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赤松満祐の生涯:嘉吉の乱と室町幕府の動揺

今回は、室町時代中期に活躍した武将、赤松満祐(あかまつ みつすけ)についてです。播磨、備前、美作の三カ国を治めた守護大名による将軍殺しの過程を中心に、赤松満祐の生涯についてまとめます。

目次

赤松満祐とは誰か?その家系と背景

赤松満祐は、室町時代中期に活躍した武将で、播磨、備前、美作の三カ国を治めた守護大名でした。彼の家系は、鎌倉時代末期に後醍醐天皇の呼びかけに応じて功績を挙げた有力な一族として知られています。

赤松氏は、当初から皇室との関係が深く、後醍醐天皇の南朝を支える重要な役割を果たしました。満祐の祖父である赤松則村(円心)は、南北朝時代においても南朝側として活躍し、その功績により赤松家は播磨国を中心とした広大な領地を持つに至りました。

具体的には、則村は1336年の千種越えの戦いで活躍し、後醍醐天皇を支援して鎌倉幕府を倒す一翼を担いました。このような背景から、赤松満祐は強大な勢力を誇る守護大名としてその名を馳せました。

後醍醐天皇との関係:鎌倉時代末期の功績

赤松満祐の家系である赤松氏は、鎌倉時代末期に後醍醐天皇と深い関わりを持ちました。特に満祐の祖父、赤松則村(円心)は、後醍醐天皇が鎌倉幕府に対して挙兵した際に重要な役割を果たしました。則村は、天皇の呼びかけに応じて兵を挙げ、1333年の元弘の乱で幕府軍と戦い、天皇の南朝を支援しました。

この戦いで則村は、赤坂城の戦いで幕府軍を撃破し、その功績により赤松氏は後醍醐天皇から信頼を得ることができました。この信頼は、後に赤松氏が播磨国の守護職に任じられる要因となりました。則村の活躍により、赤松氏は南北朝時代を通じて南朝側の有力な武将として活動しました。

このように、赤松氏の発展には後醍醐天皇との関係が大きく寄与しており、満祐もその恩恵を受けた一人でした。

家督継承と赤松満祐の初期の統治

1427年、赤松満祐は赤松氏の家督を継承しました。満祐の統治初期は、平穏なものでしたが、彼の領地を狙う他の大名や幕府との間での権力闘争が常に存在していました。彼はまず、家督を継いだ際に領地の安定を図り、家臣団の統制を強化しました。この時期に行われたこととして、姫路城の整備や農地の拡大などがあります。

また、彼は父である赤松則祐の遺志を継ぎ、赤松家の威信を保つために尽力しました。しかし、その一方で、満祐は将軍足利義持との対立を避けるために苦心しなければなりませんでした。彼の領地を巡る争いは後に大きな波乱を呼び起こすこととなりますが、この時期の満祐は、赤松家の繁栄を維持しつつ、慎重にその地位を守ることに努めていました。

足利義持との対立:赦免までの経緯

赤松満祐が家督を継承した後、彼は将軍足利義持との間で緊張関係を抱えていました。義持は、赤松氏の領地を取り上げようと画策しており、これに対して満祐は大いに反発します。ただしこの時期の満祐は巧妙に立ち回り、義持との対立を表面化させることなく、領地の保持に成功しました。

それでも、彼は自らの家臣団をまとめ上げ、義持の圧力に屈しない姿勢を見せました。家臣たちとの連携を強化し、領内の治安を維持しつつ、経済活動を活発化させます。

最終的に、満祐は義持からの赦免を受け、赤松家の存続と領地の安定を確保することができました。この経験は、後に彼が義教と対峙する際の教訓となり、嘉吉の乱へとつながる重要な布石となりました。

足利義教の強権政治とその影響

足利義教の将軍としての政治は、強権的で知られています。彼は諸大名の力を削ぐために、徹底した中央集権体制を築こうとしました。義教は、自身の権力を確立するために、多くの守護大名を取り締まり、その反発を招きます。特に、赤松満祐に対しては厳しい態度を示し、満祐の領地を縮小しようとしました。

義教の強権政治は、多くの大名たちにとって脅威となり、彼らの不満を募らせました。その中で、義教は1440年に満祐の領地を取り上げる命令を出し、これに対して満祐は強く反発しました。この命令により、満祐は義教との対立を避けることができなくなりました。

義教の強権政治は、満祐を含む多くの大名たちにとって耐え難いものであり、最終的に彼らの反発を引き起こす結果となりました。

嘉吉の乱の背景と経緯

嘉吉元年(1441年)、赤松満祐は、ついに足利義教に対して反旗を翻す決断をしました。義教の強権政治に対する不満が頂点に達した満祐は、他の諸大名たちの協力を期待し、義教を殺害する計画を立てました。

9月、満祐は義教が多くの大名たちの前で行っていた会合の場で、突如として義教を襲撃し、彼を殺害しました。これが「嘉吉の乱」として知られる事件です。この計画には満祐の側近たちも深く関与しており、特に赤松教康や赤松則尚などの家臣が積極的に参加しました。

満祐は、この行動が多くの大名たちの支持を得られると考えていましたが、実際にはその反応は冷淡でした。義教殺害の後、満祐は新しい将軍を擁立しようと試みましたが、その計画は失敗に終わりました。

この事件により、満祐は義教支持派の大名たちから激しい攻撃を受けることとなり、状況は一気に悪化しました。

義教殺害の目的とその背景

赤松満祐が義教を殺害した目的は、主に義教の強権政治に対する反発から来ています。義教は、中央集権化を進めるために諸大名の力を削ぎ、満祐の領地を縮小しようとしていました。満祐にとって、これは自らの家臣や領地を守るためには許容できないものでした。

また、満祐は他の大名たちが同様の不満を抱えていると考え、義教の殺害を機に彼らの支持を得て、新たな政治体制を築こうと考えました。しかし、この考えは甘いものであり、義教殺害後の支持は得られず、計画は失敗に終わりました。

満祐の目的は、義教の強権政治を終わらせ、守護大名たちの権益を守ることでしたが、その方法は過激であり、結果的には自らの命をも危うくすることとなりました。満祐は義教の政策に不満を抱く他の大名たちと密かに連絡を取り合い、共謀を試みましたが、彼らの多くは決断を避けました。

新将軍擁立の試みとその失敗

義教を殺害した後、赤松満祐は新たな将軍を擁立する計画を進めました。彼は、足利義尊を新将軍として擁立し、室町幕府の再編を試みました。この計画の背景には、義教の強権政治に対する大名たちの不満を利用し、新たな政権を樹立する狙いがありました。

しかし、実際には多くの大名たちは義教の殺害に対して冷淡であり、満祐の計画に賛同する者は少なかったのです。さらに、義教の支持派である細川持之らが直ちに反撃に出たため、満祐の計画は短期間で崩壊しました。

義尊の擁立も失敗に終わり、満祐は自身の立場をさらに危うくしました。この試みの失敗は、満祐がいかに現実を見誤っていたかを示しています。結果として、満祐は孤立し、彼に対する討伐の動きが本格化しました。

細川持之らによる討伐と赤松満祐の最期

嘉吉の乱の後、赤松満祐に対する討伐の動きは急速に進みました。義教支持派の大名たち、特に細川持之らは、直ちに満祐を討つための軍を編成しました。

満祐は自らの城に籠城し、抵抗を試みましたが、圧倒的な兵力差の前に劣勢となりました。9月10日、満祐は自害を選び、その生涯を閉じました。彼の死は、嘉吉の乱の終結を意味し、義教支持派の勝利となりました。

満祐の最期は、彼が義教に対して抱いた反発と、そのために取った行動の代償を象徴しています。最期まで家臣たちと共に戦い、自らの信念を貫こうとしましたが、その力は尽きました。彼の死後、赤松氏の領地は没収され、満祐の家系は一時的に没落しました。

しかし、満祐の行動は室町幕府の権威を揺るがし、守護大名たちの力を再認識させる契機となったことは間違いありません。

嘉吉の乱の結果と室町幕府への影響

嘉吉の乱は、室町幕府の歴史において重要な転機となりました。義教の殺害により、将軍の権威は大きく揺らぎました。この事件は、義教の強権政治に対する諸大名たちの反発を象徴しており、以後の幕府政治に影響を及ぼしました。

特に、守護大名たちの力が再認識され、中央集権的な政治体制の維持が困難になりました。満祐の行動は、結果的に室町幕府の権力構造を変える契機となり、守護大名たちの台頭を促しました。

この事件を通じて、満祐が意図した通りの結果にはならなかったものの、彼の行動が後の歴史に与えた影響は大きかったと言えます。嘉吉の乱は、室町時代の政治的な変動期を象徴する出来事として、後世に語り継がれることとなりました。


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