こんにちは!今回は、明治から昭和期にかけて日本の外交を支えた有田八郎(ありた はちろう)についてです。
戦前は外務大臣として日中戦争や日独伊三国同盟などの重大な課題に取り組み、戦後は参議院議員として外交再建に尽力した有田八郎。その波乱に満ちた生涯を詳しく見ていきましょう。
石川県での少年時代と学び
石川県金沢市での誕生と有田家の家族背景
有田八郎は、1884年(明治17年)に石川県金沢市で誕生しました。当時の金沢は前田家の加賀藩としての歴史が息づく文化都市で、芸術や学問が盛んな町として知られていました。有田家は士族の家系で、地域社会の中でも知識層に属していました。そのため、家族は幼いころから八郎に高い学識と教養を身につけることを求めました。
有田家では、父親が八郎に対して厳格ながらも道徳的価値観を教え込み、一方で母親は子どもたちに情緒的な支えを与えました。家族の影響により、八郎は幼いころから「個人の成功よりも社会への貢献を大切にする」という考えを自然と身につけました。金沢の自然や町並みは彼に感受性を育む場を与え、のちに彼が海外の風土を尊重し、文化を理解する素養を形成する土壌となったといえます。
幼少期から優れた学業成績を示した努力の軌跡
八郎は幼少期から勉学に励む少年でした。近隣の人々は「有田家の子どもは非常に聡明だ」と噂するほどで、特に歴史や地理への興味が深かったと言われています。彼が通っていた学校では、成績は常にトップクラスで、特に語学の授業では教師から称賛されることが多かったそうです。
八郎の努力の背景には、彼自身の強い向上心がありました。当時の日本は日清戦争を経て国際舞台での存在感を高めつつある時期であり、八郎もその流れの中で「国を背負う人間になりたい」という夢を抱くようになりました。彼は日々の勉強を怠らず、時間を無駄にすることを嫌いました。一説には、夜更けまで書物を読む八郎を見て、両親が灯りを消すよう促したエピソードも残されています。こうした努力が、のちに東京帝国大学に進学する基盤となりました。
東京帝国大学法科大学への進学と卒業後の展望
1902年、八郎は日本を代表する教育機関である東京帝国大学法科大学に入学しました。当時、同大学は国内外の学問的交流が盛んであり、八郎にとって理想的な学びの場でした。彼は法学部で国際法を専攻し、国際的な課題に関する知識を深めていきました。特に、条約や外交関係について学ぶ中で、理論と現実の狭間でどのように政策が決定されるかを探求する姿勢が際立っていました。
在学中、八郎は勉強だけでなく、多くの学生と議論を重ねることにも熱心でした。同世代の学生たちとの交流を通じて、日本の未来をどう導くべきか、外交官の役割とは何かを考え抜きました。当時の彼のメモには「日本が世界と平和を築く架け橋になるべき」という信念が繰り返し記されていたとされています。
また、東京での生活は彼にとって地方とは異なる文化や価値観を直接感じる機会でもありました。急速な近代化が進む都市の中で、彼は日本が国際的に競争するために必要なものを見極めようと努力しました。卒業後は外務省に入省し、実務を通じてさらに成長したいという強い意欲を持ち続けました。
外交官としての第一歩
外務省入省と初期キャリアにおける挑戦
東京帝国大学法科大学を卒業した八郎は、1909年に外務省に入省しました。当時の外務省は、日露戦争後の国際秩序の中で日本がどのように存在感を示すべきか模索している時期でした。八郎は入省直後からその厳しい環境に身を置くこととなり、若手外交官としてのキャリアをスタートさせました。
入省後の八郎に課せられた初期の任務は、文書作成や交渉記録の整理といった地道なものでしたが、それらを迅速かつ正確にこなしたことで上司の信頼を得ました。また、彼は当時の外交課題について積極的に学び、国際法や条約に関する知識を深める努力を惜しみませんでした。若いながらも、任務に真摯に向き合う姿勢は、同僚や上司の間でも高く評価されていたといいます。
八郎が最初に直面した大きな挑戦は、当時進行していた国際会議への対応でした。新米外交官として議論の最前線に立つことはありませんでしたが、会議での記録や翻訳業務を通じて、他国の外交官たちの視点や戦略を間近で学ぶ機会を得ました。これらの経験は、のちに彼が交渉の場で発揮する冷静な判断力と説得力を培う重要な基盤となりました。
欧米諸国への赴任で培った語学力と国際感覚
八郎の能力が認められた結果、彼は欧米諸国への赴任を命じられます。彼が最初に派遣されたのはイギリスで、ここで英語の実践的な運用能力を磨きました。当時のイギリスは「世界の工場」として経済的な中心地であり、その外交活動も極めて活発でした。八郎は、イギリスでの勤務を通じて、多国間の利害が交錯する現場での調整力を学びました。
その後、彼はフランスやドイツなどにも赴任し、それぞれの国の文化や政治事情を深く理解しました。フランスでは国際協定の草案作成に携わり、ドイツでは外交戦略の分析を行うなど、多岐にわたる業務を経験しました。これらの国々で、八郎は語学力をさらに向上させただけでなく、国ごとの外交スタイルや交渉術の違いを体感しました。
また、各国での赴任中に現地の文化や社会に溶け込む努力を怠らず、現地の人々との交流を積極的に行いました。このような活動を通じて、八郎は「異文化を理解することで、日本と諸外国の信頼関係を築ける」と考えるようになりました。この考えは、彼の外交姿勢の重要な柱となり、後のキャリアにも大きな影響を与えます。
日本外交官としての基盤を築いた成長の時期
欧米諸国での経験を積んだ八郎は、帰国後に外務省の中で重要なポジションを任されるようになりました。彼の洞察力や冷静な判断力は、同僚たちからも一目置かれる存在となっていました。当時の日本は国際社会での地位を高めつつあり、八郎もまた、その動きに貢献するべく精力的に活動していました。
彼は、外務省内での業務だけでなく、国内の政策立案にも関与するようになり、日本の外交戦略を形作る役割を担いました。特に注目されたのは、彼の国際情勢に対する分析能力で、複雑な世界情勢を冷静に把握し、それをわかりやすく上層部に伝えるスキルに秀でていました。
この時期の八郎は、単に外務省の一職員として働くだけではなく、日本の外交政策の基礎を築くための柱の一つとなりつつありました。こうして彼は、のちの外務大臣としての役割を担う準備を着実に進めていったのです。
駐オーストリア公使時代の活躍
オーストリア駐在中の複雑な政治情勢への対応
1930年代、有田八郎は駐オーストリア公使に任命されました。当時のオーストリアは第一次世界大戦後の困難な復興期にあり、隣国ドイツとの関係が緊迫する中での駐在は、非常に敏感な任務でした。この時期、欧州ではナチス・ドイツの台頭により政治情勢が大きく変化しており、有田はこの混乱の中で日本の国益を守りつつ、オーストリアとの友好関係を維持するという複雑な課題に直面しました。
例えば、1934年に発生したオーストリア内戦では、政府軍と社会主義勢力の衝突が国際問題化していました。有田は冷静に状況を分析し、日本の立場を慎重に調整することに成功しました。彼の対応は、短期的な外交的利益よりも、長期的な日本とヨーロッパ諸国との関係を重視したものでした。
ナチス・ドイツの台頭に対する見解と行動
オーストリア駐在中、有田はナチス・ドイツの影響力がオーストリアに及んでいく様子を目の当たりにしました。1938年、オーストリアはドイツに併合される(アンシュルス)という歴史的事件を迎えます。この過程で有田は、ナチスの外交的圧力がオーストリアにどのように作用しているかを詳細に報告しました。
彼は現地で得た情報を外務省に送り、日本がこの動きにどう対応すべきかについて的確な助言を行いました。当時の有田は、ドイツがヨーロッパだけでなく世界全体の勢力図を変えようとしていることを強く認識しており、この問題がアジアにも波及する可能性を早くから警告していました。特に、極端な民族主義が外交をゆがめるリスクについては、彼自身の報告書の中で繰り返し触れています。
日本とヨーロッパ諸国の関係構築への尽力
有田の公使としての活動の中で特筆すべきは、オーストリアを通じてヨーロッパ諸国と日本との関係を強化しようとした努力です。彼はオーストリアの知識人や政治家と積極的に交流し、文化的なイベントを通じて日本文化の魅力を伝えることに尽力しました。これには、茶道や能楽といった伝統文化の紹介が含まれており、現地の人々に日本の文化的豊かさを知ってもらう機会を提供しました。
また、有田はオーストリア国内での日本企業の活動を支援する役割も果たしました。オーストリア市場に進出を図る日本の企業に対して、現地の商習慣や法制度に関するアドバイスを提供し、ビジネス環境の整備に貢献しました。これらの活動は、有田の外交スタイルが単に政治的な交渉にとどまらず、幅広い分野での関係構築を重視していたことを示しています。
有田八郎のオーストリア駐在時代は、彼が欧州の複雑な政治情勢を読み解き、日本の利益を守るための知恵を磨いた重要な時期でした。この経験は、彼が後に外務大臣として日本の外交政策を主導する際に、確固たる基盤となりました。
外務大臣就任と日中関係
外務大臣就任の背景とその歴史的意義
1936年、有田八郎は近衛文麿内閣のもとで外務大臣に就任しました。彼の外交官としての長年の経験と国際情勢への深い理解が評価され、この重要な役職を任されるに至りました。この就任は、当時の日本において非常に意義深いものでした。それまでの日本の外交政策は軍部の影響が強く、国際的な視点を失いがちでしたが、有田はその潮流に対して独自の視点を提供する存在でした。
外務大臣としての彼の基本姿勢は「対話と協調」でした。彼は、急速に進行する世界情勢の中で、他国との平和的な関係を維持することが日本の利益に資するとの信念を持っていました。この方針は軍部主導の攻撃的外交とは一線を画し、しばしば内部での対立を招きましたが、有田はその姿勢を崩すことなく、冷静に任務にあたりました。
日中戦争勃発時に発表した「有田声明」の意味
有田が外務大臣に就任して間もなく、1937年に日中戦争が勃発します。この戦争の初期段階において、有田は中国との関係改善の可能性を模索しました。同年、彼は後に「有田声明」と呼ばれる外交方針を発表します。この声明の核心は、戦争の拡大を防ぎ、和平を模索する意志を明確にした点にありました。
「有田声明」では、日本が中国の内政に干渉せず、中国の主権を尊重することを表明しました。しかし、これは軍部の思惑と衝突する内容でもありました。当時、軍部は積極的な戦線拡大を進めており、有田の和平方針は現実的な支持を得られませんでした。声明が発表されると、軍部や一部の政治家からは厳しい批判が寄せられました。
それでも有田は、自身の信念をもとに「戦争の泥沼化を防ぐことが日本にとっても中国にとっても最善である」と考え、和平を呼びかけ続けました。この声明は最終的に実現には至らなかったものの、後世の歴史家からは「戦争回避のための貴重な努力」として評価されています。
近衛内閣下での外交政策の課題と成果
近衛文麿内閣の一員として、有田は日中戦争に関連する数多くの外交課題に直面しました。特に難題となったのは、日本が進出を試みる満州地域の問題と、それに対する国際社会からの批判でした。有田は、満州事変後の国際的な孤立を克服するため、多国間の協力関係を築く努力をしました。
さらに、当時のアメリカとの関係も大きな焦点でした。アメリカは中国を支持しており、日本との対立が深まる中、有田はアメリカとの交渉を通じて対立の緩和を図ろうとしました。彼は、貿易や外交関係の継続が日本経済に不可欠であると理解しており、そのための道を探り続けました。
ただし、有田の外交政策は、軍部の強硬な主張や国内世論との板挟みにより多くの制約を受けました。それでも、彼は理性的かつ冷静に行動し、長期的な日本の国益を見据えた政策を打ち出すことに注力しました。
この時期の有田の行動は、日本の外交が軍事主導へと大きく傾斜する中で、異なる可能性を模索した貴重な試みとして位置づけられています。
戦時下での外交活動
戦争中の外交の限界と有田が果たした役割
第二次世界大戦が勃発すると、日本の外交は急速に軍部主導へと傾きました。有田八郎もまた、この戦争の激動期において、外務省内で重要な役割を果たしましたが、戦時中の外交活動には多くの制約がありました。特に、外務省が軍部の戦略に従属する形となり、有田の理性的かつ協調的な外交アプローチは実現困難な状況に追い込まれていました。
それでも、有田は自らの知識と経験を生かして、できる限りの働きを続けました。彼は、戦争の泥沼化を避けるための和平交渉や、外国との連携強化の可能性を模索しました。例えば、連合国との非公式な接触を試み、日本の立場を説明しつつ戦争終結の道を探る努力をしました。このような活動は、多くの場合軍部からの批判を招き、彼自身も厳しい立場に立たされることが少なくありませんでした。
対米交渉における難局とその結末
戦時下での日本外交の最大の焦点の一つは、アメリカとの関係でした。有田は、戦争の拡大を防ぐためにはアメリカとの衝突を回避することが不可欠だと考え、ギリギリまで交渉の余地を模索しました。しかし、アメリカが石油輸出を禁止するなど、日本への経済的圧力を強める中で、状況は急速に悪化していきました。
有田は、アメリカとの交渉において、双方の妥協点を探る努力を続けました。特に、ハル・ノート(アメリカが提示した外交提案)に対する対応では、日本がどうすれば国益を守りながら平和的解決を図れるかを慎重に検討しました。しかし、軍部や政府内の強硬派が戦争を避ける選択肢を退けたため、有田の意見は顧みられることがありませんでした。
その結果、日本は1941年に真珠湾攻撃を決行し、アメリカとの全面戦争に突入しました。この決定について、有田は深い懸念を抱いていたと言われていますが、その声は時代の流れに埋もれてしまいました。有田の立場は、戦争によってますます困難なものとなり、彼自身の影響力も次第に縮小していきました。
外務省内での有田の影響力とその限界
戦時中、有田は外務省内で一定の影響力を保持していましたが、その立場は極めて複雑でした。軍部の意向が政策決定を支配する中、外務省自体の役割は限定的なものとなっていました。有田は、外交的解決を模索する少数派として存在し続けましたが、その意見が政策に反映されることはほとんどありませんでした。
それでも彼は、若手外交官への教育や、戦後を見据えた日本の国際関係の再構築に関する提言を続けました。有田は、「戦争は必ず終わる。その後の日本の未来をどう築くかが重要だ」と周囲に語っていたとされています。こうした姿勢は、一部の同僚や後輩たちに大きな影響を与え、彼らが戦後日本の再建に貢献する原動力となりました。
しかし、戦時中の有田の行動は、その多くが軍部の圧力に阻まれ、外交官としての理想を完全に実現することはできませんでした。それでも、彼が戦争中に模索した和平の可能性や、国際社会への復帰を見据えた提案は、後に再評価されることとなりました。
公職追放と政界復帰
戦後、公職追放を受けた経緯と解除までの道のり
第二次世界大戦後、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の管理下に置かれ、戦時中の指導者や政府関係者の責任が問われる中で、多くの政治家や官僚が公職追放の対象となりました。有田八郎もその一人であり、彼は戦争中に外務大臣を務めたことが理由で、公職追放処分を受けました。
有田は、この処分を受け入れる一方で、自らが行った外交活動が戦争の拡大を助長する意図を持つものでなかったことを訴え続けました。彼の主張の中核には、「平和的な解決を模索し続けたが、軍部の強硬路線により挫折した」という自己認識がありました。このような弁明は、当時の国際情勢の中では十分に理解されるものではありませんでしたが、後年、戦争回避に向けた彼の努力が評価される契機となりました。
公職追放中、有田は表舞台から退き、時局に対する意見を執筆や非公式な形で発信しました。特に戦後日本の外交のあり方については、早い段階から積極的に提言しており、これらの活動が彼の追放解除後の政治復帰につながる布石となりました。
1952年、日本が主権を回復し、サンフランシスコ平和条約の発効を迎えた後、有田の公職追放は解除されました。これは、彼の外交経験や冷静な判断力が新たな時代においても必要とされると認識されたことを意味していました。
参議院議員としての政界復帰後の活動
追放解除後、有田八郎は1953年の参議院選挙に立候補し、当選を果たしました。戦後の混乱期において、多くの国民が経験豊富な指導者を求める中、有田の復帰は広く歓迎されました。彼は主に外交や安全保障政策を中心に、活発な議論を展開しました。
有田が復帰後に注力したテーマの一つは、国際社会における日本の信頼回復でした。戦時中の過ちを真摯に反省しつつ、日本が平和国家として新たなスタートを切るために必要な政策を提案しました。たとえば、国際連合への加盟や、多国間の貿易協定への参加を推進することが、彼の演説や議論の中で繰り返し強調されました。
また、有田は戦後の安全保障政策についても現実的な立場を取りました。冷戦が激化する中、日本がどのようにして独立を維持し、国際社会での地位を確立すべきかについて、有田の提案は多くの注目を集めました。彼は、軍備増強に偏らない「経済と外交のバランス」を重視する姿勢を貫きました。
戦後外交再建における提言とその影響
有田は参議院議員として、戦後日本の外交再建に多くの提言を行いました。その中で特に注目されたのは、国連加盟への道筋についての発言です。彼は、国連の基本理念である「国際平和の維持」に賛同し、日本がその一員として責任を果たすことが不可欠であると主張しました。実際、1956年の国連加盟に向けた議論の中でも、有田の考え方は外交官や政策立案者に影響を与えたとされています。
さらに、有田は戦後復興を進める中で、日本が他国と協力しながら発展を目指すべきだという考えを持ち、多国間協力の重要性を説きました。特にアジア諸国との経済協力に力を入れるべきだとの提言は、のちに日本がODA(政府開発援助)政策を進める際の基盤となる思想の一つとなりました。
政界復帰後も有田の活動は、戦後日本の方向性を示す重要な役割を果たしました。彼の提言や実績は、日本が平和国家としての地位を確立する過程において、大きな影響を与えたと言えるでしょう。
戦後日本の外交再建への貢献
戦後の日本が国際社会に復帰するための尽力
第二次世界大戦の敗戦後、日本は国際社会からの信頼を失い、孤立を余儀なくされていました。有田八郎は、戦後の外交活動を通じて日本が再び国際社会に受け入れられるための基盤作りに尽力しました。彼は「日本が新しい形で平和国家として国際社会に貢献することが、復興の鍵である」と考え、この理念を基に行動しました。
有田の活動の中心は、まず戦後日本の外交政策を平和主義に転換することでした。彼は、「日本が戦争の悲劇を繰り返さないために、国際的な協力と対話を軸に据えるべきだ」と提言しました。この考えは、当時の政府や外交官たちに深い影響を与え、サンフランシスコ平和条約(1951年)の締結を経て、日本が主権を回復する道筋を示す一助となりました。
また、有田は連合国軍総司令部(GHQ)や各国の外交官との会談を通じて、日本が戦後の国際社会において果たすべき役割を説きました。彼のこうした働きは、日本が国際的な孤立から脱却し、平和国家としての地位を確立するための重要な礎となりました。
国連加盟や対外援助政策に対する視点と行動
有田八郎が特に注力したのは、日本の国際連合(国連)加盟への道筋を開くことでした。1950年代初頭、国連加盟を目指す日本にとって最大の課題は、敗戦国としてのイメージを払拭し、世界から信頼を取り戻すことでした。有田は、加盟に向けた議論の中で「国連は日本にとって未来を切り開く道であり、平和の象徴である」と訴えました。
彼は、国連憲章の理念を深く理解し、それに基づいた日本の役割を明確にすることで、加盟への道を切り開こうとしました。また、有田は国連への加盟だけでなく、その後の日本の具体的な国際貢献のあり方についても提案しました。特に、アジア地域における戦後復興支援の重要性を主張し、後に日本がODA(政府開発援助)を通じてアジア諸国と連携を深める基礎を築きました。
さらに、冷戦下での東西陣営の対立が激化する中、有田は「日本はどちらか一方に傾倒するのではなく、独自の立場で平和を追求すべきだ」と説きました。この中立的な姿勢は、日本が戦後独特の外交戦略を構築する際の指針の一つとなりました。
昭和期日本外交における有田八郎の歴史的評価
有田八郎の戦後の外交活動は、日本が国際社会に復帰するための基盤を築いた点で高く評価されています。彼が推進した平和主義外交の理念は、その後の日本外交の基本方針に深く根付いています。有田の功績の一つは、戦争責任の重さを受け入れながらも、未来志向で国際社会との関係を構築しようとした点にあります。
また、有田は冷戦期の国際情勢において、アジアと西洋諸国の橋渡し役を果たすべきだという信念を持っていました。このビジョンは、後に日本が経済的発展を遂げると同時に、多国間協力を進める原動力となりました。彼の思想は、現代においても日本外交の礎として再評価されています。
有田八郎は、自身の行動を通じて、日本が国際社会の中で平和的な役割を果たす可能性を広げました。その努力と業績は、昭和期の外交史において特筆すべきものとして語り継がれています。
有田八郎と文化作品での描写
『昭和外交史の証言』に見る有田の外交思想
有田八郎の外交思想や業績は、彼自身が著した書籍『昭和外交史の証言』を通じて詳しく知ることができます。この著作は、外交官としてのキャリアを通じて彼が直面した国際的な課題や、日本の外交政策の変遷について深く掘り下げた内容となっています。有田は、自らの外交観や行動について率直に述べるとともに、日本が戦争の影響からどのように立ち直るべきかについての洞察を提示しています。
特に興味深いのは、彼が三国同盟や日中戦争に対してどのような見解を抱いていたかという点です。彼は、当時の政治情勢がいかに複雑で、軍部の影響力がどれほど強かったかを明らかにしながらも、その中で和平を模索し続けた自身の努力についても詳細に語っています。『昭和外交史の証言』は、彼の内面に迫ると同時に、日本外交史を読み解く重要な資料として高く評価されています。
『有田八郎の生涯』で描かれる人物像とその影響
また、有田八郎の生涯を題材にした著作『有田八郎の生涯』では、彼の人物像が多面的に描かれています。この書籍は、有田の外交官としての業績に加え、彼の人間的な側面や信念に焦点を当てた作品です。例えば、彼が幼少期に家族から受けた教育や、石川県金沢市で育まれた価値観が、どのようにして彼の外交活動に反映されたかが詳細に述べられています。
また、彼が戦後の混乱期においても冷静さを失わず、未来を見据えた提案を行い続けた姿が描かれており、読者に強い印象を与えます。この著作を通じて、有田が単なる官僚ではなく、日本の未来を真剣に考えた信念の人であったことが浮き彫りになります。多くの読者がこの書籍を通じて、有田の生き方や思想に感銘を受けたことは間違いありません。
現代作品での有田八郎の再評価とその意義
近年、有田八郎は文化作品や現代の研究において再評価される動きが見られます。例えば、彼の外交的功績や苦悩を描いたドラマや小説が注目を集めています。これらの作品では、有田の信念や努力が現代の視点から描かれることで、新たな価値観を付加されています。
有田が困難な時代にどのように理性的かつ冷静な判断を下したかという点は、現代においても多くの示唆を与えるテーマとして取り上げられます。特に、国際的な対立が深まる現代社会において、有田の外交姿勢が「多国間協調の重要性」や「対話による問題解決」の手本として再評価されているのです。
さらに、学術的な研究も進んでおり、『近代日本の外交官たち』や『昭和史の転換点』などの作品で、有田の功績が改めて注目されています。これらの作品を通じて、彼の思想や行動が昭和期の日本外交にどのように影響を与えたのかを再考する動きが活発化しています。
有田八郎の業績とその描写は、単なる過去の記録にとどまらず、現代の私たちにとっても重要な教訓をもたらしています。その再評価は、時代を超えた外交の在り方を考える上で大きな意義を持っていると言えるでしょう。
まとめ
有田八郎は、激動の時代において外交官として、そして外務大臣として日本の国際的な地位向上に尽力しました。彼の生涯は、戦争や国際的な対立という逆境の中で、常に和平と協調を目指した信念に貫かれています。幼少期に培われた勤勉さや高い教養は、外交官としての活動において大きな力となり、戦後の日本が国際社会に復帰する道筋を築く上でも重要な役割を果たしました。
特に、彼が外務大臣として掲げた「有田声明」や三国同盟への慎重な姿勢、さらには戦後の外交再建への提言は、当時の日本において貴重な指針となりました。有田が模索した多国間協調や平和的な解決の理念は、現代の私たちが直面する国際課題においても多くの示唆を与えてくれるものです。
また、彼の人物像や思想が多くの文化作品や研究を通じて再評価されていることは、彼が残した遺産が単なる歴史の一部にとどまらず、未来に向けた指針であり続けていることを示しています。
この記事を通じて、有田八郎という人物の生涯に触れることで、平和のために何ができるのかを改めて考える契機となれば幸いです。彼の歩んだ道は、国際社会において信頼と尊厳を築くための普遍的な教訓として、今も私たちに語りかけています。
コメント