こんにちは!今回は、日本の経済学者であり思想家として知られる河上肇(かわかみ はじめ)についてです。
『貧乏物語』の著者として社会問題を鋭く指摘し、京都帝国大学教授としてマルクス経済学の普及に努めた河上は、学問から実践へと身を投じ、日本共産党に入党。
その後、投獄されながらも思索と創作を続けました。戦後の新時代を目前に亡くなった彼の生涯を振り返ります。
山口の士族の家に生まれて
河上肇の家族背景と生い立ち
河上肇(かわかみ はじめ)は、1879年(明治12年)10月20日、山口県吉敷郡山口町(現在の山口市)に生まれました。彼の家系は旧長州藩の士族であり、幕末から明治維新にかけて激動の時代を生き抜いた家柄でした。しかし、明治維新後の廃藩置県によって士族の特権が失われ、多くの士族家庭が経済的に困窮する中、河上家も例外ではありませんでした。
父・河上長九郎は郡役所に勤める官吏であり、厳格ながらも知識人としての誇りを持っていました。彼は息子に学問を修めさせることが士族としての義務であり、生きる道であると考えていました。一方、母・河上カメは信仰心が厚く、特に道徳観を重視しており、幼い河上肇に誠実さや忍耐の大切さを教えました。このような家庭環境が、彼の人格形成に大きく影響を与えたと考えられます。
また、明治時代の日本は急速な近代化を遂げる中で、経済格差や社会的矛盾が顕在化しつつありました。河上家も決して裕福ではなく、幼少期から経済的困難を目の当たりにすることで、彼は自然と社会問題に関心を持つようになっていきました。この経験が後の彼の学問的探求、特に「貧困問題」に対する関心を深める下地を作ることになります。
秀才と評された少年時代の逸話
河上肇は幼いころから特に数学に優れ、その才能は地元でも評判となっていました。小学校に入学すると、わずか数か月で教師が驚くほどの計算力を示し、「神童」と評されるようになります。彼の家は決して裕福ではなかったものの、学問に対する情熱は並外れており、本が手に入らないときは友人から借りたり、時には教師に頼み込んで参考書を読ませてもらったといいます。
10歳のころには、地元の大人たちが解けなかった複雑な数学の問題をすらすらと解き、その噂は瞬く間に広まりました。また、彼は漢籍の素読にも秀でており、儒学の古典を自ら解釈するほどの能力を持っていました。こうした早熟な知性は、彼の家族だけでなく、地元の知識人層にも一目置かれる存在となりました。
また、少年時代の彼は、単なる学者肌ではなく、倫理観や社会意識を強く持つようになりました。特に、内村鑑三の著作を読み、キリスト教的な道徳観に深く感銘を受けたとされています。この頃からすでに、単に知識を得るだけでなく、それを社会のためにどう生かすかを考え始めていたことがわかります。
地元での学びと東京への志
河上は1893年(明治26年)、地元の山口高等小学校を卒業した後、山口中学校(現在の山口県立山口高等学校)に進学しました。当時の山口中学校は県内屈指の進学校であり、多くの優秀な学生が集まっていました。その中でも河上は抜きん出た存在であり、特に数学と漢学において際立った成績を収めていました。
しかし、彼は単なる秀才ではなく、常に「学問とは何のためにあるのか?」という根源的な問いを抱えていました。彼は学ぶことそのものに価値を見出す一方で、学問が現実社会とどう結びつくのかを模索し始めていました。こうした問題意識を持つに至った背景には、士族出身者の没落や、地方の貧困層の生活を目の当たりにしていたことが大きかったと考えられます。
やがて、より高度な学問を求めた彼は、1896年(明治29年)に山口高等学校(旧制)へと進学しました。この頃になると、彼の関心は単なる数学の問題解決にとどまらず、経済学や哲学へと広がっていきました。特に、「貧困とはなぜ生まれるのか?」という問いは、彼にとって極めて重要なテーマとなり、この問いを突き詰めるためには、より専門的な知識を得る必要があると考えるようになります。
そのため、彼は日本で最も優れた学問の府である東京帝国大学への進学を志します。しかし、家計は決して裕福ではなく、東京での生活費をどう工面するかが大きな課題でした。そこで彼は学費免除の特典がある奨学金制度を活用し、さらに節約しながら学び続ける覚悟を固めました。
1899年(明治32年)、河上肇はついに東京帝国大学へと進学します。彼にとって、これは単なる学問のための一歩ではなく、日本社会の問題を解決するための旅の始まりでもありました。
東京帝国大学での学び
東京帝国大学進学と専門分野の選択
1899年(明治32年)、河上肇は東京帝国大学文科大学政治学科(現在の東京大学経済学部)に入学しました。当時、東京帝国大学は日本最高峰の学問の府であり、ここでの学びが彼の思想形成に決定的な影響を与えることになります。
入学当初、彼は政治学を専攻していましたが、次第に経済学へと関心を深めていきます。背景には、近代日本が直面していた深刻な社会問題がありました。明治政府による資本主義化の進展により、貧富の差が拡大し、都市部では貧困層が急増していました。河上は、この格差の根本的な原因を探るためには、経済学を学ぶ必要があると考えるようになります。
当時の東京帝大には、西洋の経済学を導入し、日本に広めた第一世代の学者たちが多く在籍していました。その中でも、彼が特に影響を受けたのが福田徳三でした。福田は西欧の社会政策を日本に紹介し、貧困問題の解決策を模索していた学者であり、河上にとっては師であると同時に、後に論争を繰り広げるライバルでもありました。
学業においては、河上は成績優秀で、特に経済理論の理解力に優れていました。卒業論文では経済政策に関する独自の考察を展開し、高い評価を受けました。1902年(明治35年)、彼は東京帝大を卒業し、その後大学院へと進み、さらに研究を深めることになります。
福田徳三との論争と学問的深化
大学院に進んだ河上は、師である福田徳三と頻繁に議論を交わすようになります。当初は福田の影響を受けて社会政策論に関心を寄せていましたが、次第にその考え方に疑問を抱くようになります。福田は資本主義の枠内で社会政策を改善する立場でしたが、河上はより根本的な経済構造の変革が必要であると考えるようになりました。
1905年(明治38年)、彼は学術論文「社会政策と社会問題」を発表し、福田の理論に批判的な立場を示します。この論文では、福田が主張する社会政策の漸進的改善では、貧困の根本的な解決にはならないと論じ、経済構造そのものを変革する必要性を説きました。これに対し、福田も反論を展開し、二人の論争は学界でも注目を集めました。
この論争を通じて、河上は次第にマルクス経済学への関心を深めていきます。マルクスの『資本論』を読み込み、資本主義の本質を探求する中で、従来の経済学が資本主義の枠内での政策論に終始していることに限界を感じるようになります。
社会問題への関心を深めた契機
河上が社会問題に本格的に取り組むきっかけとなったのは、1904年(明治37年)に始まった日露戦争でした。この戦争は日本にとって大きな経済的負担をもたらし、特に下層階級の生活を一層苦しめる結果となりました。
戦争による軍需景気の影で、農村部では重税や物価高騰により生活が困窮し、多くの農民が都市に流入しました。しかし、都市部でも十分な雇用があるわけではなく、貧民街が拡大し、社会的な不安が増大しました。河上はこうした現実を直視し、資本主義経済の問題点をより深く研究する必要性を痛感しました。
また、この頃、彼はキリスト教の影響を受けた社会運動家たちとも交流を持ち始めます。特に、内村鑑三の影響を受けたことで、社会正義の観点から経済問題を考えるようになりました。キリスト教的な倫理観と経済学を結びつけながら、貧困問題の根本的な解決を模索する姿勢は、後の彼の著作『貧乏物語』にも色濃く反映されています。
このように、東京帝国大学での学びは、河上肇の思想形成に決定的な影響を与えました。彼は単なる経済学者ではなく、社会改革の必要性を訴える学者としての道を歩み始めたのです。
京都帝国大学教授への道
京都帝国大学赴任と研究者としての歩み
1907年(明治40年)、河上肇は東京帝国大学大学院を修了し、京都帝国大学法科大学(現在の京都大学法学部)の助教授に就任しました。当時の京都帝大は、東京帝大と並ぶ日本の最高学府でありながら、より自由な学風を持つことで知られていました。特に経済学の分野では、新しい思想や理論を受け入れる土壌があり、河上にとって研究を深める理想的な環境でした。
彼の専門は経済学の中でも理論経済学であり、特に西洋の古典派経済学とドイツ歴史学派の経済思想を研究しました。初期の研究では、ドイツの経済学者アドルフ・ヴァグナーやグスタフ・シュモラーの社会政策論に影響を受け、資本主義の発展と国家の役割について分析を行いました。しかし、この時期の河上は、まだマルクス主義に傾倒する前であり、資本主義の枠内で社会問題を解決しようとする立場に立っていました。
また、彼は教育者としても優れており、その講義は学生から高い評価を受けました。京都帝大の講義では、単なる理論の解説にとどまらず、経済学が現実社会とどのように結びついているのかを具体的な事例を交えて説明しました。特に貧困問題や労働問題についての議論は、学生たちの関心を引き、後に多くの社会科学者を育てるきっかけとなりました。
しかし、この頃の河上はまだ学者としての地位を固める途上にあり、新しい理論を導入することには慎重な姿勢を取っていました。彼の学問的な転機となるのは、次に述べる『資本論』との出会いでした。
「資本論」への傾倒とマルクス経済学の導入
1910年(明治43年)頃、河上は本格的にカール・マルクスの『資本論』を研究し始めました。それまで彼は、マルクス経済学に関して漠然とした知識は持っていたものの、真正面から向き合うことはありませんでした。しかし、当時の日本社会における貧困の拡大や労働争議の激化を目の当たりにする中で、従来の経済学ではこうした問題を根本的に解決できないのではないかと考えるようになります。
『資本論』を読んだ河上は、その理論の緻密さと資本主義批判の鋭さに衝撃を受けました。特に、資本主義が本質的に労働者を搾取する構造を持っているという指摘は、彼の研究に大きな影響を与えました。河上は、自らの研究にマルクス経済学の視点を取り入れ始め、それを基にした講義を行うようになります。
しかし、当時の日本においてマルクス主義はまだ広く受け入れられておらず、特に大学の場でそれを公然と研究することには大きな抵抗がありました。京都帝大の教授陣の中にも、彼のマルクス経済学への傾倒を懸念する者が現れ始めます。こうした状況の中で、彼はどのように学問的立場を維持しつつ、新しい理論を展開していくのかを模索することになります。
田島錦治や櫛田民蔵との学問的交流と対立
河上肇の学問的探求は、同僚や学界の仲間との交流や論争を通じてさらに深まっていきました。京都帝大において、彼と特に関係が深かったのが田島錦治と櫛田民蔵でした。
田島錦治は、河上と同じく経済学を研究する学者であり、共に京都帝大の発展に尽力しました。田島は比較的穏健な立場を取り、資本主義の枠内での社会政策を重視する考えを持っていました。一方、河上は次第にマルクス主義的な視点に傾倒していったため、二人の間には次第に理論的な対立が生まれていきます。しかし、田島は河上の研究姿勢そのものには一定の敬意を払っており、彼の学問的自由を擁護する立場を取っていました。
一方で、櫛田民蔵とはより激しい論争を繰り広げました。櫛田は、日本の経済発展を歴史的観点から分析し、独自の経済史観を展開していましたが、河上のマルクス主義的な経済分析とは相容れないものでした。櫛田は河上の考えを「理論的には優れているが、日本の現実には適用できない」と批判し、一方の河上も「資本主義の本質を理解しなければ日本経済の問題は解決できない」と応じました。
こうした学問的な議論や対立は、河上にとって自身の理論をさらに深める機会となりました。彼は単に『資本論』を紹介するだけではなく、それを日本の現実にどのように適用できるかを考え、独自の視点を持つようになっていきました。この過程を経て、彼はついに社会に向けて自らの思想を発信する決意を固めます。
『貧乏物語』の執筆と社会的反響
『貧乏物語』執筆の背景と動機
河上肇が『貧乏物語』を執筆したのは、1916年(大正5年)のことでした。この時期、日本は日露戦争後の工業化の進展によって経済的には成長を遂げつつありましたが、その一方で都市部には貧困層が急増し、社会的な格差が深刻化していました。特に、東京や大阪などの大都市では、低賃金の労働者が過酷な環境で働きながらも生活が成り立たない状況に陥っていました。
河上は、こうした社会問題に強い関心を持ち、学者として何ができるかを考え続けていました。そして、単なる学術的な研究にとどまらず、広く一般の人々にも読まれるような形で貧困問題を訴えかけるべきだと考えます。その結果、彼は『大阪朝日新聞』に「貧乏物語」と題した連載記事を執筆し、社会に向けて貧困の実態を告発することを決意しました。
『貧乏物語』の特徴は、専門的な経済学の用語を避け、一般の読者にも分かりやすい言葉で書かれている点です。彼は、抽象的な理論ではなく、実際に貧困に苦しむ人々の生活や、貧困が社会に与える影響を具体的に描写しました。たとえば、極端に低い賃金で働く労働者や、病気になっても医者にかかれない家庭の様子など、読者の共感を呼ぶエピソードを交えながら論じています。
また、河上は貧困が個人の努力不足によるものではなく、社会構造の問題であることを強調しました。この点が、当時の一般的な価値観とは異なり、大きな議論を呼ぶことになります。
大正デモクラシー期における影響力
1910年代後半は、日本において「大正デモクラシー」と呼ばれる自由主義的な風潮が広がり始めた時期でした。第一次世界大戦後、日本は一時的な好景気に沸きましたが、それに伴い労働者の権利意識が高まり、社会運動も活発化しました。こうした時代の流れの中で、『貧乏物語』は多くの人々に読まれ、大きな影響を与えることになります。
新聞連載が始まると、読者からの反響は非常に大きく、特に若い知識人層や労働者の間で熱心に読まれました。彼の論じる貧困問題は、多くの人にとって身近な問題であり、「自分たちの現実を的確に言い表している」と共感を集めたのです。
また、この時期には政治の分野でも普通選挙を求める運動が活発化しており、労働者や農民の権利を主張する動きが強まっていました。『貧乏物語』は、こうした社会運動の理論的支えとなり、多くの活動家たちに影響を与えました。河上自身は直接的な政治運動には関わりませんでしたが、彼の思想は次第に社会改革を求める人々の間で広まっていきました。
しかし、一方で彼の主張に反発する勢力もいました。特に、保守的な財界や政府関係者の中には、「貧困問題を過度に強調し、社会を混乱させるものだ」として批判する者もいました。実際、政府は河上の思想を警戒し、彼の言動を監視するようになります。
ベストセラーとなった理由と社会への波及
『貧乏物語』は連載終了後、1917年(大正6年)に単行本として出版されると、すぐにベストセラーとなりました。これは、日本の経済書としては異例の出来事であり、それだけ多くの人々がこの問題に関心を持っていたことを示しています。
この本が成功した理由の一つは、単に学術的な内容を伝えるだけでなく、読者の感情に訴えかける力があったことです。河上は、数字や統計を用いた冷静な分析だけでなく、具体的な事例を紹介しながら、貧困が個人の努力ではどうにもならない現実であることを示しました。例えば、ある家庭の父親が失業し、母親が低賃金の仕事で家計を支えながらも子供たちに十分な教育を受けさせられない、といった話は、多くの読者の共感を呼びました。
また、当時の社会の流れとも合致していた点も大きな要因でした。1918年(大正7年)には全国で「米騒動」と呼ばれる暴動が発生し、食糧価格の高騰に苦しむ庶民が全国各地で抗議活動を行いました。こうした社会不安が広がる中で、『貧乏物語』は貧困の根本的な原因を解明しようとする書物として、ますます注目を集めました。
さらに、この本は単なる一時的なブームに終わらず、その後も繰り返し再版され、多くの人々に影響を与え続けました。のちに河上が『資本論』の研究に進むきっかけとなったのも、この本が持つ社会的影響の大きさを実感したからでした。
こうして、『貧乏物語』は河上肇を日本を代表する社会経済学者としての地位へと押し上げることになりました。しかし、それと同時に、彼の思想はますます社会改革へと向かい、政府の警戒も強まっていきます。
マルクス主義研究者としての転換
資本主義批判と社会改革への決意
『貧乏物語』の執筆を通じて、日本の貧困問題の深刻さを改めて認識した河上肇は、その根本的な原因を突き詰める中で、資本主義そのものへの批判を強めていきました。大正時代の日本は、急速な経済成長を遂げながらも、労働者の待遇改善は進まず、貧富の差は拡大し続けていました。特に1918年(大正7年)の米騒動以降、労働争議や社会運動が活発化し、政府は次第に取り締まりを強化するようになりました。
こうした状況を目の当たりにしながら、河上は「個々の政策を変えるだけでは貧困は解決しない」と考えるようになります。彼は次第に、資本主義という経済システム自体に内在する矛盾こそが問題の本質であると確信し、社会全体の構造を根本から改革する必要性を主張するようになりました。
この時期、彼は本格的にカール・マルクスの『資本論』を精読し、その理論を日本社会に適用する研究を進めます。もともと理論経済学に強かった河上は、マルクスの経済学を独自の視点で整理しながら、日本の社会状況と結びつけて分析を行いました。彼の研究は、単なる西洋経済学の紹介にとどまらず、日本の現実に即したマルクス主義の経済分析へと発展していきます。
この思想の変化により、河上はこれまでの「社会政策による漸進的な改革」から、「資本主義の本質的変革」へと立場を変え、政府や保守派からの警戒が強まることになります。
『資本論入門』の執筆とその衝撃
1923年(大正12年)、河上は『資本論入門』を執筆し、これが日本におけるマルクス経済学の普及に決定的な役割を果たすことになります。本書は、当時の日本ではまだ十分に理解されていなかった『資本論』の理論を、分かりやすく解説したものでした。
『資本論入門』の特徴は、単なる概説書ではなく、当時の日本の資本主義の現状を踏まえながら、その問題点を鋭く分析している点にあります。河上は、次のような論点を強調しました。
- 資本主義は労働者の搾取を前提とする制度であり、貧困は不可避である。
- 政府の社会政策は一時的な対策に過ぎず、根本的な解決にはならない。
- 日本の経済は急成長しているが、労働者の待遇は改善されておらず、社会矛盾が拡大している。
この本は学者だけでなく、社会運動家や労働者の間でも広く読まれ、大正デモクラシー期の社会主義運動に大きな影響を与えました。特に、労働運動を指導する知識人の間で必読書とされ、社会主義思想の普及に貢献しました。
しかし、この本が出版された1923年は、関東大震災が発生し、日本社会が大混乱に陥っていた時期でもありました。この混乱の中で、政府は社会主義や共産主義に対する弾圧を強化し、過激な思想の取り締まりを本格化させました。『資本論入門』はその対象となり、政府による監視が河上に対しても厳しくなっていきました。
政府による思想弾圧と監視の強化
1925年(大正14年)、日本政府は「治安維持法」を制定し、共産主義や社会主義の活動を厳しく取り締まる方針を明確にしました。この法律は、「国体を変革しようとする運動」を禁止するものであり、マルクス主義を公然と研究し、批判的な立場を取っていた河上も当然ながらその対象と見なされるようになります。
京都帝国大学では、河上の研究活動に対して厳しい監視が行われるようになりました。彼の講義は大学当局によってチェックされ、特にマルクス主義に関連する内容を話すことに対する圧力が強まりました。さらに、政府の秘密警察である特高警察(特別高等警察)は、河上の活動を注視し、彼の書籍や論文の内容を監視するようになります。
この時期、河上は公的な場では極端な発言を避けながらも、密かに研究を続けていました。しかし、1928年(昭和3年)には「三・一五事件」と呼ばれる共産党員大量検挙事件が発生し、国内の社会主義運動に対する弾圧が一層激化しました。この事件を機に、河上に対する監視もさらに強まり、彼の思想は「危険思想」として政府から目をつけられるようになります。
それでも河上は研究をやめず、社会の不平等や貧困問題の根本的な解決を模索し続けました。しかし、次第に彼は学者としての立場を超え、実践的な社会運動へと傾倒していくことになります。そしてついに、彼は日本共産党への入党を決意し、その結果、逮捕・投獄という運命をたどることになるのです。
実践活動への傾倒と投獄
日本共産党入党に至った経緯
1920年代後半、河上肇は次第に学問の領域を超え、実践的な社会運動へと傾倒していきました。その背景には、日本の政治情勢の変化がありました。1925年(大正14年)に普通選挙法が成立し、男性に限られるものの全員が選挙権を得た一方で、同年に治安維持法が制定され、社会主義や共産主義に対する弾圧が強化されました。さらに1928年(昭和3年)には「三・一五事件」が発生し、日本共産党をはじめとする左翼運動の活動家が大量に検挙されました。この事件を機に、政府は徹底的な思想統制を進め、共産主義思想を持つ者への監視を強めました。
こうした状況の中で、河上は単なる学問的研究だけでは社会の変革は不可能であると考えるようになります。『資本論入門』を通じて多くの読者に影響を与えたものの、それだけでは資本主義の問題は解決されず、政府による抑圧はますます強まっていました。彼は「理論を現実に適用しなければならない」という強い思いを抱き、ついに実践活動に踏み出す決意を固めます。
そして、1931年(昭和6年)、河上は日本共産党に入党しました。当時、共産党は非合法組織として活動しており、党員になることは重大なリスクを伴いました。しかし、河上は「理論だけでは社会は変わらない」と考え、政府の弾圧を覚悟の上で共産主義運動に身を投じたのです。
特高警察による逮捕と厳しい取り調べ
河上の日本共産党入党は、特高警察(特別高等警察)にすぐに察知されました。特高警察は、共産主義者や社会主義者を取り締まるために設立された秘密警察であり、過酷な取り調べや拷問を行うことで悪名高い組織でした。河上はかねてから監視対象となっており、彼の入党が確認されると、当局はすぐに逮捕に踏み切ります。
1933年(昭和8年)5月、河上肇は京都帝国大学の自宅で逮捕されました。逮捕当時、彼はすでに病を患っており、身体は衰弱していました。しかし、特高警察は彼に対して容赦ない取り調べを行いました。特高警察の尋問は苛烈を極め、長時間にわたる取り調べや精神的圧力が加えられました。
当局が特に問題視したのは、河上が共産主義の理論を広める役割を担っていたことでした。彼の影響力は学界だけでなく、労働者や知識人層にも広がっており、政府にとっては危険な存在とみなされていました。そのため、彼を取り調べる際には、彼の理論的背景や支援者について徹底的に尋問されました。
しかし、河上は取り調べに対して一貫して冷静な態度を取り、共産主義に関する自身の信念を変えることはありませんでした。彼は「自らの思想は理論的に正しく、社会の発展にとって必要なものだ」と主張し続けました。この姿勢は特高警察を苛立たせ、彼への弾圧は一層厳しくなりました。
裁判の過程と4年半の獄中生活
河上の逮捕後、彼は裁判にかけられました。裁判では、彼の学問的業績や人格を擁護する声もありましたが、政府は社会主義思想を広めたことを重罪とみなし、厳しい処罰を求めました。結果として、1933年(昭和8年)の裁判で河上には懲役刑が言い渡され、彼は4年半の獄中生活を送ることになりました。
獄中での生活は過酷なものでした。彼は持病を抱えており、栄養不足や医療の不足に苦しみながらの生活を強いられました。それでも彼は獄中で思索を続け、後に『獄中記』としてまとめられる日記や漢詩を記しながら、精神を保ち続けました。彼にとって、獄中生活は単なる苦難の期間ではなく、自らの思想を深める時間でもあったのです。
特に、彼は漢詩を通じて自身の思想や苦悩を表現しました。河上は幼い頃から漢詩に親しんでおり、獄中での孤独や理不尽な扱いの中でも詩を詠むことで精神の安定を保っていました。彼の詩には、「己の信念を貫くことの重要性」や「自由への渇望」が力強く込められており、後に彼の思想的遺産として評価されることになります。
また、彼の獄中生活は、外部の知識人層にも大きな影響を与えました。多くの学者や文化人が彼の釈放を求める声を上げ、政府に対する批判が高まりました。しかし、政府は彼を危険視し、釈放には応じませんでした。
こうして、河上肇は獄中での4年半を過ごし、次第に健康を悪化させながらも、最後まで自らの思想を曲げることはありませんでした。彼の信念は、獄中でも変わることなく、日本社会に対する鋭い洞察を持ち続けたのです。
獄中での思想探求と創作活動
獄中での生活と健康悪化の実態
1933年(昭和8年)に投獄された河上肇は、4年半にわたる獄中生活を余儀なくされました。収監されたのは京都刑務所であり、そこでは政治犯として厳しい監視のもとで生活することになりました。彼はもともと健康が優れず、獄中での生活環境がさらにその体調を悪化させました。
刑務所内の生活は極めて過酷でした。食事は粗末で、栄養不足により体力が衰えていきました。特に冬場は寒さが厳しく、暖房設備のない牢獄で体を冷やすことがしばしばありました。また、長時間の独房生活による孤独も精神的な苦痛となり、心身ともに厳しい状況に置かれました。それでも彼は持ち前の精神力を発揮し、自らの思想を見つめ直す時間としてこの期間を活用しようとしました。
刑務所の規則により、外部との自由な通信や書籍の閲覧は厳しく制限されていましたが、それでも彼は許された範囲で読書を続け、思索を深めました。また、面会に訪れた家族や支援者からの情報を頼りに、日本国内外の社会情勢についての知識を得ていました。こうした厳しい状況の中で、彼は独自の方法で思想を深化させていきます。
漢詩による思想表現と精神の支え
獄中において、河上が最も力を注いだのが漢詩の創作でした。彼は幼少期から儒学や漢籍に親しんでおり、漢詩を詠むことで自身の思想や心境を表現する術を身につけていました。獄中においても、紙と筆が与えられた際には漢詩を記し、自らの信念や苦悩を詩の形で表現しました。
彼の詠んだ漢詩には、獄中生活の孤独や自由への渇望が綴られています。また、自らの信念を貫く決意を示した詩も多く、弾圧を受けても屈しない強い意志が感じられます。たとえば、彼が詠んだ詩の一節には次のようなものがあります。
「身は獄に在りとも、心は自由なり」
この言葉は、彼の内面的な自由と精神の強さを象徴しています。どれだけ肉体が拘束されても、思想の自由だけは奪われないという信念が込められていました。
また、彼の詩は単なる個人的な表現にとどまらず、同じように弾圧を受けた人々への励ましの意味も持っていました。彼は「獄中の同志たちへ」と題した詩を詠み、共に投獄された仲間たちに向けて、「正しい道を歩むことに誇りを持て」と訴えました。こうした詩は、後に多くの知識人や社会運動家の間で共有され、彼の精神的な遺産として受け継がれていきます。
『獄中記』に刻まれた信念と覚悟
獄中生活の中で、河上は自らの経験を記録し、それをまとめたのが『獄中記』です。これは単なる日記ではなく、彼の思想の集大成とも言える書物であり、弾圧に屈しない精神の証として後世に残されました。
『獄中記』には、彼が獄中で経験した苦難や、監視下での思索の過程が詳細に綴られています。特に印象的なのは、彼が自身の信念について書いた部分です。
「私の信じる道が誤っているのならば、何が正しいのか。真理を求めることをやめることこそ、私にはできない。」
この言葉は、彼が最後まで自らの思想を曲げることなく生き抜いたことを示しています。政府の弾圧によって多くの知識人が転向を余儀なくされる中、河上は最後まで信念を貫きました。
また、『獄中記』には、自身が学んできたマルクス主義の理論や、日本社会の問題点についての考察も含まれています。彼は、資本主義がもたらす矛盾を改めて分析し、日本における社会主義の未来についての展望を述べています。この書は、後に社会科学者たちの間で重要な研究資料とされることになりました。
1937年(昭和12年)、河上は健康状態の悪化を理由に釈放されました。しかし、彼の体はすでに病に蝕まれており、完全に回復することはありませんでした。それでも彼は、残された時間を社会のために費やそうとし、戦後に向けた新たな希望を模索し続けました。
戦後の希望と迎えた最期
戦後の社会改革への期待と葛藤
1937年(昭和12年)、河上肇は健康悪化を理由に釈放されました。しかし、4年半に及ぶ獄中生活によって体は衰弱し、以前のような精力的な活動を行うことは困難でした。それでも、彼は残された時間を使い、日本の未来について思索を続けました。
1945年(昭和20年)、日本は第二次世界大戦に敗北し、戦後の民主化が進められることになります。戦前、特高警察による弾圧を受けていた社会主義者や共産主義者は戦後に復権し、マルクス主義を掲げる運動が勢いを増しました。この流れは、長年社会改革を訴えてきた河上にとって、一筋の光明のように映りました。
しかし、彼の心には複雑な思いもありました。戦後の改革が急速に進む中で、共産主義運動の内部にも対立が生まれ、日本共産党の路線をめぐる論争が激化していました。特に、ソ連型の共産主義を推し進める路線と、日本独自の社会主義を模索する路線との間で意見が分かれ、河上はその行方を冷静に見つめていました。
また、日本の社会改革が資本主義の枠内で進められることに対しても、河上は限界を感じていました。労働者の権利は以前よりも認められるようになったものの、根本的な経済構造の変革はなされず、彼が獄中で思い描いたような社会主義的な理想には程遠い状況でした。こうした現実の中で、彼は戦後の日本がどのように進むべきかを思索し続けました。
病状悪化と栄養失調による苦難
釈放後の河上は、長らく住み慣れた京都を離れ、故郷の山口県に戻りました。しかし、獄中での厳しい生活による健康悪化は深刻で、体力の衰えが進んでいました。特に胃腸の不調に悩まされ、食事を満足に摂ることも難しくなっていました。
さらに、戦争の影響で日本全体が食糧難に陥っており、十分な栄養を取ることができない状況でした。河上の家族も食糧を確保するのに苦労しており、彼自身も次第に衰弱していきました。戦後の新しい時代を迎えたにもかかわらず、彼は病と飢えに苦しみながら日々を過ごしていました。
この頃、彼は多くの知識人やかつての教え子たちと手紙のやり取りをしながら、自らの思想を伝え続けました。しかし、病状は次第に悪化し、1946年(昭和21年)1月30日、67歳で息を引き取りました。
彼の最期は静かなものでしたが、彼が生涯をかけて追い求めた理想は多くの人々に影響を与えました。戦後の日本における社会主義思想の発展や、貧困問題への関心の高まりは、河上の遺した思想の賜物と言えるでしょう。
最期の言葉と後世に遺したもの
河上肇の最期の言葉として伝えられているのは、
「人は貧しくとも、志を高く持たねばならない。」
というものでした。これは、『貧乏物語』を通じて彼が生涯訴え続けた信念を象徴する言葉でもあります。彼にとって、貧困とは単に物質的な問題ではなく、精神的な問題でもありました。社会の仕組みを変えることはもちろん重要ですが、それと同時に、貧しさに屈しない精神を持つことも大切だと彼は考えていたのです。
彼の死後、その思想は多くの人々に受け継がれました。彼の著作は戦後も読み継がれ、特に『貧乏物語』や『資本論入門』は、日本における社会経済学の基礎を築いた重要な書として位置づけられています。
また、彼の獄中での記録である『獄中記』は、戦前の思想弾圧の実態を伝える貴重な資料となりました。戦後の日本では、民主主義と社会主義の両面から社会改革が進められましたが、その中で河上の思想は、社会の不平等をなくし、すべての人が平等に生きられる社会を目指すための道標となりました。
こうして、河上肇は戦後の日本を直接目にすることなく亡くなりましたが、彼の思想は多くの人々の心に生き続けました。
河上肇の思想と学問的遺産
『河上肇・自叙伝』に綴られた生涯と哲学
河上肇は、晩年に自身の人生を振り返る形で『河上肇・自叙伝』を執筆しました。本書は、彼の生い立ちから学問的探求、社会問題への関心、獄中生活に至るまでの軌跡を詳細に記した貴重な記録です。特に、彼がどのようにして学問に目覚め、社会の不平等に疑問を抱き、最終的にマルクス主義に傾倒していったのかが丁寧に語られています。
本書の特徴は、単なる回顧録ではなく、彼の思想がどのように形成されていったのかを、読者が追体験できる点にあります。例えば、彼が幼少期に士族としての誇りを持ちながらも貧困の現実に直面し、それが『貧乏物語』の執筆につながったことや、京都帝大での研究が『資本論入門』へと発展した経緯などが具体的に記されています。
また、獄中生活についての記述では、過酷な環境の中でも精神を保ち続けるためにどのような思索を重ねたのかが描かれています。彼は「思想は肉体を超える」という信念のもと、自由を奪われた状況でも学問を続け、自身の内面を深めていきました。これらの記述は、彼が単なる学者ではなく、信念を貫く実践家であったことを示しています。
『河上肇・自叙伝』は、戦後に出版され、多くの人々に読まれました。特に、社会変革を目指す若い世代の知識人にとっては、自らの生き方を考える上での重要な指針となりました。彼の思想と実践の軌跡は、現代においても学ぶべき点が多いものとして評価されています。
『河上肇全集』に見る学問的貢献
河上肇の学問的遺産は、彼の著作をまとめた『河上肇全集』全36巻に集約されています。この全集には、彼の主要な著作である『貧乏物語』、『資本論入門』、『獄中記』をはじめ、論文や講義録、書簡などが収録されており、彼の思想の全貌を知る上で極めて重要な資料となっています。
彼の学問的貢献の中で特に注目されるのは、日本におけるマルクス経済学の体系化です。彼は単なる輸入学問としてのマルクス主義を紹介するのではなく、日本の社会状況に即した形で理論を発展させました。特に、彼の研究には以下のような特徴があります。
- マルクス経済学のわかりやすい解説 『資本論入門』では、難解な『資本論』の内容を整理し、日本の読者に理解しやすい形で提供しました。この本は、戦前から戦後にかけて多くの読者に影響を与え、日本の社会科学の発展に寄与しました。
- 社会問題への具体的なアプローチ 『貧乏物語』では、理論だけではなく、実際の社会問題に即した形で経済学を応用し、貧困の本質を解明しました。この点は、のちの日本の社会政策研究にも大きな影響を与えました。
- 教育者としての影響力 京都帝国大学では、多くの学生に経済学の基礎を教え、後進の育成に力を注ぎました。彼の教えを受けた学生の中には、戦後の社会科学の発展に貢献した学者も多く、その影響力は計り知れません。
『河上肇全集』は、彼の生涯を通じた学問的成果の集大成であり、日本の経済学史において重要な位置を占めています。戦後も彼の著作は再評価され、特に社会経済の不平等が問題視される時代には、再び多くの読者に読まれるようになりました。
『不屈の知性』が描く彼の人物像と評価
河上肇の生涯と思想は、小林栄三の著書『不屈の知性』に詳しく描かれています。本書は、彼の学問的業績だけでなく、獄中での信念の貫き方や、戦後の社会変革に対する考え方まで幅広く扱っています。
特に、河上の人物像についての描写は印象的です。彼は単なる理論家ではなく、実際に社会の不平等を目の当たりにし、それを是正するために行動した学者でした。小林は、河上の生き方を次のように評価しています。
「河上肇は、学問と実践を一体化させた希有な知識人であった。」
これは、彼が単に書斎の中で理論を研究するのではなく、貧困問題の解決や社会改革の実現を強く意識していたことを示しています。実際に、日本共産党への入党や獄中での思想探求は、彼の行動が理論に裏付けられたものであったことを証明しています。
また、『不屈の知性』では、彼の思想が現代にどのように受け継がれているかについても論じられています。戦後の日本は資本主義体制のもとで経済成長を遂げましたが、その過程で格差の拡大や貧困問題が再び浮上しました。こうした現代社会においても、河上の思想は決して過去のものではなく、むしろ新たな視点を提供するものであると評価されています。
このように、河上肇の学問と思想は、彼の死後も多くの人々に影響を与え続けています。彼が生涯をかけて追求した「貧困のない社会を実現する」という理想は、現代においても重要なテーマであり、彼の遺した著作や思想は、今なお学ぶべき価値を持ち続けています。
河上肇の生涯から学ぶもの
河上肇は、学問と社会改革を結びつけた稀有な知識人でした。彼は経済学を通じて社会の不平等を分析し、『貧乏物語』や『資本論入門』を著して多くの人々に影響を与えました。京都帝国大学では教育者として後進を育てる一方、マルクス主義に傾倒し、日本共産党に入党することで実践的な行動へと踏み出しました。しかし、それが政府の弾圧を招き、獄中での過酷な生活を余儀なくされました。それでも彼の思想は揺らぐことなく、『獄中記』や漢詩を通じて自身の信念を表現し続けました。
戦後、彼が望んだ社会改革は一定の進展を見せましたが、資本主義の課題は今なお残されています。貧困や格差の問題が続く現代において、河上の思想は決して過去のものではなく、新たな示唆を与えるものです。彼の学問と実践の精神は、社会の在り方を問い直す上で、今後も重要な意義を持ち続けるでしょう。
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