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黒田清隆の生涯:薩摩の豪傑の北海道開拓、戊辰戦争、そして総理大臣への物語

こんにちは!今回は、北海道開拓の父として知られ、戊辰戦争を戦い抜き、明治政府の中枢を担った政治家・軍人、黒田清隆(くろだきよたか)についてです。

彼は日本の近代化に大きく貢献した一方で、「酒乱宰相」とも呼ばれるほど酒癖が悪かったことでも有名。しかし、その裏には、榎本武揚の助命嘆願や、北海道開拓への尽力、外交交渉の手腕など、彼の人間味あふれる一面がありました。

薩摩藩士から戊辰戦争の英雄、そして第2代内閣総理大臣へ──激動の時代を生き抜いた黒田清隆の生涯を追ってみましょう!

目次

薩摩藩士から幕末の志士へ——黒田清隆の原点

薩摩藩士の家に生まれる——黒田家のルーツと武士の矜持

黒田清隆は、1839年(天保10年)に薩摩藩(現在の鹿児島県)で生まれました。黒田家は代々薩摩藩の下級武士の家系であり、清隆も幼少の頃から武士としての厳しい教育を受けました。薩摩藩は、外様大名でありながら強大な軍事力と独立性を誇り、徳川幕府に対して独自の動きを見せることが多い藩でした。そのため、藩内の武士たちは幕府に頼らず、自らの力で生き抜く気概を持つ者が多かったのです。

薩摩藩には「郷中教育」と呼ばれる独特の教育制度があり、武士の子供たちは同じ年齢の仲間とともに集団生活をしながら、剣術や兵法、漢学、さらには指導力や道徳を学びました。この教育制度の目的は、武士としての規律を学ばせると同時に、団結力を育てることにありました。黒田清隆もこの環境の中で育ち、仲間たちと切磋琢磨しながら実戦的な武士道を学んでいきます。

また、薩摩藩の下級武士たちは、単なる武芸だけでなく、実務能力にも優れていることが求められました。薩摩藩では下級武士が藩政を担う役割を果たすことが多く、財政や軍事、外交に関する知識も求められました。そのため、黒田は幼い頃から藩の事情を深く学び、武士として生きるだけでなく、政治や軍事の分野でも実務をこなせる能力を養っていったのです。

西洋兵学を学び、精忠組で活動——倒幕運動の最前線へ

19世紀半ば、日本は西洋列強の圧力を受け、開国を迫られる状況にありました。1853年にはアメリカのペリー提督が黒船を率いて浦賀に来航し、幕府に対して開国を要求しました。この出来事は日本中に衝撃を与え、幕府の権威が大きく揺らぐきっかけとなりました。薩摩藩も例外ではなく、藩内では幕府に従うべきか、それとも独自の道を歩むべきかの議論が巻き起こります。

こうした時代の変化を受け、薩摩藩は西洋の軍事技術を積極的に導入し始めました。黒田清隆もこの流れの中で、西洋兵学を学ぶ機会を得ます。特に薩摩藩はイギリスと密接な関係を築き、イギリス式の軍制や武器を取り入れることで、近代的な軍隊を育成しようとしていました。黒田もこの西洋兵学の知識を吸収し、後の戊辰戦争や維新後の軍制改革に活かすことになります。

また、黒田は若き志士たちが結成した「精忠組」に加わります。精忠組は、西郷隆盛や大久保利通らを中心とした薩摩藩内の尊王攘夷派のグループであり、幕府を倒し、新たな政治体制を築こうとする急進的な勢力でした。彼らは武力をもって幕府を打倒することを目指し、黒田もその一員として活動するようになります。

特に、1863年の「寺田屋事件」では、精忠組の一部が藩内クーデターを計画しているとして、西郷隆盛らの指示により鎮圧される事件が発生しました。黒田自身はこの事件では処罰を受けませんでしたが、藩内での権力闘争の厳しさを目の当たりにし、武力だけではなく政治的な駆け引きも必要であることを学びました。

幕末の動乱と薩摩藩の戦略——新時代への布石

幕末の日本は、開国か攘夷か、幕府の存続か倒幕かをめぐって大きく揺れていました。薩摩藩はもともと幕府と協力関係にありましたが、1863年の「薩英戦争」を契機にその立場を大きく変えることになります。この戦争は、薩摩藩士がイギリス人を殺害した「生麦事件」を発端として勃発しました。イギリス艦隊は薩摩の鹿児島湾を砲撃し、薩摩藩も応戦しましたが、イギリスの最新兵器の前に大きな打撃を受けました。

この戦争を通じて、薩摩藩は西洋の軍事技術の圧倒的な優位性を痛感し、それまでの攘夷思想から大きく転換します。薩摩はイギリスと和解し、西洋の技術を積極的に取り入れる方向へと舵を切りました。この時期、黒田清隆も軍事面での改革に関与し、西洋式の戦術を学ぶことになります。

その後、薩摩藩は長州藩と同盟を結び、倒幕に向けた準備を進めました。1866年に坂本龍馬の仲介で締結された「薩長同盟」は、幕府を倒すための重要な転換点となりました。この同盟により、薩摩と長州は共同で幕府に対抗する力を持ち、1867年の大政奉還、そして1868年の戊辰戦争へとつながっていきます。

黒田清隆は、戊辰戦争が始まると薩摩藩の軍事指導者として活躍し、鳥羽・伏見の戦いや東北戦争、さらには箱館戦争に至るまで各地を転戦しました。彼の軍事的才能は、新政府軍の勝利に大きく貢献し、明治政府の中で重要な軍事指導者としての地位を確立していきます。

このように、黒田清隆は薩摩藩の下級武士の出身でありながら、西洋兵学を学び、精忠組の一員として倒幕運動に関与し、戊辰戦争では指導的な役割を果たすことで、幕末から明治への激動の時代を生き抜いていきました。彼の経験と知識は、後に北海道開拓や明治政府の軍政改革に活かされ、日本の近代化に大きな影響を与えていくことになります。

維新の戦場を駆け抜けた軍事指導者

鳥羽・伏見の戦いで指揮——薩摩藩の戦略と戦果

1868年1月3日、京都郊外の鳥羽・伏見で旧幕府軍と新政府軍の戦いが勃発しました。これが、戊辰戦争の幕開けとなる「鳥羽・伏見の戦い」です。黒田清隆は、この戦いで薩摩藩側の軍事指揮官の一人として参戦しました。

この戦いの発端は、旧幕府軍の兵約1万5千が京都に進軍し、新政府軍と対峙したことにあります。薩摩藩を中心とする新政府軍は数で劣っていましたが、最新の西洋式銃火器を装備しており、戦術面でも近代的な戦法を取り入れていました。特に、黒田は西洋兵学を学んでいたこともあり、射撃戦を主体とした戦術を採用しました。これにより、火縄銃を主力とする旧幕府軍に対して圧倒的な火力で応戦し、戦局を優位に進めました。

さらに、戦いの最中に決定的な転機が訪れます。1月4日、新政府軍が掲げていた錦の御旗(天皇の軍隊であることを示す旗)を目にした旧幕府軍の兵士たちの士気が大きく低下しました。天皇の軍と戦うことは朝敵となることを意味し、多くの旧幕府軍兵士が戦意を喪失したのです。黒田はこの機を逃さず、薩摩藩の部隊を率いて積極的に攻勢をかけ、旧幕府軍を総崩れに追い込みました。

この戦いの勝利は、新政府軍にとって大きな意味を持ちました。江戸幕府の権威が完全に失墜し、以後、新政府軍は一気に各地の旧幕府勢力を制圧していくことになります。黒田清隆は、この戦いでの指揮ぶりが評価され、明治政府の軍事指導者としての地位を確立していきました。

箱館戦争で榎本武揚と対峙——最後の戦いと新政府軍の勝利

戊辰戦争は、新政府軍の優勢のもと全国へと広がり、旧幕府軍は次々と敗退していきました。しかし、一部の旧幕府軍残党は最後の抵抗を試み、榎本武揚を中心とする勢力が蝦夷地(現在の北海道)へと逃れ、箱館(現在の函館)に拠点を築きました。これが「箱館戦争」の始まりです。

榎本武揚は旧幕府海軍の指導者であり、オランダ留学の経験もある知識人でした。彼はフランスの軍事顧問団の支援を受け、五稜郭を拠点に「蝦夷共和国」を樹立し、新政府軍に対抗しました。旧幕府軍の兵士たちは、徹底抗戦の構えを見せましたが、新政府軍もまた北海道を完全に掌握すべく、大規模な討伐軍を派遣しました。その指揮を執った一人が黒田清隆でした。

1869年4月、新政府軍は箱館への総攻撃を開始しました。黒田は陸軍の指揮を担当し、旧幕府軍の拠点を一つずつ制圧していきました。特に、五稜郭の攻略では、周囲を包囲しながら徹底的な兵糧攻めを実施し、持久戦に持ち込む戦術を採りました。これにより、5月には旧幕府軍の戦意が低下し、榎本武揚はついに降伏しました。

この箱館戦争の終結により、戊辰戦争は完全に終わりを迎えました。黒田は、この戦いにおける指揮能力が評価され、明治政府の軍事政策を担う重要な人物としてさらなる活躍を見せることになります。また、この時の経験が後の北海道開拓へとつながり、黒田の人生においても大きな転機となりました。

戊辰戦争後の軍政改革——近代日本の軍事制度を築く

戊辰戦争を経て、新政府は旧来の武士制度を廃し、西洋式の軍隊を整備する必要に迫られました。江戸時代の武士階級による軍事体制は、近代的な国防には適しておらず、徴兵制度の導入や軍政の近代化が急務となっていたのです。黒田清隆は、こうした軍制改革に深く関与し、日本の近代軍隊の礎を築くことに尽力しました。

特に、彼が重視したのは、西洋の軍事技術の導入でした。黒田は、戊辰戦争や箱館戦争の経験から、西洋式の装備や戦術の重要性を痛感しており、新政府軍をより強固なものにするための改革を進めました。その一環として、フランス式軍制を参考にした陸軍の整備が進められ、士族(旧武士階級)を主体とする軍隊から、国民全体を対象とした近代的な軍隊へと変革が進められていきました。

また、黒田は「北海道開拓使長官」として北海道の防衛戦略にも関与することになります。彼は北海道を単なる開拓地とするのではなく、国防の最前線と位置づけ、屯田兵制度の導入を進めました。この制度では、開拓と軍事の両方を担う兵士を北海道に送り込み、寒冷地での生活に適応しながら国境防衛を担わせるというものでした。

こうした一連の軍政改革を通じて、黒田清隆は日本の近代軍事制度の基盤を築いた人物の一人となりました。彼の功績は、単に幕末の戦いに勝利したことにとどまらず、日本の軍事・防衛体制そのものを変革し、新たな時代に適応させるための重要な役割を果たした点にあります。

このように、黒田清隆は戊辰戦争を通じて軍事指導者としての能力を発揮し、戦後も軍政改革に携わることで、日本の近代化に貢献していきました。彼の次なる挑戦は、北海道開拓という新たな国家プロジェクトへと向かうことになります。

「北海道開拓の父」としての挑戦

クラーク博士を招いた男——札幌農学校と人材育成の礎

戊辰戦争の終結後、日本政府は国家の近代化に向けたさまざまな改革を進める中で、北海道の開拓を重要な課題として位置づけました。当時の北海道(蝦夷地)は人口が少なく、未開の土地が広がっていましたが、国防上の観点からも、ロシアの南下政策に備えるために早急な開発が求められていました。この国家的な大事業を指揮するために選ばれたのが、黒田清隆でした。

黒田は1870年(明治3年)に開拓使次官となり、翌1871年には開拓使長官に就任しました。彼は、北海道開拓を単なる農業開発ではなく、近代産業の基盤を築く場と捉え、欧米の最新技術を導入することを積極的に推進しました。その一環として、アメリカから優秀な教育者や技術者を招く計画を立て、その象徴的な人物がウィリアム・スミス・クラーク博士でした。

クラーク博士はマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)の学長であり、アメリカの農業技術や近代的な教育方法を日本に伝えることが期待されていました。1876年(明治9年)、黒田の招聘によってクラーク博士が札幌に赴き、「札幌農学校(現在の北海道大学)」を創設しました。この学校では、農業技術の習得だけでなく、英語教育やキリスト教精神に基づく人格形成も重視され、後の日本の指導者層を多数輩出することになります。

クラーク博士が残した「Boys, be ambitious!(少年よ、大志を抱け!)」の言葉は、現在でも北海道開拓の象徴として語り継がれています。この教育改革を推進した黒田の功績は、単に北海道の開発にとどまらず、日本の近代化に向けた人材育成にも大きく寄与しました。

屯田兵制度の創設——寒冷地での暮らしと国防の両立

黒田清隆は、北海道開拓においてもう一つ重要な制度を導入しました。それが「屯田兵制度」です。屯田兵とは、北海道の防衛と開拓の両方を担う兵士であり、黒田はこの制度を通じて、北海道を発展させながら、同時にロシアの南下に備えるという二重の目的を達成しようとしました。

1874年(明治7年)、最初の屯田兵が北海道に入植しました。彼らは旧士族出身者を中心に構成され、政府から土地や農具、住居などが支給されました。屯田兵たちは、昼は農業に従事し、必要に応じて軍事訓練を受けるという生活を送りました。しかし、北海道の厳しい寒さや、未開の土地での生活は決して楽なものではなく、多くの屯田兵が過酷な環境に苦しむことになりました。

それでも、屯田兵制度は着実に成果を上げ、北海道の人口増加と開拓の進展に大きく貢献しました。黒田は、この制度を拡充し、北海道各地に屯田兵村を設置しました。これにより、北海道の各地に開拓の拠点が生まれ、徐々に農業生産も安定していきました。

屯田兵制度は、単なる軍事政策ではなく、国家の発展と結びついた画期的な政策でした。黒田の構想のもと、北海道は次第に日本の一部として機能するようになり、近代国家としての基盤を築いていきました。

開拓使官有物払下げ事件——改革者か、それとも汚職政治家か?

黒田清隆の北海道開拓における功績は大きかったものの、その後、彼の評価を大きく揺るがす事件が発生しました。それが、1881年(明治14年)に発覚した「開拓使官有物払下げ事件」です。

この事件は、黒田が開拓使長官を務めていた時期に、北海道の官有物(国が管理していた事業や資産)を、五代友厚ら関西の政商に極端に安い価格で払い下げようとしたことに端を発しています。五代友厚は、薩摩藩出身の実業家であり、日本の近代経済の発展に大きく貢献した人物ですが、この件に関しては政商と政治家の癒着が問題視されました。

当時、日本政府は財政難に陥っており、開拓使の事業を民間に委ねる方針を決定していました。しかし、その売却価格が市場価格の10分の1以下であったことが世間に知られると、大きな批判が巻き起こりました。世論は「国有財産を不当に安く払い下げる行為は、政府関係者の私利私欲によるものではないか」と疑い、黒田に対する非難が高まりました。

特に、この事件は当時の政治的対立を激化させる結果を招きました。民権派の大隈重信はこの問題を追及し、結果的に伊藤博文を中心とする保守派と対立を深めることになりました。結局、この払い下げ計画は中止され、黒田清隆も政治的に大きな打撃を受けました。

この事件をどう評価するかについては、現在でも議論があります。黒田としては、開拓事業の継続のために、民間の資本を活用しようとした側面があり、単なる汚職とは言い切れません。しかし、国民の財産である官有物を不透明な形で特定の人物に売却しようとした点は、政治的な問題を引き起こす要因となりました。この一件により、黒田の政治家としての評価には陰りが見え始めることになります。

それでも、北海道開拓の基盤を作った黒田清隆の功績は、日本の発展にとって欠かせないものでした。彼の施策により、北海道は農業・産業の拠点として発展し、多くの移住者を受け入れる土地へと変貌を遂げました。

黒田の次の課題は、国際的な外交問題でした。彼は朝鮮半島との交渉に乗り出し、日本の対外戦略に大きな影響を与えることになります。

朝鮮との外交交渉——武力か、対話か?

江華島事件——軍事衝突から始まった交渉劇

黒田清隆は、北海道開拓だけでなく、日本の外交政策にも深く関与しました。その中でも重要な役割を果たしたのが、1875年(明治8年)に発生した「江華島事件」と、それに続く日朝修好条規の締結です。この事件は、日本と朝鮮の関係が大きく変わる転機となりました。

当時の朝鮮(李氏朝鮮)は、鎖国政策を維持し、外国との交渉を極力避ける姿勢を取っていました。一方、日本は明治維新を経て近代国家としての歩みを進め、西洋列強に対抗するためにも、朝鮮との国交樹立を急いでいました。しかし、朝鮮側は幕府から新政府への政権交代を正式に承認せず、新政府との交渉に応じようとしませんでした。

この状況を打開するため、日本政府は1875年9月、測量を名目に軍艦「雲揚」を朝鮮半島沿岸の江華島に派遣しました。表向きは無害な調査活動でしたが、実際には朝鮮側を挑発する意図があったとされています。案の定、朝鮮側の砲台が「雲揚」に向けて砲撃を開始し、日本側も応戦しました。この結果、日本軍が江華島の砲台を占拠し、朝鮮側に圧力をかける形で事件は終息しました。

この軍事衝突は、日本が朝鮮に開国を迫るための布石でした。黒田清隆は、この事件を受けて日本の特命全権大使に任命され、朝鮮との正式な外交交渉を担当することになります。

日朝修好条規の締結——強硬姿勢の裏にあった黒田の信念

1876年2月、黒田清隆は日本代表団を率いて朝鮮に赴き、外交交渉を開始しました。交渉の場では、黒田が冷静かつ強硬な態度で交渉を進めたことが記録に残っています。日本側は、江華島事件で軍事的優位を示したことを背景に、朝鮮側に対して開国を迫りました。

交渉の結果、同年2月26日に「日朝修好条規」が締結されました。この条約は、日本と朝鮮の間で正式な国交を開くものであり、朝鮮にとって初めての近代的な外交条約となりました。その主な内容は以下の通りです。

  1. 朝鮮は日本との国交を開き、釜山・元山・仁川の3港を開港すること
  2. 日本は朝鮮での貿易を自由に行う権利を持つこと
  3. 日本の国民は朝鮮国内で治外法権(日本の法律で裁かれる権利)を持つこと
  4. 朝鮮は日本と対等な国家であることを認めること

この条約は、形式上は対等なものとされましたが、実際には日本にとって非常に有利な内容でした。特に、日本国民が朝鮮の法律に従わずに済む「治外法権」は、当時の西洋列強がアジア諸国に対して結ばせた不平等条約と同じ性質を持っていました。これは、後に朝鮮側から「不平等条約」として強い反発を招くことになります。

黒田はこの条約締結に際し、徹底した実利主義を貫きました。彼は、軍事的な衝突を最小限に抑えながら、日本が有利な立場を確保できるように交渉を進めたのです。その一方で、彼は朝鮮の独立を尊重し、西洋列強のような植民地支配の道を選ばなかったことも注目すべき点です。

「征韓論」と黒田の選択——西郷隆盛との対立

黒田清隆が朝鮮との外交交渉を進める一方で、日本国内では「征韓論」をめぐる激しい論争が巻き起こっていました。「征韓論」とは、朝鮮が日本の新政府を正式に承認しないことに対し、武力をもって開国を迫るべきだとする主張であり、その代表的な推進者が西郷隆盛でした。

西郷は、日本の国力がまだ十分に成熟していない中で、国内の士族の不満を外に向けるためにも、朝鮮への武力行使を主張しました。しかし、黒田を含む政府の主流派(大久保利通、伊藤博文ら)は、西洋列強との関係を重視し、内政の安定を優先すべきだと考えていました。黒田は、「武力による征韓は国際的な孤立を招く」として、強硬策には反対の立場を取ります。

この対立は、1873年(明治6年)の「明治六年政変」に発展しました。政府内で征韓論が否決されると、西郷隆盛は明治政府を去り、鹿児島に帰郷しました。この決定に強く反発した士族たちは、後の1877年(明治10年)の「西南戦争」へと突き進むことになります。黒田にとって、西郷との対立は単なる外交政策の違いではなく、同じ薩摩藩出身の盟友との決別を意味するものでもありました。

結果的に、黒田が主導した外交路線は、日本が朝鮮と正式な国交を樹立する道を開きました。しかし、この条約は朝鮮側にとっては不満の残るものであり、後の日清戦争(1894年)や日韓併合(1910年)への布石ともなっていきます。

こうして、黒田清隆は武力による開国ではなく、外交による交渉を選択しました。彼の選択は一時的には成功を収めましたが、日本と朝鮮の関係に新たな火種を生む結果ともなり、後の歴史に大きな影響を与えることになったのです。

黒田はこの外交交渉を終えた後、再び国内政治に戻り、西郷隆盛との対立が頂点に達する「西南戦争」に関与することになります。

西南戦争と薩摩閥の実権掌握

盟友・西郷隆盛との決別——薩摩武士の理想と現実

黒田清隆にとって、西郷隆盛は同じ薩摩藩出身の先輩であり、倒幕運動を共に戦った盟友でもありました。しかし、1873年(明治6年)の「征韓論争」をめぐる対立をきっかけに、二人の道は決定的に分かれることになります。黒田は、西洋列強との関係を重視し、内政の安定を優先する外交路線を支持しましたが、西郷は士族たちの不満を鎮めるためにも武力をもって朝鮮を開国させるべきだと主張しました。この対立は、政府内での権力争いに発展し、最終的に西郷は政府を去ることになりました。

西郷が鹿児島に帰郷すると、彼のもとには旧薩摩藩士を中心とする不満を持つ士族たちが集まりました。明治政府が進める廃刀令や徴兵制の導入、秩禄処分(士族への給与廃止)などに反発した士族たちは、「明治政府は武士の精神を捨て、西洋の真似ばかりしている」と怒りを募らせていました。黒田もまた薩摩藩の出身でありながら、政府の側に立ち、近代国家の建設を優先する立場を取ったため、かつての同志たちとの間に深い溝ができていきました。

西郷は武力蜂起には消極的でしたが、政府との対立が深まる中で、ついに士族たちは武装蜂起を決意します。これが、1877年(明治10年)に勃発した「西南戦争」です。黒田は政府側の指導者として、この戦いに深く関与することになります。

西南戦争後の薩摩閥再編——黒田が率いた新たな権力構造

西南戦争は、日本最後の士族反乱であり、近代軍と旧武士勢力の決定的な戦いとなりました。西郷率いる薩摩軍は約3万人、新政府軍は7万人以上の兵力を動員し、日本国内で最大規模の内戦となりました。

新政府軍の指導者として戦争の指揮を執ったのは、大久保利通や山縣有朋でしたが、黒田清隆も軍事顧問として戦争戦略の策定に関与しました。新政府軍は、西洋式の近代兵器を活用し、西郷軍を次第に追い詰めていきました。特に、政府軍が最新の銃器や大砲を装備していたのに対し、西郷軍は旧式の武器が中心であり、戦力差は明らかでした。

戦いは半年以上に及びましたが、最終的に西郷軍は敗北し、1877年9月24日、西郷は鹿児島の城山で自刃しました。この戦争によって、旧武士階級の政治的な影響力は完全に消滅し、日本は本格的な近代国家へと進むことになります。

西南戦争後、薩摩閥は政府内での権力を再編する動きを見せました。もともと薩摩藩出身者たちは明治政府の中枢を占めていましたが、西郷派の士族が消えたことで、大久保利通や黒田清隆といった現実主義者たちが政権の中心となりました。大久保は内政を掌握し、黒田は軍政と北海道開拓を推進する役割を担うようになります。

しかし、1878年に大久保利通が暗殺されると、薩摩閥の主導権争いが激化しました。黒田はその後、伊藤博文や井上馨ら長州藩出身者と手を組みながら、政府内での影響力を維持し続けました。こうして、薩摩閥は戦争を通じて新たな形に再編され、黒田はその中心人物の一人として権力を確立していったのです。

薩摩閥の政治支配——日本の中枢に食い込んだ影響力

西南戦争が終結した後も、薩摩閥の影響力は政府内で強く残り続けました。特に、黒田清隆は薩摩閥の中で重要な地位を占め、後に第2代内閣総理大臣にまで上り詰めることになります。

西郷隆盛がいなくなったことで、薩摩閥の中でも「実務派」と「軍事派」のバランスが変化しました。黒田や松方正義は、近代国家の運営に重きを置く実務派の代表格となり、長州閥と協力しながら政権を支えていきました。一方で、軍事的な影響力を持っていた薩摩出身の陸軍関係者も依然として力を持ち続けました。

薩摩閥は、日本の政治・軍事の中枢に深く食い込み、陸軍の要職や政府の中枢を占めるようになりました。黒田自身も、1880年代には開拓使長官から内務卿、さらには総理大臣へと昇進し、国家運営に関与することになります。

また、薩摩閥と財界との結びつきも強まりました。五代友厚をはじめとする薩摩出身の実業家たちは、官営事業の払い下げなどを通じて日本の産業発展を支えました。黒田は彼らと協力しながら、日本の近代経済の基盤を整える政策を進めました。

しかし、この薩摩閥の影響力が強すぎることは、他の藩出身者や新たな政治勢力からの反発を招きました。1881年の「開拓使官有物払下げ事件」では、黒田が薩摩の政商と結託していると批判を受け、結果的に政府は官有物の払い下げを中止することになりました。この事件を機に、薩摩閥の影響力には陰りが見え始め、伊藤博文ら長州閥が次第に主導権を握るようになります。

それでも、黒田清隆は総理大臣として政権を担い、日本の近代政治の礎を築く役割を果たしました。彼は薩摩閥の代表として、日本の近代化を推進しましたが、同時にその権力構造が次第に崩れていく過程も目の当たりにすることになります。

総理大臣としての挑戦と苦悩

伊藤博文の後継者として第2代内閣総理大臣に就任

黒田清隆は、1888年(明治21年)4月30日、第2代内閣総理大臣に就任しました。これは、日本における本格的な憲法制定と近代政治体制の確立が進められる中での大役でした。彼の前任者である伊藤博文は、日本初の内閣総理大臣として政府の近代化を進めましたが、その後は新たに制定される大日本帝国憲法の整備に専念するため、黒田に政権を託したのです。

黒田の首相就任は、薩摩閥の政治的影響力を維持する意味もありました。当時、日本政府は薩摩藩出身の政治家と長州藩出身の政治家が権力を分かち合う「薩長閥」の体制で動いており、伊藤博文(長州閥)に続いて黒田(薩摩閥)が首相に就くのは、ある種のバランスを取るためのものでした。

しかし、黒田が就任した当時の日本は、内政・外交ともに大きな課題を抱えていました。憲法制定の準備が進められる一方で、自由民権運動が活発化し、国民の間ではより民主的な政治体制への期待が高まっていました。また、外交面では不平等条約の改正交渉が進行しており、日本が国際社会で対等な立場を得るための試練に直面していました。黒田内閣は、こうした困難な課題に取り組むことを余儀なくされました。

日本初の政党内閣構想——内政・外交の課題に挑む

黒田清隆は、首相就任後、日本の政治体制をどのように運営していくべきかを模索しました。彼が最も注目したのは「政党内閣」の構想でした。当時、日本では政党政治が未発達であり、政府の運営は主に薩摩・長州出身の官僚が担っていました。しかし、自由民権運動の高まりを受けて、政府の中にも政党の存在を認めるべきだという意見が出始めていました。

黒田自身は必ずしも民権派ではありませんでしたが、政党の影響力を無視することはできないと考えました。彼は、政府と政党の関係を調整し、政治の安定を図ることを目指しました。その一環として、1889年(明治22年)2月11日に「大日本帝国憲法」が発布され、翌1890年には日本初の帝国議会が開設されることが決定しました。

しかし、黒田はこの新たな政治体制の中で、官僚政治を維持しようとする姿勢を崩さず、政党勢力との協力には消極的でした。彼は「超然主義(ちょうぜんしゅぎ)」を唱え、「政府は政党の影響を受けるべきではない」と主張しました。この立場は、政府が特定の政党に左右されることなく、国家運営を進めるべきだとする考え方でしたが、結果的に政党勢力との対立を深めることになりました。

また、黒田内閣の時期には、内務大臣の山県有朋が地方自治制度の整備を進め、現在の都道府県制の基礎を作る改革が行われました。これは、日本が近代国家としての統治機構を整える上で重要な施策でしたが、一方で地方の自由民権派の勢力を抑える意図も含まれていました。黒田政権は、こうした施策を通じて国家の統治体制を強化しようとしましたが、結果的に反発も招くことになりました。

黒田内閣の評価——改革の志と政治的混乱

黒田清隆の内閣は、わずか1年10か月という短命政権に終わりました。彼の内閣が失敗に終わった最大の要因は、「大隈重信外相による条約改正問題」でした。

当時、日本は欧米列強と結んでいた不平等条約の改正を目指していました。これらの条約は、日本が関税自主権を持たないことや、外国人が日本国内で治外法権を享受することを定めたものであり、日本が国際的に対等な立場を確立する上で大きな障害となっていました。

黒田内閣の外務大臣であった大隈重信は、この条約改正交渉を主導し、外国人判事を日本の裁判所に任用することで欧米諸国の同意を得ようとしました。しかし、この案は「外国人による司法介入を許すもの」として国内で激しい反発を招きました。とくに保守派の政治家や士族層は、「日本の主権が損なわれる」として大隈を批判しました。

結果的に、1889年10月18日、大隈は条約改正に反対する過激派による襲撃を受け、片足を失う重傷を負いました。この事件をきっかけに条約改正交渉は頓挫し、黒田内閣は政治的に行き詰まりを見せます。黒田自身も「もはやこれ以上の政権運営は不可能」と判断し、1889年10月25日、総理大臣を辞任しました。

黒田内閣の評価は、歴史的に見ると賛否が分かれます。彼の政権下で日本初の憲法が発布され、近代国家の枠組みが整えられた点は評価されるべき点です。しかし、超然主義を掲げて政党との関係を軽視し、条約改正問題での混乱を招いたことは、政治的な失敗と見なされることもあります。

黒田は、総理大臣を辞任した後も政府の中枢に留まり、枢密院議長として国家運営に関与し続けました。しかし、政界の第一線からは徐々に退き、晩年は影の実力者として生きることになります。次章では、彼の晩年の姿と、酒乱伝説をはじめとする数々の逸話について掘り下げていきます。

不平等条約改正の挫折——外交の難しさ

欧米列強との交渉——なぜ改正は失敗したのか?

黒田清隆が総理大臣を務めた時期、日本政府は最大の外交課題として「不平等条約の改正」に取り組んでいました。江戸時代末期、日本は欧米諸国と結んだ通商条約によって、不利な立場に置かれていました。特に問題とされたのは、以下の二点です。

  1. 治外法権(領事裁判権)——外国人が日本国内で犯罪を犯しても、日本の法律ではなく、その外国の領事裁判で裁かれる制度。日本の主権が制限される大きな要因となっていた。
  2. 関税自主権の欠如——日本は輸入品に対する関税を自由に設定することができず、関税率は欧米側の決定に委ねられていた。これは日本経済にとって大きな不利益だった。

明治政府は、これらの不平等条約を改正し、日本が主権国家として国際社会に認められることを目指していました。黒田内閣では、大隈重信が外務大臣としてこの条約改正交渉を進めました。彼は、欧米列強の信頼を得るために「外国人判事の任用」を提案し、日本の司法制度を西洋型に近づけることで条約改正を実現しようとしました。

しかし、この案は国内で強い反発を招きました。特に、士族層や保守派の政治家たちは、「外国人が日本の裁判に関与することは、国の独立を損なう」として猛反対しました。また、条約改正交渉の過程で、イギリスやアメリカなどの列強は、日本の国内政治の混乱を見透かし、強気の姿勢を崩しませんでした。

このように、外交交渉の場では日本の国際的な信用がまだ十分でないことが露呈しました。欧米諸国は、日本の軍事力や経済力がまだ自国と同等でないと判断し、不平等条約の撤廃には慎重な態度を取ったのです。

井上馨との対立——華族政府の行方を巡る政争

不平等条約の改正交渉が難航する中、黒田は条約改正の方針を巡って、井上馨(当時の元老政治家)とも対立することになりました。井上馨は、外交において「欧化政策」を推し進め、日本が西洋の制度を取り入れることで、国際社会の信頼を得ようと考えていました。その一環として、西洋風の服装や社交文化を取り入れることを推奨し、鹿鳴館(ろくめいかん)を建設して西洋外交官をもてなすなどの政策を進めました。

しかし、黒田はこうした「形式的な西洋化」に対して懐疑的でした。彼は、真の国力をつけない限り、どれだけ表面的に西洋風の文化を取り入れても、欧米列強は対等な外交交渉に応じないと考えていたのです。実際、井上の欧化政策は国民の支持を得られず、「日本は西洋の猿真似をしているだけ」と批判されるようになりました。

黒田はまた、井上馨が推進した「華族政府(かぞくせいふ)」にも否定的な立場を取っていました。華族政府とは、旧大名や公家などの上流階級出身者が政府を主導するべきだという考え方でしたが、黒田はこれに異を唱え、むしろ実務能力のある官僚が政治を担うべきだと主張しました。こうした対立は、政府内の権力争いを激化させ、黒田内閣の求心力を低下させる結果となりました。

辞任の舞台裏——政治の表舞台から退く決断

1889年(明治22年)10月、大隈重信が条約改正を巡る交渉の最中に、過激派の右翼により襲撃され、片足を失う重傷を負いました。この事件は、日本国内における条約改正反対派の強い反発を象徴するものであり、政府にとっても大きな衝撃でした。

この事件を受けて、黒田内閣は政治的な行き詰まりを迎えました。条約改正交渉の失敗に加え、国内の政局も混乱し、黒田の政治的求心力は低下していました。彼は、これ以上政権を維持することは困難と判断し、1889年10月25日、内閣総理大臣を辞任しました。

黒田の辞任は、日本の近代政治にとって一つの転換点となりました。彼は薩摩閥の代表として政府の中枢を担い、政治・軍事・外交の分野で重要な役割を果たしましたが、条約改正問題では成果を上げることができませんでした。この失敗は、日本が国際社会で完全な独立国家として認められるには、まだ時間が必要であることを示していました。

辞任後、黒田は政界の第一線から退き、枢密院議長として政府の重要案件の審議に携わるようになります。しかし、彼は次第に政治の表舞台から距離を置くようになり、晩年は「影の実力者」として影響力を持ち続けることになります。

晩年——影の実力者として生きた男

枢密院議長として国家運営を支える——表舞台の裏で

総理大臣を辞任した黒田清隆は、その後も政界の重要人物として影響力を持ち続けました。彼が次に就任したのは、枢密院議長の職でした。枢密院は、大日本帝国憲法の運用に関する重要な審議を行う機関であり、天皇の最高諮問機関として機能しました。1889年に憲法が制定された後、日本政府は議会制度を整備していきましたが、枢密院は行政・立法に対して強い権限を持ち、国家の基本方針を決定する場でもありました。

黒田は1892年に枢密院議長に就任し、政界の第一線からは退いたものの、政策決定の重要な場で発言力を維持しました。彼の政治手腕は依然として高く評価されており、特に軍事・外交分野では重鎮として意見を求められることが多かったといいます。

また、この時期、日本は日清戦争に突入し、朝鮮半島をめぐる国際的な対立が激化していました。黒田は開拓使長官や外務交渉の経験を活かし、対外政策の助言を行いました。彼は戦争を拡大させるよりも、最小限の軍事行動で国益を守るべきだと考えていましたが、最終的に政府は清国との全面戦争へと踏み切ることになります。

黒田はまた、国内政治の安定化にも尽力しました。当時、日本の政界では政党政治の導入が進み、内閣と議会の対立が深まっていました。彼は「超然主義」の立場を貫き、特定の政党に偏ることなく、天皇を中心とした政治体制の維持を支持しました。しかし、政党勢力の影響が強まる中で、枢密院の権威は次第に低下し、黒田の影響力も徐々に衰えていきました。

酒乱伝説の真実——逸話か、それとも事実か?

黒田清隆について語られる逸話の中で、特に有名なのが酒乱伝説です。彼は酒好きとして知られ、晩年になるにつれてその酒量が増していきました。酒の席での振る舞いがあまりにも豪快だったため、後世には「黒田は酒乱だった」と言われることが多くなりました。

例えば、こんなエピソードが残されています。ある日、黒田は酒に酔った状態で公邸に帰り、部下に対して「日本の政治なんてどうでもよい!」と大声で叫んだといいます。また、別の席では、酔った勢いで刀を抜き、周囲を驚かせたという話も伝わっています。

しかし、こうした逸話がどこまで真実なのかについては議論があります。彼の酒癖が悪かったことは事実のようですが、同時に彼は冷静な政治判断を下せる人物でもありました。当時の政治家の中には酒豪が多く、彼だけが特に問題視されるほどの酒乱だったわけではないとも言われています。

また、黒田の酒好きは、彼のストレス解消法だったとも考えられています。倒幕運動から維新政府の樹立、北海道開拓、外交交渉、そして総理大臣としての苦労など、彼の人生は常に国家のために奔走するものでした。そうした重責を担い続けた結果、酒に逃げることが増えていったのかもしれません。

日本近代化に残した影響と最期

晩年の黒田は、次第に公の場に姿を見せることが少なくなりました。枢密院議長を務めながらも、実質的には後継世代の政治家たちに政権運営を任せる形となり、伊藤博文や山県有朋といった長州閥の指導者たちが中心となっていきました。

そして、1900年8月23日、黒田清隆は東京でその生涯を閉じました。享年61歳でした。彼の死因は脳出血とされ、急な病によるものでした。生前の激務と酒量の多さが、健康に悪影響を及ぼした可能性が指摘されています。

黒田の死後、日本はさらなる近代化の道を進んでいきました。彼が関わった北海道開拓、屯田兵制度、政党政治の導入、不平等条約改正の交渉などは、その後の日本の発展に大きな影響を与えました。彼の功績は、日本の国土拡張と軍事・外交政策において重要な役割を果たした点にあります。一方で、酒乱の逸話や開拓使官有物払下げ事件のような疑惑も残り、その評価は一筋縄ではいかないものとなっています。

黒田清隆は、日本の歴史において影の実力者として活躍し、表舞台の内外で国家の発展に尽くしました。その功績は、日本が近代国家としての基盤を築く過程で欠かせないものであり、彼の影響力は現代にまで続いています。

文学・映像作品に描かれた黒田清隆

司馬遼太郎『翔ぶが如く』——幕末・明治を駆けた男の姿

黒田清隆は、明治維新の立役者の一人として、多くの歴史小説や映像作品に登場しています。その中でも、最も有名なのが司馬遼太郎の歴史小説『翔ぶが如く』です。本作は、明治維新後の日本を舞台に、西郷隆盛と大久保利通を中心に描かれた作品ですが、黒田も重要な登場人物の一人として描かれています。

『翔ぶが如く』では、黒田は冷徹な現実主義者として登場し、西郷隆盛との対立が強調されています。西郷が理想主義的な姿勢を貫き、士族たちの不満を受け止めながらも政府と対立していくのに対し、黒田は薩摩藩出身でありながら、近代国家の建設を優先し、政府側の立場を貫きます。特に、西南戦争の際には、新政府軍の立場から西郷軍と戦う側に立つことになり、かつての同志との悲劇的な対立が印象的に描かれています。

また、黒田の政治手腕や軍事指導者としての才能にも焦点が当てられています。鳥羽・伏見の戦いや箱館戦争における指揮官としての役割、北海道開拓における功績などが描かれ、彼が単なる薩摩閥の政治家ではなく、日本の近代化に大きく貢献した人物であることが強調されています。さらに、晩年の酒好きな一面も描かれ、単なる英雄としてではなく、人間味のある人物としての魅力が表現されています。

NHK大河ドラマ『翔ぶが如く』——映像で見る黒田清隆

司馬遼太郎の『翔ぶが如く』は、1990年にNHK大河ドラマとして映像化されました。この作品は、西郷隆盛を主人公とし、彼の生涯と明治維新後の政争を描いた歴史ドラマですが、黒田清隆も重要な役割を果たします。黒田役を演じた俳優は、冷静沈着な政治家としての側面を強調しつつも、西郷との葛藤や苦悩を繊細に表現しました。

このドラマでは、特に明治六年政変や西南戦争の場面で、黒田の立場が鮮明に描かれています。かつて同じ薩摩藩の同志として倒幕に奔走した仲間たちが、明治政府と反政府勢力に分かれ、戦わざるを得なくなる様子は、視聴者に大きな印象を与えました。ドラマでは、黒田が現実的な判断を下しながらも、西郷との決別に苦悩する姿が強調され、歴史上の人物としての深みが増しています。

また、北海道開拓使長官としての黒田の姿も描かれ、クラーク博士を招聘した経緯や屯田兵制度の導入などが映像化されました。大河ドラマならではのスケールの大きな演出によって、黒田が果たした歴史的な役割が視覚的に伝えられ、多くの人々に彼の功績が認識されるきっかけとなりました。

アニメ『ゴールデンカムイ』——北海道開拓の歴史を知る

近年、黒田清隆が登場する作品として注目されているのが、野田サトル原作の漫画・アニメ『ゴールデンカムイ』です。本作は、日露戦争後の北海道を舞台に、アイヌ文化や開拓史を背景にした冒険譚が展開される作品ですが、その中で黒田清隆の名が言及される場面が登場します。

『ゴールデンカムイ』の物語では、北海道の屯田兵制度や、明治政府による開拓政策が重要な背景として描かれています。黒田が開拓使長官として推進した屯田兵制度は、北海道の防衛と開拓の両方を担うという革新的な制度でしたが、作品内ではその影響が色濃く表れています。登場人物の中には、元屯田兵のキャラクターもおり、彼らの生き様を通じて、北海道開拓がいかに過酷なものであったかが語られています。

また、黒田が推進した官有物払下げ政策に関連するエピソードも登場し、開拓に関わる政治的な側面にも触れられています。『ゴールデンカムイ』はフィクション作品ですが、史実を踏まえたリアルな描写が多く、黒田清隆の政策が北海道に与えた影響を知る上で興味深い作品となっています。

このように、黒田清隆は歴史小説や映像作品、さらには近年の漫画・アニメにも登場し、その功績や人物像が多様な形で描かれています。彼は単なる政治家ではなく、日本の近代化を支えた実務家であり、時には冷徹な現実主義者として、時には人間味あふれる人物として描かれています。こうした作品を通じて、彼の生涯を知ることができるのは、日本の歴史における彼の重要性を物語っていると言えるでしょう。

黒田清隆の生涯とその評価

黒田清隆は、幕末の動乱期に薩摩藩士として倒幕運動に身を投じ、明治維新後は軍事・政治・外交の各分野で日本の近代化に貢献しました。戊辰戦争では軍事指導者として新政府軍を勝利に導き、北海道開拓では屯田兵制度の創設や札幌農学校の設立を推進し、日本の国土開発に尽力しました。外交では日朝修好条規を締結し、日本の国際的地位を築こうとしましたが、不平等条約改正では挫折を経験しました。

総理大臣としては、憲法制定と議会開設の準備を進めましたが、超然主義を掲げたことで政党勢力との対立を深めました。晩年は枢密院議長として国家運営に関与しながらも、酒乱の逸話なども残されています。彼の功績と評価は賛否が分かれる部分もありますが、日本の近代化において重要な役割を果たしたことは間違いありません。彼の足跡は、今も北海道や日本の政治史の中に刻まれています。

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