝海舟はアメリカやイギリスとの交渉を通じて、より積極的に西洋の技術を取り入れるべきだと考えていましたが、木村はオランダとの協力を深め、日本独自の海軍を確立すべきだと考えていました。これは、日本がどの国を模範とするかという問題にも関わる重要な論点であり、幕府の外交政策にも影響を与えるものでした。

最終的に、彼らは互いの考えを尊重しながらも、日本の海軍を強化するという共通の目標に向かって協力を続けました。木村の意見は、後の幕府海軍の組織作りに反映され、日本の海軍発展に大きく貢献しました。

このように、木村喜毅の長崎海軍伝習所での挑戦は、単なる個人の学びの場ではなく、日本全体の海軍近代化への布石となったのです。彼の努力と情熱は、後の咸臨丸での渡米や、幕府海軍の組織化へとつながり、さらなる大きな舞台へと彼を導くことになりました。

咸臨丸での米国渡航と外交的手腕

日米修好通商条約の履行と渡航の意義

木村喜毅が関わった咸臨丸での米国渡航は、幕末の日本において極めて重要な外交的転機となりました。安政5年(1858年)、幕府はアメリカと日米修好通商条約を締結しましたが、その条約にはアメリカ側の代表が日本に領事を派遣し、日本側も使節をアメリカへ送ることが定められていました。この条約履行の一環として、万延元年(1860年)、日本は正式な使節団をアメリカへ派遣することになりました。

幕府は正規の使節団を乗せる軍艦として、アメリカの蒸気船「ポーハタン号」を利用することになりましたが、日本独自の軍艦をアメリカまで航行させるという一大プロジェクトも並行して進められました。その船が、木村喜毅が深く関与した「咸臨丸」でした。咸臨丸の目的は、単にアメリカへ渡航するだけでなく、日本の軍艦が自力で太平洋を横断できることを示し、国際社会に日本の航海技術の進歩を証明することにありました。

当時、日本には長距離航海の実績がなく、幕府内でも「日本人だけで太平洋を横断するのは無謀ではないか」との懸念がありました。しかし、木村は長崎海軍伝習所で学んだ航海術や海軍運営の経験を活かし、この計画に積極的に関与しました。彼は乗組員の選定や準備作業に関わり、実際に咸臨丸の総督として渡航を指揮することになったのです。

サンフランシスコでの評価と外交成果

万延元年1月13日(1860年2月9日)、咸臨丸は浦賀を出港し、太平洋横断の航海に出発しました。この航海は非常に過酷なもので、途中で荒天に見舞われ、船内では体調を崩す者が続出しました。さらに、長距離航海に不慣れだった日本人乗組員は、食糧管理や船体の維持にも苦労し、実際の航海はオランダ式の訓練だけでは補えない厳しさがありました。そのため、航海の指導役としてアメリカ人の船長ジョン・ブルックが同乗し、彼の助けを借りながら日本人だけでの航行を目指しました。

約1か月の航海を経て、咸臨丸は2月26日(3月17日)にアメリカ・サンフランシスコに到着しました。日本の軍艦が西洋の国に到達したことは、現地でも大きな話題となり、サンフランシスコ市民は日本の使節団と咸臨丸の乗組員を歓迎しました。木村喜毅は総督として、現地の海軍関係者や商人らと交流し、日本の海軍力向上に必要な情報を収集しました。

特に、彼はアメリカの造船技術や軍事制度について強い関心を持ち、現地の造船所や軍事施設を視察しました。また、アメリカ海軍との交流を通じて、彼は西洋式の艦隊運営や兵站管理の方法について学び、それを日本に持ち帰ることを決意しました。これは、彼が後に幕府海軍の創設に尽力する際に大いに役立つことになります。

しかし、咸臨丸の航海が成功したとはいえ、課題も多く残されました。船の維持管理に関する知識不足や、航海中の健康管理の問題など、日本の海軍が克服すべき点が浮き彫りになったのです。木村はこれらの問題点を分析し、帰国後に幕府へ報告することになります。

帰国後の幕府内での評価と影響

咸臨丸の乗組員が日本へ帰国したのは万延元年(1860年)5月であり、木村喜毅の功績は幕府内でも大きく評価されました。彼の総督としての指揮能力と、現地で得た知識は幕府の海軍政策に大きな影響を与えました。特に、彼がアメリカで学んだ艦隊運営の手法や、軍艦建造に関する技術的知識は、幕府の今後の軍事計画にとって重要な情報となりました。

しかし、木村はこの成功を単なる一つの達成として捉えるのではなく、日本の海軍がさらに発展するための出発点と考えていました。彼は咸臨丸の航海の経験をもとに、幕府に対して「本格的な海軍士官学校の設立」と「近代的な造船所の拡充」を提案しました。また、西洋との交流を継続し、さらなる技術移転を行う必要があると訴えました。

しかし、幕府内には西洋式海軍の拡張に対する反対意見も根強く、木村の提案はすぐには受け入れられませんでした。特に、財政難に苦しんでいた幕府にとって、新たな軍艦の建造や海軍士官の育成には莫大な費用がかかるため、保守派からは「無駄な出費ではないか」との批判が相次ぎました。

それでも、木村は勝海舟や榎本武揚らと協力しながら、幕府の海軍拡張計画を推し進めていきました。彼は、咸臨丸の航海が単なる一度きりの成功に終わるのではなく、日本の海軍力向上の基盤となることを強く信じていたのです。

こうして、咸臨丸での渡航経験は、木村喜毅の軍事・外交能力を示す重要な出来事となり、彼が幕府海軍の創設に尽力するきっかけとなりました。この経験を経て、彼はますます海軍改革に力を注ぐようになり、幕府の近代化に向けた新たな挑戦へと踏み出していくことになります。

幕府海軍の創設に尽力するも挫折

近代海軍を築くための政策と実践

咸臨丸での渡米を成功させた木村喜毅は、帰国後も幕府海軍の創設に尽力しました。彼がこの時期に掲げた政策の中心は、西洋式の海軍制度を本格的に導入し、日本独自の近代海軍を築くことでした。万延元年(1860年)以降、日本国内では外国船の往来が急増し、特に薩摩藩や長州藩といった雄藩が独自に軍艦を購入し始めるなど、日本の海軍力が分散する傾向が強まりました。幕府が統一的な海軍政策を持たなければ、日本全体の軍事力が不安定になりかねない状況だったのです。

木村はまず、幕府直轄の海軍士官学校を創設することを提案しました。長崎海軍伝習所で学んだ経験から、単に軍艦を増やすだけでは意味がなく、優れた指揮官を育成することが海軍の発展には不可欠であると考えたのです。彼は勝海舟や榎本武揚と協力し、文久2年(1862年)には神戸海軍操練所を開設しました。この施設では、日本人が自ら西洋式の航海術や砲術を学び、実戦的な訓練を受けることができるようになりました。

また、木村は幕府の財政難を考慮しながらも、外国からの軍艦購入を進めようとしました。彼はオランダやフランスとの交渉を重ね、より近代的な軍艦の導入を図りました。特に、文久3年(1863年)にはフランスから最新鋭の軍艦を輸入する計画を立てるなど、幕府海軍の強化に向けた具体的な行動を起こしていました。しかし、こうした改革は幕府内の政治的な対立によって、次第に困難に直面していくことになります。

幕府内の反発と政治的な限界

木村喜毅の海軍強化政策は、幕府内の保守派から強い反発を受けました。幕府内では依然として「陸軍こそが武士の本分であり、海軍はあくまで補助的なものである」と考える勢力が根強く、海軍の発展に資金や人材を投入することに否定的な意見が多かったのです。また、幕府の中枢を握る一部の重臣は、海軍の近代化よりも内政の安定を優先すべきだと考えており、大規模な海軍拡張には慎重な姿勢を取っていました。

さらに、財政的な問題も大きな壁となりました。幕府は度重なる軍事支出や、欧米諸国との外交交渉の中で増大する経費に苦しんでおり、新たな軍艦を購入するための予算確保が難しくなっていました。木村は資金調達のために、諸藩との協力体制を築くことも検討しましたが、幕府と雄藩の対立が深まりつつあったため、思うように話を進めることができませんでした。

また、この時期には国内の政情が急速に不安定化していました。特に文久2年(1862年)以降、尊王攘夷運動が激化し、幕府の権威が揺らぎ始めていました。薩摩藩や長州藩が武力による討幕を模索し始める中で、幕府は海軍の強化よりも内戦への備えを優先せざるを得なくなりました。このため、木村の提案する海軍拡充策は次第に後回しにされ、実現が困難になっていきました。

新政府との関係悪化と失意

幕府海軍の拡張に尽力し続けた木村喜毅でしたが、慶応3年(1867年)の大政奉還によって幕府そのものが解体されると、彼の立場も一変しました。幕府の消滅によって、彼が進めていた海軍政策も白紙に戻り、彼のこれまでの努力は水泡に帰してしまったのです。

その後、旧幕府側の勢力が新政府軍との対立を深める中で、木村は新政府との協力を模索するか、それとも旧幕府軍として戦うかの選択を迫られました。しかし、彼は軍事的な衝突には加わらず、政治の舞台から距離を置く道を選びました。この決断の背景には、彼が生涯をかけて築き上げようとした海軍が政治的な対立によって崩壊してしまったという失望があったと考えられます。

一方で、旧幕府軍の一部は榎本武揚を中心に、北海道の函館に拠点を移し、旧幕府海軍の存続を図ろうとしていました。彼らは戊辰戦争の終盤に函館戦争を戦いましたが、木村はこの戦いには直接関与しませんでした。彼は、新政府と戦うことよりも、これまで築き上げてきた知識を生かし、別の形で日本に貢献する道を模索していたのです。

こうして、木村喜毅は幕府海軍の発展に尽力しながらも、政治的な限界と時代の変化に翻弄されることになりました。彼が築き上げようとした近代海軍の構想は、幕府の崩壊によって頓挫しましたが、その理念は後の明治海軍へと受け継がれ、日本の軍事史において重要な足跡を残すことになったのです。

幕末の動乱に翻弄された晩年

幕府崩壊の中での立場の変化

慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜は大政奉還を決断し、江戸幕府は事実上の終焉を迎えました。この決定により、幕臣たちはそれぞれの立場を見直し、新政府に協力するか、旧幕府勢力として戦うかの選択を迫られました。木村喜毅も例外ではなく、これまで幕府海軍の発展に尽力してきた彼にとって、この激動の時代は大きな転機となりました。

木村は海軍の実務官僚としての立場が強く、幕府の権威が崩れた後も個人的な野心を持たず、合理的な判断を下す人物でした。そのため、新政府に対して即座に反抗するのではなく、冷静に状況を見極める姿勢を取っていました。しかし、幕府崩壊後の政治的な混乱の中で、旧幕府海軍の行く末をめぐる議論が続く中で、木村自身の立場も不安定になっていきました。

この時期、多くの幕臣が新政府に仕える道を選びましたが、木村は積極的に新政府の官職に就こうとはしませんでした。その理由の一つには、彼がこれまで築き上げてきた海軍組織が解体されつつあったことへの失望があったと考えられます。彼は幕府の海軍としての一体性を重視しており、薩摩や長州を中心とした新政府の海軍に合流することには抵抗があったのかもしれません。

榎本武揚・小栗忠順らとの関わり

幕府崩壊後、旧幕府の海軍関係者の多くは、新政府軍との対立を深める中で榎本武揚の指導のもと、最後の抵抗を試みました。榎本は旧幕府の軍艦を率いて、函館に拠点を築き、蝦夷地に「蝦夷共和国」を樹立しようとしました。これにより、旧幕府海軍の一部は最終的に戊辰戦争の最終局面である函館戦争へと突入していきました。

木村喜毅は、この榎本武揚の行動には加わりませんでした。彼は旧幕府軍の一員として戦うよりも、むしろ中立的な立場を維持しようとしたのです。しかし、彼が旧幕府の海軍関係者として影響力を持っていたため、新政府側からはその動向を警戒されていた可能性があります。

一方で、木村と親交のあった小栗忠順もまた、幕府の財政改革や軍備強化に尽力した人物でした。小栗はフランスの技術を導入し、近代的な造船所を建設するなど、木村と同じく幕府の近代化を推進していました。しかし、慶応4年(1868年)に新政府軍が江戸に進軍すると、小栗は捕らえられ、処刑されてしまいます。木村にとって、小栗の死は幕府の近代化を担った人材が粛清される象徴的な出来事であり、新政府の方針に対する不信感を深める要因となったと考えられます。

旧幕府軍の抵抗とその結末

幕府崩壊後、旧幕府軍は新政府軍と戦う形で戊辰戦争に突入しました。鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、旧幕府軍は各地で抵抗しましたが、次第に劣勢に追い込まれていきました。特に、木村が関わっていた旧幕府海軍は、幕府の消滅とともにその存在意義を問われるようになり、一部の艦隊は新政府に接収され、一部は榎本武揚らの率いる艦隊として函館へと向かいました。

木村自身は、この最終局面には加わらず、政治的な動きから距離を置くことを選びました。彼は戦争の行方を冷静に見守りながらも、旧幕府軍の抵抗が長続きしないことを悟っていたのかもしれません。結果として、函館戦争が終結し、榎本武揚が降伏したことで旧幕府海軍は完全に消滅し、日本の軍事組織は新政府の手に委ねられることになりました。

こうして、木村喜毅は幕末の動乱に翻弄されながらも、最後まで実戦には加わらず、政治の第一線から退く道を選びました。彼の決断は、戦乱の中で生き延びるための合理的な選択だったとも言えますが、一方で、彼が生涯をかけて築こうとした幕府海軍の終焉を目の当たりにし、深い失意を感じていたことは想像に難くありません。

明治維新後、政界を離れた理由

新政府に仕えなかった背景とは

明治維新によって幕府が崩壊し、新政府が樹立されると、多くの旧幕臣が新たな政権のもとで官職に就く道を選びました。榎本武揚や勝海舟などの旧幕府の要人たちは、新政府に協力し、明治政府の海軍や外交の分野で活躍することになります。しかし、木村喜毅はそうした動きには加わらず、新政府の官職に就くことなく静かに表舞台から姿を消しました。

木村が新政府に仕えなかった理由の一つとして、彼が幕府海軍の創設に尽力した人物でありながら、新政府が旧幕府海軍をほぼ完全に解体したことへの失望が挙げられます。明治政府は、旧幕府の軍事組織を再編する際、薩摩・長州・土佐といった維新勢力を中心に据え、旧幕府側の人材を二次的な役割に追いやる傾向がありました。木村が築こうとした海軍の伝統や制度は、新政府の海軍に取り込まれることなく、ほぼ一から作り直されることになったのです。このような状況の中で、彼が新政府の海軍に加わる意欲を失ったことは自然な流れだったと言えます。

また、木村は幕府の官僚として実務を担ってきた人物であり、政治的な野心を持たなかったことも関係していると考えられます。彼は幕府のために尽力しましたが、個人的な出世や権力の獲得にはあまり関心がなかったとされています。そのため、新政府が幕府と異なる政治体系のもとで動き始めると、彼は無理にその流れに乗ることをせず、一線を退くことを選んだのでしょう。

さらに、旧幕臣の中には、新政府による待遇の悪化を理由に政界から身を引く者も少なくありませんでした。明治初期、新政府は幕府の財政負担を軽減するために、多くの旧幕臣に対して厳しい処遇を課しました。例えば、幕府の俸禄(給料)を受けていた者たちは、新政府によって支給を打ち切られたり、大幅に減額されたりしました。木村がこれにどの程度影響を受けたかは不明ですが、彼が新政府に積極的に仕えなかった背景には、こうした旧幕臣に対する扱いも影響していた可能性があります。

隠居生活と精神的な転換期

新政府に仕えなかった木村喜毅は、明治維新後、政界から完全に身を引き、静かな隠居生活を送ることになります。彼は旧幕府の要職にあったため、明治政府から一定の監視を受けていた可能性はあるものの、積極的に反政府活動を行うことはなく、穏やかに晩年を過ごしました。

木村がどこで隠居生活を送ったのかについては詳細な記録が少ないものの、彼は旧幕臣たちと交流を続けながら、学問や文化活動に関心を持つようになったと言われています。特に、幕府時代に培った学識を生かし、歴史や軍事に関する記録を整理することに努めたと考えられます。幕府崩壊という激動の時代を経験した彼にとって、過去の記録を残すことは、彼自身の精神的な支えとなる重要な作業だったのかもしれません。

また、木村の隠居生活は、彼の精神的な転換期とも言えるものでした。彼は幕末の動乱を生き抜き、日本の変革を目の当たりにしましたが、その中で自身の果たした役割についてどのように考えていたのかは明確ではありません。ただし、彼の晩年の活動からは、政治や軍事よりも学問や文化への関心が強まっていたことがうかがえます。

このような姿勢は、彼と親交のあった旧幕臣たちにも共通して見られます。例えば、旧幕府の財政改革を担った小栗忠順は、近代化の先駆者として活動していましたが、維新後に新政府によって処刑されました。また、榎本武揚は降伏後に新政府に仕え、明治政府の外交官として活躍しましたが、旧幕府の理想を完全に捨てたわけではありませんでした。木村は、こうした仲間たちの動向を見守りながら、自らは政治の世界から距離を置く道を選んだのです。

福澤諭吉との親交の深まり

隠居生活を送る中で、木村喜毅は福澤諭吉との親交を深めていきました。福澤は幕末から明治期にかけて、日本の近代化を推進した思想家であり、特に西洋の学問や制度を積極的に取り入れることを主張しました。木村とは幕府時代からの知り合いであり、咸臨丸での渡米経験を通じても互いに影響を与え合っていました。

福澤は「学問のすすめ」などの著作を通じて、新しい時代に適応するための知識の重要性を説いていましたが、木村もまた、そのような考え方に共鳴していた可能性があります。木村は明治維新後、政治の世界を離れましたが、西洋の制度や技術に関心を持ち続けており、福澤との対話を通じて、これからの日本が進むべき方向について深く考えていたのではないかと思われます。

また、福澤は旧幕臣たちに対しても積極的に支援を行っていました。維新後、多くの旧幕臣が職を失い、生活に困窮する中で、福澤は彼らの再就職を支援したり、学問の道へ進むことを勧めたりしていました。木村が福澤とどのような形で関わっていたのかは不明ですが、彼が新政府に仕えなかった以上、旧幕臣としてのつながりを維持しながら、福澤の影響を受けていた可能性は高いでしょう。

こうして、木村喜毅は幕末の激動を生き抜きながらも、最終的には政界を離れ、学問や文化に関心を持つ穏やかな晩年を迎えることになりました。彼の人生は、幕府海軍の創設という大きな夢に懸けた情熱と、それが叶わなかった後の静かな引退生活という、二つの対照的な側面を持っていたのです。

文人としての晩年と福澤諭吉との交友

詩や書を愛し、文人として生きた日々

幕末の激動を生き抜き、明治維新後に政界を離れた木村喜毅は、学問や文化活動に重きを置くようになりました。彼はもともと儒学や詩文に造詣が深く、実務官僚としての一面だけでなく、文人としての素養も兼ね備えていました。幕府海軍の創設に尽力した彼でしたが、その夢が潰えた後、静かに筆を執り、書や詩を通じて自身の思索を深める生活を送るようになります。

特に、彼は漢詩を好み、時折、自らの心境や時勢に対する思いを詩に託しました。幕府の崩壊を経験し、新政府に仕えなかった彼にとって、詩は自己の内面を表現する重要な手段となったのでしょう。彼の詩の中には、かつての同僚や友人たちへの思いを綴ったものや、激動の時代を振り返るものが含まれていたと伝えられています。

また、書にも優れた才能を発揮しました。幕末から明治にかけて、旧幕臣の間では書を嗜むことが一種の精神的な支えとなっていました。木村もまた、そうした流れの中で筆を持ち、漢詩や書道を通じて自己を表現することに没頭していたのです。彼の書風は、武士らしい力強さを持ちながらも、繊細で洗練されたものだったと評されています。

このように、木村は晩年においても知識人としての生き方を貫き、文化活動に積極的に関わっていました。彼にとって、文人としての生活は、単なる趣味の領域を超え、激動の時代を生き抜いた者としての精神的な支えとなっていたのです。

福澤諭吉との深い交流と相互影響

木村喜毅の晩年を語る上で欠かせないのが、福澤諭吉との交流です。福澤は日本の近代化を推進した思想家として知られていますが、彼と木村は幕府時代からの知己であり、咸臨丸での渡米経験を共有する仲間でもありました。

福澤は著書『福翁自伝』の中で、木村について言及しており、彼を「信頼できる人物」として評価しています。木村は勝海舟や榎本武揚と並び、幕府の海軍近代化に尽力した人物として、福澤からも一目置かれていました。福澤自身も、幕末の激動の中で政治から距離を置き、教育と啓蒙活動に力を注いだ人物でした。そのため、木村と福澤は、政治の第一線を退いた者同士として、共通の価値観を持ち続けたのではないかと考えられます。

特に、福澤が設立した慶應義塾との関係は、木村にとって重要なものでした。慶應義塾は、西洋の学問を広め、日本の近代化を進めるための教育機関として発展しましたが、木村もまた、西洋の知識を学ぶことの重要性を認識していました。幕府時代にオランダ語や航海術を学んだ経験を持つ彼にとって、福澤の教育理念には共感する部分が多かったと考えられます。

また、福澤は旧幕臣たちに対しても積極的な支援を行っており、木村がそうした支援を受けていた可能性もあります。維新後、多くの旧幕臣が困窮する中で、福澤は彼らの再就職を助けたり、学問の道を勧めたりしていました。木村もまた、そうした福澤のネットワークの一員として、学問を通じた新たな生き方を模索していたのかもしれません。

このように、木村と福澤の交流は、単なる旧知の間柄にとどまらず、互いに思想や価値観を共有し、影響を与え合う関係だったと考えられます。

「幕末の四舟」の一人としての評価

木村喜毅は、幕末に活躍した海軍関係者の中でも特に重要な人物の一人として、「幕末の四舟」と称されました。「幕末の四舟」とは、勝海舟、榎本武揚、山本琢磨、そして木村喜毅の四人を指す言葉であり、日本の近代海軍の基礎を築いた功績を称えたものです。

この四人はいずれも幕府の海軍政策に深く関与し、それぞれの立場で西洋の海軍技術を導入し、日本の近代化に貢献しました。勝海舟は理論家として海軍の重要性を説き、榎本武揚は実務官僚としてその運営を担い、山本琢磨は技術者として造船技術の発展に尽力しました。そして木村は、実際の海軍行政を担当し、軍艦奉行として組織の運営に携わるなど、総合的な役割を果たしました。

しかし、「幕末の四舟」の中で、木村だけが明治政府には仕えませんでした。勝海舟や榎本武揚は新政府に取り込まれ、日本の近代海軍の発展に関与しましたが、木村はあくまで旧幕臣としての立場を貫き、政治の場には戻らなかったのです。この点で、彼は他の三人とは異なる道を歩みましたが、それでも幕末期の功績は高く評価され続けました。

木村の名は、明治以降も旧幕臣たちの間で語り継がれ、彼の生涯を記録した書籍や回想録にもその業績が記されました。例えば、勝海舟が編纂した『海軍歴史』には、木村が幕府海軍の組織化に果たした役割が詳しく述べられています。また、土居良三の著書『軍艦奉行木村摂津守』では、彼の生涯が詳細に記録され、幕末の海軍史における彼の重要性が再評価されています。

このように、木村喜毅は政治の世界からは退いたものの、その功績は後世に受け継がれ、「幕末の四舟」の一人としての評価を確立しました。彼の生涯は、幕府の海軍近代化に尽力したものの、時代の流れによってその夢を断たれ、それでも文人として静かに生き抜いた、一人の知識人の軌跡そのものでした。

書物に記された木村喜毅の姿

『木村摂津守喜毅日記』に見る彼の思想

木村喜毅の人物像を知る上で重要な資料の一つに、『木村摂津守喜毅日記』があります。この日記は、木村が幕臣として活動していた時期の記録をまとめたものであり、彼の思考や幕府内での動き、さらには彼自身の心情までを読み取ることができる貴重な史料です。

日記の中には、彼が軍艦奉行として海軍の発展に尽力していた様子が詳しく記されています。例えば、咸臨丸の渡米計画を進める際の苦労や、長崎海軍伝習所での訓練における西洋技術との格闘、幕府内の保守派との対立などが詳細に記録されています。特に、幕府の財政難の中で海軍拡張を進めることの困難さについての記述は、彼がどれほど現実的な視点を持って海軍政策に取り組んでいたかを示しています。

また、日記の中には、彼の個人的な感情や心境の変化についても触れられており、幕府崩壊を前にした彼の苦悩がうかがえます。特に、慶応3年(1867年)の大政奉還前後には、彼が幕府の行く末に対して強い危機感を抱いていたことが読み取れます。長年尽力してきた幕府海軍が新政府によって解体される可能性を考え、失意の中で日々を過ごしていたことが記されています。

この日記は、幕府の公式記録とは異なり、木村個人の視点から幕末の出来事を描いたものであるため、より生々しい歴史の証言となっています。彼がどのような考えを持ち、どのように時代の変化に対応しようとしたのかを知る上で、非常に貴重な資料となっています。

『福翁自伝』に描かれた木村の人間像

福澤諭吉の著書『福翁自伝』には、木村喜毅についての記述があり、彼の人物像を知る上で重要な証言となっています。福澤は木村と幕府時代から親交があり、ともに咸臨丸で渡米した経験を持つことから、彼のことをよく知る人物の一人でした。

『福翁自伝』の中で福澤は、木村を「冷静で知的な人物」と評しています。彼は単なる武士ではなく、学問を重視し、国際情勢にも深い関心を持っていたことがわかります。特に、西洋の技術や制度を取り入れることに積極的でありながらも、伝統的な価値観も大切にするバランスの取れた考えの持ち主であったことが強調されています。

また、福澤は木村について「時勢に流されない誠実な性格だった」とも述べています。幕府崩壊後、多くの旧幕臣が新政府に仕えたり、逆に武力抵抗を続けたりする中で、木村はどちらにも与せず、冷静に自身の立場を考え、政治の世界から退く道を選びました。福澤はその判断を「木村の生き方の表れであり、彼の誠実さの証だ」と評価しており、彼を尊敬の念をもって記録しています。

さらに、福澤は木村の知識の豊かさにも触れています。木村は単に軍事や海軍の知識を持っていただけでなく、歴史や文学にも精通し、福澤と深い議論を交わすことができる数少ない人物の一人だったのです。福澤自身が知識人としての木村を高く評価していたことが、『福翁自伝』の記述からもうかがえます。

『軍艦奉行木村摂津守』に刻まれた功績

木村喜毅の生涯と功績を知る上で、土居良三が著した『軍艦奉行木村摂津守』も重要な資料の一つです。この書籍では、木村が幕府海軍の発展にどのように関わり、どのような影響を与えたのかが詳しく記されています。

特に、木村が軍艦奉行として果たした役割が詳細に述べられています。幕末の日本は、欧米列強の脅威に晒される中で海軍力の強化を急務としていましたが、その中心にいたのが木村でした。彼は長崎海軍伝習所で学んだ知識を活かし、軍艦の建造や人材育成に力を注ぎました。また、彼の提案によって、神戸海軍操練所の設立が進められ、日本の近代海軍の礎が築かれたのです。

また、本書では、木村が直面した困難についても詳しく記されています。彼は幕府内の保守派と対立しながらも、西洋式の海軍を導入しようと奮闘しましたが、財政難や政治的な対立の中で思うように計画を進めることができませんでした。そして、幕府の崩壊とともに、彼の進めていた海軍改革も頓挫し、彼は静かに政界を去ることになります。

本書は、木村の生涯を通じて、日本の近代海軍の形成過程を描いたものであり、彼の業績を正当に評価するための重要な資料となっています。木村は明治政府には仕えなかったものの、その功績は後の海軍関係者たちによって評価され、彼の名は日本の海軍史に刻まれることとなりました。

このように、木村喜毅の生涯は、さまざまな書物に記録され、その功績が語り継がれています。彼の歩んだ道は決して順風満帆ではありませんでしたが、日本の近代化に貢献した一人の武士として、その影響は現在にまで及んでいるのです。

まとめ

木村喜毅は、幕末という激動の時代において幕府海軍の近代化に尽力した人物でした。幼少期から学問と武芸に励み、幕臣としての道を歩んだ彼は、長崎海軍伝習所でオランダ式の海軍教育を受け、軍艦奉行として幕府海軍の発展に貢献しました。咸臨丸の渡米では総督として指揮を執り、日本の航海技術の向上に大きな役割を果たしましたが、幕府の崩壊とともにその努力は断たれ、明治維新後は政界を離れました。

しかし、彼はその後も文人として詩や書に親しみ、福澤諭吉らと交流を深めながら知識人としての道を歩みました。「幕末の四舟」の一人として日本の海軍史に名を刻んだ彼の功績は、後の日本海軍の発展にも大きな影響を与えました。木村喜毅の生涯は、時代に翻弄されながらも理想を追求し続けた一人の幕臣の姿を映し出しています。

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