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宇垣一成の生涯:陸軍の改革者から朝鮮総督・外相・首相候補へ

こんにちは!今回は、陸軍軍人・政治家として近代日本の重要な転換点に関わった宇垣一成(うがき かずしげ)についてです。

軍縮による軍の近代化を進め、「宇垣閥」と呼ばれる勢力を形成した一方で、軍部の反発により幻の首相とも呼ばれた人物。

彼の軍人としての功績や政治的転身、さらには日中和平工作や朝鮮統治の実態まで、その波乱の生涯を見ていきましょう。

目次

農家の五男から陸軍への道

岡山県の農家に生まれた幼少期と家族の影響

宇垣一成は、1868年(明治元年)に岡山県で生まれました。彼は農家の五男として生まれ、幼少期から農作業を手伝う生活を送っていました。当時の日本は、明治維新によって急速に近代化が進められていましたが、地方の農村ではまだ封建的な価値観が根強く残っており、農家の子どもが高等教育を受けることは非常に稀でした。

宇垣家は裕福ではなかったものの、教育を重んじる家庭でした。特に母親は子どもたちに学問を学ばせることを強く望んでおり、宇垣もその影響を受けて学ぶことの重要性を幼いころから意識していたといいます。家族の中でも五男という立場だったため、家業を継ぐことは求められず、より自由に進路を選ぶことができた点も、後の彼の人生に大きな影響を与えました。

また、明治時代初期の岡山県は、日本の中でも比較的早く教育が普及した地域の一つでした。岡山藩(後の岡山県)は藩政時代から学問を奨励しており、宇垣もその恩恵を受けることができました。彼は地元の小学校に通い、優秀な成績を収めていたと伝えられています。幼いころから読書が好きで、特に歴史書や兵法書に興味を持ち、武士の時代が終わった後でも「強い国をつくるには軍が必要だ」という考えを抱くようになったといいます。

小学校教員としての経験と教育への情熱

宇垣は、地元の小学校を卒業した後、小学校の教員として働き始めました。当時の日本では、明治政府が「学制」を制定し、全国的に義務教育を導入しようとしていましたが、地方ではまだ十分な教員が確保されておらず、宇垣のような若者が教師として子どもたちの指導にあたることも珍しくありませんでした。

彼が教員として働いたのは、岡山県の農村部にある小学校でした。農村の子どもたちは家業を手伝うために学校へ通えないことが多く、授業を受ける機会が限られていました。また、家計の事情で途中で学業を諦めざるを得ない子どもも多く、宇垣は「教育を受けることができる者とできない者の差が、日本の未来に大きな影響を与える」と考えるようになったといいます。

彼は、単に教科書の内容を教えるだけでなく、子どもたちに「学ぶことの楽しさ」を伝えようとしました。例えば、歴史の授業では物語のように語り、興味を持たせる工夫をしていたといいます。また、農家の子どもたちにとって実生活に役立つ知識を教えることにも力を入れ、農作業に関する科学的な知識や計算の重要性を説くことで、教育の意義を実感させるよう努めました。

しかし、宇垣はやがて「教員としての立場では、日本の未来を大きく変えることはできないのではないか」と考えるようになりました。教育の重要性を痛感しながらも、それを広く実現するには、単に一人の教員として子どもたちを指導するだけではなく、国家の仕組みそのものを変える必要があるのではないかと感じたのです。この思いが、彼を軍人の道へと向かわせることになります。

陸軍士官学校を志した動機とその背景

宇垣が軍人を志すことを決意したのは、明治政府の国家政策や、彼自身の問題意識によるものでした。明治時代、日本は欧米列強と肩を並べるために、富国強兵を国是とし、軍の近代化を急速に進めていました。

当時、陸軍士官学校は、地方出身の青年が社会的に上昇する数少ない機会の一つでした。特に農村の出身者にとっては、軍人になることが身分や生活の向上につながる道であり、多くの若者が士官学校への入学を目指していました。宇垣もその例外ではなく、自らの力で道を切り開こうと決意しました。

また、彼が軍人を志したもう一つの理由は、日本の安全保障への危機感でした。彼が青年期を迎えた頃、日本は周辺国との緊張関係を抱えていました。特に、日清戦争(1894~1895年)や日露戦争(1904~1905年)を前にして、軍の役割が非常に重要になっていました。彼は「強い日本をつくるためには、優れた軍隊が必要だ」と考え、陸軍に身を投じることを決意したのです。

宇垣は、1885年(明治18年)、17歳の時に陸軍士官学校を受験しました。彼は学業成績が優秀であったため、試験を突破し、無事に合格します。当時、陸軍士官学校はまだ設立されて間もなく、宇垣は第1期生として入学することになりました。この士官学校での経験が、彼の軍人としての人生の基盤を築くことになります。

こうして、農家の五男として生まれた少年が、小学校教員を経て、日本陸軍の将校へと歩み始めることになったのです。

陸軍での成長と日露戦争の戦功

陸軍士官学校第1期生としての歩み出し

1885年(明治18年)、宇垣一成は陸軍士官学校に入学しました。当時の日本陸軍はフランス式の軍制を取り入れつつも、ドイツ式へと移行する過渡期にあり、欧米列強に負けない近代的な軍隊を作ることが急務とされていました。そのため、陸軍士官学校では極めて厳格な教育が行われており、戦術学・兵学・砲術などの軍事科目のほか、語学や数学、物理学といった一般教養にも重点が置かれていました。

宇垣は学業成績において優秀であり、特に戦術理論や軍事戦略の分野で頭角を現しました。また、陸軍士官学校第1期生ということもあり、同期生には後に日本陸軍を支える優秀な人材が多くいました。彼はその中でも特に努力家として知られ、常に成績上位を維持し続けたといいます。

当時の士官学校の生活は非常に厳しく、規律を守ることが絶対とされていました。毎朝早朝から訓練が行われ、武術や戦術演習のほか、長距離行軍などの体力強化も日課でした。宇垣はこうした厳しい訓練にも耐え抜き、卒業時には優秀な成績を収め、将校としての道を歩み始めました。

川上操六の薫陶を受けた青年将校時代

宇垣の軍人としての成長には、川上操六(かわかみ そうろく)の影響が大きかったとされています。川上は日本陸軍の参謀総長を務めた名将であり、特にドイツ式戦略を日本陸軍に導入することに尽力した人物でした。宇垣は、川上が掲げた「知略を重んじる戦略思考」に強く影響を受け、戦場での機動力や情報戦の重要性を学びました。

川上はまた、単なる戦闘技術だけでなく、「軍人は国家を導く知識人であるべき」との考えを持っていました。これは、後に宇垣が軍縮や軍改革を進める際の思想的基盤にもなっています。彼は川上の指導のもとで、戦争は単なる武力衝突ではなく、政治・経済・外交と密接に結びついていることを学びました。このような考え方は、宇垣が軍人でありながらも政治や外交に積極的に関与するようになった背景の一つとなりました。

日露戦争での従軍と功績

1904年(明治37年)、日本とロシアの間で日露戦争が勃発しました。この戦争は、日本が初めて欧米列強と正面から戦う大規模な戦争であり、日本陸軍にとっても大きな試練となりました。

宇垣は、陸軍中尉として満州戦線に派遣され、第3軍に所属しました。第3軍は、乃木希典(のぎ まれすけ)大将の指揮のもと、旅順要塞の攻略を担当していました。旅順要塞はロシア軍によって強固に守られており、日本軍は甚大な損害を出しながらの戦闘を強いられました。この戦いは「旅順攻囲戦」として知られ、日本軍にとっては極めて困難な戦闘となりました。

宇垣はこの戦いにおいて、冷静な判断力と的確な指揮で部隊を導いたとされています。彼は塹壕戦での戦術を巧みに活用し、無駄な突撃を避けながら徐々にロシア軍を追い詰める戦法を採りました。また、偵察活動にも積極的に関わり、敵の弱点を見極めることで戦局を有利に運ぶことに貢献しました。

1905年(明治38年)、旅順要塞はついに日本軍の手に落ち、日本はこの戦争で勝利を収めることになります。宇垣の部隊も重要な役割を果たし、彼自身もその功績を評価され、戦後に昇進を果たしました。

この戦争を通じて、宇垣は実戦の厳しさを痛感すると同時に、近代戦における戦術の重要性を学びました。また、彼は日本軍が欧米列強と戦うためには、単なる兵力の増強だけでなく、組織の合理化や装備の近代化が不可欠であると考えるようになりました。こうした考えは、後に彼が「宇垣軍縮」を推進する際の原点となったといわれています。

宇垣閥の形成と陸軍内での影響力

田中義一との関係と軍内での台頭

日露戦争後、宇垣一成は陸軍内での昇進を重ね、次第に重要な役職に就くようになりました。彼の出世には、田中義一(たなか ぎいち)の存在が大きく関わっています。田中は宇垣より8歳年上で、日露戦争では陸軍参謀本部の一員として作戦立案に関与し、戦後は陸軍の実力者として台頭しました。宇垣はその田中と親交を深めることで、軍内での立場を強化していきました。

田中義一は、陸軍の派閥争いの中で「長州閥」と呼ばれる勢力の一員でした。長州閥は、山県有朋(やまがた ありとも)を中心に形成された軍の有力派閥であり、陸軍の人事や政策に大きな影響を与えていました。宇垣は当初、特定の派閥に属することなく実力でのし上がろうと考えていましたが、陸軍内での出世には政治的な支持が不可欠であることを理解し、田中の庇護を受ける形で昇進の道を歩むことになります。

1907年(明治40年)、宇垣は陸軍大学校に進み、さらに戦略や軍政について学びました。この時期、彼は理論的な軍事研究に没頭し、欧米の軍事思想を積極的に取り入れる姿勢を見せました。特にドイツ参謀本部の戦略思想に強い影響を受け、日本の軍組織の合理化が必要であると考えるようになります。

陸軍大学校を卒業後、宇垣は参謀本部に勤務し、国内外の軍事情勢を分析する立場に就きました。この頃、彼は同世代の若手将校たちと親交を深め、独自の人脈を築いていきます。これが後に「宇垣閥」と呼ばれる勢力の基盤となっていきました。

参謀本部・軍務局長時代の政策と改革

1918年(大正7年)、宇垣は陸軍省の軍務局長に就任しました。軍務局長は、軍の政策立案や人事管理を担当する極めて重要な役職であり、ここでの経験が彼の軍事改革思想を具体化させる契機となりました。

この時期、日本は第一次世界大戦(1914~1918年)に参戦し、戦後の国際情勢が大きく変化していました。戦争によって欧州の軍事バランスが崩れ、日本も列強の一角として国際社会に影響力を持つようになりました。しかし同時に、経済の悪化や財政難が深刻化し、軍事費の削減が求められるようになります。

宇垣は、軍の効率化と近代化を進めるため、以下のような改革を試みました。

  1. 軍の合理化:冗長な組織を整理し、戦力を集中させる方針を打ち出しました。
  2. 教育制度の強化:将校の教育を充実させ、知的な軍人の育成を重視しました。
  3. 最新技術の導入:航空機や機械化部隊の強化を進め、近代戦への対応を図りました。

彼の改革は一部の将校たちに支持されましたが、伝統的な軍のあり方を重んじる保守派からは強い反発を受けました。それでも宇垣は、軍務局長としての権限を駆使し、改革を断行していきました。

「宇垣閥」の実態とその影響力

軍務局長時代、宇垣は多くの若手将校を登用し、自らの理念に共鳴する人材を育成しました。彼の周囲には、同じく改革志向を持つ将校たちが集まり、次第に「宇垣閥」と呼ばれる派閥が形成されていきました。

「宇垣閥」は、単なる人脈の集まりではなく、軍の近代化を目指す思想的なグループでした。彼らは、旧態依然とした軍の体制を改め、より合理的で科学的な軍事組織を作ろうとしました。しかし、この改革派の台頭は、軍内の保守勢力との対立を生むことになります。

特に、統制派と皇道派の対立が深まる中で、宇垣閥は統制派に近い立場を取りました。統制派は、軍の近代化と合理化を進める一方で、政治との連携を重視し、国際協調を推進する立場でした。対して皇道派は、天皇親政を掲げ、軍の独立性を強調する急進的なグループでした。

宇垣閥の影響力は、1920年代から1930年代にかけて陸軍の中枢に及びました。彼らは政策立案に関与し、軍の近代化を推し進めましたが、一方で反発も強く、後の軍部の内部対立の一因となることになります。

陸軍大臣としての軍縮と近代化改革

陸軍大臣就任と軍縮の決意

1923年、宇垣一成は第2次山本権兵衛内閣のもとで陸軍大臣に就任しました。当時の日本は、前年に行われたワシントン会議の影響で海軍の軍縮が進められ、陸軍にも軍縮の圧力がかかっていました。さらに、1923年9月1日に発生した関東大震災によって財政状況が悪化し、軍事費の大幅な削減が避けられない状況にありました。

こうした背景の中で、宇垣は軍の近代化を推進するとともに、財政再建の観点からも軍縮を実施する決意を固めました。彼は、単なる軍備削減ではなく、軍の効率化と合理化を図ることが必要であると考えました。しかし、軍部内には「国防の強化こそが最優先であり、軍縮は安全保障を脅かす」と考える保守派が多く、彼の方針には強い反発が予想されました。それでも宇垣は、日本が国際社会での地位を確立し、経済発展を遂げるためには、無駄な軍備を削減し、機能的な軍隊を整備する必要があると信じ、軍縮に踏み切りました。

宇垣軍縮の具体策

宇垣が推進した軍縮政策は、後に「宇垣軍縮」と呼ばれるようになりました。その内容は、単に兵員を削減するだけではなく、軍の組織を合理化し、より近代的な軍隊を編成するというものでした。具体的には、次のような施策が実施されました。

まず、全国に配置されていた師団のうち、第13師団(仙台)、第15師団(名古屋)、第17師団(岡山)、第18師団(久留米)の4個師団を廃止し、約5万人の兵員を削減しました。これにより、年間約1億円の軍事費が削減され、財政負担を軽減することができました。これは当時の日本の軍事政策としては非常に大胆な決定であり、軍部内の反発を招きました。

一方で、単なる削減だけでは戦力の低下につながるため、兵器や装備の近代化も同時に進められました。特に、航空部隊の強化や戦車の導入に力を入れ、陸軍の機動力を向上させることを目指しました。また、将校の教育改革にも取り組み、戦略研究を重視する方針を打ち出しました。宇垣は、軍事の発展には知的な戦略と組織力が不可欠であると考え、陸軍大学校のカリキュラムを見直し、より実戦的な内容へと改めるようにしました。

軍内部の反発とその対応策

宇垣の軍縮政策は、当然ながら軍内部の強い反発を招きました。特に、軍の保守派からは「軍縮は国防を弱体化させるものであり、日本の安全保障に重大な影響を与える」として厳しく批判されました。これに対し、宇垣は「単なる兵力削減ではなく、より効率的な軍の運用こそが日本の国防を強化する」と主張しました。彼は軍縮によって浮いた予算を新兵器の開発や教育の充実に回すことで、長期的には日本陸軍の戦力を向上させると説明しました。

また、軍部内の反対を抑えるために、政府の支援を取り付ける努力も行いました。当時の首相であった加藤高明や財政家の高橋是清と協力し、軍縮の必要性を政治的に訴えました。政府としても、財政再建の観点から軍縮は避けられない課題であり、宇垣の方針を支持する姿勢を示しました。しかし、軍部内の保守派は根強く、宇垣の軍縮政策を快く思わない勢力が彼の影響力を削ごうとしました。

その結果、1927年に宇垣は陸軍大臣を辞任することになりました。これは、軍縮を主導した彼に対する保守派の圧力が背景にあったとされています。しかし、彼の軍縮政策は日本の軍事政策に大きな影響を与え、より合理的で近代的な軍隊の整備に向けた方向性を示したといえます。

宇垣は陸軍大臣として、軍縮を推進する一方で、軍の近代化を進めるための施策を打ち出しました。しかし、軍内部の強い反発により、最終的には辞任を余儀なくされました。それでも、彼の改革は日本陸軍の合理化に一定の影響を与えることになりました。

朝鮮総督としての統治と評価

朝鮮総督就任の背景と当時の情勢

1927年、宇垣一成は第7代朝鮮総督に就任しました。朝鮮総督は、日本が1910年の日韓併合以来統治していた朝鮮半島の最高権力者であり、行政、立法、軍事の全権を掌握する非常に重要な役職でした。歴代の総督はほとんどが陸軍大将経験者であり、軍人による統治が基本とされていました。

宇垣が総督に任命された背景には、政治的な事情がありました。彼は陸軍大臣として軍縮を推し進めたことで軍内部の保守派と対立し、国内政界での影響力が低下していました。そのため、政府は彼を朝鮮総督という要職に就けることで、軍部との対立を和らげようとしたと考えられます。また、宇垣自身も朝鮮の統治には関心を持っており、自らの政治理念を実現する機会と捉えていました。

当時の朝鮮半島は、日本の支配下でさまざまな変化を遂げていました。1919年の三・一独立運動の影響を受け、日本政府は従来の強圧的な統治から、比較的穏健な「文化政治」へと方針を転換していました。しかし、日本の支配に対する朝鮮人の不満は依然として強く、独立運動は地下組織を中心に継続していました。さらに、1929年の世界恐慌の影響で日本経済が悪化し、統治の安定が求められる状況となっていました。こうした中で、宇垣は新たな統治方針を打ち出すことになります。

内鮮融和政策の推進とその具体策

宇垣は朝鮮総督に就任すると、「内鮮融和」という政策を掲げました。これは、日本人(内地人)と朝鮮人(鮮人)の対立を緩和し、共存を促すことを目的としたものでした。それまでの朝鮮統治では、日本人が特権階級として振る舞い、朝鮮人を差別する構造が根強く残っていました。しかし、宇垣は朝鮮社会の安定には対立の解消が必要であると考え、融和を目指した統治を進めました。

具体的な施策の一つとして、教育の改革を進めました。それまでの日本政府の方針では、日本語教育が重視され、朝鮮語の使用は制限されていました。しかし、宇垣は朝鮮語の授業を一部認め、朝鮮人が日本の教育を受けやすい環境を整える方針を打ち出しました。また、朝鮮人が高等教育を受ける機会を拡大し、官僚や公務員として登用する道を開くことを模索しました。これは、朝鮮人の知識層を育成し、日本との協調を促す狙いがありました。

経済政策としては、農村改革を進め、小作農の生活向上を目指しました。当時の朝鮮では、日本人地主による大規模な土地経営が行われ、多くの朝鮮人農民が厳しい小作条件のもとで働いていました。宇垣は小作料の引き下げや農業技術の向上を支援することで、農民の生活を安定させようとしました。また、朝鮮人の中小企業の育成にも取り組み、産業振興を進めました。

さらに、朝鮮人の政治参加を一定程度認める方針も示しました。総督府内に朝鮮人の意見を反映させる諮問機関を設置し、地方行政にも朝鮮人官僚の登用を進めました。これにより、朝鮮人が統治に協力しやすい環境を作ることを目指しました。

政策の評価と朝鮮社会の反応

宇垣の内鮮融和政策は、日本政府内や朝鮮社会の一部から評価されたものの、必ずしも成功したとはいえませんでした。まず、日本人官僚や実業家の多くがこの政策に反発しました。彼らは朝鮮人との平等な関係を望まず、特権を維持しようとしたため、宇垣の改革は思うように進みませんでした。特に、日本人地主層は、小作料の引き下げや農民支援策に対して強く反発し、総督府内でも政策の実行には困難が伴いました。

一方で、朝鮮人の間でも賛否が分かれました。穏健派の知識人層の中には、宇垣の融和政策を評価し、日本との共存を模索する者もいました。しかし、独立運動を推進する民族主義者たちは、「日本の支配を正当化するための政策」として強く批判し、朝鮮の完全独立を求める立場を崩しませんでした。特に、1930年代に入ると、日本の満州進出に伴い軍国主義が強まる中で、宇垣のような穏健な統治方針は影響力を失っていきました。

また、宇垣の在任中には朝鮮共産党の活動が活発化し、日本統治への抵抗運動が再び強まりました。彼はこれに対して弾圧を加えましたが、融和政策と強硬策の間で矛盾を抱えることとなり、結果的に朝鮮統治の安定にはつながりませんでした。

1931年、宇垣は朝鮮総督を退任しました。彼の政策は、従来の強圧的な総督と比べると柔軟なものでしたが、日本政府全体の方針がより強硬路線へと向かう中で、十分に実現されることはありませんでした。

宇垣の朝鮮統治に対する評価は、現在においても賛否が分かれています。彼は他の総督と比べて朝鮮人との共存を重視し、一定の改革を試みました。しかし、その政策は日本の支配を維持するためのものであり、根本的な支配構造を変えるものではなかったため、独立運動家たちからは否定的に評価されています。一方で、軍事色の強い統治を行った他の総督と比べると、穏健な統治者であったともいわれています。

宇垣の内鮮融和政策は、日本と朝鮮の関係を改善しようとする試みではありましたが、当時の政治的・社会的状況の中で十分に実を結ぶことはありませんでした。

三月事件と政治的転機

三月事件の背景と宇垣の関与度合い

1931年、宇垣一成は日本の政界において重要な局面に立たされることになりました。この年、日本は国内外で大きな変化を迎えていました。世界恐慌の影響で経済が悪化し、労働者や農民の不満が高まる中、政治も不安定な状態にありました。一方で、満州では関東軍が独自に軍事行動を計画し、日本の大陸進出を加速させようとしていました。

こうした状況の中で起こったのが「三月事件」と呼ばれるクーデター未遂事件です。これは、陸軍内部の急進派将校たちが、政党政治を廃止し、軍主導の強力な政府を樹立しようとした計画でした。彼らは軍縮政策に不満を抱き、軍事力を背景に政権を掌握することで、日本をより統制の取れた国家へと変えようとしていました。

宇垣の関与については議論が分かれています。事件の中心となったのは、橋本欣五郎らを中心とする陸軍の青年将校たちであり、彼らは宇垣を新政府の首班に据えようと考えていました。宇垣は軍内部で影響力を持つ人物であり、また軍縮政策を進めた経験から、軍を統制できる適任者だと考えられていたのです。しかし、宇垣自身がこの計画にどの程度関与していたのかについては、明確な証拠が残されていません。

一説によれば、宇垣はクーデター計画の存在を知っていたものの、これを支持することはなく、むしろ抑えようとしたといわれています。しかし、別の見方では、彼が軍の改革を進めるために一時的にでも強権的な政権を必要と考え、一定の理解を示していた可能性も指摘されています。

クーデター計画の詳細と失敗の要因

三月事件の計画では、陸軍の急進派将校たちが東京を占拠し、政府を倒して宇垣を首班とする新体制を樹立する予定でした。計画では、首相官邸や主要政府機関を制圧し、陸軍の一部を動員して国家非常事態を宣言することが構想されていました。彼らは政党政治が腐敗していると考え、軍の指導のもとで新たな国民国家を築くことを目指していたのです。

しかし、この計画は事前に発覚し、実行に移されることなく終わりました。いくつかの要因が失敗の原因となりました。

第一に、陸軍の上層部がクーデター計画を支持しなかったことが挙げられます。三月事件を企てた急進派の将校たちは、宇垣を中心に据えることで軍内の支持を得られると考えていましたが、実際には陸軍首脳部の多くがこれを危険視していました。彼らは、クーデターが成功したとしても国際的な信用を失い、日本の立場を不安定にする可能性が高いと判断したのです。

第二に、政治家や官僚の警戒が強かったことも計画の挫折につながりました。政府側はすでに軍部の動きを察知しており、事件が発生する前に関係者への監視を強化していました。その結果、決起の前段階で主要な関係者が動きを封じられ、計画は頓挫しました。

第三に、宇垣自身が決断を下さなかったことが大きな要因とされています。急進派将校たちは宇垣のリーダーシップを期待していましたが、彼は最後まで明確な態度を示さず、軍部の保守派と政治家の間で慎重な立場を取り続けました。結果的に、宇垣の消極的な姿勢がクーデターの勢いを削ぎ、計画を失敗に導いたと考えられています。

事件後の宇垣の立場の変化

三月事件が未遂に終わった後、宇垣の政治的立場は大きく変化しました。彼は正式に事件への関与を否定し、軍部内での信用を維持しようとしましたが、事件の首謀者たちが彼を首班に据えようとしていたことから、軍内部での影響力は低下しました。特に、保守派の将校たちは彼を警戒するようになり、宇垣が軍事的な実権を握ることは難しくなりました。

一方で、宇垣はこの事件を契機に政治への関与を強めることになります。彼は軍の改革を進めるためには、軍内部からではなく、政治の場で影響力を持つ必要があると考えました。結果として、彼は軍を離れ、政界に軸足を移すことを決意しました。

また、この事件をきっかけに、日本の政治と軍の関係はより緊張したものになりました。軍部の一部が政治に介入しようとする動きはこの後も続き、のちの五・一五事件(1932年)や二・二六事件(1936年)へとつながる流れを作ることになります。宇垣が関与したとされる三月事件は、日本の軍部が政治へ深く関与する転換点の一つとなったといえます。

宇垣一成は、三月事件の未遂によって政治的に大きな打撃を受けましたが、それでも政界での影響力を維持し、次の政治的な挑戦へと進んでいきました。

首相就任の挫折と外交への転身

近衛文麿内閣成立と宇垣の首相就任断念

1937年、日本は日中戦争の本格化に伴い、国内の政治体制を大きく変化させていました。この時期、日本の政界では、軍部の影響力が強まり、政党政治の影響が次第に薄れていきました。そのような状況の中で、宇垣一成は首相就任の可能性を探っていました。彼は軍の近代化を推し進め、政治と軍のバランスを保とうとする立場を取っていたため、一部の政治家や官僚から支持を得ていました。

しかし、1937年6月、宇垣の首相就任は実現しませんでした。当時の内閣は、広田弘毅内閣の総辞職を受け、新たな首相候補が模索されている状況でした。宇垣は元陸軍大臣としての実績があり、また軍部との調整能力にも優れていたため、有力な候補の一人と見なされていました。しかし、軍部の強硬派は宇垣の穏健な姿勢を快く思わず、彼の首相就任に強く反対しました。特に、陸軍の中でも皇道派と呼ばれる勢力は、宇垣を「過去に軍縮を推進した人物」として批判し、彼の首相就任を阻止しようと動きました。

さらに、政界においても、宇垣の政治手腕に対する懐疑的な見方がありました。彼は軍人としての経歴が長く、政党政治の中での調整経験が乏しかったため、国会運営や外交交渉の面で不安視されることがありました。こうした要因が重なり、最終的に宇垣は首相の座を断念せざるを得ませんでした。そして、代わりに首相に就任したのが近衛文麿でした。近衛は貴族院議員であり、若手政治家としての人気も高く、また軍部との関係も比較的良好であったため、首相としての適任者と見なされたのです。

宇垣にとって、この首相就任断念は大きな挫折となりました。彼は軍と政界の橋渡しをしながら、日本の政治を安定させようとしていましたが、軍部の強硬派に押し切られる形でその道が閉ざされたのです。しかし、彼はここで政治から退くことなく、次の機会を模索しながら、外務大臣としての役割を果たすことになります。

外務大臣としての日中和平工作の試み

宇垣は、軍部の台頭と日中戦争の拡大を懸念し、外交を通じて戦争の早期終結を模索していました。1938年1月、彼は近衛内閣の下で外務大臣に就任しました。当時、日本はすでに中国との全面戦争に突入しており、戦局は長期化の様相を見せていました。宇垣は、この戦争を早期に終結させるために、外交交渉を積極的に進めることを目指しました。

彼が試みた和平交渉の一つが、中国国民党政府との交渉でした。当時の中国政府は、蒋介石率いる国民党が主導しており、日本との対決姿勢を強めていました。しかし、日本国内では戦争の継続による経済負担の増大が懸念され、一定の条件のもとで和平を模索する動きも出ていました。宇垣は、外交交渉を通じて中国側と接触し、戦争の終結に向けた合意を模索しました。

しかし、この和平工作は成功しませんでした。その要因の一つは、すでに日本国内の軍部が強硬路線を取っており、全面戦争の継続を主張する勢力が強かったことです。特に、関東軍や陸軍の一部は、中国に対する軍事的圧力を強めることで、より有利な条件で戦争を終結させようと考えていました。宇垣の穏健な外交路線は、こうした強硬派の意向とは相反するものであったため、国内での支持を得ることが難しくなりました。

さらに、中国側の対応も和平交渉の障害となりました。蒋介石は、日本の提案を慎重に検討しましたが、最終的にはこれを拒否しました。中国側としては、戦争が長期化すれば国際的な支援を得られる可能性があり、日本との妥協を急ぐ必要がないと判断したのです。特に、アメリカやソ連が中国への支援を強めていたことも、蒋介石の強気な態度を支える要因となっていました。

こうして、宇垣の和平交渉は成果を上げることなく終わりました。彼は、戦争を拡大させるのではなく、外交によって解決を図るべきだと考えていましたが、軍部の意向や国際情勢の変化によって、その努力は実を結びませんでした。

駐日英国大使クレーギーとの交渉とその影響

宇垣は、外務大臣としての任期中、イギリスとの外交交渉にも力を入れました。特に重要な役割を果たしたのが、当時の駐日英国大使であったロバート・クレーギーとの交渉でした。クレーギーは、日本とイギリスの関係改善を模索していた外交官であり、日中戦争の収束に向けた協力を模索していました。

宇垣とクレーギーの間では、日本の戦略的な方向性や、対英関係の調整について多くの議論が行われました。宇垣は、イギリスとの関係を悪化させることは、日本にとって不利益であると考え、一定の妥協を模索しました。しかし、軍部の中には、イギリスを敵視する勢力も多く、交渉は難航しました。

特に、日英関係が悪化した要因の一つが、中国への支援問題でした。イギリスは中国を支援し、日本の軍事行動に対して批判的な立場を取っていました。これに対し、日本の軍部は、イギリスの姿勢を敵対的と見なし、強硬な対応を主張していました。宇垣は、イギリスとの対話を重視しましたが、軍部の影響力が強まる中で、彼の外交方針は十分に実現されることはありませんでした。

結局、宇垣は外務大臣としての役割を十分に果たすことができないまま、1938年5月に辞任しました。彼の外交努力は、日本国内の軍国主義の流れの中で抑え込まれ、和平への道を開くことはできませんでした。しかし、彼の試みは、日本が戦争の拡大を防ぐための可能性を模索した数少ない外交努力の一つとして評価されています。

宇垣一成は、首相就任を断念し、外務大臣として外交による平和の道を模索しました。しかし、軍部の強硬路線が支配的になる中で、彼の試みは実を結ぶことなく終わりました。

戦後の政治活動と晩年

参議院議員としての再出発と活動内容

第二次世界大戦の終結後、宇垣一成は政治家としての活動を再開しました。戦前は軍人として、また外務大臣として活躍していましたが、戦後は軍が解体されたこともあり、文民として新たな道を歩むことになりました。彼は戦後の日本の再建に関与することを望み、1950年に行われた第2回参議院議員通常選挙に立候補し、当選しました。

戦後の日本は、GHQ(連合国軍総司令部)による占領統治のもとで民主化が進められており、政治の仕組みも大きく変化していました。宇垣は参議院議員として、日本の安全保障や外交政策について積極的に発言しました。特に、戦争の経験から、日本の軍備について慎重な姿勢を取りつつ、国際社会での地位を回復するための方策を模索しました。彼は国防の重要性を理解しながらも、軍国主義の復活には否定的であり、戦後日本が平和国家として歩むための道筋を模索していました。

また、教育政策にも関心を持ち、戦前に自らが推進した軍の教育改革の経験を生かし、戦後の教育制度についても議論を重ねました。特に、日本が再び戦争に巻き込まれないようにするための歴史教育の重要性を強調し、軍事に依存しない国家運営の必要性を説きました。彼の意見は保守派と進歩派の間で賛否が分かれることもありましたが、戦争を経験した元軍人としての見解は一定の影響力を持っていました。

戦後日本の政治への影響と評価

宇垣の戦後の政治活動は、軍人出身の政治家としての新たな可能性を示すものでした。戦前の軍人政治家は、しばしば軍国主義と結びつけられることが多かったため、戦後に公職に就くことは困難でした。しかし、宇垣は戦争終結後の日本においても政治の場で活動し続け、国際関係や安全保障の分野で発言を続けました。

特に、彼は日本が独立を回復した後の安全保障政策について積極的に意見を述べました。1951年に締結されたサンフランシスコ講和条約により、日本は主権を回復しましたが、同時に日米安全保障条約の締結によって、アメリカの軍事的な影響を受け続けることになりました。宇垣は、この状況を慎重に分析し、日本がどのように独立した外交を展開するべきかについて議論しました。彼は、日本が軍事力に依存するのではなく、経済力や外交力を強化することで国際社会での地位を確立するべきだと考えていました。

また、戦前の軍縮政策を主導した経験から、日本の再軍備に対しても慎重な立場を取りました。1954年に自衛隊が創設される際にも、軍の存在そのものには一定の理解を示しつつ、過去の軍部の暴走を繰り返さないための制度設計が重要であると訴えました。彼は、戦前の軍部の過度な政治介入が日本を戦争へと導いたことを教訓とし、文民統制の徹底が不可欠であると主張しました。

在職中の死去と後世の評価

宇垣一成は、1956年に参議院議員として在職中に死去しました。享年88歳でした。彼は晩年まで政治の場に立ち続け、戦前・戦中・戦後を通じて日本の政治・軍事に関わり続けた数少ない人物の一人でした。

宇垣の評価は、戦前・戦中・戦後を通じて異なる側面を持っています。戦前においては、軍縮を推進しながらも軍の近代化を進めた陸軍大臣として、また朝鮮総督としての統治政策を展開した人物として記憶されています。一方で、三月事件などの軍事クーデター未遂事件と関わりがあったとされる点については、軍部との距離感が問われることもありました。

戦後においては、軍人出身の政治家として新たな役割を果たしました。戦争の反省を踏まえ、日本の平和外交や国防政策に関して慎重な姿勢を取り続けました。彼の発言や行動は、戦前の軍国主義の流れを否定しつつも、日本の独立と安全保障をどう確保するかという現実的な課題に向き合ったものとして評価されています。

また、彼の生涯を描いた書籍や研究も多く発表されており、その中では教育者としての側面や、政治家としての信念にも注目が集まっています。宇垣は単なる軍人ではなく、戦争と平和の狭間で日本の未来を模索し続けた人物として、その功績が再評価されています。

宇垣一成を描いた書籍とその視点

『昭和天皇独白録』に見る宇垣の政治的処世術

宇垣一成の人物像を知るうえで重要な史料の一つに、『昭和天皇独白録』があります。この書は、終戦直後の1946年に昭和天皇が側近の木戸幸一らに対して語った回想を記録したもので、戦前・戦中の政治や軍の動向について昭和天皇自身の視点が示されています。そこには宇垣についての言及もあり、彼が戦前の軍政や政界でどのような立場を取っていたのかを知る手がかりとなっています。

昭和天皇は宇垣について、軍縮を推進しながらも軍部内で一定の影響力を維持していたことに注目していました。軍の近代化と合理化を目指した彼の政策は、昭和天皇が望んでいた「軍部の暴走を抑えるバランスの取れた政治」に近いものがありました。しかし、宇垣が首相就任を目指した際には軍部の反発に遭い、結果として政界での影響力を大きく低下させることになりました。このことについて、昭和天皇は「宇垣は優れた軍人であったが、政治家としての立ち回りには限界があった」と評していたとされています。

また、三月事件などのクーデター未遂事件に関しても、『昭和天皇独白録』では宇垣の関与がほのめかされています。彼自身が事件を主導したわけではないものの、軍内部の一部の勢力が彼を担ぎ出そうとしたことは事実であり、結果的に宇垣の政治的立場を危うくした要因となりました。この点について、昭和天皇は「軍と政界の橋渡し役を果たそうとしたが、両者の間に挟まれ、十分な成果を上げることはできなかった」と回想していたといいます。

この書を通じて見える宇垣の姿は、軍人としての能力は高かったものの、政治の世界では慎重すぎるがゆえに決断力に欠ける部分があったというものです。彼の功績は認められつつも、その限界も明確に指摘されており、彼の生涯を総合的に評価する上で重要な視点を提供しています。

『教育改革者としての宇垣一成』に描かれた教育観

宇垣のもう一つの側面として、教育者としての視点から彼を評価する書籍も存在します。その代表的なものが、『教育改革者としての宇垣一成』です。この書では、彼が軍務局長時代や陸軍大臣として取り組んだ軍の教育改革が、後の日本の教育制度に与えた影響について詳しく述べられています。

宇垣は陸軍大臣時代、将校の教育制度改革に力を入れました。それまでの日本陸軍の教育は、実戦経験に基づく実践的なものが重視される傾向にありました。しかし、彼は欧米の軍事教育を研究し、より理論的かつ体系的な教育が必要であると考えました。特に、戦術や戦略の研究だけでなく、国際政治や経済学などの分野にも知識を広げることを重視し、将校が軍事以外の分野でも活躍できるような教育方針を取り入れました。

この書では、宇垣が単なる軍人ではなく、「知的な軍人」の育成を目指していた点が強調されています。また、戦後の教育改革にも彼の考え方が影響を与えた可能性が指摘されています。たとえば、戦後の自衛隊においても、単なる戦闘技術の習得だけでなく、国際関係や法学などの幅広い分野を学ぶ教育カリキュラムが導入されましたが、これは宇垣が進めた教育改革の延長線上にあるものと考えられます。

このように、『教育改革者としての宇垣一成』では、彼の教育に対する姿勢が戦前・戦後を通じてどのように影響を与えたのかが論じられています。軍人としてだけでなく、教育者としての彼の側面にも焦点を当てることで、宇垣の業績を多面的に評価しようとする内容になっています。

『政治家の文章』に見る宇垣の政治思想分析

宇垣一成は、軍人や政治家としてだけでなく、文章家としても知られています。彼の著作や演説録を分析した書籍の一つに、『政治家の文章』があります。この書では、宇垣が残した文章や発言を通じて、彼の政治思想や信念を読み解く試みが行われています。

宇垣の文章の特徴として、論理的で慎重な表現が多いことが挙げられます。彼は、感情的な言葉をあまり用いず、冷静に事実を分析しながら政策を論じる傾向がありました。特に、軍縮政策について語る際には、「無駄な軍備を削減し、合理的な軍事組織を作ることこそが国家の安全を守る道である」といった論調を貫いていました。これは、当時の軍部の中では異例とも言える考え方であり、彼の合理主義的な姿勢を象徴するものとされています。

また、彼の外交政策に関する文章からは、国際協調の重要性を強調する姿勢が見受けられます。特に外務大臣時代には、日本が軍事力に頼るのではなく、外交努力によって国際的な立場を確立するべきであるという考えを繰り返し主張していました。これは、当時の軍部の拡張路線とは異なるものであり、彼が軍人でありながら戦争回避のための外交を重視していたことが分かります。

この書では、宇垣の政治的文章を分析しながら、彼の思想の一貫性や、その限界についても議論されています。彼の文章は理知的でありながら、時には慎重すぎるがゆえに決断力に欠ける印象を与えることもありました。この点が、彼が首相就任を果たせなかった理由の一つとも考えられています。

このように、宇垣一成を描いた書籍は、彼の軍人としての側面だけでなく、教育者・政治家・思想家としての一面にも光を当てています。それぞれの視点から宇垣の人物像を掘り下げることで、彼の多面的な業績が明らかになっています。

まとめ

宇垣一成は、明治から昭和にかけての激動の時代を生きた軍人・政治家でした。農家の五男として岡山県に生まれ、小学校教員を経て陸軍士官学校へ進み、日露戦争での従軍を通じて軍人としての地位を確立しました。彼は軍内部で影響力を持つ「宇垣閥」を形成し、軍縮と近代化を進めることで合理的な軍組織の確立を目指しました。しかし、その改革は軍内部の反発を招き、陸軍大臣辞任へと追い込まれることになります。

朝鮮総督としての統治では、日本人と朝鮮人の対立を緩和しようとする「内鮮融和」政策を掲げましたが、政治的・社会的な限界により十分に成果を上げることはできませんでした。また、三月事件をはじめとする軍部の政治介入の動きに巻き込まれ、結果として軍と政界の間で難しい立場に立たされることになりました。

その後、首相就任を目指したものの軍部の反発により実現せず、外務大臣として外交による戦争回避を模索しました。しかし、軍部の強硬路線の中で彼の外交努力は実を結ばず、日本は日中戦争から太平洋戦争へと突き進むことになりました。戦後は参議院議員として日本の再建に関わり、軍人出身の政治家として平和外交や安全保障の問題に取り組みました。

宇垣一成の生涯は、軍事と政治の間で苦闘しながらも、日本の近代化と国際社会での立ち位置を模索した軌跡そのものです。彼の軍縮政策や教育改革の試みは、軍国主義とは異なる形での国防のあり方を提示し、戦後日本の防衛政策にも影響を与えました。戦争と平和、軍と政治の間で揺れ動きながらも、日本の未来を見据えて行動し続けた彼の姿は、現代においても多くの示唆を与えてくれるものです。

彼の歩んだ道を振り返ると、時代の流れに翻弄されながらも、合理的な軍事政策や外交努力を模索し続けた姿が浮かび上がります。宇垣の功績と課題を改めて見つめ直すことで、日本の近現代史における軍と政治の関係、そして国家のあり方について考えるきっかけとなるでしょう。

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