こんにちは!今回は、幕末の長州藩出身で明治政府の官僚、「造幣の父」と称された遠藤謹助(えんどう きんすけ)についてです。
伊藤博文らとともに命懸けで密航留学を果たし、西洋の最新造幣技術を日本に持ち帰った彼は、近代的な貨幣制度の確立に尽力。大阪造幣局の創設や「桜の通り抜け」の発案など、技術と文化の両面で新時代の日本に大きな影響を与えました。
そんな遠藤謹助の波乱に満ちた生涯をたっぷりご紹介します!
幼少期の環境が育んだ遠藤謹助の学びの芽生え
天保7年生まれ、長州藩士の家系に生まれる
1836年(天保7年)、遠藤謹助は長州藩士・遠藤兵庫の次男として、萩の地に生まれました。遠藤家は藩政の中核に属するような上級武士ではありませんでしたが、藩内で安定した職責を果たす中堅階層に属していたと考えられます。長州藩は江戸時代後期においても教育熱心な藩として知られ、藩士の家庭では子弟に基本的な教養を身につけさせることが当然視されていました。遠藤家もそうした環境に身を置いていたことから、謹助が幼少期から書物や筆記に親しむような素地があったと推測されます。家族構成や具体的な教育方針についての詳細は多くが不明ですが、長州藩士の家庭として一定の学びの風土の中にあったことは確かです。母についての記録はほとんど残っていませんが、家庭全体で教養を重んじる価値観が共有されていた可能性が高いといえるでしょう。
幼名・松雲、幼少から学問へ関心を抱く
幼少期の遠藤謹助は「松雲(しょううん)」という名で呼ばれていました。この名には、「雲のように柔らかく、たおやかに育つことを願う心が込められていた」とも考えられます。彼が幼い頃から書物に対して関心を抱いていたことは、当時の武士階級の子弟教育の一環として十分に想像される光景です。漢籍や儒教の経典を手にすることは、武士の教養として求められるものであり、謹助もそうした基礎的な素養を身につけていったと見られます。具体的な逸話は伝わっていませんが、彼の後年の学識や思考の深さからは、幼少期から書を手に取り、学ぶ姿勢を身につけていた可能性が高いと考えられます。書き写しや感想の記述といった行動も、当時の子弟教育としてごく自然なことであり、謹助もそれに倣って日々の学びを深めていたことでしょう。
家族の支えによる読書と知識欲の深まり
遠藤謹助が知識への関心を深めていった背景には、家族の支えがあったと推測されます。父・遠藤兵庫は藩政に従事する実務的な立場にありながら、家庭でも子に対して学問を奨励していた可能性が高いとされています。兄弟の存在もまた、謹助の学びに刺激を与えた要因の一つだったかもしれません。遠藤家に特定の書籍が揃っていたという記録はありませんが、武士の家庭として、最低限の教養書を所持し、それを用いて日々学ぶ環境が整っていたと考えられます。こうした環境の中で、謹助は読書を重ねながら、自身の知的関心を広げていったのでしょう。学びを「義務」ではなく「喜び」として受け止めていたとする見方もありますが、これもまた、当時の教養重視の家庭に育った少年として自然な姿といえます。家庭という最も身近な学びの場が、のちの彼の大きな歩みの礎になったことは想像に難くありません。
明倫館で開花した遠藤謹助の志と知識
藩校・明倫館で英学と洋学に目覚める
遠藤謹助は長州藩の藩校・明倫館に進学し、ここで本格的に学問の世界へと踏み込んでいきます。明倫館は儒学を教育の中心に据えていたものの、幕末の時代状況を受け、蘭学や洋学といった新たな学問の導入を積極的に行っていました。謹助が学んだ時期には、特に英語を通じた西洋の科学・技術への関心が高まりつつあり、彼もまたその潮流の中で洋学に心を動かされたと考えられます。遠藤が英語学習に取り組んでいたことは、のちの英国留学の選抜背景からも十分に推測可能であり、彼の知的志向は徐々に国際的なものへと広がっていきました。当時の若者の多くが英単語の習得や辞書の利用に熱心であったことから、謹助も同様に言語の壁に挑みながら、自身の知識の幅を広げていたと思われます。このような取り組みが、後の造幣技術への理解力の土台となったことは想像に難くありません。
航海術修得と藩船「壬戌丸」の航海体験
謹助は学問に加え、実地の訓練においても重要な経験を積んでいきました。長州藩が洋式軍事技術や航海術の導入に力を入れていた中で、彼は藩所有の洋式軍艦「壬戌丸(じんじゅつまる)」に乗船する機会を得たとされます。この船は、藩士の訓練や海上の監視任務などに使われており、謹助もその乗船によって航海術の基礎に触れたと考えられます。当時の訓練内容からすれば、帆の操作や測量技術、海上での方位確認などの技能を学んだ可能性が高く、実際に海に出ることで、書物では得られない感覚的な知識も身につけたことでしょう。特に、海という未知の広がりに対する経験は、若き謹助にとって視野を拡張する貴重な体験となったと見られます。こうした実地学習は、のちに彼が西洋へ目を向ける際の精神的な基盤にもなったといえます。
国禁を破る決意を抱いた思想の形成
明倫館での学問と航海訓練の経験を通じて、遠藤謹助の中には、次第に「日本の外へ出て、より広い世界を直接見る必要がある」という認識が育っていったと推測されます。当時の日本は列強諸国の圧力にさらされており、若い藩士たちの間には危機感と好奇心が入り混じった思考が広がっていました。謹助もその一人として、西洋の技術や思想と、日本の現状との隔たりに強い関心を抱いていたことでしょう。彼が英語を学び、技術に関心を持ち続けた背景には、単なる知識の吸収ではなく、それを実際に見て、触れて、理解する必要があるという志が芽生えていたと考えられます。国禁であった海外渡航を決意するには、明確な思想的動機と強い内的確信が求められます。謹助の中にその土壌が形成されつつあったことは、後の密航という行動を見れば十分に読み取ることができるのです。
長州ファイブの一員として密航に踏み出す遠藤謹助
密航メンバーに選出された経緯と背景
1863年(文久3年)、長州藩は幕府の禁制を破り、若き藩士5名をイギリスへ密航させるという極めて異例の決断を下しました。この計画は、藩の上層部である周布政之助らが主導したものであり、西洋の技術と制度を早急に学ばせることで藩の自立と強化を図る意図がありました。藩主・毛利敬親とその養子・毛利定広の了承のもと、慎重かつ秘密裏に準備が進められます。遠藤謹助が選出された背景には、航海術に対する経験や英語への関心、また当時27歳で最年長だったことからくる実務的な信頼感があったと考えられます。明倫館での学びや藩船壬戌丸での航海経験も、実地の能力として評価されていたと見られます。こうして彼は、藩の未来を担う技術者候補として、歴史的な密航の一員に名を連ねることとなりました。
ロンドン渡航に至る困難と覚悟の道のり
遠藤謹助ら5名の若者たちは、長崎から密かに出港し、上海を経由してロンドンを目指しました。幕府の鎖国政策の下、密航は重大な禁忌であり、発覚すれば切腹を命じられることも想定されていました。さらに、航海そのものも命がけでした。帆船による長距離移動は、食糧や水の不足、衛生環境の劣悪さ、病気や天候による遭難の危険など、あらゆる困難が伴います。こうした中で、遠藤たちは互いに励まし合い、重圧と不安を抱えながらも一歩一歩前進していきました。限られた資金と情報しか持たない彼らにとって、この渡航は未知なる世界への跳躍であると同時に、自らの人生をかけた決断でもあったのです。密航は単なる冒険ではなく、未来の国家建設を見据えた重い選択だったといえるでしょう。
伊藤博文や井上馨らとの信頼と連帯
この密航で共に渡英した4名の仲間――伊藤博文、井上馨、山尾庸三、井上勝――は、のちに「長州ファイブ」と呼ばれ、日本の近代化を牽引する人物となっていきます。当時は藩内でも目立たない若者たちでしたが、それぞれが志を胸に秘め、未知の世界に飛び込んでいきました。遠藤謹助は最年長として、実務面での信頼を得ていたとされ、異国の地での行動にも冷静さを保っていたと記録されています。とはいえ、遠藤は渡英後まもなく肺病を患い、療養生活を余儀なくされました。そのため、伊藤や井上馨らと異なり、共に学ぶ機会は限られていたと考えられます。それでも、5人の間には「知をもって国に報いる」という共通の志があり、それが彼らの関係を深く結びつけていました。遠藤は後に、技術者として日本の貨幣制度を支える立場に立ち、他の4人とは異なる角度から国家に貢献することとなります。
英国での学びがもたらした遠藤謹助の技術的視野
イングランド銀行での紙幣印刷技術への関心
1864年1月、遠藤謹助はロンドンのイングランド銀行を訪問し、当時の最先端であった紙幣印刷技術の現場を視察しました。そこでは機械による大量印刷が行われ、複雑な模様や特殊インクを用いた偽造防止策など、技術と制度が密接に連携していたことを目の当たりにしました。これにより遠藤は、紙幣が単なる印刷物ではなく、国家の信用を土台とする制度の中核であることを深く認識したと考えられます。日本ではまだ紙幣が本格的に発行される前の段階であり、この経験は彼にとって制度設計の重要性を理解する契機となりました。視察を通じて得た知見は、後の造幣制度改革に向けた彼の思考を大きく方向づけることとなったのです。
ロンドン造幣局で学んだ制度と技術の整合性
同じくロンドン滞在中、遠藤は王立造幣局(Royal Mint)も訪れています。ここでは、金属貨幣の鋳造から検査、刻印、包装に至るまでの一貫した工程が高度に分業化されており、それぞれが専門の職人や機械によって管理されていました。特に、測定や品質検査の厳密さは、遠藤に大きな衝撃を与えたとされています。当時の日本では、藩ごとに異なる貨幣単位が流通しており、全国的な経済の統一は大きな課題となっていました。こうした背景から、遠藤は英国の造幣制度を単なる技術体系ではなく、「国家制度」として理解したと推測されます。この時に得た制度運用の実像は、彼が帰国後に手がける日本の造幣行政において、単なる模倣ではなく独自の制度設計へとつながっていく礎となったといえるでしょう。
肺病療養と制限下で続けた情報収集
一方で、遠藤謹助の英国滞在は健康面での試練にも満ちていました。渡英後しばらくして彼は肺病を患い、療養のためロンドン市内の別邸に移り、静養を余儀なくされます。井上馨が本国に宛てた書簡には、その様子が記録されており、活動範囲が制限されていたことが明らかです。ほかの仲間たちがロンドン大学で学ぶ中、遠藤は現場への頻繁な視察は困難だったものの、宿所での読書や文献の整理など、可能な範囲での情報収集に努めていたと考えられます。このような環境下でも知識への関心を持ち続けた姿勢は、彼の誠実な気質を示すものであり、帰国後すぐに大蔵省に出仕し、実務の第一線で活躍する礎となったのです。遠藤にとってこの英国滞在は、身体的には苦難の時期でありながら、知識と制度観を深める濃密な時間でもありました。
日本の近代造幣を切り拓いた遠藤謹助の実践と苦悩
英海軍提督来日時の通訳としての外交活動
1866年(慶応2年)、英国海軍提督ジョージ・キングが長州藩を訪問した際、遠藤謹助は井上馨とともに通訳としてその場に同席しました。英国留学を終えたばかりの遠藤にとって、語学力と英国事情への理解を活かす初の実務機会となりました。この訪問は、藩主・毛利敬親・定広父子との会見という外交的な位置づけを持ち、幕末の国際関係の中でも注目される場面でした。遠藤の役割は主に通訳でしたが、英国との文化的な橋渡し役として期待されていたと考えられます。この経験は、彼の国際的視野と実務能力が評価される契機となり、のちに中央官庁での登用につながる素地となったと見ることができます。通訳という立場であっても、現場での対応力と冷静な判断力は、後年の制度構築においても生きていく重要な素養であったといえるでしょう。
大蔵省出仕と「造幣権頭」への任命
明治2年(1869年)、遠藤謹助は新政府の大蔵省に出仕し、翌明治3年(1870年)には大阪造幣寮の創設に際して「造幣権頭」に任命されました。この役職は、当時の日本にとって近代的な通貨制度を確立するための要となる存在であり、遠藤には英国での実務経験と制度知識を活かすことが強く求められました。大阪造幣寮では、西洋式の貨幣鋳造技術を導入するため、機械の設計や人員配置、工程管理などに関して実務面での調整が必要でした。遠藤はその中核として制度設計や現場の管理体制づくりに従事し、外国人技術者と日本側技術者との間に立って多くの課題解決を担いました。ただし、こうした取り組みは遠藤単独によるものではなく、井上馨らの政治的後ろ盾や、英国人技師キンドルら専門家との協働によって成り立っていたことも見逃せません。遠藤の立場は、現場を運営する「技術官僚」としての性格を色濃く帯びていました。
トーマス・キンドルとの対立と辞任劇、その後の再任と制度改革への情熱
大阪造幣寮の運営が本格化する中で、遠藤は英国人技師トーマス・ウィリアム・キンドルとの対立に直面します。キンドルは自らの判断で現場運営を進める場面が多く、日本側の意見や事情を軽視する傾向があったとされています。一方の遠藤は、造幣制度を日本の現実に適応させる必要性を訴え、外国人の独断に対する批判を強めていきました。両者の意見の対立は主に人事や工程管理の方針に集中し、最終的に遠藤は1874年(明治7年)、その職を辞するに至ります。この辞任は、制度と技術の両立を模索する中での苦渋の選択であり、彼にとっても大きな転機となりました。7年後の1881年(明治14年)、遠藤は造幣局長として再任され、日本人中心の技術体制の確立や機械の国産化、制度の簡素化といった改革に着手します。これらの施策は、彼のもとで技術と制度を融合させようとした努力の結晶であり、近代日本の貨幣制度における実務基盤を築く上で大きな意義を持つものでした。改革は決して個人の手柄ではなく、多くの技術者・官僚の協力によって成し遂げられたものでしたが、遠藤の再登場はその歩みを加速させる強い推進力となったのです。
技術の国産化を実現した遠藤謹助の手腕
1889年、新銅貨の鋳造に成功した技術力
1889年(明治22年)、日本の造幣技術における画期的な成果として、新たな銅貨の鋳造が成功を収めました。この貨幣は、鋳造から検品、発行に至るまでの全工程を日本人技術者だけで完結させた初の事例とされ、遠藤謹助の技術指導と組織運営の成果を示すものです。使用された機械は、香港から購入された中古設備を改良して運用されたものであり、完全な国産ではありませんでしたが、技術者による独自の操作・管理により運用面での自立性は大きく向上しました。遠藤は、こうした成果を一過性のものにせず、品質基準の整理や工程の効率化にも努めていたとされます。この成功により、日本の造幣局はようやく本格的に技術的自立を果たす段階に入り、制度と技術が一体となった運営体制が構築され始めました。
薬品や機械の自給自足体制の構築
遠藤はまた、貨幣製造に不可欠な薬品や機械部品の自給体制の整備にも注力しました。鋳造に用いられる潤滑油や洗浄剤、腐食防止剤といった工業薬品は、それまで主に輸入に頼っていましたが、遠藤の主導で局内技術者と協力し、これらの調合・製造方法を国内で確立。これにより安定的な供給が可能となり、製造工程の持続性が高まりました。また、小規模な機械製作部門を局内に設置し、日常的な修理や部品交換に対応する体制も整備。これらの取り組みは、造幣事業の内製化と運営の柔軟性を支える基盤として機能し、近代工業の自立に向けた先駆的な施策として評価されます。遠藤のこうした地道な改善努力が、後年の制度的安定と生産能力の向上につながっていくことになります。
若手技術者の育成と技能伝承に尽力
遠藤謹助はまた、後進育成の必要性を早くから認識し、技術伝承のための教育体制を組織的に整備していきました。彼の主導により、造幣局内では技術研修や教育制度が設けられ、いわば「造幣学研究会」のような形式で若手技術者への知識継承が行われました。ここでは、遠藤が英国で得た知見を基に、日本の実情に合わせた教材や訓練内容が準備され、単なる手技ではなく制度と技術の関係を理解する人材の育成が目指されました。遠藤自身が直接教育に関わった記録は少ないものの、体系的な教育方針を築いたことは確かであり、それが結果的に近代造幣技術の基盤を成していきます。彼の姿勢は、技術の継承とは単なる技能の伝達にとどまらず、「制度の担い手」を育てるという視座を持ったものであったと評価できるでしょう。
遠藤謹助の晩年と造幣の父としての遺産
造幣局長としての11年にわたる統治と具体的施策
1881年(明治14年)、遠藤謹助は大阪造幣局長に任命されました。当時46歳。英国で学んだ知識と、現場で培ってきた経験の集大成が求められる時期でした。就任時の造幣局は、製造精度の確立や制度の整備という課題を抱え、近代化の中継地点に立っていました。遠藤はそこに、新しい秩序を持ち込もうと試みます。
彼がまず着手したのは、貨幣の品質基準の徹底でした。1885年頃には、貨幣の厚さや重量の誤差を±0.01ミリ以内に収める制度を導入。これは当時としては世界的にも極めて厳格な基準でした。さらに、製造過程で発生する不良品については、年次ごとに原因を分析し、その結果を全員が共有する報告書として制度化。こうした試みは、制度そのものが現場の気づきから変化し続けるよう設計されており、単なる命令系統にとどまらない、自発性を内包する体制が生まれていきました。
この11年間、遠藤は毎年のように工程を見直し、技術水準を段階的に引き上げていきました。改善の余地があるところには、厳しくも丁寧な介入を行い、職人たちが自らの手で制度を運用し続けられるよう働きかけました。彼にとって制度とは、固定された設計図ではなく、現場とともに成熟していくひとつの営みだったのです。
国家が認めたその生涯──「造幣の父」という評価の成立
1893年(明治26年)7月11日、遠藤謹助は肺炎により58歳でこの世を去りました。亡くなるまで現場に立ち続け、細部にまで目を光らせていた彼の姿は、局員たちの記憶に強く刻まれています。政府は彼の死去後、その功績を速やかに公文書に記録し、官報にも詳細な経歴が掲載されました。翌年以降に編纂された『財政日本国誌』では、遠藤の制度設計が近代国家の信頼構築にどれほど貢献したかが述べられ、その業績は広く知られるようになります。
こうして、遠藤には「造幣の父」という呼称が与えられました。この呼び名は、ただの技術者や官僚への敬意にとどまらず、仕組みそのものを創出し、運用できる人材を育てる構想力に対する評価でもあります。葬儀には局員全員が喪に服し、その後に建立された墓碑には「貨幣制度の礎を築いた者」としての言葉が刻まれました。
彼の働きは、ただ時代を支えたというだけではありません。制度という枠組みにも、そこに関わる人々にも、変化に耐えうる力を宿す構造を与えました。その構造が後に再び変わるとき、土台となる原理は彼の時代から受け継がれているのです。
遠藤が残した制度の根──後進への継承と未来への布石
遠藤が生涯をかけて築いた仕組みは、今も形を変えながら活きています。とりわけ、品質管理や技術報告の手法、工程ごとの責任分担制度などは、後に多くの製造現場へと波及しました。年ごとの技術報告書や業務総括書の体系も、彼の設計した制度が原型です。現場での実務が、単なる作業ではなく考察と改善を前提としたものになった背景には、遠藤の構想が確かにあります。
また、彼が創設を後押しした教育制度──通称「造幣学研究会」──では、実務と制度の双方を理解する人材を育てるため、英国で得た知識を日本流に翻訳した教材が使われました。研究会の運営方針には、「言われた通りに動く者ではなく、自ら制度を支え直せる者を育てる」という明確な意図が読み取れます。
彼の仕組みが今も維持されているのは、制度のなかに「変わることを前提とする仕掛け」が組み込まれていたからでしょう。移り変わる時代のなかで、制度や技術はただ続くだけではすぐに陳腐化します。遠藤の制度が今も通用しているのは、それが完成を目的としたものではなく、問い続ける構造そのものだったからにほかなりません。
書物と映像で描かれる遠藤謹助の人物像
『きらり山口人物伝 Vol.9』などでの教育的紹介
『きらり山口人物伝 Vol.9』では、遠藤謹助が山口県にゆかりの深い人材として紹介されています。地域の教材として、小中学生にも読みやすい文章で彼の功績が語られ、特に「造幣局で新銅貨を造った技術者」「地元出身で世界を見据えた人物」として描かれています。ここでは、難解になりがちな造幣制度や品質管理といった技術的な話が、イラストや容易な例を織り交ぜながら解説され、遠藤が地元の子どもたちにも目標となる存在として位置づけられています。教育的観点からは、彼が専門分野を突き詰めた上で、誰にでも理解可能な方法で伝えようとする姿勢や、地元への誇りを持って帰郷しようとした思いが強調されており、その存在は単なる歴史上の人物ではなく、学びと地域に根ざす実践家として再構築されています。
『その後の長州五傑』における学術的分析
松野浩二氏による『その後の長州五傑』(東洋図書、2011年)は、伊藤博文・井上馨らと共に語られる長州ファイブ全体に関する学術書です。ここで遠藤謹助は、他の五傑と比べ経済・制度分野での専門性に優れていた人物として位置づけられています。特に、帰国後の造幣制度改革においては、「実務と理論をつなぐ橋渡し役を果たした」と分析され、教養と実行力のバランスが評価されています。学者としての松野氏は、造幣局の内部文書や当時の報告書をもとに、遠藤が制度設計や人材育成にどれほど深く関わったかを示し、その結果として「制度官僚としての新たな類型」を築いたと結論づけています。こうした専門書は、趣味的な読み物とは異なり、一次資料に基づく緻密な事実の積み上げによって、遠藤の制度観・戦略的視点を明確に浮かび上がらせている点が特徴です。
映画『長州ファイブ』に描かれる密航と造幣の物語
2006年公開の映画『長州ファイブ』では、遠藤謹助はやや脇役的存在として登場しますが、その存在感は確かです。物語は密航や英国渡航、そして帰国後の造幣制度までの流れを描く中で、遠藤は航海術や造幣知識を身に付ける若き技術者として描かれています。密航船内での緊張感やロンドンでの技術視察などが、ドラマチックに表現され、視聴者は彼の成長や葛藤に共感を抱きます。造幣局の場面では、技術者仲間との連帯感や職人としての矜持が短いセリフや演出で示され、制度的な背景を知らない観客にも、「なぜ彼らが帰国後に制度構築に奔走したのか」が伝わるようになっています。こうした映像の中では、史実としては軽く触れられるに留まる人物像が、感情と物語の流れを通じて現代に再演され、「造幣の父」としての人間的な側面を印象づける役割を果たしています。
遠藤謹助が遺したもの──技術と志の交差点に立って
遠藤謹助の人生は、激動の幕末から明治へと続く時代の中で、日本が西洋技術とどう向き合うかを体現した軌跡そのものでした。航海術から始まり、ロンドンでの造幣制度の吸収、そして帰国後の制度設計と技術者育成に至るまで、彼の仕事は一貫して「自ら学び、仲間と育て、国を築く」営みでした。決して表舞台で語られることの多い人物ではありませんが、その静かな足跡は確実に現在の制度や技術文化の根幹に息づいています。多くを語らず、されど深く伝わるその姿勢は、現代においても技術と公共性をめぐる問いに応える示唆を与えてくれます。彼が歩んだ道は、変化のただ中に立つ私たちにとって、どこか見覚えのある風景を映し出しているように思えるのです
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