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岸信介の生涯:「昭和の妖怪」の満州、戦犯、首相、そして安保改定の全貌

こんにちは!今回は、戦前・戦中・戦後にわたって日本の政治に大きな影響を与え、「昭和の妖怪」とも呼ばれた男、岸信介(きし のぶすけ)についてです。

満州国の経済政策を担い、戦時下では商工大臣として戦争経済を指導、戦後はA級戦犯容疑で逮捕されながらも政界に返り咲き、ついには日本の総理大臣に。

彼が推し進めた日米安保条約改定は、戦後日本の大きな転換点となりました。賛否の分かれるその生涯を、詳しく掘り下げていきます!

目次

山口県での生い立ちと岸家への養子縁組

佐藤家に生まれた背景と家系の影響

岸信介は 1896年(明治29年)11月13日、山口県熊毛郡田布施町に生まれました。本名は佐藤信介で、後に養子となり「岸」姓を名乗ることになります。佐藤家は旧長州藩士の家系であり、祖父の佐藤信彦は地方政治にも関与する人物でした。父・佐藤秀助は司法官としての道を歩み、国家に尽くす家風が強く根付いていました。こうした背景から、佐藤家の子供たちは幼少期から厳格な教育を受け、将来国家に貢献することを期待されていました。

特に、佐藤家では「長州人としての誇り」が強く意識されており、幕末の長州藩士たちが果たした維新の役割を重視していました。明治維新の功労者として知られる木戸孝允や伊藤博文といった長州出身の偉人の話が家の中でも語られ、信介は幼少期から「国を動かす人間になるべきだ」という価値観を自然と学んでいきました。

また、佐藤家の教育方針は「厳格」でありながらも、「実学」を重視するものでした。信介の弟である 佐藤栄作(後の首相)も同様にこの教育を受け、後の政治家としての道を歩むことになります。信介自身も勉学に秀で、幼い頃から周囲に一目置かれる存在でした。

岸家への養子入りとその理由

岸信介が「岸」という姓を名乗るようになったのは、母・茂世の実家である 岸家 に養子入りしたためです。岸家は山口県で政治や実業に関わる名家であり、当時の岸家当主は後継者を必要としていました。そのため、佐藤家の長男であった信介が養子として迎えられました。 1907年(明治40年)、11歳のときに正式に岸家に入籍し、「岸信介」と改名しました。

この養子縁組には、単なる家名存続以上の意味がありました。岸家は政財界に強い影響力を持ち、経済的にも恵まれた家庭でした。そのため、信介にとってはより広い世界で活躍できる環境が整うことになりました。特に、岸家には幕末から続く豊富な人脈があり、政治や行政の道に進む際の大きな支えとなりました。

また、信介自身もこの養子縁組を積極的に受け入れていました。当時の日本社会では、家の存続が重要視されており、養子になることは珍しくない選択肢でした。特に、長州の名家として知られる岸家の一員となることは、彼の将来にとって大きなメリットがあったのです。

幼少期の教育と形成された価値観

岸信介は幼少期から学業に優れ、田布施尋常小学校 に入学するとすぐに成績上位者となりました。その後、1909年(明治42年) には 山口県立山口中学校(現在の山口県立山口高等学校) に進学し、さらに頭角を現しました。特に数学と論理的思考に優れ、教師たちからも高い評価を受けていました。

彼の教育観に影響を与えたのは、家族だけではありません。特に影響を受けたのが、思想家である 鹿子木員信 の著作でした。鹿子木は国家主義的な経済政策を唱え、日本が欧米列強と並ぶ強国となるためには、国の産業と経済を計画的に発展させるべきだと主張していました。信介はこの考えに共鳴し、後の官僚時代にも「国家主導の経済発展」を重視するようになります。

また、山口中学校時代には多くの優秀な同級生と切磋琢磨しました。この中には後に政財界で活躍する人物も多く、信介は早くからリーダーシップを発揮し、周囲からの信頼を得ていました。

さらに、彼の価値観の形成に大きく影響を与えたのが、「国家への奉仕」という意識でした。長州藩の伝統を受け継ぐ佐藤家や岸家では、「個人の利益よりも国の利益を優先する」という考えが浸透していました。信介はこの考えを深く学び、「国を動かす立場になりたい」という野心を抱くようになりました。

こうした背景が、後の岸信介の政治家としての信念につながっていきます。特に、後に彼が推し進める「革新官僚」としての政策や、満州国での経済開発への関与、さらには 日米安保条約改定 などの国家的な決断には、幼少期から培われた「国家第一主義」の思想が強く影響していると言えるでしょう。

このように、岸信介の幼少期は、彼の政治思想や国家観を形成する上で極めて重要な時期でした。山口の名家に生まれ、厳格な教育を受けたことで、「国家のために尽くす」ことが彼の人生の指針となり、後の激動の時代を生き抜く礎となったのです。

東京帝国大学時代と官僚としての第一歩

大学での学びと築かれた人脈

岸信介は1913年(大正2年)、山口中学校を卒業後、第一高等学校(現在の東京大学教養学部前身)に進学しました。第一高等学校は当時のエリート養成機関であり、ここで岸は全国から集まった優秀な学生たちと切磋琢磨しました。彼は特に法学や経済学に興味を持ち、日本の産業発展には官僚としての統制と指導が不可欠だと考えるようになりました。

1917年(大正6年)、第一高等学校を卒業すると、東京帝国大学法学部に進学します。法学部では民法や商法を学びながら、国家運営には経済政策が重要であるという考えを深めていきました。このころ、日本は第一次世界大戦の影響で経済成長を遂げていましたが、戦後の不況も予測されていました。岸は日本が安定した経済発展を遂げるためには、国家の積極的な産業政策が必要だと確信するようになります。

また、この大学時代に築かれた人脈も彼のキャリアに大きな影響を与えました。岸は同級生や先輩たちと交流を深め、後に政財界で活躍する人物たちとの関係を築いていきました。特に、後の外務大臣である松岡洋右とは親戚関係にあり、彼の国際的な視野や外交手腕に影響を受けました。さらに、後に満州国で共に働くことになる星野直樹とも知り合い、経済政策について議論を交わしました。こうした人脈は、岸が後に官僚として活躍する際の重要な基盤となっていきます。

農商務省から商工省へ—官僚としての成長

1920年(大正9年)、岸信介は東京帝国大学を卒業し、高等文官試験に合格して農商務省に入省しました。農商務省は当時、日本の産業政策を統括する重要な省庁であり、岸はここで日本の経済発展に関する実務を学びました。彼は特に鉱工業政策に関心を持ち、産業振興のための国家戦略に携わるようになります。

1925年(大正14年)、農商務省が分割される形で商工省が設立されると、岸は商工省へと移籍しました。ここでは日本の工業政策の基盤を作る仕事に携わり、特に中小企業支援や重工業の発展に力を入れました。当時、日本は欧米の工業国と比べると遅れをとっており、岸はその差を埋めるためには国家主導の産業政策が必要だと考えました。この考え方は後に満州国での経済開発や戦時統制経済へとつながっていきます。

また、岸は若手官僚の中でも特に優秀な存在として評価され、上司や同僚からも一目置かれる存在となりました。彼は持ち前の論理的思考と強い指導力で、政策立案において重要な役割を果たすようになり、徐々に「革新官僚」としての頭角を現していきます。

革新官僚としての頭角と評価

1930年代に入ると、岸信介は「革新官僚」として注目されるようになります。革新官僚とは、伝統的な官僚機構の枠を超え、国家主導で経済や社会を改革しようとする若手官僚たちのことを指します。彼らは日本の近代化を推進するために積極的な政策を提案し、経済統制や産業政策の強化を図りました。

岸はこの革新官僚の中心的存在となり、日本の産業発展において国家の役割を強化すべきだと主張しました。彼は特に重化学工業の育成に力を入れ、国が主導する計画経済の必要性を訴えました。これは、満州国での経済政策にもつながる重要な思想となります。

また、彼の実力は当時の政財界にも認められるようになり、財界人の藤山愛一郎や日産コンツェルンの総帥である鮎川義介とも交流を深めていきました。藤山は後に岸の政治活動を支える重要な人物となり、鮎川とは満州国の産業開発を通じて密接な関係を築くことになります。

この時期、岸は政府の経済政策の中枢に関わるようになり、国家総動員体制の構築や企業統制政策に関与するようになります。彼の政策は戦時経済への布石となり、後の商工大臣時代にその手腕が発揮されることになります。

こうして、東京帝国大学での学びと人脈形成を経て、岸信介は官僚としての第一歩を踏み出しました。革新官僚としての頭角を現し、産業政策の専門家としての地位を確立していった彼のキャリアは、この後、満州国での活躍へと続いていきます。

満州国での活躍と「弐キ参スケ」の一角として

満州国実業部次長としての役割と使命

1936年(昭和11年)、岸信介は商工省の官僚としてのキャリアをさらに発展させるため、満州国へと赴任しました。彼は満州国国務院実業部(現在の経済産業省に相当)の次長に任命され、同国の経済政策に深く関与することになります。満州国は1932年(昭和7年)に日本が主導して設立した国家であり、日本にとって経済的・軍事的に重要な地域でした。しかし、その経済基盤はまだ脆弱で、日本の統制のもとで本格的な産業発展を進める必要がありました。

岸の任務は、満州国の産業開発を推進し、日本の戦略的な経済圏として確立することでした。特に、重化学工業の発展を中心に据え、鉄鋼、化学、機械産業などの育成に力を注ぎました。彼はこの計画の中で、財界人の鮎川義介(当時の日産コンツェルン総帥)と協力し、国策会社を設立するなど具体的な施策を進めました。

また、岸は官僚としての立場を超え、企業経営の視点を持って産業政策を推進しました。彼は満州国の各地を視察し、現地の資源やインフラを活かすための計画を立案しました。さらに、日本の民間企業と政府を結びつける役割も担い、官民一体となった経済開発を目指しました。こうした取り組みにより、満州国は急速に工業化が進み、日本経済の重要な一翼を担う地域へと変貌していきました。

産業開発五ヵ年計画の推進と影響力

満州国における岸信介の代表的な業績の一つが、「産業開発五ヵ年計画」の推進です。この計画は、満州国を日本の経済的な補完地として発展させるための大規模な経済政策であり、1937年(昭和12年)に策定されました。計画の主な目的は、①満州国の工業基盤の確立、②重化学工業の育成、③軍需産業の強化の3点でした。

この計画のもと、岸は国策会社の設立を推進し、満鉄(南満州鉄道)や日産コンツェルンなどの大企業と協力しながら、新たな工業地域の開発を進めました。特に、新京(現在の長春)や鞍山などの都市では、製鉄所や化学工場が次々と建設され、満州国経済の柱となりました。

また、岸は国家総動員体制の一環として、労働力の確保と統制にも力を入れました。日本本土からの移民政策を進めると同時に、現地の労働力を組織的に動員し、生産力を最大限に引き出す体制を整えました。これにより、満州国の工業生産は大きく向上し、日本の軍需産業とも密接に結びつくことになりました。

しかし、この産業開発政策は現地の人々にとって必ずしも恩恵をもたらしたわけではありません。労働環境は厳しく、日本の利益が優先される形で開発が進められたため、満州国の自立的な発展というよりは、日本の戦略の一部として位置づけられていました。この点については、戦後の評価においても賛否が分かれる部分となっています。

「弐キ参スケ」の一員としての戦略と人脈

岸信介は満州国での活動を通じて、「弐キ参スケ」と呼ばれる革新官僚グループの中心人物となりました。「弐キ参スケ」とは、当時の日本の経済政策や満州開発を主導した官僚たちの総称で、岸信介(キシ)、星野直樹(ホシノ)、松岡洋右(マツオカ)、鮎川義介(アユカワ)、東條英機(トウジョウ)らが主要メンバーでした。このグループは、従来の官僚主義的な手法ではなく、国家戦略としての経済発展を重視し、強い指導力のもとで政策を推進しました。

岸は特に星野直樹と親しく、共に満州国の経済政策を立案・実行しました。星野は財政部次長として満州国の財政を管理しており、岸の産業政策と密接に連携していました。両者は、「国家主導の計画経済」を強く推進し、日本本土にもこの手法を適用すべきだと考えるようになりました。この考えは、後に岸が日本の商工大臣となり、戦時経済の指導に携わる際にも大きな影響を与えることになります。

また、松岡洋右とは外交政策の面でも意見を交わし、満州国の発展が日本の国際的地位を向上させる鍵であると考えていました。松岡は満鉄総裁を務めるなど、経済政策にも関与しており、岸と連携して満州国のインフラ整備や工業化を推進しました。

さらに、岸は東條英機とも関係を深めていきました。東條は関東軍の参謀長として満州国の軍事政策を統括しており、岸の産業政策とも密接に結びついていました。特に、軍需産業の拡充については東條との連携が不可欠であり、岸は戦略的に協力関係を築きました。この関係は、後に岸が商工大臣として東條内閣に参加する際にも影響を及ぼします。

こうして、岸信介は満州国での活動を通じて、日本の経済政策において重要な地位を確立し、「弐キ参スケ」の一角として強い影響力を持つようになりました。彼の計画経済的な手法や国家主導の産業政策は、戦後の日本経済にも影響を与えることになります。

満州国での経験は、岸にとって官僚としての集大成とも言える時期でした。彼はここで得た知識や人脈を活かし、やがて戦時経済の指導者として日本本土に戻ることになります。次なる舞台は、商工大臣としての戦時経済の統制でした。

東條内閣での商工大臣と戦時経済の指導者として

商工大臣就任の背景とその狙い

1941年(昭和16年)、岸信介は商工次官を経て、東條英機内閣のもとで商工大臣に就任しました。商工大臣とは、日本の経済政策を統括し、特に産業振興や貿易政策を担う役職です。しかし、この時期の日本はすでに戦時体制に移行しており、商工大臣の役割は単なる産業政策の調整ではなく、戦争遂行のための経済統制を強化することが求められていました。

岸の商工大臣就任の背景には、満州国での経済統制の実績がありました。彼は満州で国家主導の産業政策を推進し、戦時経済の基盤を整える手腕を発揮していました。日本本土でも、軍需産業の強化や国家総動員体制の構築が急務となっており、岸の計画経済的な手法が必要とされたのです。

また、岸は東條英機と満州時代から密接な関係を築いていました。東條は関東軍参謀長として岸の経済政策を支持し、軍需産業の拡充に協力していました。そのため、岸の商工大臣就任は、東條政権の戦時体制強化の一環としても位置づけられていました。岸自身も「国家総力戦」の理念を持ち、日本の産業を全面的に戦争に適応させることを目指していました。

戦時下における経済統制と政策決定

商工大臣としての岸信介は、戦争遂行のために日本の経済を全面的に統制する政策を次々と実行しました。その中心となったのが、軍需産業の強化と物資の管理でした。

まず、岸は「国家総動員法」に基づき、産業界に対する厳格な統制を強化しました。企業の生産計画は政府の指示に従うことが求められ、特に鉄鋼・機械・化学といった軍需関連産業は優先的に資源が配分されました。民間企業の経営の自由度は大幅に制限され、軍需生産を最優先とする体制が構築されました。

また、岸は労働力の確保にも取り組みました。戦争が激化するにつれ、兵士として徴兵される若者が増え、国内の労働力不足が深刻化していました。これに対応するため、岸は「勤労動員政策」を強化し、学生や女性、さらには朝鮮半島や中国からの労働者を動員する政策を推進しました。特に、学徒動員による若年労働者の確保は、日本国内の産業維持に不可欠な措置とされました。

さらに、物資の管理政策として、「配給制度」を拡充しました。生活必需品や食料の供給を政府が管理し、国民全体に平等に行き渡るようにする制度でした。しかし、戦争が長引くにつれ、物資不足が深刻化し、特に都市部では極端な物資不足に陥る事態が発生しました。このため、岸の政策は国民の生活を厳しくする側面もあり、戦時中の日本経済は極限状態へと向かっていきました。

軍需省の設立と国家総動員体制の強化

岸信介は、商工大臣としての職務に加え、戦時経済をさらに効率化するために「軍需省」の設立に関与しました。1943年(昭和18年)、商工省と陸軍省の軍需部門を統合し、新たに軍需省が創設されました。この省の目的は、軍需生産のさらなる強化と統制の一元化であり、岸はその中心的な役割を果たしました。

軍需省の設立により、日本の産業界は完全に戦争経済に組み込まれることになりました。鉄鋼・石油・ゴムなどの戦略物資は軍需省の管理下に置かれ、生産計画はすべて政府の指示によって決定されました。岸は、満州国での経済統制の経験を生かし、この体制を実質的に指導しました。

しかし、この軍需体制の強化は、日本の経済に深刻な負担をもたらしました。戦争の長期化とともに、物資の不足がさらに深刻化し、国民生活は極限状態に達していきました。また、1944年(昭和19年)になると、日本国内の工場が米軍の空襲を受けるようになり、軍需生産そのものが大きな打撃を受けるようになりました。岸の計画経済的な手法も、最終的には戦争の流れを覆すことはできず、日本の戦時経済は崩壊の危機に瀕していきました。

このように、岸信介は東條内閣のもとで戦時経済の指導者としての役割を果たしましたが、その政策は国民生活を厳しくし、戦争の激化とともに限界を迎えました。1944年(昭和19年)7月、サイパン陥落を受けて東條内閣が総辞職すると、岸も商工大臣を辞任しました。しかし、彼の経済政策はその後の日本の復興にも影響を与えることになり、戦後も重要な役割を果たしていくことになります。

A級戦犯容疑と巣鴨プリズンでの収監生活

戦後の逮捕と東京裁判の影響

1945年(昭和20年)8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏しました。戦争が終結すると、連合国軍は戦争指導者の責任を追及するために戦犯逮捕を進めました。岸信介は、戦時中に商工大臣や軍需省の高官として戦争遂行に関与していたことから、A級戦犯容疑者 として逮捕されることになります。

1945年11月19日、GHQ(連合国軍総司令部)の指示により、岸は警視庁に出頭を命じられました。彼はその日の夜、自宅で家族と別れを告げた後、米軍のジープに乗せられ、東京・巣鴨拘置所(通称:巣鴨プリズン)へと連行されました。当時、岸は49歳。戦争指導者としてのキャリアを積んできた彼にとって、収監生活は大きな転機となりました。

岸の逮捕は、日本国内に衝撃を与えました。戦前・戦中の官僚や政治家の多くが逮捕される中で、岸は特に戦時経済の責任を問われる立場にありました。GHQは岸の役割を「日本の戦争経済を支えた中心人物」と見なし、戦争を遂行するための経済政策を推進したことが戦争犯罪に当たると判断したのです。

また、東京裁判(極東国際軍事裁判)においては、岸とともにかつての盟友であった東條英機や星野直樹もA級戦犯として起訴されました。岸は正式に起訴はされなかったものの、巣鴨プリズンに収監され、戦争指導者の一員としてその責任を問われる立場に置かれました。

巣鴨プリズンでの3年半とその過ごし方

岸信介は1945年11月から、1948年12月までの約3年間にわたり巣鴨プリズンで収監生活を送りました。巣鴨プリズンは、戦犯容疑者や戦後の政治犯が収容される施設であり、ここには東條英機、広田弘毅、星野直樹などの戦時中の指導者たちも収監されていました。

岸の獄中生活は、当初は厳しいものでした。食事は乏しく、栄養不足の中での生活が続きました。さらに、GHQの尋問に何度も呼び出され、戦時中の政策について詳細な説明を求められました。しかし、岸は一貫して「自分の行動は国を守るためのものだった」と主張し、戦争責任を直接的には認めませんでした。

獄中では、岸は読書と執筆を続け、戦後日本の未来について考える時間を持ちました。彼は特に経済政策や日本の復興について深く思索し、戦後の日本がどのように復興するべきかを考えていました。この時期に岸は、「戦争責任はあるが、日本の再建のためには指導者が必要である」との信念を持ち、将来的な政界復帰を視野に入れるようになります。

また、獄中では同じく収監されていた多くの政治家や軍人たちと交流し、新たな人脈を築いていました。特に、戦後の日本の政治を主導することになる吉田茂とは意見を交わす機会があり、戦後の保守政治の方向性について議論を重ねました。こうした交流が、後の岸の政界復帰へとつながっていきます。

不起訴となった理由と釈放後の動向

1948年(昭和23年)、岸信介は突如として不起訴となり、釈放されることになりました。その背景には、GHQの戦後政策の変化がありました。

当初、GHQは日本の戦争指導者を徹底的に追及し、戦争責任を明確にする方針でした。しかし、冷戦の激化に伴い、日本を早急に復興させ、アメリカの同盟国として位置づけることが重要視されるようになりました。特に、ソ連の影響力が東アジアで拡大する中で、日本を共産主義から守るためには、強い経済基盤を持つ安定した政府が必要とされました。

この戦略の転換により、GHQは戦犯追及の方針を緩和し、政治経験のある保守派の指導者を復権させる方針をとるようになりました。その結果、岸を含む多くの戦犯容疑者が不起訴となり、釈放されることになったのです。これはいわゆる「逆コース」と呼ばれる政策転換の一環でした。

釈放後の岸は、すぐには政治活動を再開できませんでした。戦争指導者としての経歴があったため、GHQによる「公職追放」の対象となり、しばらくの間、公的な役職に就くことはできませんでした。しかし、この期間に岸は日本の財界や政界の要人と接触し、政治活動の再開に向けた準備を進めていきました。特に、戦後の保守政治を主導する吉田茂との関係を深め、戦後日本の政治の方向性について議論を重ねていました。

また、岸は釈放後、自身の戦争責任について問われることが多くなりました。しかし、彼は一貫して「戦争は国家のために必要な決断だった」と主張し、個人的な責任を明確に認めることはありませんでした。この姿勢は、彼の評価を二分する要因となり、後に「昭和の妖怪」と呼ばれる一因ともなりました。こうして、A級戦犯容疑で逮捕されながらも、岸信介は不起訴となり、政界復帰への道を歩み始めました。

政界復帰と自由民主党結成への歩み

公職追放解除と政治活動の再開

岸信介は1948年に巣鴨プリズンから釈放されたものの、すぐに政治活動を再開することはできませんでした。GHQの指導により、戦前・戦中の指導者たちの多くは公職追放の対象となり、岸も例外ではありませんでした。公職追放とは、戦時中に政府や軍部で重要な役割を果たした人物が、公職や政界に関与することを禁止する措置であり、岸もその影響を受けて政界から一時的に退くことを余儀なくされました。

しかし、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、GHQの政策は大きく転換しました。冷戦の激化により、日本の再軍備と経済復興が急務とされ、戦前の経験を持つ保守系政治家の復帰が求められるようになりました。これにより、日本国内では「逆コース」と呼ばれる方針転換が進められ、岸を含む多くの公職追放者が政界に復帰する流れが生まれました。

1952年、岸の公職追放は正式に解除されました。これにより、彼は本格的に政治活動を再開することが可能となり、政界復帰への道を歩み始めました。岸はすぐに旧知の政治家や財界人と接触し、戦後日本の政治における自身の役割を模索しました。特に、戦後の政界で勢力を拡大していた吉田茂との関係を深め、保守派の結集に向けた動きを進めるようになります。

日本民主党の結成と幹事長としての手腕

岸信介が政界に復帰した1950年代前半、日本の政治は大きな転換期を迎えていました。戦後の日本では、日本自由党を母体とする吉田茂の内閣が政権を担っていましたが、吉田の指導力に対する批判も高まりつつありました。こうした中で、保守系の新たな政治勢力を作る動きが活発化し、岸はその中心的存在として活動を開始しました。

1954年、岸は鳩山一郎らと共に日本民主党を結成し、幹事長に就任しました。日本民主党は、吉田内閣の自由党に対抗するための政党であり、より積極的な経済政策や自主外交を掲げる政党として結党されました。岸は幹事長として党の組織作りや資金調達を担当し、精力的に活動を展開しました。彼は財界との太いパイプを活用し、日本民主党の経済基盤を確立する一方で、各地を訪れて支持を広げるなど、組織運営の手腕を発揮しました。

また、日本民主党の立ち上げには、かつて岸と親交のあった藤山愛一郎(財界人・日東化学経営者)も重要な役割を果たしました。藤山は党の財政的支援を行い、政党運営の安定化に寄与しました。こうした岸の実務能力と指導力により、日本民主党は急速に勢力を拡大していきました。

しかし、日本民主党の勢力拡大とともに、自由党との対立も深まりました。自由党を率いる吉田茂は、日本民主党を「反吉田勢力」とみなし、両者の対立は激化しました。しかし、岸は単なる反吉田ではなく、より強い保守勢力の結集を目指していました。その構想が後の「保守合同」につながることになります。

保守合同を主導し自民党初代幹事長に

日本民主党が結成されたものの、1955年の時点で日本の政治は依然として不安定でした。社会党が左派と右派に分裂した一方で、保守勢力も自由党と日本民主党に分かれており、政権基盤が盤石とは言えませんでした。岸はこの状況を打破し、保守勢力を統一することで安定した政権を築く必要があると考えました。

1955年、日本民主党と自由党の統合が具体化し、岸はその中心人物として「保守合同」を推進しました。保守合同の背景には、国内の政治的安定だけでなく、アメリカの意向もありました。冷戦が激化する中で、日本における安定した保守政権の確立が求められ、岸はその流れを敏感に察知して行動しました。

同年11月、日本民主党と自由党が合併し、「自由民主党」が結成されました。岸はその初代幹事長に就任し、党の運営を担いました。幹事長としての岸の役割は極めて重要で、党内の意見調整や選挙戦略の策定、財政基盤の確立などを主導しました。特に、党の財政基盤強化においては、彼の財界とのコネクションが大いに活用されました。

また、岸は幹事長として日本の安全保障政策にも積極的に関与しました。1950年代後半、日本は日米安保条約の改定をめぐる議論が活発化しており、岸は保守政権の安定を前提に、この問題に本格的に取り組む姿勢を見せていました。これが、後の岸内閣での日米安保改定へとつながる重要な布石となりました。

こうして、岸信介は戦後の混乱期を経て、自由民主党の結成に中心的な役割を果たしました。戦争責任を問われた過去を持ちながらも、政治家としての手腕を発揮し、保守政権の基盤を築くことに成功しました。

首相就任と日米安保条約改定の激動の時代

首相就任までの道のりと政治戦略

岸信介が自由民主党の初代幹事長に就任した1955年、日本の政治は大きな転換期を迎えていました。自民党は結党直後から政権を担い、初代総裁には鳩山一郎が就任しました。しかし、鳩山内閣は1956年の日ソ国交回復を成し遂げた後、健康問題もあって政界引退を表明し、後継をめぐる動きが活発化しました。

当時、後継の最有力候補と見られていたのは、経済政策に強い関心を持つ石橋湛山でした。石橋はリベラルな思想を持ち、自由経済の発展を重視する立場から、岸とは政治スタンスが異なっていました。しかし、1956年12月に首相に就任した石橋は、病気によりわずか2カ月で辞任を余儀なくされました。これにより、自民党内では次の首相を決める動きが本格化し、岸がその有力候補となりました。

岸は、幹事長時代に培った党内の影響力と財界とのつながりを活かし、1957年2月、自由民主党総裁に選出されました。そして同月、正式に第56代内閣総理大臣に就任しました。これは、戦後の政治家の中でも異例の経歴を持つ岸にとって、一つの大きな転機となる瞬間でした。かつてA級戦犯容疑で逮捕されながらも不起訴となり、政界復帰を果たした彼が、ついに日本の最高権力者の座に就いたのです。

岸の首相就任後の最優先課題は、日本の経済成長を加速させること、そして安全保障体制を強化することでした。特に、当時のアメリカとの関係をどのように調整するかが、岸政権の最大の課題となりました。岸は、1951年に締結された日米安全保障条約(旧安保条約)が不平等であると考え、その改定を最重要課題として掲げました。

日米安保条約改定に至る背景と交渉過程

岸信介が日米安保条約改定を進めた背景には、戦後日本の国際的な立場の変化がありました。1951年に締結された旧安保条約は、日本がアメリカの軍事的庇護を受ける一方で、米軍基地の自由な使用を認め、日本側にはほとんど発言権がない不平等な内容とされていました。岸は、この状態を改め、日本が独立国として対等な関係を築くことを目指しました。

岸は1957年6月、訪米してアイゼンハワー大統領と会談し、安保条約改定の必要性を強く訴えました。岸は「日本がアメリカの防衛政策に協力する一方で、日本の主権を尊重した条約に改めるべきだ」と主張し、交渉を開始しました。この交渉は難航しましたが、岸は粘り強く交渉を続け、最終的に1959年から正式な改定交渉がスタートしました。

安保改定の主なポイントは、①アメリカが日本防衛の義務を負うこと、②米軍の日本国内での行動に一定の制限を設けること、③条約の有効期限を設定し、双方の合意で延長できる仕組みにすることでした。これにより、日本は独立国としての立場を強めるとともに、米軍基地の無制限使用を抑制することを目指しました。

岸は、日米関係をより対等なものにするため、国内での支持を広げようとしました。しかし、野党や学生運動を中心に「安保改定は日本をアメリカの戦争に巻き込む危険がある」との批判が高まり、国内では反対運動が激化していきました。

安保闘争の激化と内閣総辞職の決断

1960年に入ると、日米安保条約の改定をめぐる反対運動は全国的な規模に拡大しました。特に、社会党や労働組合、学生団体を中心に「安保反対」を訴える大規模デモが展開され、いわゆる「安保闘争」が本格化しました。岸政権は国会での強行採決を目指しましたが、これに反発する形で抗議活動が激しさを増し、東京・国会議事堂周辺では連日大規模なデモが発生しました。

1960年6月15日、安保改定反対のデモが国会前で行われる中、警官隊とデモ隊が衝突し、東京大学の女子学生だった樺美智子が死亡する事件が発生しました。この出来事は社会に大きな衝撃を与え、岸内閣への批判が一気に高まりました。岸は条約の批准手続きを進める一方で、事態の収拾を図ろうとしましたが、国内の混乱は収まりませんでした。

最終的に、日米安保条約の改定は6月19日に正式に成立しました。しかし、安保闘争の激化と世論の批判を受け、岸は責任を取る形で首相辞任を決断しました。7月15日、岸は総辞職を表明し、後継には池田勇人が選ばれました。

岸にとって、安保改定は彼の政治キャリアの集大成でした。彼は「日本の主権を確立し、対等な日米関係を築くための重要な一歩」として条約改定を推進しましたが、その手法が強引だったこともあり、国民の理解を十分に得られたとは言えませんでした。結果として、大規模な社会運動を引き起こし、彼の政治生命にも影響を及ぼしました。

しかし、岸が推進した日米安保条約改定は、その後の日本の外交・安全保障政策の基盤となり、現在に至るまで日本の防衛政策に大きな影響を与えています。首相を辞任した後も、岸は日本の政界に強い影響力を持ち続け、「昭和の妖怪」と呼ばれるほどの存在感を放ちました。

退陣後の影響力と「昭和の妖怪」としての晩年

政界引退後も続いた影響力と政界との関係

岸信介は1960年に首相を辞任した後も、政界から完全に身を引いたわけではありませんでした。むしろ、彼は表舞台を退いた後も日本の政治に強い影響を及ぼし続けました。特に、保守政治の要として、後進の育成や政策決定に深く関与し続けたのです。

岸の影響力の源泉は、戦前から培った官僚としての実務能力と、戦後の保守政治の再編を主導した政治手腕にありました。首相を退いた後も、自民党内の有力者として存在感を放ち、特に安全保障政策や憲法改正問題については積極的に発言を続けました。彼は、日米安保条約を改定した自身の実績を誇り、日本がさらなる自主性を確立するためには憲法第9条の改正が必要であると主張しました。

また、岸は退陣後も財界とのつながりを維持し、政界と経済界を結ぶ重要な役割を果たしました。彼は経済成長を支える政策立案に関与し、日本の高度経済成長期において財界とのパイプを活かして政府の経済運営を支援しました。特に、経済人である藤山愛一郎や、戦前から交流のあった日産コンツェルン総帥の鮎川義介などと連携し、日本の産業界の発展に貢献しました。

さらに、岸は国際政治にも関与し、東南アジア諸国との関係強化を推進しました。彼は、戦後の日本がアジア地域において経済的影響力を拡大することが重要であると考え、アジア各国への経済支援や技術協力の強化を提唱しました。この考え方は、後に日本の対外政策の基本方針の一つとなり、経済協力を通じた外交戦略の礎を築くことにつながりました。

「昭和の妖怪」と呼ばれた理由とその実像

岸信介は、晩年にかけて「昭和の妖怪」と呼ばれるようになりました。この異名は、彼が戦前・戦中・戦後のすべての時代にわたり日本の政治に関与し、時に表舞台から退いても影響力を持ち続けたことから生まれたものです。

「昭和の妖怪」という言葉が定着したのは、1960年代後半から1970年代にかけてのことでした。岸はすでに政界の第一線から退いていましたが、彼の影響力は衰えるどころかむしろ増しているように見えました。特に、自民党内の派閥政治においては、彼の存在が大きな意味を持ちました。彼は、自身の政治信念を受け継ぐ若手政治家を支援し、保守政治の流れを作る役割を果たしていました。

岸の「昭和の妖怪」としての存在感が最も際立ったのは、1970年代の安倍晋太郎(後の外務大臣)や福田赳夫(後の首相)ら若手政治家の台頭を支援したことです。彼は、彼らに対し保守政治の重要性を説き、政治資金や人脈の提供を行いました。特に、安倍晋太郎は岸の娘婿であり、彼の影響を強く受けました。安倍晋太郎の息子である安倍晋三(後の首相)もまた、祖父である岸の影響を受けた政治家の一人です。

また、岸が「妖怪」と呼ばれた背景には、その戦前の経歴が影を落としていました。彼はA級戦犯容疑者として逮捕された過去を持ち、戦争責任の問題がつきまといました。そのため、戦後の平和主義を支持する層からは警戒の目を向けられ、「影の実力者」として不気味な存在と見られることもありました。特に、彼の憲法改正や軍備増強への積極的な発言は、左派勢力から強く批判される要因となりました。

しかし、岸自身は「妖怪」と呼ばれることを気にしていなかったと言われています。むしろ、彼はその異名を政治的影響力の証と捉え、自らの信念に基づいて行動し続けました。彼の信念は一貫しており、「強い日本を作る」という目標に向かって努力を続けたことは間違いありません。

家族との関係、晩年の生活とその最期

岸信介の晩年は、家族との時間を大切にしながらも、日本の将来について考え続ける日々でした。彼は、戦後の日本の発展を見届ける一方で、憲法改正や自主防衛の実現が果たされないまま時間が過ぎることを歯がゆく感じていたと言われています。

岸の家族の中で最も有名なのは、弟の佐藤栄作です。佐藤は岸とは対照的な政治スタイルを持ち、平和主義的な政策を進めました。岸が日米安保条約の改定を推進したのに対し、佐藤は非核三原則を提唱し、ノーベル平和賞を受賞するなど、異なる道を歩みました。しかし、兄弟の間には深い尊敬があり、お互いの立場を理解し合っていました。

また、岸の娘婿である安倍晋太郎は、将来の首相候補として期待される存在でした。岸は晋太郎に対し、保守政治の重要性や国家観を説き続け、日本の指導者としての心構えを伝えました。晋太郎は惜しくも首相の座には就けませんでしたが、その息子である安倍晋三が後に日本の首相となり、祖父の影響を受けた政治を展開することになります。

岸は晩年、東京都内の自宅で静かに過ごしながら、時折政界の動きを見守る生活を送っていました。健康状態は次第に悪化し、1987年(昭和62年)8月7日、90歳でこの世を去りました。彼の葬儀には政財界の多くの要人が参列し、彼の生涯の影響力の大きさを物語るものでした。

岸信介は、戦前・戦中・戦後の日本を生き抜き、政治の中心で活躍し続けた人物でした。彼の政策や思想は、現在の日本政治にも影響を与え続けています。

岸信介を描いた書物・映像・文学作品

『保守政権の担い手』—自ら語る政治人生

『保守政権の担い手』は、岸信介自身が著した書物であり、彼の政治人生を詳細に振り返る回顧録的な内容になっています。本書は、彼が官僚としてキャリアをスタートさせた時期から、満州国での経済政策の指導、戦時経済の統制、戦後の政界復帰、そして首相としての日米安保条約改定に至るまでの過程を、本人の視点で語っています。

岸は本書の中で、自らの政治信念を明確に述べています。彼は一貫して「国家の発展には強いリーダーシップが必要であり、経済政策は計画的に行うべきだ」と考えていました。満州国での産業開発の経験を通じて、国家主導の経済政策の重要性を確信し、それを戦後の日本にも適用しようとしたことがよくわかります。また、日米安保条約改定についても、自らの立場を正当化し、「日本の独立と安全保障のために必要な決断だった」と強調しています。

本書の特徴は、岸が自らの政治的決断をどのように考えていたかを直接知ることができる点にあります。戦後の日本における保守政治の流れを理解する上で貴重な資料であり、彼の政策思想が現在の日本の政治にどのように影響を与えたのかを読み解く手がかりとなります。

『岸信介の回想』—その生涯を振り返る証言録

『岸信介の回想』は、岸信介が晩年に行ったインタビューをもとに編集された書籍であり、彼の政治的な歩みを本人の言葉で振り返る内容になっています。本書では、戦前・戦中・戦後のそれぞれの時代における彼の役割や、政界での人間関係が詳細に語られています。

特に注目すべき点は、岸が戦後の保守合同についてどのように考えていたかが記されていることです。彼は日本の保守政治が分裂していた状態を「国家の発展にとってマイナスである」と捉え、自由党と日本民主党の合併(1955年の保守合同)を積極的に進めたことを強調しています。また、日米安保条約改定に際しては、「国民の理解を十分に得られなかったことは残念だが、長期的に見れば日本にとって必要な決断だった」と述べています。

さらに、岸は自身の評価についても語っています。彼は「戦犯としての過去がある以上、批判されることは当然だが、歴史の評価は時間が経ってから変わるものだ」と述べ、自らの政策が将来どのように評価されるかについての考えを示しています。この発言は、彼が戦後の日本政治において長期的なビジョンを持っていたことを示唆しています。

『ミネルヴァとマルス 下 昭和の妖怪・岸信介』—小説が描くもう一つの岸信介

『ミネルヴァとマルス 下 昭和の妖怪・岸信介』は、小説家・中路啓太によって執筆された歴史小説であり、岸信介の生涯をフィクションの要素を交えながら描いた作品です。本書では、岸の政治的信念や権謀術数に満ちた生き様が詳細に描かれ、彼の「昭和の妖怪」としての側面が強調されています。

特に、戦時中の経済政策の部分では、彼がどのように軍需産業の統制を行い、戦争遂行のための経済システムを作り上げたかが具体的に描写されています。また、戦後の政界復帰に際しては、岸がどのように旧来の人脈を活用し、冷戦下のアメリカとどのような交渉を行ったのかが、緻密な取材をもとに再現されています。

本書の特徴は、岸信介という人物を単なる政治家としてではなく、一人の人間として描いている点にあります。彼の冷徹な判断力と戦略的思考が強調される一方で、家族との関係や、彼自身が抱えていた葛藤についても触れられています。このため、岸の政治的人生をより立体的に理解することができる作品となっています。

本作を読むことで、岸信介という人物がどのような政治的決断を下し、それが日本の歴史にどのような影響を与えたのかを、小説ならではの視点で追体験することができます。特に、岸の持つ「強い国家」を志向する思想や、彼がなぜ「昭和の妖怪」と呼ばれたのかを深く理解するための一助となるでしょう。

まとめ

岸信介は、戦前・戦中・戦後の日本の政治を生き抜き、時に冷徹な判断を下しながらも、日本の発展に尽力した政治家でした。官僚として満州国の経済政策に関与し、戦時経済を指導した彼は、戦後にはA級戦犯容疑をかけられるも不起訴となり、やがて保守合同を実現し、自民党の基盤を築きました。首相としては日米安保条約改定を推進し、大規模な反対運動を受けながらも、日本の安全保障政策の枠組みを確立しました。

彼の政治人生は、日本の歴史の中でも極めて波乱に満ちたものであり、その評価も賛否が分かれます。しかし、彼が残した政策や影響は、現在の日本政治においても色濃く残っています。彼の思想や政治的戦略は、書籍や文学作品を通じて今なお語り継がれており、戦後日本の政治を考える上で不可欠な存在であることは間違いありません。

彼の政治的遺産は、弟の佐藤栄作、そして孫の安倍晋三へと受け継がれました。岸信介の信念や思想がどのように受け継がれ、日本の政治に影響を与え続けているのかを理解することは、現代の日本を考える上で重要な視点となるでしょう。

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