こんにちは!今回は、幕末から明治にかけて土佐藩を代表する政治家・佐々木高行(ささきたかゆき)についてです。
坂本龍馬や岩崎弥太郎と並ぶ「土佐三伯」の一人として、大政奉還や鉄道政策、神道の振興など日本の近代化に深く関わった佐々木高行。その激動の生涯を、歴史的エピソードとともに詳しくまとめます。
佐々木高行の原点:土佐藩士としての誕生と少年期
万之助と名乗った幼少期とその家系
佐々木高行は1830年(文政13年)、土佐藩の城下町である高知に生まれました。幼名は万之助といい、佐々木家は代々土佐藩に仕える家柄で、藩内でも有力な上士に属する家でした。佐々木家は「土佐三伯(とささんぱく)」と称された三家の一つであり、政治や学問の分野でも優れた人材を輩出してきた名門でした。そのため、高行の誕生は家中でも大きな喜びをもって迎えられ、幼少期から厳格な教育が施される環境が整っていました。
佐々木家の家風は質実剛健で、無駄を嫌い、実行力と誠実さを重んじるものでした。そうした家風のもと、高行は幼い頃から礼儀作法に厳しく、また家庭内でも書物に親しむ機会が多く与えられました。彼は字を覚えるのが早く、読み書きに秀でていたことから、周囲の大人たちにも一目置かれる存在だったと伝えられています。また、家族や親戚の中には藩政に関わる人物も多く、自然と政治や時事に関心を持つようになりました。このような環境こそが、高行の早熟な精神と後の活躍の基礎を築いたと言えるでしょう。
学問と武芸を両立させた土佐の教育風土
土佐藩では、武士としての教養の中心に学問と武芸の両立を据えており、その実践の場が藩校「致道館(ちどうかん)」でした。佐々木高行も幼少の頃から致道館に通い、儒学や兵学、国学といった多様な学問に親しむ一方で、剣術や馬術、弓術といった武芸にも力を注いでいきました。特に高行は学問に対する関心が高く、国学者本居宣長の思想に感化され、やがて尊王思想へと傾倒していくようになります。
このような教育風土は、土佐の地が外様大名として幕府の中央政権から一定の距離を保ちつつ、藩内の統治を重んじていたことと深く関係しています。高行は、教養ある武士として成長することを求められたと同時に、実際にその能力を開花させていきました。彼が特に影響を受けた人物のひとりに、後に自由民権運動で知られる板垣退助がいます。板垣とは藩校時代からの仲間であり、互いに切磋琢磨しながら知識と技術を高め合っていました。また、若き日の岩崎弥太郎も同じ土佐の教育制度の中で学んでおり、彼らの存在は高行の意識をさらに高める刺激となっていたようです。
学問と武芸の両立は単なる知識や技術の習得ではなく、「志を持ち、行動する武士」という理想像を体現するための訓練でした。この教育方針が、高行の後の政治家としての活動の原点となり、行動力と信念に裏打ちされた人格形成に大きな影響を与えました。
幕末前夜の時代背景と土佐藩の立ち位置
佐々木高行が成長する19世紀半ばの日本は、激しい国際情勢の変化に晒されていました。1853年(嘉永6年)、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、鎖国体制を維持していた幕府に開国を迫ったことにより、日本社会は大きく動揺します。国内では開国か攘夷かを巡って激しい論争が巻き起こり、政治的混乱が加速していきました。このような激動の時代において、土佐藩もまた進路を模索し続けていました。
土佐藩は徳川幕府の外様大名として一定の自立性を保っており、幕府への全面的な協力ではなく、独自の政治判断を下す余地がありました。藩主・山内豊信(容堂)は、学識豊かで柔軟な思考を持つ人物であり、開国派と攘夷派の間で苦慮しながらも、土佐藩を次第に政治の表舞台へと導いていきました。若い藩士たちの中でも、こうした中央政局への関心が高まり、各々が藩政改革や国の未来について真剣に考えるようになります。
高行もまた、このような時代の変化を敏感に感じ取り、学問を通じて時局を深く理解しようとしていました。時に師と仰いだ福岡藤次郎や中岡慎太郎との交流も、この時期の高行にとっては刺激的なものでした。彼らとの議論を通じて、国の行く末に対する自分なりのビジョンが次第に形成されていきます。こうして佐々木高行は、単なる土佐の一藩士から、やがて日本の未来を担う人物としての歩みを始めることになるのです。
青年佐々木高行の形成:剣と学問、そして藩政へ
剣術修行の日々と藩校での学びの姿勢
佐々木高行は10代後半から20代にかけて、藩士としての基礎を固める重要な修行期を迎えます。この時期、彼は藩校「致道館」での学問に加え、剣術修行にも真剣に取り組んでいました。致道館では主に朱子学や陽明学を学び、時事問題や歴史、礼法にも強い関心を持ち、常に熱心に書物を読み漁っていたといいます。教養と人格の涵養を重視する姿勢は、後年の冷静で筋の通った政治判断にも通じるものでした。
剣術では、土佐藩内において名門とされた道場で鍛錬を重ね、同世代の中でも一目置かれる存在でした。藩内では、学問だけでなく武芸にも優れた若者として、将来の登用が期待されるようになります。高行は実戦的な剣術に傾倒するだけでなく、武士としての精神修養にも重きを置いていました。このようにして「知」と「武」の両面で鍛え上げられた彼は、次第に藩内での存在感を強めていきます。
当時の土佐では、坂本龍馬や岩崎弥太郎といった異彩を放つ若者たちが頭角を現し始めていました。高行も彼らと交流しながら、自らの道を模索していたのです。学問と剣術に真剣に向き合い、土佐藩士としての矜持と将来への志を養ったこの時期は、後の激動期における彼の信念と胆力の土台となりました。
国学と尊王攘夷思想への目覚め
20代に入った佐々木高行は、学問の中でも特に国学に心を惹かれていきます。彼が影響を受けたのは、本居宣長の「古事記伝」や平田篤胤の復古神道といった思想でした。こうした思想は、尊王思想と結びつき、「天皇を中心とした国家観」という強い理念へと彼を導いていきます。土佐藩では当時、藩士の間で尊王攘夷思想が浸透し始めており、高行もその波に自然と呼応していきました。
なぜ高行がこの思想に心を寄せたのかというと、それは幼少期からの家風と教育に加え、時代の不安定さに対する危機意識が大きかったからです。幕府の権威が揺らぎ、外国からの圧力が強まる中で、国の精神的支柱を再確認しようという動きが各地で起こっていました。高行にとって、尊王攘夷思想は単なる理論ではなく、行動指針となる理念でした。
この頃、彼は藩内で同じ思想を持つ志士たちと意見交換を重ね、中岡慎太郎や毛利恭助(荒次郎)などとも親交を深めていきます。特に中岡とは、国を思う気持ちの強さから深い共感を覚え、のちの尊王運動や藩政への働きかけでも協力する関係となっていきます。高行の思想的成熟は、単なる知識の習得にとどまらず、具体的な政治行動への布石となっていくのです。
若き日の抜擢、藩政の現場へ踏み出す
佐々木高行が藩政に初めて関わったのは、30歳に差し掛かろうとしていた1860年前後のことでした。それまで学問と武芸に励んでいた彼は、その誠実な人柄と知識、そして時局に対する理解の深さを評価され、若くして藩の政務に携わる役職へと抜擢されます。これは異例とも言える早さであり、藩の中でも将来を嘱望された人物であることの証でした。
この時期、土佐藩は内部で開明派と保守派の対立が激化しており、藩政の舵取りは極めて難しい局面を迎えていました。高行はこうした複雑な状況の中で、調整役としての力を発揮し、藩内の意見をまとめる役割を果たしていきます。時には開明派の後藤象二郎と意見を交わしながらも、尊王攘夷を重んじる自身の信条を貫こうとする姿勢を崩しませんでした。
また、藩政に携わることで、実務能力にも磨きがかかっていきました。藩の財政問題や農政、軍備改革といった現場の課題にも積極的に取り組み、その中で実行力と人望を高めていきます。この経験は、のちに長崎会議や明治政府での活動においても大いに生かされることになります。若き日の抜擢は、佐々木高行にとってまさに人生の転機であり、志士としての道から政治家としての道へと歩みを進める重要な一歩となりました。
激動の幕末と佐々木高行:志士たちと共に歩んだ日々
尊王攘夷運動への参画と運命的な出会い
佐々木高行が本格的に尊王攘夷運動に加わるのは、1862年(文久2年)ごろのことでした。当時の日本は、文久の改革によって公武合体の動きが強まり、幕府と朝廷の関係が緊張する中で、全国各地の藩士や志士たちが独自に行動を始めていました。高行もその例外ではなく、尊王の志を胸に、藩内外での活動を徐々に広げていきます。
彼の志士としての原点となったのは、京都での活動において志を同じくする人物たちとの出会いでした。とりわけ運命的だったのが、坂本龍馬との出会いです。高行は、土佐勤王党が結成されたころから坂本と親交を深め、彼の斬新な発想や行動力に強い影響を受けました。坂本が提唱した「海援隊」構想にも高行は一定の理解を示し、実際にその活動を藩内で擁護する姿勢をとっていたといわれています。
また、岩崎弥太郎との接触もこの時期に始まります。岩崎は後に三菱財閥を築くことになる人物ですが、当時はまだ一藩士に過ぎず、学問と実務の両面で高行と多くの意見を交わしていました。岩崎の合理主義的な考え方は、高行にとっても刺激となり、後年の政治経済政策に少なからぬ影響を与えたと考えられています。
このようにして、佐々木高行は尊王攘夷運動の渦中に身を置きながら、次第に時代の中心人物たちと密接な関係を築き、思想だけでなく現実政治の現場へと深く関わっていくようになっていきます。
坂本龍馬・岩崎弥太郎との交遊と影響
佐々木高行の人生において、坂本龍馬と岩崎弥太郎という二人の存在は、思想的にも実務的にも重要な意味を持っていました。坂本龍馬とは同郷の縁もあり、互いに青年期から言葉を交わす関係にありました。龍馬の奔放な発想と、国境を越えた広い視野に高行はしばしば驚かされる一方で、堅実な政治観をもってそれを受け止め、時に諫めるような立場でもあったといいます。
特に1867年(慶応3年)の「船中八策」が構想された頃には、坂本が高行に対してその草案の趣旨を語ったという記録もあり、高行はその内容を「理想に過ぎるが、時勢を動かす火種にはなる」と評したとされています。龍馬が土佐藩を動かして薩長同盟を成し遂げようと奔走する姿勢に対しても、高行は藩の中で協力体制を整える裏方として支える役割を担っていました。
一方、岩崎弥太郎との交流は、土佐藩の財政や経済改革において具体的な議論へとつながります。岩崎は高行に対して、商業や物流の重要性、また近代的経済政策の必要性を説いており、高行はそれを藩政に反映しようと努めました。岩崎が設立した九十九商会にも高行は一定の理解を示し、実務面での支援を惜しまなかったとされています。
このように、高行は坂本龍馬の夢想と、岩崎弥太郎の現実主義という対照的な二人の思想を受け止めつつ、それらを自身の政治行動に落とし込んでいく柔軟性を持っていました。このバランス感覚こそが、彼の後の調整力や政務能力の礎となっていくのです。
藩内での発言力と調整力の発揮
幕末の土佐藩は、尊王攘夷派・佐幕派・開明派といった複数の思想勢力が併存し、それぞれが主導権を巡って対立を深めていました。佐々木高行は、そうした複雑な情勢の中で、藩内の調整役としての存在感を強めていきます。彼は単に理念を振りかざすのではなく、実際の藩政に即した提案を行い、各派閥との橋渡し役を果たしていきました。
とりわけ注目されるのは、1866年(慶応2年)以降の藩内議論において、後藤象二郎や板垣退助といった改革派と、保守派の間をつなぐ中立的な立場で活躍したことです。高行は、尊王攘夷の理念を持ちながらも、現実政治においては武力衝突を避け、朝廷を中心とした穏健な政治改革を目指していたため、過激な行動には慎重でした。その姿勢は藩主・山内豊信(容堂)からも信頼され、しばしば意見を求められるほどでした。
また、高行は自らが尊敬する桂小五郎(木戸孝允)ら長州藩の志士たちとも交流を深め、土佐藩と長州藩の間の情報共有にも貢献していました。こうした広範な人脈と冷静な判断力により、藩内外から「調和の人」として知られるようになります。彼の調整力と説得力は、後の「薩土盟約」や「大政奉還」への布石となっていく重要な要素でした。
このように佐々木高行は、混迷する幕末の土佐藩において、思想と現実の狭間を生き抜き、慎重かつ的確な対応で次の時代への橋を架けた存在だったのです。
歴史の転換点を支えた佐々木高行:薩土盟約と大政奉還
後藤象二郎との連携プレーと盟約の裏側
1867年(慶応3年)、幕末の政局は大きな転換点を迎えようとしていました。その最中に結ばれたのが、薩摩藩と土佐藩との間で交わされた「薩土盟約(さつどめいやく)」です。この盟約は、旧来の幕府体制に代わる新たな政権構想に向けて、両藩が協調して行動することを確認したものであり、後の大政奉還へとつながる重要な布石でした。
佐々木高行はこの盟約の背後で、後藤象二郎と緊密な連携を取りながら、その実現に向けて奔走しました。後藤が中心となって薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通と交渉を進める一方で、高行は藩内の意見調整に力を注ぎ、慎重な議論を重ねながらも盟約締結を後押ししていきます。当時、藩内には武力討幕を主張する過激派も存在しており、和平的手段による政権移譲には根強い反対もありました。そうした中で高行は、武力によらず政変を達成するという理念を貫き、実務者としての手腕を発揮したのです。
この盟約の背景には、坂本龍馬の「船中八策」の影響もありました。高行も龍馬の構想に理解を示し、後藤とともにそれを藩主・山内容堂に進言したと言われています。表舞台に立つことは少なかった高行ですが、その内政面での調整力と冷静な判断がなければ、薩土盟約の成功は難しかったでしょう。
この時期の佐々木高行は、まさに表と裏を繋ぐ「影のキーマン」として、時代の大きなうねりを下支えしていたのです。
山内容堂とともに朝廷工作に動く
薩土盟約が成立した後、佐々木高行は藩主・山内容堂とともに、いよいよ朝廷に対する直接的な働きかけを開始します。目的は、幕府を武力で倒すのではなく、政権を自発的に朝廷へ返上させる「大政奉還」を実現することでした。この動きは、他藩が武力討幕の準備を進める中で、平和的手段による国家改革を目指す極めて異例の方針でした。
1867年10月、高行は山内容堂の側近として上洛し、朝廷の要人や公家たちとの接触を重ねました。その中で重要な役割を果たしたのが、桂小五郎(木戸孝允)や岩倉具視との非公式な対話です。高行は、彼らに対して「幕府を排除するのではなく、政治体制を刷新するための協力が必要である」との立場を示し、武力衝突を避けた政権移譲の必要性を訴えました。
この頃、朝廷内部でも意見は割れており、討幕派の声が大きくなりつつありました。高行は容堂の威光と土佐藩の穏健な姿勢を後ろ盾に、あくまで「公議政体の樹立」を主張し、慎重な調整を続けました。彼の冷静な対応と政治的手腕により、朝廷側の信頼を得ることに成功し、大政奉還への道筋が整えられていきます。
この朝廷工作こそが、幕府が自発的に政権を返上するという日本史上極めて異例の事態を現実のものにした土台であり、高行の政治的胆力と実務能力が最大限に発揮された瞬間でもありました。
大政奉還を実現に導いた政治的胆力
1867年10月14日、徳川慶喜はついに政権を朝廷に返上する「大政奉還」を宣言しました。この一大政治劇の裏で、佐々木高行は最後まで冷静に事態を見つめ、政権移譲が円滑に進むよう調整に尽力していました。これは、幕府側の面子を保ちつつ、同時に朝廷主導の新体制を実現するという、極めて困難な両立を成し遂げた瞬間でした。
高行は、武力ではなく言葉と信念によって政治を動かすことの重要性を深く理解していました。彼が一貫して主張していたのは、「戦をせずして政を変える」という理念でした。そのためには、幕府に対しても尊重の態度を保ちつつ、同時に朝廷と連携し、諸藩の理解を取り付けるという高度なバランス感覚が求められました。まさに政治的胆力が試される局面だったのです。
また、佐々木高行はこの時期、旧幕臣や保守派の士族に対しても説得を重ね、新体制への参加を促しました。その姿勢は敵味方を分けるものではなく、「国のために一致すべきである」という一貫した信念に裏打ちされており、多くの人々の共感を呼びました。
結果として、大政奉還は実現し、日本は武力衝突による政権交代ではなく、制度改革による近代国家への第一歩を踏み出すことになります。この大きな転換点を、実務の面から支えた佐々木高行の功績は、もっと注目されるべきものです。彼のような存在があったからこそ、明治維新は混乱を最小限にとどめつつ、新時代へと向かうことができたのです。
明治維新の裏方・佐々木高行:長崎での交渉と新政府の胎動
長崎会議所における交渉と駆け引き
1868年(明治元年)、戊辰戦争の幕が切って落とされた日本は、内戦のさなかで政権の再構築を迫られていました。新政府は、各地の統制と外国との対応を円滑に行うため、長崎・神戸・横浜などに政治的拠点を設けました。佐々木高行は、その中でも最も国際的な環境にあった長崎に派遣され、長崎会議所の運営に深く関わることとなります。
長崎は幕末期から外国との交易が盛んで、イギリスやフランスをはじめとする列強の代理人が頻繁に出入りしていました。そのため、新政府としても外交上の発言力を持つ拠点として長崎の安定が不可欠だったのです。高行はこの地において、新政府代表として外国人との交渉、旧幕府側勢力との折衝、そして地元有力者との調整という複雑な任務に取り組むこととなりました。
特に重要だったのは、外国人居留地の管理や治安維持、税関の再編といった行政面の整備です。高行は、旧幕府時代から長崎で商いを続けていた福岡藤次郎らとも連携し、現場の実情に即した行政改革を進めました。外交面では、英仏の代理人との会談に同席し、日本の政権移行が平和裏に行われたことを伝えるとともに、新政府の権威を内外に示すことにも成功しています。
このように、佐々木高行は明治政府初期の外交と内政の最前線に立ち、「維新の裏方」として実務を的確にこなす力を発揮していきました。派手さはないものの、確実な調整力と執務能力で政権基盤の整備に貢献した姿は、まさに新時代の行政官の模範といえる存在でした。
戊辰戦争と新体制構築への助力
戊辰戦争の勃発により、旧幕府勢力と新政府軍との間で全国規模の武力衝突が始まりました。高行は戦場に赴くことは少なかったものの、政務面からその戦いを支え、新体制の確立に重要な役割を果たしました。彼の主な任務は、後方支援、特に東海道以西の治安維持、物資供給、行政機能の再編といった、新政府を支える土台づくりでした。
佐々木はこの期間、旧幕臣たちの扱いについても慎重な対応を取りました。無闇に彼らを敵視することなく、「能力ある者は新政府に登用すべき」との立場を貫き、復職の道を探る働きかけも行っています。これは、桂小五郎や吉井友実といった他藩出身の政治家とも協力し、できるだけ寛容な政策を推進する姿勢につながっていきました。
また、高行は山内容堂の信任を背景に、土佐藩出身者の組織的な登用も図り、坂本龍馬の志を受け継ぐ後藤象二郎、板垣退助らとともに新政府の骨格形成に携わります。彼らは、単なる人事の網ではなく、時代の理念に基づいた行政の刷新を目指していたのです。
高行の持ち前の実務能力と調整力は、混乱の中にあって光を放ち、新政府内でもその能力が高く評価されるようになります。とりわけ、戦争終結後の行政整理や徴税制度の整備など、誰もが避けたがる細かい実務に積極的に関わり、制度的な安定を支えた点は特筆すべきでしょう。
岩倉使節団を辞退し、国内整備に尽くす
1871年(明治4年)、明治政府は国際情勢の把握と条約改正交渉のために、岩倉具視を特命全権大使とする「岩倉使節団」を欧米に派遣することを決定しました。この使節団には、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らそうそうたる面々が名を連ねていました。当初、佐々木高行にも随行の打診がありましたが、彼はこれを辞退します。その理由は、「いま必要なのは内政の整備である」という確固たる信念にありました。
当時の日本は、新政府発足からまだ数年しか経っておらず、中央集権体制も不安定で、地方の反乱や混乱も各地で起こっていました。高行は、そのような状況下で自らが海外に行くよりも、国内での制度整備、人材育成、地域の安定化に力を注ぐべきだと考えたのです。彼は「近代化とは、海外を模倣することではなく、日本自身の土台を築くことだ」という持論を持っており、まさにその理念を行動で示したといえます。
その後、高行は司法制度の整備、地方行政の再構築、鉄道や通信といったインフラ整備の基礎づくりなど、広範な分野に関わっていきます。新政府が近代国家としての形を整えていくうえで、高行のように「現場」に立ち続けた人物の存在は極めて重要でした。
また、この時期、高行は若手官僚の教育にも力を入れており、後に明治中期の政策形成を担う人材たちに大きな影響を与えたとされています。彼の地道な国内活動が、結果的に日本の近代国家としての基礎を築く支柱となったことは間違いありません。
工部卿・佐々木高行の挑戦:鉄道と近代化の舵取り
工部卿に就任、その背景と役割
1873年(明治6年)、佐々木高行は工部省の長官である「工部卿(こうぶきょう)」に就任します。工部省は明治新政府が設置した中央官庁の一つで、鉄道・電信・鉱山・造船・土木といったインフラ整備を一手に担う極めて重要な機関でした。高行の就任は、これまで内政で地道に手腕を発揮してきた実務家としての評価が、政府内で高まっていた証拠でもあります。
工部卿への就任には、岩倉具視や木戸孝允らの推挙があったとされます。特に木戸とは幕末期からの親交があり、高行の調整力と誠実さを信頼していたため、技術的知見以上に「組織を束ねる人間力」が重視された人事でした。当時、工部省には外国人技術者、いわゆる「お雇い外国人」が多数在籍しており、異文化間の調整が必要不可欠でした。高行は、通訳を介しながらも丁寧に意思疎通を図り、計画の実現に向けた体制を整えていきます。
また、工部省は「富国強兵」を掲げる明治政府のなかでも、とりわけ「殖産興業」の実践機関として注目されていました。高行は、自身の実務経験を活かし、技術偏重に陥ることなく、地元自治体や民間の理解と協力を得ながら事業を進める方針を貫きました。高行の工部卿としての在任期間は長くはありませんが、その間に組織改革と人材育成の両面で重要な足跡を残しました。
鉄道網拡充と近代国家への布石
佐々木高行が工部卿在任中に特に力を入れたのが、鉄道網の整備でした。1872年に新橋〜横浜間の日本初の鉄道が開通して以降、政府は鉄道の全国展開を目指しており、高行はその実現に向けた実務の総責任者となります。工部省内では、次の主要路線として関西圏や九州方面への延伸が検討されており、彼はその調査と実行計画に深く関与しました。
鉄道建設には莫大な予算と人的資源が必要とされましたが、当時の政府財政はまだ安定しておらず、無理な投資には批判も集まりました。高行はそのような声を受け止めつつ、民間資本との連携、沿線地域との協議を積極的に行い、「実現可能な規模での計画」を着実に推進しました。これは、岩崎弥太郎らの経済的助言や、福岡藤次郎といった地方の実務家との意見交換も影響しています。
また、高行は鉄道を単なる交通手段ではなく、「国家の背骨」として捉えていました。彼は、鉄道が情報と人の流れをつなげ、地域間の格差を縮め、最終的には中央集権国家の基礎を作ると考えていたのです。工部省による鉄道整備の多くは、後に民間に引き継がれていきますが、その制度設計において高行の慎重かつ実務的な判断が果たした役割は大きなものがありました。
若手育成とインフラ整備への情熱
工部省のもう一つの重要な役割は、近代国家に必要な「技術者の育成」でした。佐々木高行は、インフラは人がつくるという信念のもと、人材育成にも強い関心を寄せていました。彼が中心となって設立を進めたのが、「工部大学校(のちの東京大学工学部)」です。この学校は、鉄道・土木・鉱山などの分野に特化した技術者を育成する目的で設けられ、海外の教育制度を参考にしながらカリキュラムが組まれました。
高行はこの学校に対し、「技術だけでなく人格を養え」と繰り返し説いたといわれています。彼にとって技術者は単なる職人ではなく、国家を背負う知識人でなければならなかったのです。若き日の彼が土佐で学問と武芸を両立させたように、工学教育にも「精神性」を重んじる姿勢が反映されていました。
また、インフラ整備においては、地方のニーズにも敏感に反応し、都市部偏重にならないよう工夫を重ねました。電信網の拡充、水道や道路の整備計画にも積極的に関わり、各省庁との連携体制の整備にも尽力しています。このように、単なる計画者ではなく、「国家の骨格を築く建設者」として、高行は地に足の着いた政策を次々と実現していきました。
彼のこうした情熱と行動は、後の日本の急速な工業化の基盤となり、また、今日にまで続く「現場主義の行政官」としての理想像を形づくる一例ともなっています。
晩年の佐々木高行:神道思想と宮中の重責を担って
皇典講究所の再建と神道への思い
佐々木高行が晩年に心血を注いだもののひとつに、神道思想の研究とその普及がありました。特に注目されるのは、1882年(明治15年)に創設された皇典講究所(こうてんこうきゅうしょ)への深い関与です。この機関は、国家神道の根幹をなす古典の研究と教育を目的として設立されたものであり、皇室祭祀や国民道徳の拠り所とされる神典・古典の解釈を担う重要な学術機関でした。
高行は早くから本居宣長や平田篤胤の国学に強い関心を抱いており、政治家としての活動と並行して神道思想の深化に努めてきました。彼にとって神道は、単なる宗教ではなく、日本人の精神文化や国家統合の理念を支える「道」であり、国のあり方そのものと深く結びついていたのです。特に明治維新以降、西洋化が急速に進む中で、「日本固有の精神的伝統を守らねばならない」とする危機感を強く抱いていました。
皇典講究所では、高行は資金援助や組織改革の面でも尽力し、再建と安定運営に深く関わります。また、教育方針の整備や人材登用にも関与し、「祭祀に通じ、かつ政を知る人物」の育成を重視しました。この理念は、高行自身の人生とも重なるものであり、彼が土佐時代から学問と行動を一体と捉えてきた姿勢が、神道の教育方針にも息づいていました。
高行のこうした神道への関心は、政治的信条ではなく、精神的使命感に基づいたものといえるでしょう。彼は最晩年に至るまで神典を読み返し、皇室の存在と国民の結びつきについて深く思索し続けたといわれています。
宮中・枢密顧問官としての存在感
神道と学問に心を寄せつつも、佐々木高行は政治の最前線から完全に退くことはありませんでした。1888年(明治21年)、彼は新設された枢密顧問官に任命されます。枢密院は、天皇の諮問機関として、憲法制定や重要法案、外交問題に関する審議を担う機関であり、顧問官はその助言者として天皇に直接進言する立場にありました。これは、政治家としての高行にとって非常に名誉ある任命であり、長年の功績が認められた結果といえるでしょう。
枢密顧問官としての佐々木高行は、時に慎重でありながら、核心を突く発言で知られていました。彼の発言には、長年の現場経験と、広い人脈に裏打ちされた実行性と説得力がありました。特に、明治憲法起草に関する議論では、欧化一辺倒ではなく「日本らしさ」を盛り込む必要があると強調し、文化的アイデンティティと政治制度との融合を提言しています。
また、高行は宮中においても信任を得ており、祭祀の運営や皇族の教育などにも関与しました。彼は神道に対する深い理解と、政治に対する実務的知識を併せ持っていたため、「宮廷と政務をつなぐ存在」として、稀有な立場を占めるようになります。このような多面的な活動により、高行は単なる元老ではなく、「文化と政治の橋渡し役」として、その存在感を晩年まで保ち続けました。
特に興味深いのは、彼が若い官僚や学者に対しても積極的に助言を与えていたことであり、後に近代天皇制の制度設計に関わる人物たちにも、彼の教えが影響を与えたとされています。
侯爵叙任と勲章受章が語る功績
そのような多岐にわたる功績が認められ、佐々木高行は1907年(明治40年)、華族制度の中で最も高位にあたる「侯爵」に叙せられました。これは、長年にわたり国家のために尽くしてきた彼の功労を、政府と天皇が正式に評価したものであり、同時代の政治家の中でも極めて高い栄誉にあたります。
高行が叙爵された背景には、幕末から明治にかけての政変を一貫して支え、また政治と文化の双方でバランスの取れた行動を取ってきたことへの評価があります。彼は激動の時代において過激な行動に走ることなく、常に調和を重んじ、実務に徹してきた政治家でした。その姿勢は、まさに「明治の理性派」と呼ぶにふさわしいものでした。
さらに、高行は旭日大綬章や勲一等などの勲章も複数回受章しており、それらの栄誉は彼の生涯の実績を象徴するものとなっています。これらの受章は、高行が一貫して裏方として国家の基盤整備に取り組み、同時に人格者としても敬愛されていたことを物語っています。
晩年の高行は、政治的活動こそ控えめになったものの、国家の将来を見据えるまなざしを失うことなく、神道や教育、そして宮廷制度の在り方に至るまで、広範な分野に深く関与し続けました。彼が残した静かな足跡は、派手な演説や戦いではなく、「信念と実務の融合」という形で、日本近代史の礎となっているのです。
『保古飛呂比』に見る佐々木高行の遺産
晩年の過ごし方と静かな最期
佐々木高行は、政治の表舞台からは次第に距離を置くようになったものの、晩年に至るまで学問と思想の探求を続けました。特に注目されるのは、彼が晩年にまとめた自筆の日記『保古飛呂比(ほこひろひ)』の執筆活動です。この日記は、単なる個人の回顧録にとどまらず、幕末から明治にかけての日本の激動を生きた一人の政治家の視点から、当時の出来事や人物に関する克明な記録を残す貴重な史料とされています。
高行は、明治中期以降、東京・赤坂の私邸にて静かな生活を送りました。公務から退いた後も、皇典講究所の後援や若手官僚への助言、神道に関する講義などを続けており、決して隠遁生活というわけではありませんでした。しかしながら、かつてのような権力争いの渦中に身を置くことは避け、国家の行く末を見守るような姿勢で晩年を過ごしていたのです。
1909年(明治42年)、佐々木高行は80歳でその生涯を閉じました。最期は家族や近しい関係者に見守られながら、穏やかに息を引き取ったとされています。その死は当時の新聞でも報じられ、多くの政治家・官僚・学者たちが追悼の意を示しました。坂本龍馬や岩崎弥太郎といった激動の時代をともに駆け抜けた人物の中で、静かに人生を終えた高行の姿は、多くの人々に深い印象を与えました。
『保古飛呂比』が伝える幕末維新のリアル
佐々木高行が残した『保古飛呂比』は、幕末から明治に至る政治的・思想的変遷を、当事者の視点から綴った貴重な記録です。この日記は、彼が日々の思索や会話、政局の動向、人物評を記録したもので、特に1860年代から1880年代の記述には、第一線で活躍した人物ならではのリアリティが詰まっています。
たとえば、坂本龍馬については「心は広く、志は高し。ただし、時に急きすぎる憾みあり」と評しており、彼への尊敬と同時に慎重な観察を感じさせる記述が見られます。また、後藤象二郎や岩崎弥太郎とのやり取り、薩土盟約の裏話、大政奉還に至るまでの藩主・山内容堂との緊張感のあるやり取りなど、他の史料では窺い知れない細かな描写が含まれています。
この日記の最大の特徴は、単なる出来事の記録ではなく、そこに至るまでの思考や葛藤を丁寧に記している点にあります。たとえば、「討幕と公議、いずれを先とすべきや」という項では、内戦を避けつつも変革を遂げる難しさについて、政治哲学的な考察が展開されています。これは、単なる政治家の覚え書きではなく、一種の知的遺産としても読むことができる価値を持っています。
『保古飛呂比』は、明治政府の中でも極めて稀有な「記録魔」としての高行の性格をよく表しており、維新期の政治文化、思想の揺らぎ、そして人物間のリアルな関係性を伝える貴重な一次資料となっています。
一次資料としての価値と研究の進展
『保古飛呂比』は、その存在が知られながらも長らく未整理の状態が続いていましたが、20世紀後半から21世紀にかけて、その研究価値が再評価されつつあります。とりわけ、「佐々木高行 日記」や「佐々木高行 保古飛呂比」といったキーワードで国文学・歴史学の研究者の注目を集め、現在では高知県立文学館や国立公文書館などでも一部が閲覧・紹介されるようになっています。
研究が進むにつれ、『保古飛呂比』は単なる回顧録ではなく、「当時の政治的意思決定過程を内側から記録した唯一の証言」としての評価を高めています。たとえば、山内豊信(容堂)とのやり取りに関する詳細な記述や、土佐藩内部の意見対立の描写は、これまでの一般的な維新史の理解に新たな視点を提供するものです。
また、この日記がもたらした副次的な効果として、佐々木高行その人の再評価が進んでいる点も見逃せません。激動の時代を前面で語る坂本龍馬や中岡慎太郎に比べ、これまで「裏方」としての印象が強かった高行ですが、日記からは冷静な観察者でありながらも信念を持った実行者であったことが明確に伝わってきます。
今後の研究によっては、『保古飛呂比』が日本近代史の再構成に寄与する可能性もあります。政治的な思惑や派閥抗争の背後にあった「人間の判断」の記録として、また、土佐藩出身の政治家たちの連携と対立の歴史を立体的に捉える資料として、『保古飛呂比』の重要性は今後ますます高まっていくことでしょう。
佐々木高行が描かれた書物とメディアの世界
『保古飛呂比』にみる逸話と筆致
佐々木高行が自らの筆で記した『保古飛呂比』は、彼の人物像を最も生々しく伝える資料であり、その筆致からは冷静沈着な思考と鋭い観察眼、そして温厚な性格がにじみ出ています。この日記には、公的な出来事の記録だけでなく、私的な感慨や人間関係に関する逸話も多数含まれており、当時の政界における空気感を伝えるリアルな描写が随所に見られます。
たとえば、大政奉還に関する部分では、山内容堂の動静に細やかに言及しつつ、その背後で藩士たちがどのように議論を交わしていたかを克明に記録しています。「容堂公、終始沈黙すと雖(いえど)も、其の眼光、座中を制す」といった表現には、まるで現場に立ち会っているかのような臨場感があり、高行の筆力の確かさが感じられます。
また、坂本龍馬に関する記述には、個人的な親しみと同時に、彼の破天荒さを冷静に見つめる視点が共存しています。「龍馬、毎に奇策を説くも、政に容れ難きこと多し」と記された箇所からは、同志でありながら一線を引いていた高行の姿勢が浮かび上がります。このように、友人・知己である人物たちに対しても距離を保った筆致は、記録者としての誠実さを感じさせるとともに、佐々木高行という人物の性格を如実に物語っています。
その一方で、『保古飛呂比』には時にユーモラスな逸話も記されており、たとえば岩崎弥太郎が新しい洋装を試みて失敗した様子を「裃に西洋帽、京の童も笑ひて過ぐ」と揶揄するような一節も残されています。こうした筆致からは、高行の人間味あふれる一面もうかがえ、厳格一辺倒の政治家ではなく、ユーモアと柔らかさを併せ持つ人物であったことが伝わってきます。
『坂本龍馬全集』『龍馬の手紙』に登場する佐々木高行
佐々木高行は、坂本龍馬に関する文献や書簡の中にもたびたび登場します。特に『坂本龍馬全集』や『龍馬の手紙』といった一次資料に基づいた編纂書においては、龍馬の重要な交友関係の一人として言及されることが多く、高行との対話や意見交換の様子が記録されています。
『龍馬の手紙』には、高行宛に送られたとされる手紙の抜粋も掲載されており、その中では龍馬が政治の展望や薩長同盟の進捗、新政府構想について語っています。高行が直接登場するわけではなくとも、その存在が前提とされた記述が随所にあり、当時の政治的な会話の相手として、いかに信頼されていたかがうかがえます。
また、『坂本龍馬全集』では、龍馬が土佐藩内の改革を後藤象二郎や佐々木高行とともに検討していたことが記されています。たとえば、藩政改革の草案に関する議論の記録では、「高行、常に理を以て龍馬の案を論ず」とあり、龍馬の革新案に対して冷静に現実的側面から意見を述べていた様子が描かれています。これは、高行が単なる賛同者ではなく、批判的検討を行う対等なパートナーであったことを示しています。
こうした文献上の記録は、佐々木高行が単なる「坂本龍馬の知人」ではなく、時にブレーキ役として、時に助言者として、龍馬の思想形成にも深く関与していたことを証明しています。龍馬という奔放な人物の言動の背景には、佐々木高行のような堅実な支え手の存在があったことが、これらの書物を通じて浮かび上がってきます。
高知市の歴史紹介シリーズでの再評価
近年では、高知県内、特に高知市を中心とした地域において、佐々木高行の功績が再評価されています。高知市では、郷土の偉人を紹介する歴史ガイドや展示企画が積極的に行われており、その中でも高行は、坂本龍馬や板垣退助、岩崎弥太郎らと並ぶ「土佐のキーパーソン」として紹介されています。
特に注目されたのが、高知市歴史民俗資料館による特別展「土佐三伯と維新の軌跡」です。この展示では、佐々木高行の生涯を紹介するコーナーが設けられ、『保古飛呂比』の実物や関連資料、高行が使用していた文具や遺品などが公開され、来館者の注目を集めました。また、展示にあたっては、現代語訳された一部抜粋も公開され、高行の筆致や思想に触れることができるよう工夫が凝らされていました。
また、地元の高校や大学でも、高行を題材にした学習プログラムが導入されており、若い世代にもその名が浸透し始めています。地元のテレビ番組やラジオでも、彼の業績を紹介する特集が組まれるようになり、「土佐三伯 佐々木高行」としての知名度は徐々に高まりを見せています。
このような動きは、佐々木高行が「裏方の功労者」として評価される時代から、「構想力と調整力を備えた知の実践者」として再び脚光を浴びる時代への転換を象徴しているといえるでしょう。地元での再評価は、彼の思想と行動が現代においても通用する価値を持っていることの証であり、今後さらにその評価が全国的に広がっていくことが期待されています。
佐々木高行の静かな偉業と、その現代的意義
佐々木高行は、激動の幕末維新期にあって、表立って歴史を動かすことよりも、冷静に全体を見渡し、丁寧に制度と人を整えることで、新時代の日本を支えた存在でした。坂本龍馬や岩崎弥太郎といった志士たちと交わりながらも、自らは堅実な実務官僚としての立場を崩さず、大政奉還や明治新政府の確立に貢献しました。工部卿としてのインフラ整備、神道研究への情熱、枢密顧問官としての進言、そして『保古飛呂比』に記された詳細な記録は、今もなお私たちに多くの示唆を与えてくれます。佐々木高行の静かな偉業は、時代の表舞台では目立たずとも、確かに近代日本の土台を築いたものであり、まさに「支える力」の象徴といえる人物です。その実像は、現代にこそ再び評価されるべき価値を持っています。
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