こんにちは!今回は、平安時代中期に陸奥国奥六郡を治め、前九年の役の主要人物となった武将、安倍頼時(あべのよりとき)についてです。
奥州最大の豪族として勢力を誇った頼時は、源頼義との戦いを余儀なくされ、その生涯は波乱に満ちたものでした。一族を守るために奮闘した頼時の足跡をたどり、その歴史的意義に迫ります。
陸奥の豪族として
陸奥国の地理と歴史的背景を知る
陸奥国は東北地方の広大な地域を指し、古代から中央政府との結びつきが薄い地として知られていました。そのため、地元の豪族や蝦夷と呼ばれる先住民が重要な役割を果たしてきました。この地は、険しい山々や広大な平野、豊かな河川を有し、漁業や農耕が生活の基盤を支えていましたが、冬の厳しい寒さは住民の生活を困難にしました。奈良・平安時代には、中央政府が支配を強化するために律令制を導入しましたが、完全な統治には至らず、俘囚制度という独自の方法が採られました。この制度により、地方の有力者や住民を半ば自治的に統治させる仕組みが整えられ、安倍氏のような豪族が地域の支配を担いました。陸奥国のこうした歴史的背景は、中央から独立した自治と文化を育み、安倍頼時の登場に向けた舞台を整えました。
安倍忠良の息子として生まれた頼時の幼少期
安倍頼時は、父である安倍忠良を通じて陸奥の統治者としての教育を受けました。頼時の幼少期は、中央の律令制が必ずしも及ばない陸奥という特異な環境の中で育まれました。この環境は、早くから自主性や判断力を養う場となり、父忠良から土地の治め方や外交の知識を学ぶ場面が多くありました。頼時は幼いながらも、地元の農民や漁師たちと積極的に交流し、地域の課題を理解することを心がけました。その結果、周囲からは「若くして大器を感じさせる」と評される存在に成長しました。また、父忠良が他豪族や朝廷との交渉を行う姿を見て、言葉の使い方や交渉術を吸収していったといわれています。幼少期のこれらの経験は、頼時の俘囚長としての適性を早い段階で示すものとなり、後のリーダーとしての資質を確固たるものにしました。
俘囚長としての地位を築き上げた頼時
頼時が俘囚長として台頭する背景には、父忠良の築いた基盤が大きく影響しました。俘囚長とは、中央政府に名目上従いながらも実質的には地方の独立を維持し、住民を守る存在でした。頼時は、地元住民の信頼を得るために、農耕地の拡大や治水事業に尽力しました。これにより、住民の生活基盤が安定し、安倍氏への信頼が高まりました。また、頼時は周辺豪族との戦いや交渉の場で、その卓越した指導力を発揮しました。特に、中央から派遣された役人や軍隊に対しても巧みに対応し、安倍氏の領地を守り抜きました。頼時が統治した地域では、文化や技術の交流も進み、俘囚長としての地位を超えて地域社会を支える存在となりました。彼の統治は、一族を中心とした強固な連携を生み出し、後の奥六郡支配の土台となったのです。
奥六郡の支配者へ
奥六郡を拠点とした安倍氏の勢力の確立
安倍氏が奥六郡を拠点に勢力を確立した背景には、地理的条件と巧みな政治戦略がありました。奥六郡は現在の岩手県中部に位置し、険しい山岳地帯と肥沃な平野が共存する地域です。この地は、農業や漁業に適していただけでなく、交易の中継地としても重要でした。頼時はこの地域を中心に、治水や灌漑を進めることで土地の生産力を向上させ、住民の生活基盤を安定させました。また、中央政府からの干渉を最小限に抑えるため、地方豪族や俘囚をまとめ上げ、一種の自治的な統治体制を構築しました。この体制では、地元住民との協力関係を重視し、経済活動を活発化させることで地域全体を繁栄に導きました。奥六郡の発展は、安倍氏の力を他豪族に示すと同時に、朝廷からの関心を引き付ける結果ともなりました。
朝廷との関係性と安倍氏の自治的統治の特徴
安倍氏の統治は、朝廷との微妙な関係性の上に成り立っていました。形式上は朝廷に従属していたものの、実際には自治的な統治が行われており、中央からの支配が及びにくい陸奥国の特性を利用したものでした。頼時は朝廷に対し定期的に貢納を行い、名目的には忠誠を示しましたが、地域においては独立性を保ちました。この姿勢は、中央からの過剰な介入を防ぐと同時に、地元住民からの支持を強固なものにしました。特に注目されるのは、俘囚を中心とした自治的な統治体制で、住民自らが役割を持つことで安倍氏への忠誠心を高める仕組みです。このシステムは中央集権的な統治とは一線を画しており、住民の生活を優先したものでした。頼時はこうした統治により、朝廷との均衡を保ちながら地域の発展を実現しました。
頼時が築いた柵(城郭)システムの革新
頼時は、地域防衛の要として柵(さく)と呼ばれる城郭システムを築きました。この柵は、単なる軍事施設に留まらず、政治・経済の中枢として機能する拠点でもありました。頼時が設計した柵は防御力の高さが特徴で、周囲に深い堀を設け、木柵や土塁で囲む構造を採用しました。鳥海柵や衣川柵といった拠点は、戦時には兵士を集結させる役割を果たし、平時には行政や交易の場として活用されました。また、各地の柵を道路で繋ぐことで、軍事的な機動力を高め、経済の効率化にも寄与しました。このような柵システムの革新により、頼時は防衛と地域運営を両立させることに成功し、安倍氏の勢力基盤を盤石なものとしました。彼の構築したシステムは、後の前九年の役でも重要な役割を果たします。
源頼義との対立
朝廷への貢租をめぐる緊張と対立の発端
安倍頼時の時代、陸奥国の豪族と中央政府との間には、特に貢租(こうそ)をめぐる緊張がありました。陸奥国は広大な領地を持ちながらも寒冷な気候のため収穫量が限られ、貢納品の調達には地域の住民や安倍氏にとって多大な負担がかかりました。朝廷はその実情を十分に理解せず、一方的に年貢を要求することが多く、これが安倍氏を含む現地の有力者たちの不満を高めました。頼時は地元住民を保護し、無理な徴税を抑えるため、朝廷との交渉を繰り返しましたが、次第にその姿勢が朝廷側から反抗的とみなされるようになります。中央はこの状況を打開するため、関東を統治していた源頼義を派遣しました。頼義の到来により、陸奥の自治的な運営は大きな試練を迎えることとなります。
源頼義との確執が顕在化するまでの道筋
源頼義が陸奥国に到着した当初は、朝廷の意向を伝えるに留まり、安倍氏との直接的な衝突は避けられていました。しかし、頼義は貢納の増額や朝廷の権威を示すための実力行使をちらつかせ、次第に安倍氏との確執を深めていきます。一方で頼時は、頼義の要求を正面から拒絶するのではなく、地域住民の窮状を訴えることで、現状維持を図ろうとしました。しかし、頼義はこれを強硬な反抗と受け取り、双方の緊張はますます高まりました。この間、頼時は周辺の豪族たちとの連携を強化し、軍事的な準備も進めていきました。頼義は中央の権威を背景にしていましたが、実際には現地の地理や文化を熟知した安倍氏の勢力が圧倒的であり、この段階では頼義が直接的な行動に出ることはできませんでした。こうして、対立が顕在化しながらも膠着状態が続く時期が訪れます。
頼時の戦略と一族の団結力
頼時は、源頼義との対立が避けられないと悟ると、冷静に戦略を練り始めました。彼はまず、一族や地域住民の結束を強化することに注力しました。特に、安倍貞任や安倍宗任といった息子たちを重要な拠点に配置し、軍事的にも政治的にも地域を守る体制を整えました。また、頼時は朝廷の権威に対抗するには、地元の支持が不可欠であると考え、農民や商人たちに対して減税や治安維持の徹底を行い、民心を掌握しました。さらに、彼は頼義がどのような行動を取るかを見極めるため、密偵を利用して敵の動向を逐一把握しました。これにより、頼時は守勢に立ちながらも攻勢に転じる機会を伺うという高度な戦略を展開しました。このような準備と団結は、後に勃発する前九年の役において、安倍氏の存続を賭けた戦いの基盤となります。
前九年の役の勃発
前九年の役の背景とその重要性
前九年の役(ぜんくねんのえき)は、1051年から1062年にかけて行われた戦乱で、安倍氏と源氏を中心とする朝廷軍の衝突を指します。この戦いの背景には、陸奥国における中央政府の統治の限界と地方豪族の自治がありました。安倍氏は、地元の俘囚や農民を統率し、地域を経済的にも軍事的にも安定させていましたが、この独立性が中央にとって脅威と映りました。特に、頼時が朝廷への貢租や軍役の増加要求を拒否したことが、対立の決定的な引き金となります。前九年の役は、単なる地方反乱を超え、中央と地方の関係性を再構築する契機となる重要な戦争でした。この戦いは、陸奥国の住民にとって生活そのものを左右する出来事であり、頼時はその指導者として決定的な役割を果たすことになります。
初期の戦闘で見せた頼時の戦術と知略
前九年の役が勃発すると、頼時は当初から巧みな戦術で朝廷軍に対抗しました。彼は地形を熟知していたことを活かし、山岳地帯や河川を利用したゲリラ戦法を展開しました。特に、急襲や奇襲を繰り返すことで敵軍を疲弊させ、直接対決を避けながらも確実に敵の戦力を削りました。頼時はまた、防御の要となる柵(鳥海柵や衣川柵)を中心に戦力を集中させる一方、地域の住民を巻き込んだ後方支援を整備しました。この支援体制により、兵糧や物資が安定供給され、安倍氏の軍勢は士気を高く保つことができました。頼時の知略は、源頼義率いる朝廷軍に深刻な損害を与え、一時的にはその進軍を完全に食い止めるほどの効果を発揮しました。
地域住民の動員による支持基盤の構築
頼時は、戦いを長期化させる中で地域住民の協力を得ることに成功しました。彼は農民や商人に対し、戦時中の保護を約束し、物資や兵員の提供を求めました。この取り組みは、頼時が日頃から住民との信頼関係を築いていたからこそ可能でした。さらに、戦争が続く中で特別な儀礼や祭事を行い、住民に精神的な支えを提供しました。このような活動は、単なる軍事的な統率を超え、住民の生活全般を支えることで、一体感を醸成しました。頼時のこの動員能力は、安倍氏が単なる地方豪族でなく、地域全体を代表する指導者であることを強く印象付けました。そして、住民の支持は安倍軍を戦場で支えるだけでなく、敵に対する情報戦や補給戦でも重要な役割を果たしました。これにより、頼時の支配体制は戦争を通じてさらに強固なものとなりました。
鬼切部の戦いと大赦
鬼切部で繰り広げられた壮絶な戦い
鬼切部(おにきりべ)の戦いは、前九年の役の中で特に激しい戦闘の一つとして記録されています。この戦いは、源頼義率いる朝廷軍が安倍氏の勢力を削ぐため、精鋭部隊を投入した局面でした。地形的に不利な朝廷軍に対し、頼時は地元の地形を熟知したゲリラ戦術を駆使し、山間部で敵を迎え撃ちました。急峻な山道に伏兵を配置し、奇襲を仕掛けることで敵軍を混乱させるとともに、撤退する際には柵を利用して防衛を強化しました。特に、頼時が指揮する部隊は、敵軍の補給路を断ち切る作戦を実行し、源頼義軍を長期間苦しめました。この戦闘では、両軍に多くの犠牲者が出る激戦となり、鬼切部の地名はこの戦いの壮絶さを象徴するものとして語り継がれることとなります。
頼時が発動した大赦と安倍氏内部の統制強化
鬼切部の戦いの後、頼時は一族内外に広がる不安を払拭し、士気を高めるために大赦を発動しました。この大赦は、戦争中に起きた細かな反抗や過失を許し、全ての戦力を結集するための重要な布告でした。頼時はこの決定を通じて、分裂の兆しを見せていた一部の親族や家臣を再びまとめ上げました。また、この大赦には、地域住民の信頼を再確認し、彼らが引き続き安倍氏を支持する動機付けを与える意図も含まれていました。同時に、頼時は内部の統制を強化し、戦力の再編成を進めました。各地に配置した柵を拠点に、情報網を整備し、敵の動向を迅速に把握できる体制を整えました。このような戦略的な施策によって、安倍氏の軍勢は再び強い結束を取り戻し、朝廷軍への抗戦を続ける力を維持しました。
この戦いが前九年の役全体に与えた影響
鬼切部の戦いは、前九年の役全体において重要な転機となりました。頼時の戦略的な戦いぶりは、源頼義率いる朝廷軍に深刻なダメージを与え、短期決戦を狙った朝廷側の思惑を覆しました。一方で、安倍氏にとってもこの戦いは持久戦の厳しさを認識させるものであり、限られた資源をいかに効率よく活用するかが課題となりました。この戦闘以降、朝廷軍は増援を要請し、安倍氏との戦いはより激しさを増していきます。同時に、鬼切部での勝利は、安倍氏が地域住民からの支持をさらに強固なものとし、地域全体が安倍氏のために一丸となる契機となりました。この戦いは、頼時の指導力と戦術が最も顕著に発揮された瞬間として、後世にも語り継がれることとなります。
阿久利川事件の真相
阿久利川事件の詳細と歴史的背景
阿久利川事件(あくりがわじけん)は、安倍氏内部の対立が顕在化し、頼時の統治が大きく揺らぐことになった象徴的な出来事です。この事件は、前九年の役のさなか、安倍氏の支配下にあった阿久利川周辺で発生しました。事件の背景には、安倍氏が朝廷軍との長引く戦いで疲弊していた状況がありました。軍資金や物資の確保が難航する中、頼時は周辺の豪族や住民からの支援を強化しようとしましたが、この過程で一族内の意見が対立しました。特に、頼時の親族である安倍富忠(とみただ)が独自の動きを見せ、事件の火種となります。阿久利川事件は、内部の軋轢が表面化した結果であり、一族間の結束が揺らぐ中で頼時が迎えた最大の試練の一つでした。
一族内の対立と安倍富忠の反乱の実態
安倍富忠は、頼時の政策に不満を抱き、阿久利川周辺で独自に勢力を拡大する動きを見せました。富忠は戦乱の長期化による住民の疲弊を背景に、「頼時の統治は一族の存続を危うくする」と訴え、支持を集めました。これに対し、頼時は富忠に和平の道を提案しましたが、富忠はこれを拒否し、小規模ながらも反乱を起こします。この反乱では、富忠が一部の兵を率いて頼時に反旗を翻したことで、安倍氏の内部は一時混乱に陥りました。富忠の行動は頼時にとって想定外であり、これが一族全体の士気に大きな影響を与える事態となりました。しかし、頼時は迅速に行動を起こし、忠実な部下や家臣を通じて富忠の勢力を封じ込めることに成功します。この反乱の収束は、頼時の指導力を改めて示す一方で、内部対立が安倍氏の存続にとって大きなリスクであることを浮き彫りにしました。
頼時が直面した最大の試練とその対応
阿久利川事件は、頼時が単なる軍事指揮官ではなく、政治的な調整役としての役割を問われる局面でした。頼時は富忠を討伐するという選択肢を取りながらも、反乱に加担した者たちを大赦の対象とし、再び一族の結束を図りました。また、富忠自身に対しても降伏を促し、彼の処遇について慎重に検討する姿勢を見せました。頼時は、富忠の反乱が単なる個人的な野心によるものではなく、戦乱の長期化が引き起こした全体的な疲弊の表れであることを理解していました。そのため、住民や兵士たちに対しても負担を軽減する施策を打ち出し、信頼を回復させる努力を行いました。この柔軟で包括的な対応により、頼時は一族の分裂を最小限に抑え、朝廷軍との戦いを続ける体制を維持することに成功します。阿久利川事件は、頼時が一族の存続と統率力を試される場であり、それを乗り越えたことで彼の評価は一層高まりました。
最期の北上と死
安倍富忠説得のための北上とその目的
阿久利川事件の後、頼時は一族の結束を再確認するための動きを加速させました。その一環として、かつて反乱を起こした安倍富忠を再び組織内に取り込むべく、直接説得を試みます。この説得のため、頼時は北上し、富忠が拠点を置いていた地域を訪れることを決断しました。この北上は、一族内のさらなる分裂を防ぐとともに、地域全体の信頼回復を狙ったものでした。頼時は戦乱が続く中でも、住民の生活を守るためには一族の統率が不可欠であると理解しており、あえてリスクを伴う行動を選びました。また、彼が自ら赴いた背景には、自身が直接交渉にあたることで、一族や住民に「安倍氏の団結」という強いメッセージを示す狙いがありました。
鳥海柵での頼時の最期とその真相
頼時の最期の地となった鳥海柵は、陸奥国の北部に位置し、戦略的に重要な拠点でした。彼がここに滞在していた際、朝廷軍による執拗な追撃が始まりました。頼時は数に勝る朝廷軍を相手に守備戦を繰り広げ、地形を活かした防衛線を構築しましたが、兵力や物資の差は明らかでした。特に、長期間にわたる戦いによる疲弊は、頼時の軍勢の士気を大きく削いでいました。戦局が不利になる中、頼時は最後まで指揮を執り、部下たちに「安倍氏の誇りを守れ」と語りながら奮戦しました。最終的に鳥海柵は陥落し、頼時は多くの家臣とともに討ち死にしました。この戦いの詳細には未だに議論が残るものの、頼時の死は陸奥国の支配における安倍氏の時代の終わりを象徴する出来事となりました。
頼時の死が安倍氏にもたらした影響
頼時の死は、安倍氏だけでなく陸奥国全体に大きな影響を与えました。一族の中心人物を失った安倍氏は、その後も戦いを続けるものの、力を徐々に失っていきます。頼時の息子である安倍貞任や安倍宗任が跡を継ぎ奮闘しましたが、中央軍の圧倒的な力の前に次第に追い詰められました。また、頼時の死は地域住民にも大きな喪失感をもたらしました。頼時はただの軍事指導者ではなく、住民にとっては暮らしを守る象徴的な存在であったためです。彼の死後、陸奥国の自治は大きく損なわれ、地域全体が中央政府の支配に組み込まれていきました。それでも、頼時の統治理念や戦いぶりは一族や住民の記憶に深く刻まれ、その影響は後の奥州藤原氏へと受け継がれていくことになります。
残された一族の行方
安倍貞任と安倍宗任が歩んだその後の道
安倍頼時の死後、彼の息子である安倍貞任(あべのさだとう)と安倍宗任(あべのむねとう)は、一族の再興を目指して奮闘しました。貞任は父の遺志を受け継ぎ、陸奥国で引き続き中央政府軍と戦いを繰り広げました。彼は卓越した戦術家であり、鳥海柵陥落後も地域住民を動員して抵抗を続けました。しかし、頼時の死により軍勢の士気は低下し、中央軍との戦力差は広がるばかりでした。一方で宗任は、軍事的な指導に加え、外交面での活躍も期待されていましたが、やがて戦況が悪化し、中央軍に降伏を余儀なくされます。降伏後、貞任は戦場で討たれ、宗任は捕虜となり九州へ配流されました。この後、安倍氏の勢力は陸奥国から消滅しましたが、貞任と宗任が示した勇気と誇りは、安倍氏一族の栄光として語り継がれることになります。
藤原清衡を通じて影響を残した安倍氏の存在
安倍氏の血筋は、一族が陸奥国を離れた後も、歴史の中で重要な役割を果たしました。その象徴が、藤原清衡(ふじわらのきよひら)を通じて続く奥州藤原氏の繁栄です。清衡は、安倍頼時の娘を母に持つ人物であり、安倍氏の血を引く存在でした。清衡は戦乱の中で生き延び、後に平泉を拠点とする奥州藤原氏の初代となり、文化や経済の発展をもたらしました。平泉の黄金文化は、安倍氏の自治的な統治精神を受け継いだものともいえます。特に、地元住民との連携や地域資源の活用といった安倍氏の理念は、清衡による平泉の繁栄に大きな影響を与えました。このように、安倍氏の遺産は形を変えながらも東北地方に息づき、その後の日本史に重要な足跡を残しました。
各地に伝わる安倍氏末裔の伝説とその実像
安倍氏が陸奥国を離れた後、その末裔にまつわる伝説が各地に伝わっています。特に、宗任が配流された九州では、彼が現地で地域住民と親しく交流し、自治的な活動を行ったという話が残されています。一方で、貞任の武勇にまつわる逸話は、各地の軍記物に記録され、後世の武士たちの模範とされました。さらに、安倍氏の血筋を名乗る豪族が地方各地に現れ、安倍氏の名前は日本各地で語り継がれることとなります。しかし、その多くは伝説や物語として脚色されており、実像との整合性は議論の余地があります。それでも、これらの伝説は、安倍氏がいかに多くの人々の心に強い印象を残したかを物語っています。安倍氏の歴史は単なる豪族の興亡を超え、日本の地方文化や歴史に深い影響を与え続けました。
安倍頼時と文化作品での描写
『陸奥話記』が描く頼時の人物像とその評価
『陸奥話記』は、前九年の役を記録したとされる平安時代の軍記物であり、安倍頼時の人物像を描写する重要な史料です。この物語では、頼時は勇敢で知略に富んだ豪族の指導者として登場します。特に、地元住民を大切にし、彼らの支持を背景に中央政府に対抗する姿勢が強調されています。一方で、中央政府側からの視点も含まれており、頼時が律令制に従わない「反逆者」として描かれる場面もあります。この二重の評価は、頼時が中央と地方のはざまで苦闘した豪族であることを示しています。『陸奥話記』は文学的要素が強いため、史実と物語の区別が必要ですが、頼時が地域住民の守護者として描かれていることは、彼の実際の姿を垣間見る手がかりとなります。この作品は、頼時を中心とする安倍氏の歴史がいかに重要であるかを後世に伝える役割を果たしました。
『今昔物語集』との比較から見る頼時の位置付け
『今昔物語集』は、平安時代末期に成立した説話集で、安倍頼時を題材とした物語も収録されています。この作品では、頼時は前九年の役における主要な反乱者として描かれる一方で、彼の知恵や勇気が際立つ人物像が語られています。『陸奥話記』が地方豪族の視点を多く含むのに対し、『今昔物語集』では中央政府の視点がより強調され、頼時を「朝廷の秩序に逆らう存在」として表現しています。しかし、その描写の中にも、頼時が民を率い、中央の圧力に屈しない強い意志を持つ人物として評価されている場面があります。この比較から、頼時が単なる反乱者ではなく、時代における地方自治の象徴的存在として認識されていたことがわかります。
『将門記』や『範国記』と豪族像の共通点
安倍頼時の物語を描いた『陸奥話記』や『今昔物語集』は、他の軍記物と比較することでその特異性が浮き彫りになります。たとえば、『将門記』では平将門が中央に対抗した豪族として描かれますが、頼時と同様に地域住民を守る指導者としての側面が強調されています。一方、『範国記』に登場する人物たちも地方に根ざした豪族であり、中央の権力に対する抵抗を示します。これらの作品に共通するのは、地方の豪族が単なる支配者ではなく、住民を守り、独自の文化や自治を発展させた存在として描かれる点です。頼時の場合も、単なる戦争のリーダーではなく、地域社会の要として描かれ、地方自治の重要性を示す象徴的存在として評価されています。これらの物語を通じ、安倍頼時は歴史的にも文化的にも重要な豪族像を体現していることがわかります。
まとめ
安倍頼時は、陸奥国において地域の住民を守り抜いた強い指導者であり、中央の支配が及びにくい地方において自治的統治を実現した豪族でした。その統治は、単なる軍事力だけでなく、住民との深い信頼関係や地域資源を活用した経済の発展に基づいていました。頼時が築いた防御拠点や戦略は、中央政府に対する抵抗だけでなく、地域社会の安定を支える重要な要素となり、彼が指導者としていかに優れていたかを物語っています。
一方で、頼時は中央の権威との対立に苦しみ、長引く戦乱と内部の分裂という課題に直面しました。それでも彼は、大赦を通じて一族や住民を再びまとめ上げる努力を続けました。その死後も、彼の子である安倍貞任や安倍宗任、そして藤原清衡に受け継がれた精神や理念は、東北地方に強い影響を与え、奥州藤原氏の繁栄を支える基盤となりました。また、頼時が歴史や文学作品の中で語り継がれる姿は、中央と地方の葛藤が色濃く残る日本史の一側面を象徴しています。
頼時の人生は、地方豪族が中央の圧力に対しどのように地域を守り、独自の文化を育んだかを伝える貴重な物語です。彼が選んだ道とその意志の強さは、現代にも多くの示唆を与えるものであり、歴史の中で輝きを放つ存在と言えるでしょう。安倍頼時の生涯を振り返ることで、中央と地方がどのように関わり合い、対立や協調の中で日本の歴史が形作られてきたかを知るきっかけとなります。
読者の皆さまがこの記事を通じて、頼時の魅力と彼が生きた時代の深みを感じ取っていただけたなら幸いです。
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