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宇垣一成の生涯:陸軍の改革者から朝鮮総督・外相・首相候補へ

こんにちは!今回は、明治から昭和にかけて活躍した日本陸軍の軍人・政治家、陸軍大将の宇垣一成(うがきかずしげ)についてです。

軍部の反発を押し切って陸軍の大規模なリストラ=「宇垣軍縮」を断行し、クーデター未遂「三月事件」にも関与、さらには朝鮮総督・外務大臣として外交と植民地統治にも手腕をふるいました。

首相就任にあと一歩で届かなかったその苦闘の舞台裏まで、近代日本の裏面史を動かした男・宇垣の波瀾万丈な生涯を紹介します。

目次

宇垣一成の少年時代に刻まれた原点

岡山の武士の家に生まれて

1868年、宇垣一成は岡山藩の武士階級に属する家に生まれました。明治元年という時代の節目に誕生した彼の人生は、維新の混乱と変革の只中に置かれたものでした。宇垣家は形式上武士の身分でしたが、その生活はむしろ庄屋に近い、地域に根ざした実直なものだったと伝えられています。父・良助は郷校で教鞭を執っており、家は教育と自治の精神が息づく空間でした。宇垣はその環境の中で、武士の規律と農民の勤勉さを併せ持つ価値観に触れながら育っていきました。

家庭では、日々の暮らしに加え、書物と対話を通じて知識と倫理を養うことが重要視されていました。家には漢籍や地誌、近代日本の思想書も所蔵されており、それらは宇垣少年の知的好奇心を刺激しました。父が口にしたとされる「知こそが人を導く」という言葉は、彼にとって思想的な道標となり、軍人としての道を選ぶ後年の基盤を形成していきます。そうした家風の中で、宇垣は「変わりゆく時代にどう応えるべきか」を自らに問い始めるようになります。それは、単なる出自ではなく、精神の在り方としての“武士”を体現しようとする意志へと昇華していきました。

教育熱心な家庭が育んだ資質

宇垣家は学問を重んじる家庭であり、父・良助は家の一角を開放して私塾を運営していました。そこでは地元の子弟に読み書きや儒学の教えが行われ、幼い宇垣もその一員として机を並べて学びました。『宇垣一成日記』や井上清の評伝においても、彼の幼少期からの学問への姿勢が丁寧に描かれています。特に儒教的教養に親しみ、論語や孟子を通じて「忠」「信」「仁」の価値を自然と体得していきました。家庭内では、父の教えに加え、時折訪れる地元の知識人たちとの議論が行われ、それに耳を傾けることが日常でした。

宇垣はそうした環境の中で、単なる学力の優秀さを超えて、物事を「なぜそうなるのか」と問い続ける癖を育てていきます。12歳を迎える頃には、地域の政治的な出来事にも興味を持ち、父の講義の合間に意見を述べる姿も見られたと記録されています。とある日、地元の寺に招かれた講師の話を聞いた帰り道、「国を治める者に必要なのは力か、言葉か」と父に尋ねたという逸話も残っています。これらの記憶は、正確な日付や証拠をもって裏付けられるわけではありませんが、宇垣の知的成熟と将来への志向性を物語る重要な断片といえるでしょう。学びとは自己の鍛錬であると同時に、世に尽くす手段でもある——そうした思想が、少年宇垣の中に静かに息づいていました。

明治という激動の時代との出会い

宇垣の成長期は、まさに近代日本の胎動と重なります。1872年、学制が公布され、全国で小学校教育が始まると、宇垣もまた新制度の学校に通うようになります。そこで彼が出会ったのは、従来の儒学だけではない、新しい価値観でした。「自由」「平等」「国民」「進歩」といった概念が授業に現れ、彼の思考に鮮烈な印象を残します。宇垣は古い時代の規範と新時代の思想を両方吸収し、内面に複層的な価値観を築いていきました。

彼が特に強く意識したのは、「国に尽くす」という行為の意味でした。徴兵令が公布された1873年、武士でなくとも軍人になれる時代が到来します。当時、武士階級の出身者として、この変化にどう向き合うべきかを家族と話し合ったとされます。これを契機に、宇垣は軍人という進路に対して具体的な関心を持ち始めます。自らの知と行動をもって国家のかたちに関わる——それは、士族としての義務感であると同時に、新時代の青年としての意志でもありました。

明治という時代は、すべてを白紙に戻したうえで、国の未来を再構築する機会を与えていました。宇垣にとってその機会とは、ただ学ぶことではなく、「自分が何を担うべきか」を見出す行為でもありました。地方の一少年にすぎなかった彼が、やがて日本の軍政と外交の中枢を担う人物へと成長していく原点は、まさにこの時代との対話の中にあったのです。

士官学校から陸大へ、宇垣一成が掴んだもの

士官学校での秀才ぶりと仲間たち

宇垣一成は1887年ごろ、成城学校を経て陸軍に入り、1890年、陸軍士官学校の第1期生として卒業しました。卒業時の成績は103名中11位という上位成績で、歩兵科の将校として任官します。士官学校は当時、近代日本が西欧列強に伍するために必要とされた軍人を養成する場であり、宇垣もこの環境で高度な学術と規律を身につけていきました。とりわけ、合理的な戦術思考と自己管理の習慣は、のちの彼の実務能力の基盤を形づくります。

在学中の人脈形成もまた、宇垣の将来にとって極めて重要でした。第1期の同期には鈴木荘六や白川義則といった後に陸軍内で重要な地位を占める人物たちが含まれます。彼らとの関係は、出世後の宇垣閥の土壌となっていきました。宇垣は寄宿舎での語らいの中で、自らの意見を整理し、他者の視点を取り入れる姿勢を自然と養っていきます。当時の記録には、宇垣が戦術だけでなく「国家の行く末」についても語り合う姿があったとされ、単なる軍務訓練生という枠を超えた視座を持っていたことがうかがえます。

彼にとって士官学校は、軍人としての技量を磨くだけでなく、思索を重ねる場でもありました。「軍人とは何のために存在するのか」という問いに、宇垣はこの時期から静かに向き合いはじめていたのです。

陸軍大学校で広がった人脈と学び

1897年12月、宇垣は陸軍大学校第14期に進学します。当時30歳前後だった彼は、実務経験と将来性を兼ね備えた将校として注目されていました。1899年12月、成績第3位という優秀な成績で卒業し、「恩賜の軍刀」を拝受する栄誉を得ます。陸大では、単なる戦術訓練にとどまらず、政治・外交・経済・地政学など、軍政と戦略を多角的に捉える教育が施されており、宇垣はこれを吸収し、より俯瞰的な思考力を培っていきます。

とりわけ注目すべきは、人的ネットワークの広がりです。ここで彼が交流を持った将校たちは、のちの政軍の中枢を担う面々であり、宇垣が後年築いた「宇垣閥」の基盤を成します。宇垣は議論の中で「なぜその戦術が妥当なのか」「国家にとってその戦略が何を意味するのか」といった問いを積極的に投げかけ、分析と論理に基づく思考で周囲に一目置かれるようになります。

また、この頃から彼は、朝鮮半島や満州といった東アジアの地政学的重要性に強い関心を寄せていたことが記録から読み取れます。地形、物流、文化といった複合的な要因を視野に入れた戦略思考は、彼の軍人としての特異な資質のひとつでした。陸大での経験は、宇垣にとって「理論と実務を結ぶ橋」であり、単なる軍務ではない国家運営への関心を強める機会でもあったのです。

参謀としての初陣と期待の高まり

宇垣一成が初めて実戦に従事したのは、1894年に勃発した日清戦争でした。彼は当時、歩兵中尉として従軍し、現地では戦況分析や作戦の補助、補給路の確保といった実務を担いました。若い将校でありながら、状況判断の確かさと報告書の簡潔さが上官の信頼を得て、戦後には次第に参謀としての適性を評価されるようになります。

彼の戦地からの報告書は、「無駄のない構成と要点を突いた記述」で知られ、単なる記録文を超えて戦況の背景や今後の見通しにまで踏み込むものでした。これは彼が陸軍大学校で培った分析力と、実戦の現場で得た感覚の融合による成果といえるでしょう。戦地での経験は宇垣にとって、理論が現場にどう通用するかを確かめる重要な機会でした。

この経験を経て、宇垣は「参謀とは、戦場にいない時こそ最大の責任を負う存在である」という認識を持つようになったとされます。彼の昇進は急速に進み、軍政に関与するための準備が整っていきました。日清戦争は、宇垣にとって単なる軍歴の一章ではなく、「考える軍人」としての資質を周囲に印象づける舞台となったのです。

宇垣一成が歩んだ軍政の中枢

参謀本部で見せた分析力と行動力

日清戦争後、宇垣一成は参謀本部に配属され、戦略立案、国防計画、動員体系の整備といった中枢業務に携わるようになります。彼の担当は、単なる戦術面にとどまらず、情報分析や国際情勢のモニタリングを含む広範な分野にわたっていました。とりわけ彼の作成した報告書や意見書は、簡潔で論理的でありながら、視野の広さと深さを併せ持つと高く評価され、次第に「分析の人」としての評判を確立していきます。

彼が重視したのは、軍事的行動の裏付けとなる国民の動員力、兵站力、そして予算配分といった構造的要素でした。この視点は、後年の「宇垣軍縮」へとつながる兵力の合理化思想と一致しています。宇垣は、単に兵士の数を積み上げるのではなく、国家全体のリソース配分の中で軍がどう機能すべきかを問い直しました。参謀本部での任務を通じて彼が獲得したのは、「計画は現実と切り離せない」という認識であり、これが後の政策家・宇垣一成の原型を成したといえます。

この時期、彼の姿勢にはすでに「現場を知らぬ理論」と「現場しか知らぬ実務」のいずれにも与しない独立した知性が現れ始めており、若手将校の中でも際立つ存在となっていました。

日露戦争後の改革へのかかわり

1904年からの日本とロシアの大規模戦争、すなわち日露戦争において、宇垣は参謀本部の少佐として後方の作戦指導と人員動員の立案を担当しました。この戦争は、日本陸軍にとって未曾有の規模での動員と補給を要する戦いであり、宇垣のような「組織の論理」を理解する人物の存在は極めて重要でした。彼は作戦面だけでなく、戦争終了後に実施された軍制度の再検討にも深く関わっていきます。

戦後、日本政府と軍部は、過度な軍拡による財政圧迫と国民負担の増大に直面しました。宇垣はこの状況を受け、常備兵力の削減と予備役の有効活用を提唱します。これらの提案はすぐに政策化されたわけではありませんが、1919年の兵役法改正や1925年の軍縮政策に反映される形で、後年の制度改革に確実な影響を与えました。

また、同じく参謀本部に所属していた田中義一とはこの時期から協力関係を強め、後の宇垣閥の構築に向けた人的ネットワークの基盤が形成されていきます。宇垣にとって、戦争は単なる戦術の検証ではなく、「国家を持続させる戦い方」を模索する知的実験の場でもありました。日露戦争を通じて、彼は軍政改革というテーマを生涯の課題として抱えることになります。

陸軍省で果たした政策立案の役割

1910年代、宇垣は陸軍省において軍政の中枢に進出し、政策立案の中心人物の一人として活動します。ここで彼が取り組んだのは、人事制度の柔軟化と徴兵制度の近代化でした。従来、陸軍内部では昇進に年功序列的な慣行が根強く残っており、優秀な若手が能力を発揮しにくい状況にありました。宇垣はこの問題に対し、実力主義に基づいた昇進制度の導入を進め、指揮官としての資質や教育履歴を重視する制度改正を推進しました。

また、徴兵制度についても、都市部と農村部での不均衡を是正すべく、徴兵検査の基準統一や、訓練期間の柔軟化を提言。これらの方針は、1927年に制定される新たな兵役法において具体化されていきます。さらに、軍事予算についても、宇垣は費用対効果の観点から配分を見直す姿勢を取り、1925年の軍縮では削減分を航空部隊や教育訓練に振り向けるなど、長期的視野に立った再配分を行いました。

これらの施策に共通するのは、「軍は国家の持続性に寄与する機関であるべき」という宇垣の基本思想です。彼の政策は、単なる合理化にとどまらず、軍を通じて国家と社会をどうつなぐかという問いへの答えでもありました。陸軍省での活動を通じて、宇垣は軍政の枠を超え、政策思想家としての輪郭を明確にしていったのです。

宇垣軍縮に見る信念と現実のはざま

軍縮を進めた理由とその理想

1925年(大正14年)、宇垣一成は陸軍大臣として、陸軍の抜本的再編に乗り出しました。いわゆる「宇垣軍縮」です。彼が目指したのは、兵力の単純削減ではなく、軍隊の質的近代化でした。背景には第一次世界大戦の戦訓があり、戦争が国家全体の資源と体制を総動員するものへと変化していた現実を、宇垣は深く認識していました。財政悪化に悩む政府の要請に応じつつ、単なる予算削減では終わらせない強い意思が、そこにはありました。

宇垣は、当時10個あった常備師団のうち4個を削減し、それに伴って既存の歩兵連隊16個を廃止しました。これにより、約3,000名の将校が退役を余儀なくされるという、組織の骨格にまで踏み込む大改革となりました。削減によって得た予算は、航空部隊の中隊数を16から24へと拡充するほか、我が国初の戦車連隊と高射砲部隊の新設に振り向けられました。これは、単に兵力を減らす代わりに技術力を上げるというだけでなく、将来の戦争を見据えた軍制転換の一環でもありました。

宇垣は軍を「国家総動員体制の中における機能」として捉え、そのあり方を問い直しました。「軍備は国家を守る手段であると同時に、国家財政と社会制度に調和していなければならない」という理念が、彼の政策の根底に流れていたのです。この発想は、軍備の効率化や合理化という枠を超え、「国を動かす一要素としての軍」という本質的問いに通じていました。

軍内部からの反発と孤立

だが、宇垣の改革は陸軍内部に大きな波紋を呼びました。特に強く反発したのは皇道派の将校たちであり、荒木貞夫や真崎甚三郎らは、師団や連隊の削減が「皇軍の伝統を損なう」として公然と批判しました。また、師団長や連隊長といった中堅将官のポストが大幅に削られたことにより、将校たちの昇進機会が著しく狭まりました。組織内のキャリアパスが断たれたことで、多くの将校たちが宇垣に対して強い敵意を抱くようになります。

こうした状況の中で、とくに反宇垣の姿勢を鮮明にしたのが石原莞爾や田中新一といった若手将校です。彼らの原隊である歩兵第65連隊および第52連隊が軍縮の対象として廃止されたことが、対立の決定的なきっかけとなったともいわれています。宇垣が進めた合理主義的改革は、旧来の「精神主義」や「伝統重視」の軍人たちにとって、価値観そのものを否定する動きに映ったのです。

宇垣自身は、批判を承知の上で改革を進め、「理解されるには時間がかかる」と日記に記すなど、孤立の中で自らを鼓舞していました。しかし、日を追うごとに彼の政治的立場は苦しくなっていきます。改革者としての使命感と、組織との軋轢の狭間で、宇垣は重い決断を迫られていくことになります。

国防再編をめぐる構想と挫折

宇垣軍縮は、単なる緊縮財政の手段ではなく、将来を見据えた国防の再構築を目的としたものでした。その核心にあったのは、航空戦力や機械化部隊の強化でした。航空中隊は16から24へと拡大され、陸軍初の戦車連隊と高射砲連隊がそれぞれ1個ずつ新設されました。宇垣は、これらの新戦力を用いた柔軟な防衛戦略を描いており、陸軍の運用構想を質的に転換するビジョンを持っていたのです。

さらに、徴兵制度の合理化にも着手します。1927年に施行された兵役法改正では、徴兵期間の短縮や予備役制度の整備が盛り込まれ、宇垣の構想が制度面でも形を成し始めていました。都市と農村、中央と地方の徴兵負担の格差を是正し、より公平で持続可能な兵制を目指したこれらの改革は、「社会と調和する軍」の具現化ともいえるものでした。

しかし、彼の構想が浸透するよりも先に、組織内部の抵抗が限界に達します。1927年、宇垣は陸軍大臣を辞任。表向きの理由は健康問題とされましたが、政策をめぐる軍内対立が背景にあったことは、複数の研究で指摘されています。彼の改革は、すべてが打ち切られたわけではありませんが、制度の深部にまで浸透する前にその推進者が退場を余儀なくされたのです。

未完に終わった宇垣軍縮は、それでも後世に大きな影響を与えました。合理化された徴兵制度、近代兵器への予算配分、軍人の育成体系――それらは次第に陸軍全体に広がっていきます。理想と現実のはざまで奮闘した宇垣一成の改革は、未完であったがゆえに、その理念の輪郭を鮮やかに残したまま、戦間期日本の軍政史に刻まれました。

派閥と陰謀の中で宇垣一成が直面した試練

宇垣閥が支えた権力基盤

宇垣一成が陸軍内で築いた「宇垣閥」は、彼の軍政的理念と実務能力を支える人的ネットワークとして形成されました。田中義一や杉山元、今井清らの名がその中核にあり、彼らは宇垣の軍縮・近代化政策を共有し、実行部隊として機能しました。この派閥は単なる利益集団ではなく、「近代的な組織軍を構築すべき」という共通の思想に根ざしており、昇進や人事においても実力と合理性を重んじる体制を志向していました。

宇垣閥は、1910年代末から1920年代を通じて、陸軍省や参謀本部の要職を次第に占めていきます。宇垣が陸軍大臣を務めた時期には、政策形成や予算配分、人事などの中核を担い、その影響力は絶大でした。ただし、これが反発を招く一因にもなります。とりわけ皇道派や統制派といった他派閥との軋轢が表面化し始め、陸軍内部の派閥抗争が深刻化する土壌が築かれていきます。

宇垣は、閥としての結束よりも「有為な人材の登用」を重視していたとされますが、実際には彼の政策や人事に恩恵を受けた一群の将校たちが、結果的に一つの派閥として機能していたのは事実です。この人的基盤は、彼の軍縮政策や制度改革の遂行を可能にした反面、軍全体の統一性を損なう火種ともなっていました。

三月事件に見る未遂クーデターの全貌

1931年(昭和6年)3月、宇垣一成を中心に据える形で政変を画策する「三月事件」が発生します。これは皇道派青年将校と政財界の一部が連携し、政党内閣を打倒して「宇垣首班」の挙国一致内閣を成立させようとした未遂クーデターであり、日本近代史において重大な転機を示す事件でした。

この計画では、当時の政友会内閣を軍部主導で倒し、宇垣を国家改造の中心に据える構想が練られていましたが、宇垣自身がこの計画にどこまで深く関与していたかは、今も議論の余地があります。日記や証言からは、彼が直接指揮した形跡はなく、むしろ事件の進行に消極的であった可能性も指摘されています。ただし、彼がこの動きを知りつつ容認していたか、あるいは利用しようとした節は見受けられます。

計画は結局、関係者の間での不一致と、天皇側近および政府中枢の警戒によって実行前に頓挫します。この未遂事件をきっかけに、陸軍内部の派閥間対立はさらに先鋭化し、皇道派と統制派の主導権争いが表面化することになります。三月事件は、「合法と非合法」「現実と理念」の間で揺れる軍と政治の危うさを象徴する出来事であり、宇垣にとっても、自らの立場と信念が試された瞬間でした。

陸相辞任の背景とその影響

宇垣一成は、1931年の三月事件以後、再び陸軍大臣への就任を求められるも、辞退を繰り返します。彼の辞任とその後の立場の変化には、健康問題に加えて、軍内部における孤立と対立の深刻化が背景にありました。皇道派の台頭と統制派の拡大によって、宇垣が唱える「制度としての軍」「文民統制と連携する軍政」の理想は、次第に時代の流れから外れていきます。

彼が陸軍を去った後、陸軍内では青年将校による急進化が進行し、1932年の五・一五事件、そして1936年の二・二六事件へと連鎖的に展開していきます。こうした過程を通じて、宇垣のように組織改革を通じて軍を近代国家の一機関として整備しようとする路線は、完全に周縁へと追いやられていきました。

陸軍大臣辞任は、単なる個人の退任ではなく、軍政における「合理主義」の一時的な終焉を意味しました。後に宇垣は「軍とは、国家に仕える器でなければならぬ」と述べていますが、その考え方が共有されるには、時代があまりにも苛烈で、急進的でした。政治と軍事、制度と思想、理想と現実のはざまで、宇垣は最後まで自身の信念を貫こうとしましたが、それは同時に孤独な戦いでもあったのです。

朝鮮総督として現地に向き合った宇垣一成

就任に至った経緯と使命感

宇垣一成が朝鮮総督に任命されたのは、1931年(昭和6年)のことで、陸軍大臣辞任からまもない時期でした。前年に発生した満州事変とその後の国際的孤立を背景に、朝鮮統治の安定化と再編が急務となる中、政治的信頼と軍政両面での経験を持つ宇垣に白羽の矢が立てられたのです。彼の就任には、軍内の派閥抗争から一定の距離を置く意図と、朝鮮統治を「政治家宇垣」として再定義しようとする試みが見て取れます。

宇垣はこの任命を「第二の使命」と捉えていた節があり、日記には「現地の声に耳を傾けねば、真の統治にはならぬ」といった趣旨の記述もあります。総督府は名目的には天皇の直接統治機関でありながら、その実務は朝鮮の行政全般を包括する強大な組織であり、統治の巧拙がそのまま日本の対外評価につながる緊張をはらんでいました。

着任後、宇垣は中央の視点だけでなく、「現地を歩く」ことを重視し、農村部や学校、工場などを訪問しています。統治者としての責任を実感しつつ、軍人出身ながらも「武断政治の否定」を掲げる姿勢を見せたことは、彼の政治的成熟を示す一面でもありました。

地方官僚との関係と葛藤

朝鮮総督としての宇垣は、中央官僚出身の補佐官たちと距離を取り、むしろ地方の末端官吏との意思疎通を重視しました。とりわけ注目すべきは、政務総監として宇垣を支えた今井田清徳や、農政分野を担った渡辺忍らとの関係です。彼らはいずれも行政現場に精通した人物であり、宇垣の方針と理念を現場に反映させるための媒介者として重要な役割を果たしました。

しかし、現実には総督府内部でも意見の対立は絶えず、統治政策をめぐってはしばしば衝突が起こりました。宇垣は「実情を知り、理に基づいて改革せよ」という姿勢を強く持っていましたが、旧来の慣習や利権構造に阻まれる場面も多く、官僚制との軋轢は避けがたいものでした。とくに地方財政や教育行政の改革をめぐっては、内地から派遣された役人との間に意見の相違が生じ、会議では激しい議論が交わされたと記録されています。

宇垣は、自らが軍政と政務の両面に通じた存在であるという自負を持ちながら、形式的な統治に陥ることへの警戒心を隠しませんでした。日記の中には「数字と文書に支配されてはならぬ。現地に呼吸せよ」との記述も見られ、その内面には官僚機構への不信と、それでも職務を全うせねばならぬ緊張が同居していたことがうかがえます。

施策の成果と朝鮮社会への影響

宇垣総督の統治は、表面的には従来の朝鮮総督政策の延長線上に位置しつつも、内部ではいくつかの独自的な改革を試みた点が評価されています。とくに地方行政の効率化と農政の改善、教育制度の拡充などは、現地社会に一定の変化をもたらしました。具体的には、郡役所の再編成を進め、地方税制の透明化と財政健全化を図るとともに、農村指導員制度を導入して生活改善運動を促進しました。

また、教育に関しては、日本語教育と技術訓練の拡充を推進し、朝鮮人教員の待遇改善にも取り組みました。ただしこれらの施策が「啓蒙」として受け取られたか、「同化政策の延長」として警戒されたかは、朝鮮社会内でも評価が分かれる部分です。宇垣自身は「朝鮮社会の安定なくして国家の平和なし」と繰り返し語っていたとされ、その内心には現地民の生活に根差した政策を志す一方、帝国の枠組みに沿った限界もありました。

彼の統治が長期的に朝鮮社会に与えた影響については、評価が分かれるものの、当時の総督として「管理を超えたまなざし」を持っていた点は、他の総督とは異なる特徴として指摘されます。宇垣の朝鮮統治は、軍人政治家による単純な支配ではなく、「統治の本質とは何か」を模索し続けた一つの試みでもあったのです。

政界に挑んだ宇垣一成の理想と挫折

首相候補としての苦悩と壁

朝鮮総督を退任した宇垣一成は、1930年代後半、政界への本格進出を図ることになります。とりわけ注目されたのは、1937年(昭和12年)、広田弘毅内閣の総辞職にともなう後継首相候補として、元老・西園寺公望から正式に指名された出来事でした。これは、軍政と外交に通じた宇垣が「軍部の信頼も得られる文官」として、政軍の橋渡し役を期待された証左でもあります。

しかし、現実は理想とは大きく乖離していました。宇垣の首相就任は、陸軍の反対により頓挫します。陸軍は、宇垣が推進した軍縮政策と合理主義を「軍の伝統に反する」として強く警戒しており、参謀本部の一部は彼の登用に明確な拒否を示したのです。特に皇道派の残影を引きずる一部将校は、「宇垣では国家改造は進まぬ」として、彼の首班就任を潰すために様々な圧力をかけました。

政友会との関係も複雑でした。宇垣は無所属に近い立場から首相の座を目指したため、党派的な支持基盤に欠けており、議会運営の見通しも不透明でした。元老の意向と政党の思惑、軍部の動向が交錯する中、結局、宇垣は「組閣大命を拝しながら断念する」という異例の事態に陥ります。これは彼の政治的人生における最大の転機であり、また最大の挫折でもありました。

この経験は、宇垣に「軍人でも文人でもない中間的存在」の限界を突きつけました。軍政の論理と政党政治の力学が交錯する政界において、彼の“中庸の知”は支持基盤を持たなかったのです。

外務大臣として描いた外交ビジョン

1938年、宇垣一成は近衛文麿内閣のもとで外務大臣に就任します。これは、軍政・行政に通じた彼の知見を外交の現場に活かすための起用でした。着任当初、宇垣は日中戦争の拡大を防ぐことを最優先とし、和平交渉の可能性を模索します。彼の外交姿勢は、従来の対中強硬論とは一線を画すものであり、英米協調と中国との現実的な関係構築を重視していました。

宇垣が目指したのは、東アジアの安定を軸とした「多極的バランス外交」です。彼はアメリカとの関係修復に前向きな姿勢を見せ、経済摩擦の回避や日米通商協定の維持を模索しました。また、中国に対しても、国民政府との対話を通じて戦線の収束を図ろうとする意向を持っており、そのためのルート構築に奔走していたと伝えられます。

しかし、外務省内部では対中強硬派との方針の違いが大きく、また、陸軍参謀本部からの圧力も強まり、宇垣の外交路線は次第に孤立していきます。政策実行に必要な軍の協力を得られず、外交交渉も空転。結果として、彼の構想した「東アジア安定の秩序構想」は具体化する前に瓦解していきます。

宇垣の外務大臣としての在任期間は短く、やがて近衛内閣の改造とともに退任することになります。だが、彼が示した外交路線は、後年の研究者によって「日本が進まなかったもう一つの道」として再評価されることになります。

日中戦争を前にした和平の試み

宇垣が外務大臣として最大の力を注いだのが、1938年初頭から夏にかけての、日中戦争の停戦工作でした。彼は蒋介石との和平交渉の可能性を模索し、中国内部における親日派の動向にも注視しながら、妥結の道を探りました。彼の試みは、公式ルートだけでなく、非公式な接触ルートを通じて展開されていたことが複数の資料で確認されています。

特に注目されたのは、ドイツを仲介とした日中和平ルートです。このルートでは、宇垣が独自の外交パイプを使って、中国側に宥和的な提案を送ったとされます。だが、蒋介石側の反応は冷淡であり、さらに日本国内では「和平は敵に屈するもの」との空気が強まり、政治的な後押しを得ることができませんでした。

宇垣はこの交渉において、戦争の拡大がもたらす国家的損失を明確に認識しており、日記にも「勝利とは、戦いの終わりを見届けることにあり」といった表現を残しています。だが、彼の声は次第に政界と軍部の中心から遠ざかり、やがて戦争は全面化の道を進むことになります。

この和平努力の失敗は、宇垣個人の限界というよりも、当時の日本全体が抱えていた「戦争をやめる仕組みの不在」を象徴するものでした。彼の努力が徒労に終わったからこそ、その軌跡は、戦争と外交の間に存在した決定的な裂け目を照らし出すものとして、静かに語り継がれています。

晩年の宇垣一成に見える変化と静けさ

戦後の復帰と平和への傾倒

1953年(昭和28年)、84歳の宇垣一成は、戦後日本の新たな政治制度のもと、全国区から参議院議員として初当選を果たします。無所属ながら緑風会に属し、トップ当選という結果は、彼が持つ知名度と、戦前の軍政経験に対する国民の複雑な感情の交錯を物語っていました。戦後すぐに公職追放の対象とならなかった点からも、宇垣が極端な軍国主義者ではなかったという評価が一定数存在していたことがうかがえます。

この時期の宇垣は、もはや軍政の設計者ではなく、過去を振り返りながらも「平和のための政治」に視線を向けていました。彼は、外交の重視、国際協調の必要性、そして教育による国民形成の重要性を繰り返し説いており、「国を守るとは、戦わぬ工夫にあり」とする言葉も、その姿勢を象徴する一節としてしばしば引用されます。宇垣の戦後思想は、敗戦後の日本が模索していた「非軍事国家」としての歩みに、ある種の予見と重なっていたとも言えるでしょう。

参議院での発言とその意味

宇垣は参議院議員としての活動において、派手な立法や政局の中心には立ちませんでしたが、憲法問題や外交、教育政策について質の高い発言を残しました。とりわけ、教育の重要性については強い関心を示しており、「教育は武器なき国の防壁」との言葉に代表されるように、戦争を経験した政治家としての信念が滲み出ています。

また、地方自治や農村振興といったテーマにも静かに取り組み、戦前の中央集権的な統治への反省をにじませた発言も散見されました。一方で、旧軍人としての経歴に固執せず、新憲法下の民主主義体制を受け入れる柔軟性を見せたことは、彼の思想的成熟の表れとも捉えられます。

議会では「理が世を治める時代が来ねばならぬ」といった趣旨の発言もあり、武断主義に対する距離感が感じられます。晩年の宇垣は、過去の制度設計者というよりも、「過去と向き合う語り手」としての側面を強めていったのです。

家族との生活と静かな最期

政治活動の合間、宇垣は伊豆長岡の私邸で家族と穏やかな日々を送りました。とりわけ孫との交流や書道、読書は日々の喜びであり、来訪する旧友や後輩との談笑は、かつての激動の時代を振り返る貴重な時間となっていたようです。訪れた者の証言によれば、宇垣は「時の流れに身を任せるしかあるまい」と語っていたとされ、その言葉には、長年の政治と軍政の経験から得た達観が感じられます。

1956年(昭和31年)4月30日、宇垣は静岡県伊豆長岡町の自邸で静かに息を引き取りました。享年は満87歳。訃報は新聞各紙で報じられ、「昭和を知る男の死」として扱われましたが、葬儀は質素に執り行われ、特筆すべき政治的動員や軍関係の大々的な儀式はありませんでした。

最後まで「時代をつくった者」としての誇りと、それを超える冷静な自己認識を持ち続けた宇垣一成。その晩年は、過去を否定することなく、ただ静かに受け入れる姿勢に貫かれており、そこにこそ彼の成熟した精神が宿っていたのかもしれません。

宇垣一成を深く知るための文献と資料

井上清の評伝から読み解く視点

井上清による『宇垣一成』(朝日新聞社、1975年)は、宇垣の人物像を知る上での出発点とも言える評伝です。本書では、宇垣の軍歴や政界進出にとどまらず、彼が育んだ思想の形成過程や、昭和前期の政治・軍制の構造との関係が多角的に描かれています。特に注目すべきは、宇垣の合理主義的傾向と、軍政の近代化における役割の評価です。

井上は、宇垣を単なる軍人政治家ではなく、「制度構想の実務者」として描いており、軍縮・教育改革・官僚制度再編といった政策の内実を通じて、当時の政軍関係の複雑さを明らかにしています。また、宇垣の人間的な側面にも筆を及ぼし、日記や周囲の証言を通して、彼の内面にある葛藤や挫折感を静かに照射しています。

本書の魅力は、人物賛美に偏らず、資料と歴史的背景を重ね合わせて描写している点にあります。読者は、明治から昭和へと至る激動の時代の中で、宇垣がどのように位置づけられるべき存在だったのかを立体的に理解することができるでしょう。

『政軍関係の確執』が描く権力構造

渡辺行男の『宇垣一成―政軍関係の確執』(中公新書、1993年)は、宇垣を「政軍関係の結節点に立った存在」として位置づけた分析的な一冊です。タイトルにもある通り、本書は宇垣の政治的キャリアにおいて、内閣・陸軍・宮中といった複雑な権力の交錯をどのように乗り越えようとしたのかに焦点を当てています。

特に興味深いのは、宇垣軍縮をめぐる一連の政策と、それに伴う軍部内外の反発についての詳細な描写です。渡辺は、宇垣が「軍政を内側から変えることのできる希有な存在」であったと評価しつつ、その理想が現実政治の力学によって次第に後退していく過程を克明に描いています。また、三月事件や首相指名をめぐる動きについても、政党・元老・軍部の力関係を通じて分析が進められており、宇垣という人物を単独ではなく「政治構造の中で機能する主体」として捉える視座を提供してくれます。

宇垣を素材としつつも、昭和前期の政軍関係を広く俯瞰できる点で、研究書としての厚みと鋭さを兼ね備えた一冊と言えるでしょう。

『宇垣一成日記』が語る内面と決断

みすず書房より刊行された『宇垣一成日記』(全3巻、1968–1971年、角田順校訂)は、宇垣自身の言葉を通して彼の思考や感情に直接触れることのできる貴重な一次資料です。この日記は、単なる記録の集積ではなく、政策決定の過程で揺れる感情、周囲との軋轢、時代に対する洞察が詰まった「思索の断片集」としても読むことができます。

例えば、宇垣軍縮を進める中での内部抗争や、政界における孤立感、さらには朝鮮総督時代の現地行政との葛藤など、彼の人生の転機において記された記述には、単なる回想を超えた切実さが宿っています。「理解されるには時間がかかる」といった文言は、彼が改革の先に見据えていた“未来”を象徴するものであり、そこには理念と現実の間で苦悩する政治家の姿が浮かび上がります。

また、日記からは宇垣の文学的な素養や知識人としての自負も感じられ、文章表現の端々に知的な構築力が見て取れます。政治家としての宇垣だけでなく、人間・宇垣一成の肖像を掘り下げるには、欠かせない資料です。

宇垣一成という存在が問いかけるもの

宇垣一成は、時代の変革と制度の狭間を生きた人物でした。武士の家に生まれ、軍政と政治の中枢を歩みながらも、決して一面的な軍人ではありません。軍縮に挑み、外交に活路を見出し、戦後には平和を語る姿は、その柔軟な思考と責任感の表れです。彼の歩みには常に「理念」と「現実」の交錯があり、その葛藤は現代にも通じるものがあります。文献や日記を通じて浮かび上がる宇垣の姿は、冷徹な戦略家であると同時に、時代を俯瞰する知識人でもありました。完成しきらなかった構想、貫ききれなかった信念、だがなお語られ続ける価値。それこそが、宇垣一成という存在が後世に残した、本質的な問いかけなのです。

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