MENU

相楽総三の生涯:赤報隊を率いた悲劇の志士と、その名誉回復の軌跡

こんにちは!今回は、幕末に年貢半減令を掲げて世直しを目指しながら、新政府に裏切られ「偽官軍」として処刑された赤報隊の隊長、相楽総三(さがらそうぞう)についてです。

文武に秀で、尊王攘夷の志を胸に動乱の時代を駆け抜けた彼の劇的な生涯と、その志がどのように語り継がれているのかをたっぷりご紹介します。

目次

志士・相楽総三の出発点――郷士の家に生まれ、名を変えて時代に挑む

下総の郷士に生まれた少年時代の環境

相楽総三は、1837年(天保8年)、下総国印旛郡中根村、現在の千葉県成田市にあたる農村地帯に生まれました。彼の本名は小島将満(こじま まさみち)。彼の家は「郷士」という身分にありました。郷士とは、かつては戦功や家柄によって武士として扱われたものの、江戸時代には農業も営むことを許された、武士と農民の中間的な立場を持つ存在です。小島家も例外ではなく、田畑を耕しながら武士の誇りを忘れずに暮らしていました。

当時の農村は、天保の大飢饉(1833〜1839)の直後で、庶民の生活は非常に苦しく、年貢や労役にあえぐ人々が後を絶ちませんでした。こうした現実を幼い将満は間近で見て育ちます。父が農作業を終えた後、武術や学問を教えていた姿も、彼の中で武士のあるべき姿を思い描かせる要因となりました。支配階級でありながらも、実態は貧しい農民とほとんど変わらない。それが郷士の現実であり、こうした矛盾に気づいた経験が、後に彼が「民のための政治」を志す原点となっていきます。彼の政治思想の萌芽は、この郷里での暮らしと、民衆の生活への深い共感から生まれたものでした。

江戸・赤坂で育った反骨と気骨

将満は10代の後半になると、江戸の赤坂に移り住むことになります。赤坂は大名屋敷や武家屋敷が立ち並び、政治の中心である江戸城にも近い、いわば幕府の中枢が集まる街でした。田舎の農村から一転、都市の喧騒と権威の集中する場所で暮らすことで、彼は早くから社会の裏側、つまり庶民の抑圧と権力者の無関心に疑問を抱くようになります。

この時期の江戸は、ペリー来航(1853年)をきっかけに開国か攘夷かを巡って国内が揺れ動き始めた頃でした。町には攘夷を訴える落書きやビラが出回り、武士たちの間でも思想が二分されていきました。将満も町人や浪人たちとの交流を通じて、徐々に「尊王攘夷」や「民権尊重」といった新しい思想に触れていきます。

また赤坂では、寺子屋や町道場などで兵法・儒学・国学を学びました。彼の学問に対する姿勢は極めて真摯であり、学ぶだけでなく、「この学問をどう人々のために活かすか」を常に考えていたと伝えられています。都会での生活は、彼に自らの思想を深め、時代の変化に対峙するための精神的な土台を築かせました。目の前の矛盾に疑問を持ち、それを変えたいと思う「反骨心」が、この時期の経験を通じて確固たるものとなっていったのです。

「相楽総三」という名に込めた覚悟

本名を渡辺庄三郎として生まれた彼が、「相楽総三」と名乗るようになったのは、20代後半、江戸で志士活動を本格化させてからのことです。この名前には、彼の強い覚悟と政治的信念が込められていました。「相楽」という姓は、儒教における「民と楽しみをともにする政治(相楽)」という思想に由来するとされ、「民衆の幸福を己の使命とする」という意味が込められています。

なぜ彼は自らの名前を変えたのでしょうか。それは、既存の社会秩序や身分制度に対して一線を画し、自らを新しい時代の担い手として定義し直すためでした。当時の日本はまだ封建制度が色濃く残っており、名を変えることはすなわち「旧体制からの決別」を意味しました。彼は、自分の人生を「民衆のため」に捧げると決意し、それを世に示すために、自らのアイデンティティを言葉で表したのです。

「総三」という名についても、多くの人をまとめ導く「総(すべ)る者」という意味が込められているとも考えられています。この改名後、彼は「赤報隊」の結成、「年貢半減令」の掲示といった行動に突き進んでいきます。つまり、「相楽総三」という名前は、彼の思想の核であり、生き様そのものであったのです。

幕末に私塾を開いた若き改革者・相楽総三

20代で私塾を開き、若者を導く

相楽総三が20代半ばに差しかかる頃、彼は江戸で私塾を開き、次代を担う若者たちの教育に乗り出します。場所は赤坂や本郷といった武家地に近い地域だったとされ、彼自身が体得してきた兵学・儒学・国学を中心に据えた教育を展開しました。時は安政年間(1854〜1860)で、日本は開国の是非をめぐって内外から揺さぶられていた時期です。幕府の権威が低下し、攘夷思想が若者の間で高まるなか、総三は「学問は民衆のためにあるべきだ」との信念から、身分や出自にとらわれず塾生を受け入れました。

彼が塾を開いた背景には、「ただ体制を批判するだけでなく、変革を担える人材を育てたい」という強い思いがありました。総三は、武士や町人といった身分の壁を越えて交流し、議論を重ねる場を私塾という形で生み出したのです。そこには、後に赤報隊や倒幕運動に参加する同志たちの姿もありました。塾生の多くは、彼の思想と人柄に強く惹かれ、単なる教師と生徒以上の絆で結ばれていきます。教壇に立ちながら、すでに彼は志士としての第一歩を踏み出していたのです。

兵学・実学を重視した斬新な教育方針

相楽総三の私塾が注目を集めた理由の一つは、その教育方針にあります。彼は儒教や朱子学といった形式的な学問だけでなく、実際の社会や政治の変革に役立つ「実学」と「兵学」を重視しました。これは当時としては非常に斬新な考えであり、従来の封建的な学問観とは一線を画していました。彼にとって学びとは、「人々を救い、世を変える力を得るためのもの」であり、教養としての学問ではなく、「行動に繋がる学問」こそが必要だと考えていたのです。

兵学についても、単なる戦術や戦法の学習にとどまらず、「なぜ戦うのか」「どうすれば無益な犠牲を避けられるのか」といった倫理や戦略にも踏み込みました。彼は、兵を動かすには理念が必要であると説き、志を持った武士こそが時代を変える原動力になると信じていました。こうした教育は、塾生たちに自分の頭で考える力を育ませ、多くの者が後に討幕運動の実働者として各地で活躍することになります。総三の教育は、単なる知識の伝達ではなく、社会の矛盾に立ち向かう実践的リーダーを育てることを目的としていたのです。

門弟との絆が後の活動の礎に

私塾での活動を通じて育んだ門弟たちとの絆は、相楽総三の後の人生において極めて重要な意味を持ちます。彼が育てた門弟たちは、彼の思想に共鳴し、多くが後に「赤報隊」や倒幕運動に参加していきました。たとえば、益満休之助や伊牟田尚平といった後に密命を帯びて行動する人物たちとは、私塾時代からの深い信頼関係があったとされています。また、塾を通じて交友を深めた板垣退助(乾退助)や油川錬三郎、滋野井公寿といった人物も、同時代の志士として相楽と行動を共にするようになります。

こうした人物たちは、総三が単なる思想家ではなく、「共に動ける実行者」を育てていたことの証左でもあります。総三は、知識を教えるだけでなく、自らも共に現場で汗を流す「同志」として彼らと向き合いました。その姿勢は、門弟たちにとって何よりも大きな信頼と尊敬の源となり、のちの活動の中で命を懸けて彼と共に進む覚悟を育てました。

私塾は閉鎖的な学びの場ではなく、未来を構想し行動を起こすための「拠点」だったのです。この絆があったからこそ、総三はのちに危険な任務や密命にも臆することなく踏み出せたのであり、彼の思想と理想が現実の行動へと繋がっていったのです。

攘夷の志に燃えた思想家・相楽総三の覚醒

吉田松陰らに学び尊王攘夷に傾倒

相楽総三が尊王攘夷思想に強く傾倒するようになったのは、30代を目前にした頃のことでした。彼は江戸での学びの中で、長州藩出身の思想家・吉田松陰の教えに触れる機会を得ます。松陰は「至誠をもって事にあたる」を信条とし、尊王思想と外国勢力に対する強い危機意識を持っていた人物であり、多くの若者に影響を与えました。総三は直接松陰の門下に入ったわけではありませんが、松陰の思想を継ぐ同志たちと交流を深め、その書簡や講義録を通じて彼の理念を吸収しました。

当時の日本は、1858年の日米修好通商条約の締結によって急速に開国へと向かい、それに伴う外国人の往来や不平等条約の影響で国内は不安と不満に満ちていました。こうした時代背景の中で、総三は「天皇を中心とした国家の再構築」こそが日本の独立と安定につながると信じるようになります。なぜ天皇を中心に据える必要があるのか――それは幕府が国を導けなくなっている現状に対する痛烈な批判であり、政治の正統性を天皇に戻すことが、民を救う唯一の道だと考えたからです。

吉田松陰の言葉を通じて、「国家は個人の誠によって立つ」という思想に目覚めた総三は、それまでの教育者としての活動から一歩進み、行動する思想家へと脱皮していきます。

命を懸けて行動した志士としての第一歩

思想家としての覚醒を経て、相楽総三はその信念を行動で示す志士としての道を選びます。彼の最初の大きな行動は、1860年代初頭、江戸で行われた尊王攘夷派の結社活動への参加でした。これは幕府に対する明確な敵対姿勢を意味し、時に命を危険にさらすこともありました。当時の幕府は、攘夷運動を「反体制運動」として厳しく取り締まっており、参加者の多くが投獄・追放の処分を受けるリスクを背負っていたのです。

総三はこの頃、同志と共に「義を重んじ、行動で示す」ことを信条に掲げ、討幕運動の情報収集や連携構築に尽力しました。特に注目されたのが、薩摩・長州など諸藩の志士との連携を意識した動きで、江戸を拠点にしながらも、各地の攘夷派と連絡を取り合い、密議を重ねていきます。彼の行動は、単なる過激な政治運動ではなく、理論と戦略を持った冷静な志士活動であり、ここに彼の実務能力と胆力が表れていました。

このようにして、彼は命の危険を顧みず、真に「行動する思想家」としての第一歩を踏み出したのです。思想は実行を伴ってこそ意味を持つ――その信念が、彼を後の赤報隊結成、年貢半減令の実行といったさらなる挑戦へと駆り立てていくことになります。

同志との出会いが彼の人生を変えた

相楽総三の人生において、思想の深化と並んで重要だったのが、志を同じくする同志たちとの出会いでした。特に、西郷隆盛との接触は、彼の運命を大きく変える契機となります。西郷とは1860年代中盤、江戸や京都で行われていた討幕志士たちの非公式会談を通じて知り合ったとされており、西郷の人柄と胆力、そして冷徹なまでの戦略眼に、総三は深く共鳴しました。

また、この頃彼は大久保利通や板垣退助(乾退助)、鈴木三樹三郎、油川錬三郎らとも出会い、互いに情報を交換しながら、討幕のビジョンを描いていきます。彼らとの交流を通じて、総三は「理想を語るだけでは世の中は変わらない」という現実主義的な感覚を強めていきました。そして、実際に武力をもって幕府を倒し、新たな政権をつくるためには、戦略的な連携と人脈が不可欠であると悟ります。

中でも益満休之助や伊牟田尚平といった志士たちとは、後に赤報隊の結成に深く関わっていくことになります。彼らとの出会いは、総三にとって「志を共にする仲間」以上に、「一緒に命を懸けて戦える同志」の存在を実感させるものでした。この人間関係の構築が、彼を単なる思想家から、歴史の現場で実際に行動するリーダーへと導いたのです。

天狗党に加わり、命を賭けた戦いに挑む相楽総三

天狗党の乱で幕府と対決

相楽総三が、いよいよ武力による体制変革を志して動き出したのは、1864年(元治元年)の「天狗党の乱」に参加したことが大きな転機となりました。天狗党とは、水戸藩内の尊王攘夷派を中心に結成された武装集団で、当初は幕府による開国政策や弱腰外交に強く反発して立ち上がりました。総三はこの天狗党に合流し、その理念と行動に共鳴しながら、討幕の実力行使に踏み出していきます。

当時、天狗党のリーダーであった武田耕雲斎らは、京都での政治工作のため、朝廷への直訴を目的に軍勢を北関東から西進させていました。総三はこの行軍の中で、指揮官たちの側近として諜報・連絡役を担い、軍の統率や連携の面でも重要な役割を果たしていたと考えられます。彼はすでに思想家や教育者の立場を超え、実戦の現場で判断し行動する一員として、戦場に身を投じていたのです。

天狗党の乱は最終的に幕府の追討軍に包囲され、多くの志士が処刑・斬首される結末を迎えましたが、総三はここでの経験を通じて、体制を変えるには「言葉だけでは足りない」という事実を身をもって学ぶことになります。この乱を通じて得た教訓と、尊王の名のもとに命をかける覚悟が、彼の後の行動をより激しく、現実的なものへと変えていくのです。

捕縛・脱走・潜伏、命懸けの逃亡劇

天狗党の乱が鎮圧されたのち、相楽総三にも幕府の追及の手が迫ります。多くの志士が捕縛・処刑された中、彼もまた指名手配され、各地を転々としながら逃亡生活を余儀なくされました。特に1865年(慶応元年)頃には、一度幕府の役人に拘束されるものの、自らの機転と支援者の手引きにより脱走に成功し、その後は京都・江戸・長州・薩摩など、倒幕派の活動拠点を潜伏先としながら逃れ続けました。

この逃亡生活の中で、彼は自らの生死をかけて行動する覚悟を強くし、また各地での潜伏を通じて、各藩の志士たちとの人脈をさらに深めていきました。特に、益満休之助や伊牟田尚平といった薩摩藩出身の志士たちとは、この時期に強固な絆を結び、のちの赤報隊結成に大きくつながっていきます。

また、逃亡先で密かに開いた小規模な学習会では、自らの経験を後進に語り、「理想だけでは世の中は変わらない、現実と戦え」と説いたといわれています。こうした言葉は、単なる理論家ではない、実際に命を懸けた者の重みがありました。捕縛、脱走、そして再び潜伏という緊迫した日々の中で、彼はさらに現実に即した視野と行動力を磨いていったのです。

動乱の中で得た“実戦的な人脈”と知見

相楽総三の逃亡と潜伏生活は、単なる生存のための時間ではありませんでした。それはむしろ、倒幕のために不可欠な“人脈”と“戦術的知見”を築き上げる貴重な期間となりました。天狗党の乱に参加したことにより、彼は幕府の軍制、諜報活動、処罰体制についての詳細な知識を身につけます。これらの知見は、後に赤報隊を率いるうえでの実践的な武器となりました。

さらに、逃亡先では西郷隆盛や大久保利通といった薩摩藩の中枢とも密接な連絡を取り始め、次第に倒幕運動の核心部に近づいていきます。こうした人脈の中には、石城東山、綾小路俊実、鈴木三樹三郎ら多くの志士たちも含まれており、彼らとのつながりが赤報隊の「密命」の背景を形づくっていきます。

また、各地の民情や農村の実情にも触れたことは、後に彼が掲げる「年貢半減令」の現実性を担保するものとなりました。単なるスローガンではなく、現地で見聞きした農民たちの苦しみを背景にした政策提言であったため、赤報隊の理念には説得力がありました。

このように、動乱の中で鍛えられた相楽総三は、思想家・教育者から実戦的指導者へとその姿を進化させていきます。潜伏の中で築いた「動ける仲間たち」と「現実的な戦略」こそが、次なる挑戦――赤報隊の結成と進軍――を支える最大の土台となったのです。

密命を受けて赤報隊を率いた相楽総三の挑戦

西郷隆盛と出会い、歴史の表舞台へ

相楽総三が本格的に歴史の表舞台へと登場する契機となったのは、1867年(慶応3年)末、薩摩藩の実力者・西郷隆盛と接触し、密命を受けたことによります。天狗党の乱以降、潜伏と逃亡を続けていた総三は、各地で尊皇攘夷の志士たちと接触しながら、西郷や大久保利通を中心とする討幕派との連携を模索していました。この頃、幕府を倒して新政権を樹立するという構想が着実に進行しており、西郷は戦略の一環として「東山道鎮撫使」の進軍を計画していました。

そこで重要な役割を担ったのが、赤報隊という特殊部隊です。相楽は西郷から、「年貢半減を掲げて東国の民心を味方に引き入れよ」という密命を受けました。この任務は、単なる軍事作戦ではなく、政治的な意図と心理的な戦略を兼ね備えたものであり、彼にとってはまさに宿命的な使命でした。民衆の味方としての姿勢を貫いてきた彼にとって、この任務は理想と行動が完全に一致した瞬間でもありました。

この西郷との出会いが、単なる教育者や思想家であった相楽を、時代の変革者として歴史に刻むきっかけとなったのです。

「赤報隊」構想と討幕の裏ミッション

赤報隊は、薩摩・長州両藩が中心となって形成した「官軍」の一部隊として、1868年(慶応4年)正月に編成されました。正式な名前は「東山道先鋒総督附下参謀・赤報隊」。名目上は新政府軍の一部でしたが、その実態は極秘任務を帯びた準遊撃部隊に近いものでした。相楽総三はこの赤報隊の総督付き参謀という立場で、数百人規模の部隊を指揮することになります。

赤報隊の任務は、単なる軍事行動にとどまりませんでした。幕府の勢力がまだ根強く残る東国において、民心を掌握し、新政府軍の進軍を円滑に進めるための「政治的先兵」として機能することが求められていたのです。そこで彼らが掲げたのが「年貢半減令」でした。これは、重税に苦しむ農民にとっては救済の希望であり、相楽自身が長年訴えてきた理想そのものでした。

しかし、この構想には裏がありました。赤報隊には討幕に反発する勢力を炙り出し、新政府に敵対する者を排除するという治安維持的な目的も存在していました。つまり赤報隊は、理想を掲げながらも、新政府の都合によって操られる存在としての側面も持っていたのです。総三はその事実に気づきながらも、「今は手段を選んでいる時ではない」として任務に身を投じました。

年貢半減を掲げ進軍を始める

1868年(慶応4年)1月、相楽総三率いる赤報隊は、年貢半減令を掲げて東山道を北上し、信濃・上野・下野といった地域へと進軍を開始します。この「年貢半減令」とは、農民の税負担を半分に軽減するという画期的な政策であり、それを実現すると新政府の名のもとに掲げたことで、民衆からは熱狂的な支持を受けました。道中、赤報隊が掲げた高札には「王政復古により、民を救う新しい政治が始まった」と記され、多くの農民たちが自発的に食糧や物資を提供しました。

しかし、この進軍は理想と現実の板挟みに苦しむものでもありました。赤報隊の補給は不十分で、装備も粗末でした。また、年貢半減という政策が地主や旧幕府側の商人たちの反発を招き、地方での混乱を引き起こすことにもなりました。さらに問題だったのは、この年貢半減令があくまで「赤報隊独自の発表」であり、新政府が正式に発令したものではなかったという点です。

相楽総三は、民心を得るためには実効性のある「希望」を掲げることが必要だと信じており、その信念のもとで進軍を続けました。現地では、赤報隊が来たことによって村の自治が一時的に強化され、農民たちが自らの力で村を守る気運が高まったと記録されています。相楽の進軍は、まさに「武力を持たぬ革命」であり、民衆とともに政治を動かすという彼の理想の具現化でした。

江戸薩摩藩邸焼討を主導――革命の火を放った相楽総三

藩邸放火の首謀者として動いた理由

1868年(慶応4年)正月、鳥羽・伏見の戦いの報が江戸にも届き、徳川慶喜が事実上の敗北を喫したことが明らかになります。この緊迫する情勢下で、相楽総三は薩摩藩邸焼討事件において、中心的な役割を果たすことになります。彼がこの行動に関与した背景には、政治的・軍事的な目的だけでなく、自らの信念に基づいた意図がありました。

当時、江戸には薩摩藩邸が数カ所存在し、その中には倒幕派の志士たちが集まり、幕府への挑発的行動を繰り返していました。これに対し、幕府側では「薩摩藩こそが内乱の扇動者である」として、藩邸の焼討を正当化しようとする動きが強まっていました。相楽はこの状況を利用し、「火を放ち、事態を一気に動かす」ことで、倒幕の流れを一層加速させようと考えたのです。

また、この時期には西郷隆盛と密かに連絡を取り合い、江戸での工作活動を任されていたとも言われています。つまり、藩邸焼討は単なる暴動ではなく、倒幕戦略の一環として、意図的に練られた“戦術的放火”であった可能性が高いのです。相楽はこの作戦において、表には出ずとも、裏方としてその指揮・計画に深く関わっていたと考えられています。

鳥羽・伏見の戦いに繋がる重大事件

江戸薩摩藩邸焼討事件は、1868年1月3日に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」と密接に連動した事件でした。鳥羽・伏見の戦いとは、京都近郊で勃発した新政府軍と旧幕府軍の激突であり、この戦いに新政府軍が勝利したことで、全国の情勢が一気に討幕へと傾いていきました。その直後、江戸では幕府の内部に混乱が生じ、徳川慶喜の帰順や恭順論が浮上する一方で、強硬派は武力抵抗を模索していました。

このような中、薩摩藩邸が放火され、江戸市中が騒然とする騒乱が発生しました。相楽総三ら倒幕派は、この混乱を「民意の動き」と見せかけることで、幕府の弱体ぶりを際立たせ、討幕の大義を世に広めようと意図していたのです。事実、この事件は市民に大きな衝撃を与え、「薩摩が幕府に勝った」という印象を一層強めることになりました。

また、藩邸焼討をきっかけに江戸の治安は急速に悪化し、幕府は民衆の支持を失い始めます。こうして、無血開城へとつながる道筋が形作られていくのです。相楽の関与は公式記録では明確にされていない部分もありますが、多くの証言や記録から、彼がこの一連の流れを戦略的に動かしていた重要人物であったことは疑いありません。

逃亡と潜伏に費やした緊迫の日々

薩摩藩邸焼討事件ののち、江戸の町は大混乱に陥り、幕府は徹底的な捜査に乗り出しました。首謀者と目された者たちは次々と捕縛されるなか、相楽総三はその名を伏せ、再び逃亡生活に入ります。かつて天狗党の乱後に経験した潜伏の知識と人脈を駆使し、彼は追跡を巧みにかわしながら、江戸・下野・信濃といった土地を転々とします。

この逃亡劇の中でも、彼は単に身を隠すのではなく、各地での討幕勢力の動向を探り、必要な連絡を取り続けました。特に赤報隊の進軍と連動した行動を取っていたとされ、彼の存在は「潜在的指導者」として常に注目されていました。一方で、新政府内でも「暴発的な行動をする危険人物」としてマークされるようになっていきます。

逃亡中に協力した人物の中には、益満休之助や鈴木三樹三郎、油川錬三郎といった志士たちもおり、彼らの支援がなければ相楽の逃亡は成功しなかったともいわれます。やがて、彼の動きは再び赤報隊の編成と合流し、次の舞台――東山道進軍へとつながっていきます。この緊迫した逃亡生活こそが、後の「偽官軍」事件と処刑という悲劇の前兆であり、彼の運命が大きく動く転換点となったのです。

民衆の味方「赤報隊」――理想を背負って進軍した相楽総三

赤報隊の理念と組織の誕生

赤報隊は、1868年(慶応4年)1月、鳥羽・伏見の戦い直後に結成された部隊で、新政府軍の「東山道先鋒軍」の一翼を担う組織として発足しました。指導者に抜擢されたのが相楽総三であり、正式な肩書きは「東山道先鋒総督附下参謀」。表向きには官軍に属する部隊でしたが、実態は新政府からの“密命”を受けた、半独立的な遊撃部隊でした。

その最大の特徴は、政治的理念を前面に押し出していた点にあります。赤報隊の主な目的は、戦闘行為だけではなく、東国の農村地域において「王政復古」の大義と新政府の正統性を広め、民衆の支持を得ることにありました。そこで掲げられたのが「年貢半減令」であり、この政策は民衆に対して直接語りかける形で新しい時代の到来を印象付けるものでした。

隊の構成も、単なる武士だけではなく、町人や農民出身者を含む幅広い階層の人間で編成され、相楽の思想が強く反映されていました。彼にとって、赤報隊は単なる軍事部隊ではなく、理想の政治を民の中から始めるための「実践装置」だったのです。このようにして誕生した赤報隊は、政治と軍事、そして民衆教育の三要素を内包する、異色の部隊としてその歩みを始めます。

「年貢半減令」が庶民に与えた衝撃

赤報隊の進軍において最も象徴的な政策が「年貢半減令」でした。この命令は、田畑の生産物に対する税である年貢を、それまでの半分に減らすというもので、相楽総三自身の長年の信念と実体験に基づいていました。江戸末期の農村は、長年の飢饉や重税により疲弊しきっており、年貢の軽減は庶民にとってまさに「夢のような話」だったのです。

赤報隊は進軍の際、各地でこの年貢半減を布告し、村々に高札を掲げて回りました。「新政府の命により、年貢は半減とする」と書かれた札に、多くの農民が涙を流して喜び、彼らの支持を一気に集めることとなります。民衆は、ついに自分たちの声が政治に届いたと感じ、赤報隊に食料や宿を無償で提供するなど、自発的に協力しました。

しかし、この政策が正式な政府の布告ではなかったという事実が、のちに大きな波紋を呼びます。新政府は、赤報隊の掲げた「年貢半減令」を否定し、財政の混乱を防ぐためにこれを撤回します。その結果、民衆の間には混乱と怒りが広がり、赤報隊に対する風向きも急速に変化しました。この一件は、理想と現実の激しい衝突であり、総三の信念が国家の都合によって踏みにじられる苦い経験となったのです。

進軍が地方にもたらした現実的影響

赤報隊は、年貢半減令を掲げながら東山道を北上し、信濃・上野・下野・陸奥などの地方を通過していきました。彼らの行軍は単なる軍の移動ではなく、農村社会に直接的な影響をもたらす政治的行動でもありました。各地では、「赤報隊が来たことで領主が逃げ出した」「税が本当に下がるらしい」といった噂が広まり、旧来の支配構造が動揺し始めたのです。

また、赤報隊の進軍は、各地の民衆の意識を変化させる契機ともなりました。それまで政治とは無縁だった農民たちが、初めて「自分たちの暮らしに関わるもの」として政治に関心を持ち始めたのです。赤報隊は道中で小規模な集会を開き、相楽総三自身や幹部が年貢半減の意義、新政府の目的を説く場もありました。彼らの言葉は、農民にとって初めて聞く“わかる言葉”で語られた政治論であり、その影響は一過性のものではありませんでした。

一方で、行軍を進めるにつれ、補給の困難や他の政府部隊との連携不足が浮き彫りになり、組織的な弱さが露呈していきます。また、年貢半減令が撤回されたことによって、一部の地域では赤報隊に対する敵意が生まれ、状況は徐々に悪化していきました。理想を背負って始まった赤報隊の進軍は、やがて国家によって「誤った行動」と断罪される道へと進むことになるのです。

「偽官軍」とされ処刑――利用され、捨てられた相楽総三の最期

新政府に裏切られた突然の“断罪”

1868年(慶応4年)2月、相楽総三率いる赤報隊は、信濃国高遠に到達するも、突如として新政府から「偽官軍」の烙印を押されることになります。赤報隊は正式に「東山道先鋒総督附下参謀」として任命を受けた経緯があるにもかかわらず、彼らの行動が新政府の意に反したとされ、一転して反逆者扱いされたのです。その最も大きな理由は、年貢半減令の無断布告でした。

この年貢半減令は、相楽が西郷隆盛の密命を受けて掲げたものであり、地方農民の支持を得るための戦略的行動でした。しかし、新政府内では財政基盤の維持を優先する意見が強まり、半減令を公式に認めることはできないという判断に傾いていきます。さらに、赤報隊の進軍が新政府の指示と異なる独自行動と見なされ、問題視されました。

こうして、新政府は相楽らを「偽官軍」と断定し、捕縛を命じます。相楽と幹部ら数名は逮捕され、わずか数日後の3月3日、信州中山道の諏訪郡下諏訪宿で斬首されました。処刑は極めて迅速かつ秘密裏に行われ、弁明の機会すら与えられなかったとされます。かつて「官軍の先鋒」と称された男が、一夜にして「反逆者」とされ処刑されたこの事件は、理想に殉じた男の非業の最期として語り継がれています。

処刑の背景にあった政治的思惑

相楽総三が「偽官軍」とされ処刑された背景には、単なる命令違反では語りきれない、当時の政治的な複雑な思惑が絡んでいました。新政府は、王政復古の大号令の直後、国内の安定と秩序回復を最優先課題としていました。そのため、急進的で民衆扇動的な動きを見せた赤報隊は、内外に不安をもたらす存在と見なされ、粛清の対象となったのです。

また、年貢半減令という政策自体も、財政を支える庄屋層や有力農民からの反発が大きく、新政府はこれ以上の混乱を避けるために、「発表自体をなかったことにする」という選択を迫られていました。相楽が密命を受けて動いたことを公に認めてしまえば、新政府自身の統治の正当性が揺らぐ恐れがあったため、彼の存在を「切り捨てる」必要があったのです。

さらに、当時新政府内部でも、薩摩・長州・土佐といった各勢力の主導権争いが激しく、統一された意志決定が難しい状況でした。西郷隆盛の意向で動いた相楽の行動が、大久保利通や他の官僚たちにとっては「暴走」と映った可能性も否定できません。つまり、彼の処刑は「組織防衛」と「政治的妥協」の象徴であり、維新政府が掲げた理想の裏で行われた、極めて冷徹な政治判断だったのです。

その後の名誉回復と現代の評価

非業の死を遂げた相楽総三ですが、彼の志と行動はのちに見直され、徐々に名誉回復の動きが進みました。まず明治時代後半になると、彼の志を受け継いだ門弟や支持者たちが、その死を悼み、慰霊碑の建立や顕彰活動を始めます。特に注目されるのが、長野県諏訪市の「魁塚(さきがけづか)」であり、ここには相楽をはじめとした赤報隊士の霊が祀られ、今も地元住民により大切に守られています。

昭和期に入ると、戦後の民主主義思想の高まりの中で、民衆の立場から政治を変えようとした相楽の行動が再評価されるようになります。また、1970年代以降には小説や歴史ドキュメンタリーでも彼の姿が取り上げられ、特に「利用され、そして捨てられた志士」としての側面が注目を集めました。

21世紀に入り、インターネットや市民歴史研究の進展により、赤報隊や年貢半減令の真相に迫る試みが活発化し、近年では地元の教育プログラムや資料館でも紹介されるようになっています。彼の行動が「偽官軍」として一蹴されたのではなく、政治の犠牲となったものであったという認識が定着しつつあり、現代においては民衆の視点から近代国家を模索した先駆者として、改めてその価値が見直されているのです。

歴史と物語で語り継がれる相楽総三

書籍・小説が描く相楽総三の真実

相楽総三の生涯は、明治以降、さまざまな書籍や小説の中で取り上げられてきました。とくに昭和初期には、赤報隊の進軍と「年貢半減令」の布告を中心に、民衆の味方としての姿が脚色を交えて描かれることが多くなります。これは、当時の社会情勢において「下からの革命」や「民衆の代弁者」としてのヒーロー像が求められていたことと深く関係しています。相楽はその象徴的な存在として再発見され、多くの作家たちにインスピレーションを与えました。

特に、昭和30年代以降には歴史小説の中で「利用され捨てられた理想家」としての人物像が確立され、悲劇的英雄としての印象が強まりました。たとえば大佛次郎や司馬遼太郎の作品世界においても、赤報隊はしばしば時代に翻弄された存在として登場し、その指導者である相楽総三は「志に殉じた者」の象徴として描かれます。

また、近年ではノンフィクションにおいても史料研究が進み、相楽が実際に西郷隆盛や大久保利通とどのような関係にあったのか、密命の真相や赤報隊の活動実態についても検証が進んでいます。こうした研究や物語を通じて、相楽総三という人物は、単なる一時代の志士ではなく、現代に通じる政治と理想のはざまで苦悩した「実在の思想家」として再評価されています。

『るろうに剣心』に登場した「志士の影」

相楽総三の名は、歴史研究や文学作品だけでなく、現代のポップカルチャーの中にも登場しています。その代表例が、和月伸宏による人気漫画『るろうに剣心』です。この作品は、幕末から明治初期にかけての動乱期を舞台に、かつての志士たちの葛藤や理想、闇を描いた物語で、多くの若者に幕末への関心を呼び起こしました。

作中に登場する「相楽左之助」というキャラクターは、直接の史実上の相楽総三とは異なる架空の人物ですが、その姓や赤報隊に所属していた過去などは明確に相楽総三をモデルにしています。左之助は、赤報隊が「偽官軍」とされ処刑されたことを深く憎み、その過去を背負いながら生きる人物として描かれており、作品内で何度も「民を守るための戦い」と「国家に裏切られた苦悩」が語られます。

このように、現代の漫画作品を通じて相楽総三の存在が若い世代にも知られるようになったことは、歴史的人物の記憶が新たな形で受け継がれている好例と言えるでしょう。フィクションの中で描かれる「志士の影」は、実在した相楽総三という人物の精神を象徴し、現代にもなお通じる理想と矛盾の物語として、多くの読者に深い印象を与えています。

再評価される理由―WEB記事と大河ドラマ

近年、相楽総三が再び注目を集めている背景には、歴史の見直しと情報環境の変化が大きく影響しています。インターネットを通じて個人が一次資料や論文、地方史などに触れやすくなったことで、これまであまり光の当たらなかった人物や出来事に関する情報発信が活発化しました。赤報隊や相楽総三についても、専門家や市民歴史家によるブログ、動画、SNS投稿が増え、その生涯や思想が多角的に語られるようになっています。

とくに「偽官軍」とされ、理想のために犠牲となったというストーリーは、現代の政治不信や社会への問いと重ねられ、共感を呼ぶケースも多く見られます。赤報隊の掲げた「年貢半減令」は、単なる政策提言ではなく、「国家とは誰のためにあるのか」を問う問いかけとして受け止められるようになってきました。

また、大河ドラマや歴史バラエティ番組などのメディアでも、相楽総三の名前がしばしば登場するようになり、注目度が高まっています。特に、西郷隆盛や板垣退助といった歴史上の著名人物と深い関係にあったことが紹介されることで、彼の存在感が再び浮上しているのです。史実に忠実な再評価と、ドラマ的な語り口を両立させる形で、相楽総三は「語り継がれる志士」として、今も多くの人々の関心を集め続けています。

忘れられた志士・相楽総三が遺したもの

相楽総三は、幕末という激動の時代に、理想と現実のはざまで戦い続けた志士でした。郷士の家に生まれ、思想家・教育者として若者を導き、やがて赤報隊を率いて民衆のために命を懸ける人生を選びました。年貢半減令に象徴されるように、彼の志は常に「民の苦しみに寄り添う政治」を目指していたのです。しかし、新政府に「偽官軍」とされ処刑され、その名は一時忘れられることとなります。それでも、彼の行動と思想は多くの人々に受け継がれ、書籍や映像作品、さらには現代の歴史再評価の動きの中で、再び注目される存在となりました。利用され、捨てられ、それでも信念を貫いた相楽総三の姿は、時代を超えて、私たちに「理想を生きるとは何か」を問いかけ続けています。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次