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内田康哉の生涯:国際協調から「焦土外交」へと変貌した外相

こんにちは!今回は、明治・大正・昭和の三時代にわたって日本の外交を担った外務大臣、内田康哉(うちだ こうさい / やすや)についてです。

歴代最長の外務大臣在任記録を持ち、国際協調から強硬路線へと外交方針を転換した彼の生涯をまとめます。

目次

熊本藩医の子から外交官へ

熊本藩の医師の家に生まれた少年時代

内田康哉(うちだ こうさい)は、1865年(慶応元年)、熊本藩の医師の家に生まれた。幕末から明治維新という激動の時代に育った彼は、幼少期から学問に励む環境にあった。熊本藩は、教育熱心な土地柄として知られ、藩校「時習館」では儒学や蘭学が教えられていた。内田家は医家でありながら、西洋の学問に対しても理解があり、康哉は幼少期から蘭学や英語にも親しんだという。

明治維新によって武士の時代が終わり、新政府が近代国家の基盤を築いていくなかで、康哉は自身の進むべき道を模索していた。藩の医師として生きる選択肢もあったが、当時の日本は国際社会へと歩みを進める過渡期にあり、彼の関心は外交へと向かっていった。熊本藩では西洋の文化や技術を積極的に取り入れる動きがあったことも影響し、康哉は国際的な舞台で活躍することを夢見るようになった。

東京大学での学びと外交官を志した理由

内田康哉は、東京大学(現・東京大学)の法学部に進学した。当時の東京大学は、近代日本の官僚を育成する場として機能しており、多くの優秀な学生が国内外の法律や政治学を学んでいた。康哉は特に国際法に関心を持ち、西洋の外交制度について深く学んだ。明治政府は欧米諸国と不平等条約の改正交渉を進めており、外交官の役割が重要視されていた時期である。

彼が外交官を志した背景には、日本が国際社会で対等な立場を確立するためには、優れた外交が不可欠であるという強い思いがあった。明治初期の外交は、西洋列強との交渉において劣勢を強いられることが多かったが、条約改正や国際的な信頼を得るためには、国際法に精通した人材が求められていた。内田はその使命感を胸に、外務省への道を選ぶことを決意する。

外務省入りと初めての外交任務

東京大学を卒業した内田康哉は、外務省に入省する。明治政府は当時、国際的な交渉を強化するため、若く優秀な人材を積極的に登用していた。康哉もその一人として、早くから実務経験を積むこととなる。最初の任務は、外務省本省での勤務だったが、間もなく海外勤務を命じられた。

初めての外交任務は、アメリカのワシントン大使館での勤務であった。当時、日本とアメリカの関係は、条約改正交渉や移民問題など、多くの課題を抱えていた。内田は、外交の最前線で欧米の交渉術を学びながら、日本の国益を守るための交渉の難しさを痛感する。彼にとって、この経験は後の外交キャリアの礎となり、冷静かつ柔軟な交渉術を身につける契機となった。

駐在外交官としての経験と成長

ワシントンやオーストリアでの勤務とその影響

内田康哉は、外務省入省後、ワシントンD.C.やオーストリア=ハンガリー帝国(現オーストリア)での勤務を経験しました。最初の海外赴任地であるワシントンでは、1889年(明治22年)に全権公使・青木周蔵の下で働きました。当時の日米関係では、日米修好通商条約の改正が大きな課題となっており、康哉もその交渉に関わる機会を得ました。

また、この時期のアメリカでは、日本人移民の増加に伴い、カリフォルニア州を中心に反日感情が高まっていました。特に、サンフランシスコでは日本人移民の労働力に対する反発が強く、日本政府は移民制限を含めた交渉を余儀なくされていました。康哉は、アメリカの外交スタイルを学ぶとともに、国際世論の重要性を痛感しました。日本は経済的・軍事的な力だけでなく、国際社会でのイメージ戦略も重要であることを学んだのです。

1890年(明治23年)にはオーストリア=ハンガリー帝国の日本公使館に転任し、ヨーロッパの外交環境についても学びました。当時のヨーロッパは、列強が勢力を競い合う緊張状態にあり、特にドイツ・ロシア・イギリス・フランスの対立が外交の中心でした。康哉は、こうしたヨーロッパの外交戦略を間近で学び、日本の外交に活かす視点を得ました。

日露協約とロシア駐在時代の交渉術

1901年(明治34年)、内田康哉はロシア・サンクトペテルブルクに赴任し、日本公使館の一員として外交交渉に携わりました。当時、日本とロシアの関係は極めて緊張しており、日露戦争(1904年~1905年)に向けた外交戦が繰り広げられていました。

この時期、日本は韓国や満州をめぐりロシアと対立しており、戦争を回避するための交渉が続いていました。しかし、ロシア側は極東での影響力を強化しようとしており、交渉は難航しました。康哉は、ロシアの外交官たちとの交渉の場で、彼らの高圧的な態度と駆け引きの巧みさを実感し、日本が戦争を回避するためには、より戦略的な外交が必要であると考えるようになりました。

日露戦争後の1907年(明治40年)、日本とロシアの関係改善を目的とした「日露協約」の交渉が進められました。この協約は、日本とロシアが満州における勢力範囲を互いに認め合うものであり、日本が満州南部、ロシアが満州北部を管理する形となりました。康哉もこの協約の実務に関わり、戦争後の日本の外交方針に大きな影響を与えました。

アメリカ大使館で培った国際的視野

ロシア勤務の後、内田康哉は再びアメリカへ渡り、駐米大使館で勤務しました。この時期、日本とアメリカの関係は、新たな局面を迎えていました。日露戦争の結果、日本は国際社会で一定の地位を確立しましたが、アメリカとの関係では移民問題が深刻化していました。

1907年には「紳士協定」と呼ばれる日米間の合意が成立しました。これは、日本政府が自主的に労働移民を制限することで、アメリカ国内の反日感情を抑えることを目的としたものでした。康哉はこの協定の実施に関わり、日米関係の安定に尽力しました。

また、アメリカでの経験を通じて、日本が国際社会で発言力を持つためには、単なる軍事力の強化だけでなく、経済的な発展と国際協調が不可欠であると考えるようになりました。この考え方は、後の彼の外交政策にも影響を与えていくことになります。

第2次西園寺内閣での外相就任

初の外務大臣としての課題と挑戦

1912年(明治45年)12月、内田康哉は第2次西園寺公望内閣で外務大臣に就任しました。彼が外相として直面した最大の課題は、軍部の影響力が強まる中で、いかに日本の国際的立場を安定させるかという点でした。

当時、日本は日露戦争(1904年~1905年)に勝利し、国際社会での影響力を拡大していましたが、その一方で国内では軍部の発言力が増し、外交政策にも大きな影響を与えていました。特に、陸軍は満州や中国へのさらなる進出を主張しており、西園寺公望内閣はそれを抑えつつ国際協調を維持する方針を取っていました。内田はこの政策を支える立場を取り、協調外交を重視する姿勢を示しました。

また、当時の日本は、イギリスとの同盟(日英同盟)を維持しつつ、アメリカとの関係改善も模索するという難しい外交環境に置かれていました。特に、日米関係は日本人移民問題をめぐって悪化しつつあり、カリフォルニア州では日本人の土地所有を制限する動きが進んでいました。内田はこの問題を慎重に処理し、日米間の対立を深刻化させないように努めました。

日米関係の調整と中国外交の舵取り

1913年(大正2年)、アメリカでウッドロウ・ウィルソンが大統領に就任すると、日米関係はさらに緊張を増しました。ウィルソン政権の下でカリフォルニア州議会は日本人移民の土地所有を禁止する「排日土地法(カリフォルニア州外国人土地法)」を成立させました。この法律に対して、日本国内では強い反発が起こり、一部では対米強硬論が叫ばれるようになりました。

内田は、対立を避けるためにアメリカ政府との交渉を進め、これまでの「紳士協定」(1907年に成立した日米間の非公式な移民制限合意)を活用して、日本政府側から移民制限を強化することで、アメリカ側の反発を和らげようとしました。しかし、アメリカ国内の排日感情は根強く、交渉は難航しました。

また、中国においては、1911年の辛亥革命によって清朝が崩壊し、新たに中華民国が成立しました。これにより、日本の対中政策も大きな転換を迫られることになりました。日本は、満州での権益を維持しつつ、新政府との関係を構築する必要がありました。しかし、中国国内では反日感情も強く、日本がどこまで影響力を行使できるかは不透明な状況でした。内田は、中国との外交交渉を慎重に進め、日本の権益を守りつつ、国際社会との協調を模索しました。

陸軍との対立と西園寺内閣の崩壊

しかし、内田の外交方針は、国内の陸軍強硬派と対立することになりました。当時、陸軍は満州での軍備増強を求めており、政府に対して2個師団の増設を要求していました。しかし、西園寺公望首相は、財政難を理由にこれを拒否しました。内田もまた、軍備拡張よりも国際協調を優先すべきだと考え、陸軍の要求には慎重な姿勢を取りました。

この決定に反発した陸軍は、陸軍大臣・上原勇作を辞任させ、後任の陸相を出さないという強硬手段に出ました。これは「軍部大臣現役武官制」によるもので、現役の陸軍大将・中将しか陸軍大臣になれないという規定を利用し、陸軍が意図的に後任を出さないことで内閣を機能不全に陥らせる作戦でした。

この結果、西園寺内閣は1912年12月に総辞職を余儀なくされ、内田も外務大臣の職を辞することになりました。これは、日本の外交政策において軍部の影響力がいかに強いかを示す出来事となり、後の彼の外交姿勢にも大きな影響を与えることになりました。

西園寺公望との信頼関係と連携

内田康哉は、西園寺公望との強い信頼関係のもとで外務大臣を務めていました。西園寺は、軍部の独走を防ぎつつ、立憲政治と国際協調を重視するリベラルな政治家でした。一方の内田もまた、強硬な外交よりも対話による解決を重視する姿勢を取っており、両者の間には共通する理念がありました。

しかし、陸軍の圧力によって西園寺内閣が崩壊すると、内田の協調外交路線は一時的に後退することになりました。この経験は、彼にとって日本の外交が軍部の影響を強く受けることを痛感させるものとなり、後の彼の外交政策にも大きな影響を与えました。

その後、内田は外交官としての経験を積み重ね、1918年(大正7年)には再び外務大臣に就任し、日本の国際外交の舵取りを担うことになります。特に、第一次世界大戦後のパリ講和会議やワシントン会議において、日本の立場を国際社会で確立する役割を果たしました。

パリ講和会議とワシントン会議

第一次世界大戦後の日本外交と交渉の舞台裏

第一次世界大戦(1914年~1918年)が終結し、戦後の国際秩序を決定するために1919年(大正8年)に開催されたパリ講和会議は、日本にとって国際的地位を確立する絶好の機会となりました。内田康哉は当時外務大臣として、日本代表団のトップである西園寺公望を支える立場で交渉に臨みました。

日本は戦勝国として、連合国側(イギリス・フランス・アメリカ・イタリアなど)とともに会議に参加し、特に中国・山東省における旧ドイツ権益の継承を主張しました。日本は日英同盟に基づき、第一次世界大戦中にドイツが持っていた山東省の租借地や南洋諸島(現在のミクロネシア地域)を占領しており、それを正式に日本の領土とすることを目指していました。

しかし、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領は「民族自決」を掲げ、日本の要求に強く反発しました。特に中国は、日本の山東省継承を激しく非難し、北京で「五・四運動」という大規模な反日運動が発生しました。内田は、英仏の支持を得ながら交渉を続け、最終的に**「ヴェルサイユ条約」により日本の要求が認められ、山東省のドイツ権益を継承することが決定しました**。

国際連盟加盟における日本の立場と交渉戦略

パリ講和会議では、世界平和を維持するための国際機関として国際連盟が創設されることも決まりました。日本も常任理事国として加盟を果たしましたが、その過程で**「人種的差別撤廃提案」**を巡る外交戦が繰り広げられました。

内田康哉を含む日本代表団は、当時アメリカなどで広がっていた反日移民政策に対抗するため、国際連盟の基本理念に「人種差別の撤廃」を盛り込むことを提案しました。これは、日本が欧米列強と対等な立場を得るための重要な外交戦略でした。しかし、この提案はイギリスやアメリカの反対により否決されました。特にウィルソン大統領は、アメリカ国内の人種問題を考慮し、日本の提案を認めることを避けました。

この結果、日本は国際連盟に加盟したものの、人種差別問題では欧米諸国の壁に阻まれ、外交的には不満を残す形となりました。しかし、国際連盟の常任理事国としての地位を得たことで、日本の国際的発言力は増し、今後の外交政策にも影響を与えることになりました。

ワシントン海軍軍縮条約が日本に与えた影響

パリ講和会議の後、日本は新たな国際的課題に直面しました。それがワシントン会議(1921年~1922年)です。この会議は、第一次世界大戦後の軍拡競争を抑制し、各国の軍事バランスを調整するためにアメリカ主導で開催されました。

この会議では「ワシントン海軍軍縮条約」が締結され、列強の海軍保有量が制限されることになりました。特に主力艦の保有比率は、アメリカ5:イギリス5:日本3と定められ、日本の海軍力はアメリカやイギリスに比べて劣ることとなりました。この決定は、日本国内で強い反発を招き、軍部や国粋主義者の間では「不平等条約」として批判されました。

しかし、内田康哉をはじめとする政府の立場としては、過度な軍拡は経済的負担が大きく、日本が国際社会で孤立するリスクを避けるためにも、軍縮に合意することが賢明であると判断していました。内田は「国際協調を重視し、戦争を回避することが日本の利益になる」と考えており、この条約を支持しました。

ワシントン会議の結果、日本は軍事的には一定の制約を受けることになりましたが、一方で中国・満州問題などに関する国際合意を得ることができました。しかし、この軍縮政策が後に軍部の不満を高め、日本の外交方針が変化する一因となったことは皮肉な結果でした。

不戦条約と枢密顧問官辞任の背景

パリ不戦条約交渉と「人民ノ名ニ於テ」問題とは

1928年(昭和3年)、内田康哉は外務大臣として、日本のパリ不戦条約(ケロッグ=ブリアン条約)への参加を主導しました。この条約は、戦争を国家の政策手段として放棄することを目的とし、フランス外相アリスティード・ブリアンとアメリカ国務長官フランク・ケロッグが提案したものです。第一次世界大戦の悲惨な経験を踏まえ、国際紛争を平和的に解決するための枠組みを築くことが狙いでした。

日本はこの条約に賛同し、世界の主要国とともに署名しました。しかし、条約の条文に関して、日本国内で議論を巻き起こしたのが「人民ノ名ニ於テ」という表現でした。この文言は、各国の政府が「自国の人民を代表して戦争を放棄する」と解釈されるもので、日本の憲法体制と合わないのではないかという問題が浮上しました。当時の日本は大日本帝国憲法の下で天皇主権を採用しており、「人民の名において」国家が行動するという表現は、日本の統治理念と矛盾する可能性があるとされたのです。

この問題に対し、内田康哉は「条約の解釈次第で日本の憲法に反しない形で受け入れられる」と説明し、最終的に政府は条約に署名しました。しかし、一部の軍部や国粋主義者からは、「このような条約に参加することは、日本の独立を損なう」との反発がありました。これは、後の日本の外交方針に影響を及ぼす要因の一つとなりました。

協調外交の確立と日本の国際的評価

パリ不戦条約の締結は、日本が国際社会で平和主義国家としての姿勢を示す重要な機会となりました。条約はアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本など15か国が署名し、翌1929年に発効しました。これは、戦争の放棄を国際的に確認する画期的な取り組みであり、世界的な軍縮の流れにも影響を与えました。

内田は、日英同盟の終了やワシントン海軍軍縮条約といった一連の外交政策の中で、日本が欧米諸国と協調しながら国際的な安定を目指すことが最善であると考えていました。特に、パリ不戦条約は、軍備競争を抑制し、日本の経済発展にも資するという視点から、国際協調の枠組みとして重要な役割を果たすと見ていました。

しかし、日本国内では軍縮や平和外交に対する反発が強まりつつありました。軍部の一部は、不戦条約の理念は理想論に過ぎず、日本が実際に国際社会で生き残るためには軍事力の維持が不可欠であると主張しました。特に、関東軍や陸軍内部には、満州への進出を強化すべきという意見が根強く、不戦条約の精神に反する動きが出始めていました。

国際的には、日本のパリ不戦条約への参加は好意的に受け止められました。欧米諸国は、日本が軍事大国ではなく、平和的な外交を重視する国家であると認識し、日本の国際的評価は向上しました。しかし、この評価は一時的なものであり、後の満州事変(1931年)によって、日本の外交方針が大きく転換してしまうことになります。

枢密顧問官としての役割と辞任に至る経緯

内田康哉は、1929年(昭和4年)に外務大臣を辞任した後、枢密院の顧問官に就任しました。枢密院は天皇の諮問機関であり、憲法改正や条約の審議、重要な国家政策の決定に関与する役割を担っていました。内田は、これまでの外交経験を活かし、日本の国際政策に助言を与える立場となりました。

しかし、1931年(昭和6年)の満州事変を機に、内田は政府の外交方針に疑問を抱くようになります。関東軍が中国・満州で軍事行動を起こし、日本政府がこれを制御できなくなる中、国際社会との対立が深まっていきました。内田は、軍部の独走を懸念し、日本が国際協調路線を維持するべきだと主張しましたが、軍部の発言力が増す中で彼の意見は次第に影響力を失っていきました。

さらに、1933年(昭和8年)には、日本が国際連盟を脱退する決定が下されました。これは、満州問題をめぐる国際連盟での日本批判に対し、日本政府が抗議の意味を込めて決定したものでした。内田は、これを「日本が国際社会から孤立する危険な選択」として強く懸念し、枢密院で反対の立場を取ったとされています。しかし、政府と軍部の強硬姿勢を前に、彼の意見は受け入れられず、結果的に日本は孤立の道を進むこととなりました。

内田は、日本の外交が急激に強硬化していくことを憂慮し、1933年に枢密顧問官を辞任しました。これは、彼が長年掲げてきた協調外交が完全に否定されたことに対する抗議の意味もあったとされています。彼はその後も政治的な発言を続けましたが、軍部が主導する外交・軍事政策の流れを変えることはできませんでした。

この辞任は、日本外交史において一つの転換点とされています。内田康哉が象徴する国際協調路線が終焉を迎え、日本は孤立と戦争への道を突き進むことになったのです。

満鉄総裁時代の改革と政治的転換点

満鉄総裁として取り組んだ経営改革

内田康哉は、1931年(昭和6年)6月に南満州鉄道株式会社(満鉄)の第7代総裁に就任しました。満鉄は、日本が日露戦争(1904年~1905年)後に獲得した旧東清鉄道(長春~旅順間)の権益を基に設立された国策会社であり、単なる鉄道会社ではなく、満州における日本の経済的影響力を維持・拡大するための重要な機関でした。

内田が総裁に就任した当時、日本は1929年の世界恐慌の影響を受け、経済的な困難に直面していました。特に、日本国内では農産物価格の暴落による農村経済の疲弊が深刻であり、政府は満州を日本経済の「生命線」として活用する方針を打ち出していました。こうした背景のもと、内田は満鉄の経営改革を推進し、満州を日本経済の安定拠点とすることを目指しました。

  1. 鉄道輸送の効率化と路線拡張 内田は、満鉄の既存路線の改善と、新規路線の整備を進めました。特に、大連から長春、奉天(現在の瀋陽)を結ぶ鉄道の輸送能力を向上させ、満州の資源輸送を効率化しました。さらに、農産物や鉱物資源の輸送網を強化することで、日本への供給体制を整えました。
  2. 工業化と産業育成の推進 満鉄は鉄道事業だけでなく、鉱業、製造業、農業、商業など広範な事業を手がけていました。内田は、満州の大豆生産の拡大に力を入れ、日本本土への輸出を増やしました。大豆は当時、日本の食料・飼料・油脂産業に不可欠な作物であり、満州を「大豆王国」とすることで経済的な安定を図りました。
  3. 現地経済と住民との共存政策 内田は、現地の中国人労働者や朝鮮人労働者を積極的に雇用し、満州の経済発展に貢献させる政策を採りました。彼は、日本が満州を支配するためには、軍事力だけでなく経済力による安定が不可欠であると考えており、強引な支配よりも協調的な開発を重視しました。

しかし、内田のこうした経済重視の方針は、軍部の強硬姿勢と次第に衝突するようになりました。関東軍は、満州を日本の植民地的支配下に置き、軍事的な要衝として活用することを目指していたため、内田のような慎重な経済戦略は次第に影響力を失っていきました。

中国情勢と日本の満州政策の変遷

内田が満鉄総裁に就任した1931年は、日本の満州政策が大きく変化する転換期でした。1928年には、中国の軍閥指導者であり日本の協力者でもあった張作霖が張作霖爆殺事件で関東軍によって暗殺され、中国国内では反日感情が強まっていました。

その後、張作霖の息子である張学良が国民政府(蒋介石)側につき、満州の日本権益に対して厳しい態度を取るようになりました。日本政府は外交的手段で満州の権益を維持しようとしましたが、関東軍はより積極的な行動を求めていました。

内田は、満鉄の経済力を強化することで、日本の権益を安定させるべきだと考え、武力行使には慎重な立場を取っていました。しかし、関東軍はその方針を無視し、満州を武力で制圧する計画を進めていました。

満州事変前夜における日本の動向

1931年9月18日、関東軍は柳条湖事件を引き起こしました。この事件は、日本軍が自ら満鉄の鉄道を爆破し、それを中国側の仕業として軍事行動を開始する口実としたものでした。これにより、日本は満州全域を占領する満州事変へと突入しました。

内田は、この事件が日本の外交的立場を危うくすると考え、政府に対して慎重な対応を求めました。しかし、関東軍は政府の制止を無視し、軍事行動を拡大していきました。さらに、内田が主導していた満鉄の経済政策は、関東軍の軍事行動によって機能しなくなり、満州の統治は軍部主導のものへと変わっていきました。

1932年3月1日、日本は満州国の建国を宣言し、溥儀を執政とする傀儡政権を樹立しました。満鉄も新国家「満州国」の経済基盤を支える組織として組み込まれ、内田のような慎重な経済外交派は次第に影響力を失っていきました。

内田の辞任とその影響

内田は、関東軍の軍事行動と日本政府の対応に強い懸念を抱いていました。彼は、軍事的な手段による満州支配は国際的な批判を招き、日本が孤立する危険性があると考えていました。しかし、軍部の影響力が増す中で、彼の意見はほとんど無視されるようになりました。

1932年(昭和7年)、内田は満鉄総裁を辞任しました。彼の辞任は、日本の満州経営が軍主導へと完全に移行したことを象徴する出来事でした。彼の在任中に進められた経済改革は、一定の成果を上げましたが、軍部の影響力が強まる中で長続きすることはありませんでした。

その後、日本は国際連盟からの非難を受け、1933年にはついに国際連盟を脱退。内田が懸念していた「日本の国際的孤立」は、現実のものとなっていきました。

「焦土外交」と満州事変への関与

強硬外交へと舵を切った背景と理由

満州事変(1931年)が勃発し、日本が満州全域を占領すると、国際社会はこれを強く非難しました。日本は国際連盟の加盟国であり、1928年に締結したパリ不戦条約でも「紛争の平和的解決」を誓約していました。しかし、関東軍は政府の承認を得ないまま満州で軍事行動を展開し、結果として日本は国際社会から孤立する道を進むことになります。

このような状況の中で、内田康哉は1932年(昭和7年)に再び外務大臣に就任しました。これは、犬養毅内閣が五・一五事件(1932年5月15日)によって崩壊し、後継の斎藤実内閣が成立したことによるものです。

内田は、従来の協調外交路線から脱却し、日本の国益を最優先する「強硬外交」へと舵を切りました。彼の外交姿勢は「焦土外交」とも呼ばれ、国際的な圧力に屈せず、満州の実効支配を確立するためには国際社会との対立も辞さないというものでした。この背景には以下の要因がありました。

  1. 国際連盟の調査とリットン報告書 1931年の満州事変後、国際連盟は日本の行動を調査するためにリットン調査団を派遣しました。1932年10月に発表されたリットン報告書では、日本の満州支配を「侵略行為」と認定し、満州国の独立を承認しないことを勧告しました。これに対し、日本国内では「国際連盟は中国寄りであり、日本の正当な権益を無視している」との批判が強まりました。
  2. 満州国の承認と日本の立場 日本は1932年3月1日に満州国の建国を正式に発表し、清朝最後の皇帝・溥儀を執政として擁立しました。これにより、日本は満州を独立国家として扱う姿勢を示しましたが、国際社会はこれを認めず、日本は孤立を深めることになります。
  3. 対米・対英関係の悪化 満州問題をめぐって、アメリカはスティムソン・ドクトリン(1932年)を発表し、日本の行動を非難しました。イギリスもまた、日本の満州支配を認めず、経済的な圧力をかけ始めました。このような国際環境の変化を受け、内田は「もはや国際協調の道は閉ざされた」と判断し、日本単独で満州を維持する方針を固めました。

満州国承認をめぐる国際社会との対立

1933年(昭和8年)2月、日本は国際連盟総会で満州問題に関する決議が採択されると、これに強く反発しました。日本政府は、国際連盟がリットン報告書をもとに満州国を否認したことに対し、「日本の主権と国益を無視する決定である」との立場を取りました。

この時、日本の代表として国際連盟に派遣されたのが松岡洋右でした。松岡は、内田の方針に従い、国際連盟での交渉に臨みましたが、連盟加盟国の大半は中国寄りの立場を取っていました。結果として、1933年2月24日、国際連盟総会は満州国を承認しない決議を可決しました。

この決議を受けて、日本は国際連盟脱退を決断します。1933年3月27日、内田康哉は日本の国際連盟脱退を正式に通告しました。これは、第一次世界大戦後に築かれた国際協調体制からの完全な決別を意味し、日本外交の大きな転換点となりました。

国際連盟脱退に至る決断の内幕

日本の国際連盟脱退は、内田康哉の「焦土外交」の象徴的な出来事でした。彼は、国際連盟の決議を「日本に対する偏見に満ちた不当な判決」と考え、日本が国際社会の圧力に屈することなく、自主的な外交路線を貫くべきだと主張しました。

しかし、この決断は日本の国際的孤立を決定的なものにしました。欧米諸国は、日本が国際秩序を無視し、軍事力によって現状を変更しようとしていると見なし、以後、日本への警戒感を強めることになります。特にアメリカは、日本の行動を牽制するため、対日経済制裁の強化を検討し始めました。

日本国内では、国際連盟脱退の決断は「自主独立を貫いた愛国的行動」として歓迎されました。特に、軍部や国粋主義者は、「日本はもはや欧米に頼ることなく、アジアの指導者として自立すべきだ」と主張し、内田の外交方針を支持しました。しかし、内田自身は、国際協調が完全に崩れたことを内心では憂慮していたとも言われています。

1933年の国際連盟脱退後、日本は次第に孤立し、日中戦争(1937年)や太平洋戦争(1941年)へと突き進んでいきます。内田の「焦土外交」は、一時的には日本の強硬外交の成功例と見なされましたが、長期的には日本を危機的な状況に追い込む要因の一つとなりました。

外交官としての功績と評価

日本外交史における内田康哉の位置づけとは

内田康哉は、日本の近代外交を形作った重要な人物の一人として評価されています。彼の外交官としてのキャリアは、明治から昭和にかけての激動の時代にまたがっており、特に日露協約、パリ講和会議、ワシントン会議、満州事変など、日本外交の転換点に深く関与しました。

彼の外交スタイルは、当初は国際協調を重視する姿勢が強く、特に西園寺公望との連携を通じてリベラルな外交政策を推進しました。しかし、満州事変以降は軍部との関係を強め、強硬な外交方針を採るようになったことが、彼の評価を二分する要因となっています。

特に、外務大臣として関わったパリ不戦条約(1928年)への署名は、日本が国際社会で平和外交を推進しようとした象徴的な出来事でした。しかし、その後の日本は軍部の影響力が強まり、内田自身も「焦土外交」と称される強硬な外交を展開するようになります。この変化が、日本外交史における彼の評価を複雑なものにしているのです。

「ゴムまり外相」の異名が生まれた背景と意味

内田康哉は、「ゴムまり外相」と呼ばれることがありました。この異名がついた背景には、彼の柔軟かつ粘り強い外交姿勢が関係しています。

彼は、外交交渉において冷静沈着でありながら、状況に応じて方針を変えることを厭わない人物でした。特に、日露協約やパリ講和会議では、国際情勢の変化に応じて巧みに交渉を進め、日本に有利な条件を引き出しました。例えば、日露協約ではロシアとの対立を緩和しつつ、日本の満州権益を確保することに成功しましたし、パリ講和会議では、欧米諸国の反対を押し切りながらも山東省の権益を獲得しました。

しかし、一方で彼の柔軟な外交姿勢は「軸が定まっていない」と批判されることもありました。特に、満州事変後に軍部寄りの強硬外交へと転じたことで、以前の国際協調路線との一貫性が問われるようになりました。ゴムまりのようにどの方向にも跳ね返る姿勢が、この異名の由来とされています。

後世の評価と彼の外交が残した影響

内田康哉の外交政策は、現在でも賛否が分かれるものです。彼の国際協調路線は、明治から大正にかけての日本外交において重要な役割を果たしましたが、昭和に入ると軍部との協調を強め、結果的に国際的孤立を招く要因の一つとなったことも事実です。

特に、ワシントン会議での海軍軍縮条約への対応や、国際連盟脱退に至る外交過程における彼の役割は、現在でも議論の的となっています。彼の外交が一時的に日本の国際的地位を高めた一方で、結果的に日本の外交方針が軍部主導へと傾いていく道を開いたとも言えるからです。

また、彼の「ゴムまり外交」は、現代の視点から見ると、国際情勢に適応する柔軟な戦略であったと評価することもできます。もし日本が軍部の暴走を抑え、内田のような国際協調を重視する外交路線を継続していたならば、日本の歴史は違ったものになっていたかもしれません。

総じて、内田康哉は日本外交の近代化を推進しつつも、軍部との妥協を余儀なくされた外交官として評価されています。彼の外交は、日本が国際社会でどのような立場を取るべきかという点で、多くの教訓を残していると言えるでしょう。

内田康哉が描かれた書物とその意義

『内田康哉』(内田康哉伝記編纂委員会・鹿島平和研究所編)の評価と特徴

1969年に刊行された『内田康哉』は、内田康哉伝記編纂委員会と鹿島平和研究所によって編纂された伝記であり、彼の外交官としての生涯を詳細に記録した重要な資料の一つです。この書籍では、内田の生い立ちから外交官としてのキャリア、外務大臣時代の政策、そして晩年に至るまでの足跡が詳細に述べられています。

本書の特徴の一つは、内田自身の公的記録や書簡を基に編纂されている点です。特に、彼が関与したパリ講和会議やワシントン会議、満州事変など、日本外交の重要な局面について、当時の政府内の議論や彼の外交方針が克明に記されています。そのため、単なる伝記にとどまらず、明治から昭和初期にかけての日本外交を知る上で貴重な一次資料ともなっています。

また、本書の評価としては、内田を肯定的に描いている点が特徴的です。彼の外交手腕を「柔軟で冷静な調停者」と評価し、日露協約の締結やパリ講和会議での成果を高く評価しています。一方で、満州事変以降の外交姿勢については比較的抑えた表現がなされており、彼の「焦土外交」や軍部との関係については詳細な分析が少ないという指摘もあります。この点で、本書は「内田康哉の外交を肯定的に捉えた公的な記録」としての性格が強いといえるでしょう。

『内田康哉関係資料集成』(小林道彦著、柏書房)での分析と研究視点

小林道彦による『内田康哉関係資料集成』は、内田康哉の外交政策や政治的役割を学術的視点から分析した研究書です。本書は、単なる伝記ではなく、彼の政策決定過程や、当時の国際関係の中での彼の立場をより客観的に考察しています。

本書の大きな特徴は、内田の外交文書や公文書を徹底的に分析し、彼の外交方針の変遷を明らかにしている点です。特に、以下の3つの点について詳細な研究がなされています。

  1. 日露協約と協調外交の実態 内田がロシア駐在時にどのような交渉を行い、どのように日露協約の成立に関与したのかが詳述されています。彼の外交は当初、協調外交を基盤としており、単なる強硬派ではなかったことが本書を通じて明確になります。
  2. パリ講和会議と人種差別撤廃提案の裏側 日本がパリ講和会議で提案した「人種差別撤廃条項」の交渉過程についても、本書は詳しく掘り下げています。内田はこの提案を支持していましたが、最終的にアメリカやイギリスの反対によって採択されませんでした。本書では、内田がこの交渉をどのように進めたのか、そして彼の考え方がどのように変化していったのかを分析しています。
  3. 満州事変と外交政策の転換 1931年の満州事変以降、内田は軍部寄りの外交方針を取るようになります。本書では、「なぜ彼は国際協調から強硬外交へと転じたのか」という問いに対して、当時の外交環境や国内政治の動きを交えて考察しています。

このように、本書は内田康哉の外交を単なる個人の視点ではなく、日本の近代外交史全体の流れの中で位置づける重要な研究書といえます。そのため、研究者や歴史学者にとっても貴重な資料となっています。

外交史料館所蔵「内田康哉伝記草稿」に見る歴史的価値

内田康哉に関するもう一つの重要な資料が、外交史料館に所蔵されている「内田康哉伝記草稿」です。これは、彼の生涯や外交政策についてまとめられた未出版の原稿であり、一次史料としての価値が非常に高いものです。

この草稿の特徴として、内田本人の手記や回顧録を含んでいる点が挙げられます。彼の外交経験に関する個人的な見解が述べられており、公式の公文書とは異なる視点から彼の思考を知ることができます。特に、ワシントン会議の交渉過程や満州事変の際の心境について詳細に記述されており、当時の外交官としての苦悩がうかがえます。

また、本資料には内田がどのように日本の国際的地位を認識していたのかという視点が示されています。彼は、第一次世界大戦後の日本が欧米列強と対等な関係を築くことが不可欠であると考えており、そのための外交努力を重ねていたことが分かります。しかし、満州事変を経て日本が国際社会で孤立していく中で、彼自身も外交方針を変えざるを得なかったことが記録されています。

この草稿の存在は、内田康哉の外交思想を理解する上で非常に重要なものであり、今後の研究においても注目されるべき資料といえるでしょう。

まとめ

内田康哉に関する書籍や資料は、彼の外交官としての生涯や日本の近代外交史における役割を知る上で重要なものばかりです。『内田康哉』は伝記としての価値が高く、『内田康哉関係資料集成』 は彼の外交政策を学術的に分析した貴重な研究書であり、「内田康哉伝記草稿」は一次資料としての価値を持っています。

これらの資料を通じて、彼がどのように日本の外交を導き、またどのように時代の流れの中でその立場を変えていったのかを知ることができます。彼の外交には賛否が分かれる部分もありますが、日本が国際社会でどのような立場を取るべきかを考える上で、多くの示唆を与えてくれる存在であることは間違いありません。

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